黒谷青龍寺(比叡山延暦寺・西塔別所)・黒谷道 (京都市左京区) 
Kurodani Seiryu-ji Temple
黒谷青龍寺 黒谷青龍寺
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山門




圓光大師旧跡の石標、、圓光(法然)


真盛上人旧跡の石標






本堂


本堂、「青龍寺」扁額










報恩蔵



報恩蔵


報恩蔵


鐘楼



天満宮



求道者真盛像



18歳の法然像



「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ」「続千載集」より)







境内の杉の巨木







西塔からの参道、走出道(はせだしみち、走出坂)


本堂背後の景色、比叡山に連なる横高山(767m)の峰近くに玉体杉(写真中央やや右)がある。

 黒谷道(くろだにみち)


【参照】黒谷青龍寺への登り口



【参照】元三大師道の大きな石碑





【参照】「円光大師(法然)旧跡黒谷青龍寺 是ヨリ十五町」(1904)の石標。



損壊しているが「浄刹結界跡」の石標、延暦寺の結界を示すという。
 黒谷青龍寺(くろだに-せいりゅうじ)は、比叡山山腹の西塔北谷の黒谷(くろだに)にある。鬱蒼と生い茂る杉の巨木の森に建つ。古くより隠遁者の住処になっていた。
 この地は、浄土宗の祖・法然(源空)の修行地とされ、「浄土一宗開発根本の御遺跡」「我宗(浄土宗)根本の霊地」とも呼ばれた。 
 西塔5谷には含まれず、比叡山延暦寺一山寺院の別所谷(ほかに、東塔東谷・神蔵寺、横川兜率谷・霊山院、同谷・香積寺、横川飯室谷・帝釈寺)の一つに数えられた。西塔別所であり、正式には「比叡山黒谷青龍寺」という。「黒谷青龍寺」、浄土宗では「元黒谷(もとくろだに)」ともいう。
 天台宗、浄土宗総本山・知恩院が管理している。本尊は、恵心僧都(源信)作という阿弥陀如来坐像を安置する。
 法然上人第20番霊場。法然上人(圓光大師)二十五霊場特別霊場(番外)。
◆歴史年表 平安時代後期、開基は18代天台座主・良源(?-1179)によるという。(『山門堂舎由緒記』)
 叡空(えいくう/えくう、?-1179?)も修行した。(『山門堂舎由緒記』)
 1150年、18歳の法然はこの地の里坊を訪れ、叡空に入門した。天台・浄土教学を学ぶ。43歳までこの地に留まり隠棲する。
 室町時代、1483年/1482年、真盛が隠遁した。『往生要集』により、称名念仏「日課念仏六万遍」を唱える。(『真盛上人往生伝記』)
 1571年以前、文殊堂に行基作という文殊菩薩を本尊として安置していた。大黒堂、法然房が建てられていた。(『比叡山堂舎僧坊記』)
 1571年、織田信長の元亀法難(元亀の乱、比叡山焼討ち)により、法然房の建物は焼失したという。また、焼失は免れたともいう。
 江戸時代前期、文殊堂、大黒堂、法然坊はすでに旧跡になっていた。(『比叡山堂舎僧坊記』)
 1614年、禿盛は、青龍寺を再興する。
 江戸時代中期、本堂、鐘堂、経蔵、方丈、庫裡が建てられていた。(『山門堂舎由緒記』)
 現代、1967年、浄土宗総本山・知恩院は、天台宗総本山・比叡山延暦寺の理解を得て、青少年修練道場として再興する。
 2010年、10月、黒谷青龍寺天台宗総本山・比叡山延暦寺(大津市)と浄土宗総本山・知恩院(東山区)は、青龍寺で合同法要を営んだ。1961年以来の合同法要という。
◆良源
 平安時代中期の天台宗の僧・良源(りょうげん、912-985)。元三大師、慈恵大師、角(つの)大師、御廟大師。 近江国に生まれた。比叡山四大師(伝教、慈覚、智証)のひとり。923年、12歳で比叡山西塔宝幢院の日燈の坊で理仙大徳の弟子になり、17歳の時、座主尊意から受戒した。論議に優れ、937年、興福寺維摩会の威儀師に選ばれ、叡山を勝利に導く。950年、第62代・村上天皇皇子・憲平親王の護持僧になる。950年、阿闍梨になる。963年、清涼殿での南都との法華十講の論戦に参加し、勝利した。964年、内供奉十禅師になる。965年、権律師になる。981年、史上2番目の大僧正まで昇る。966年、55歳の若さで18世・天台座主になり、以後19年に渡り在任した。その間、伽藍の増改築を行い、比叡山中興の祖になる。藤原忠平、その子・師輔、兼家の後援を得て、山内経営の基盤を築く。また、問答形式の法会の広学堅義を始めた。970年、「二十六か条起講」を布告し、綱紀粛正も規した。横川を独立させ、三塔体制を確立する。他方、権門勢力の影響を受け、世俗化、その後の派閥抗争の一因になった。
 著『極楽浄土九品往生義』は、極楽浄土往生者を位付し、それぞれの極楽の相違を述べ、後の浄土宗の展開になる。
 元三(がんさん)大師の別名は、正月三日に亡くなったことによる。学識、政治力、霊感にも優れ、没後は、元三大師信仰が生まれた。鬼大師、魔滅大師(豆大師)、角大師、木葉大師、御廟(みみょう)大師、御鏡大師などとも呼ばれた。お神籤(おみくじ)の原型になった「観音籤」を考案したといわれている。考案したという漬物「定心漬」がある。73歳。 
◆叡空 平安時代後期の天台宗の僧・叡空(えいくう、?-1179?)。号は慈眼房。太政大臣・藤原伊通の子ともいう。良忍から円頓戒(天台宗での大乗菩薩の戒法)を受け、授戒の師になる。密教、浄土教を学び、比叡山西塔黒谷に住した。1150年、法然が入門し、『往生要集』を講じて浄土教を授け、円頓戒の奥義も授けた。晩年、法然に本尊、聖教、房舎を譲った。大乗戒律、密教についても比叡山随一の学僧とされ、大乗戒律では黒谷流の祖とされる。著『円頓戒法秘蔵大綱集』。
◆源信 平安時代中期-後期の天台宗の僧・源信(げんしん、942-1017)。恵心(慧信)僧都、横川僧都。大和国(奈良県)に生まれた。父は卜部正親(うらべ-まさちか)、母は清原氏。7歳で父没後、950年/956年、9歳で比叡山の良源に学んだともいう。955年、得度した。956年、15歳で『称讃浄土経』を講じ、第62代・村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。だが、母の諫言を守り、名声より聖人になるためとして横川の恵心院に隠棲し続けた。973年、広学竪義になり内供奉十禅師に補せられた。988年、覚超らと二十五三昧会を結び、浄土往生の行に励む。正暦年間(990-995)、霊山院を造営し、華台(けだい)院に丈六弥陀三尊を安置、迎講(むかえこう)を始めた。1004年、公卿・藤原道長の帰依により権少僧都になる。延暦寺六月会の探題になり、栄名を嫌い山門を出なかった。1005年、権少僧都を辞する。恵心院で亡くなる。臨終にあたり、阿弥陀如来像の手に結んだ糸を手にし、合掌しながら入滅したという。76歳。
 良源門下四上足の一人に数えられた。天台宗恵心流の祖とされ良忍、法然、親鸞らに影響を与えた。宋でも高い評価を得る。浄土宗の基礎になり、地獄極楽観を説いた『往生要集』(985)の編者であり浄土教を大成した。「往生の業は、念仏をもって本となす」と説き、貴族、庶民に影響を与えた。著『一乗要決』『観心略要集』など。慶滋保胤(?-1002)と、仏典研究の「勧学会」を主宰し、庶民への仏法を説く。『源氏物語』第53帖、『宇治十帖』第9帖の「手習」巻では、宇治川に入水した浮舟を助けた「横川の僧都」といわれている。(良源弟子の覚超ともいう)。絵、彫刻に優れたという。源信作の和讃「極楽六時讃」がある。 
◆法然 平安時代後期-鎌時代前期の浄土宗の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。諱は源空、勅諡は円光大師、明照大師、通称は黒谷上人、吉水上人、幼名は勢至丸。美作国に生まれた。父は押領使・漆間時国、母は秦氏。1141年、9歳の時、父は夜襲により目前で殺される。父は出家を遺言する。天台宗菩提寺の叔父・観覚のもとに預けられた。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法(宝)房源光に師事する。1147年、皇円の下で出家受戒した。1150年、西塔黒谷慈眼坊叡空の庵室に入り、浄土宗に傾く。法然房源空と名乗る。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り、黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。善導は、阿弥陀仏の誓った本願を信じ、ひたすら念仏を唱えると、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができるとした。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。東山吉水の草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場になる。1186年/1189年、天台僧らとの大原談義(大原問答)で専修念仏を説く。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1201年、親鸞が入門した。1204年、比叡山僧徒は専修念仏の停止を迫り蜂起、法然は「七箇条制誡」を草し、弟子190人の連署得て天台座主に提出する。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止(ちょうじ)になる。1207年、法然は還俗になり、土佐国(讃岐国)に流罪になる。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住み、1211年ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近)に移る。翌1212年、ここで亡くなった。『選択本願念仏集』(1198)、『一枚起草文』(1212)などを著す。
 法然は「名利の望をやめて、しずかに仏法を修学」したいと、黒谷の慈眼坊叡空に師事した。法然は、源信と善導の思想的な影響を受けている。法然は、あらゆる階層、女人往生説にみられるように性別に関係なく専修念仏行、口称名号の念仏により、極楽往生を願う者は救済されると説いた。既存の仏教で救われる対象ではない人々に希望をもたらした。80歳。
◆源光 平安時代後期の天台宗の僧・源光(げんこう、?-?)。比叡山西塔北谷の学僧で、法然が13歳で最初に師事した。法然の才を見抜き、これ以上教えることがないとして、皇円(肥後阿闍梨)の許に送ったという。法然の法諱「源空」は、源光、叡空の一字を取り命名されたという。
◆真盛 室町時代中期-後期の天台宗の僧・真盛(しんせい、1443-1495)、円戒国師、慈摂大師。伊勢国(三重県)に生まれた。比叡山西塔の慶秀に師事し、20年間修行を続けた。応仁・文明の乱(1467-1477)後、黒谷青龍寺に移り、『往生要集』に拠り称名念仏を唱えた。1485年、山を下り、近江国坂本・西教寺を再興し、天台宗真盛派の本寺とした。天台宗真盛派(天台真盛宗)の開祖。53歳。
◆仏像・木像  ◈本堂に本尊、「阿弥陀如来坐像」が安置されている。平安時代の恵心僧都(810-869、源信)作という。
 右脇侍に、「阿弥陀如来像」、「釈迦如来像」、「伝教大師像」、「慈眼大師像」、左脇侍に、安土・桃山時代、焼討ちの際に里人によって避難され護られたという「十一面観世音菩薩」、「叡空上人像」、「法然上人像(鏡の御影)、「真盛上人像」、右外陣に「良雄上人像」、「維摩居士(ゆいまこじ)坐像」、左外陣に「恵心僧都像」、「阿弥陀如来像」、「歴代位牌」などがある。
  ◈「維摩居士坐像」(重文)は、平安時代初期の作になる。『維摩経』中の維摩と文殊の問答を表している。目は伏し目、左手二本の指を立て、結び紐を垂らし頭頂部が尖った頭巾を被る。翻波式衣文、像高34.8㎝、木造、彩色、一木造、国宝殿安置。
  ◈木造「慈恵大師(良源)像」(重文)は、「走井の大師」といわれる。鎌倉時代、弘安九年(1286年)の胎内銘がある。像高77.3㎝、寄木造。
 ◈報恩蔵に、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、善導大師、法然木像が祀られている。経典も一部あるという。
◆建築 本堂、小堂の報恩蔵で法然は一切経を5度閲読したという。鐘楼などが建つ。
◆月かげ碑 法然の短歌「月かげ碑」がある。「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ」(光明編照十万世界念仏衆生摂取不捨の心を、『続千載集』より)。
 月光はすべての里を照らし、くまなく降り注ぐ。だが、蓋を閉ざした器の水に月を映すことはできない。月を眺める者以外に、月の美しさは伝わらない。阿弥陀仏の慈悲心も、すべての人々に平等に注がれている。手を合わせ「南無阿弥陀仏」と念仏を称える者のみが、阿弥陀仏の救いを被ることができる。
◆文化財 本堂外陣に、江戸時代の山本春洞筆の極彩色、天井画が描かれている。二人の天女が舞う。
◆黒谷 この地はかつて、大黒天の現れた霊地とされ、「大黒谷」と呼ばれていた。その後、「黒谷」と呼ばれる。
 金戒光明寺(左京区)が「黒谷」と呼ばれるのも、比叡山を下りて金戒光明寺に隠棲した法然が、「黒谷のご上人」と呼ばれたことに因んでいる。当初、金戒光明寺は「新黒谷」と呼ばれ、やがて「黒谷」と呼ばれるようになった。
◆黒谷道 黒谷青龍寺への西側の登り口は、大原に向かう国道367号線(若狭街道)にある。八瀬秋元町の長谷出(はせだし)の脇ヶ原橋横に比叡山登山口がある。
 登山道は、「黒谷道」、「元三大師道」とも呼ばれた。長谷出(走出)の名から「走出道(路)」、「八瀬道」とも呼ばれた。八瀬から峰道までは2.8㎞、1時間40分の道程になる。道は、八瀬より、黒谷青龍寺を経て、急坂の走出道(はせだしみち、走出坂)、西塔北谷墓地、浄泉院址碑を経て、峰道、横川、仰木、堅田、雄琴へと向かう。
 長谷出の「長谷(はせ)」とは、「馳道(はせみち)」の意味であり、古代には近江路に繋がる最短の行程だった。
 夏目漱石が作家として執筆した第一作『虞美人草』(1907)では、この登り口からの情景描写で始まる。
◆墓 かつては法然の墓もあったという。
◆植物 カエデ、モミ林、エイザンスミレがある。
◆滝 境内西の大黒滝は、慈恵大師が草創期に、大黒天が顕れた聖地になっている。また、かつては、青龍池、浄名水もあったという。
◆源氏物語 『源氏物語』の『宇治十帖』の第53帖「手習」巻に、「小野」が登場する。場所は特定されていない。比叡山に登る僧都、聖が行き交う黒谷道(元三大師道、走出路)付近だったともいう。
 浮舟は、薫大将、匂宮の2人の男性から求愛され苦しむ。入水をはかり、横川(よかわ)の僧都(そうず)に助けられる。僧都の母と妹が住む小野に身を寄せた。第54帖「夢浮島」巻では、薫は横川の僧都を訪ねる。僧都は薫を小野に案内せず、浮舟は薫の文に返事をしなかった。
◆玉体杉 本堂背後の比叡山に連なる横高山(767m)の峰近くに、「玉体杉」がある。傍らに蓮台石があり、千日回峯行者が唯一、腰を下ろして休むことが出来る。行者は石に坐し、御所に向かい天下泰平、玉体の安全祈願する。
 近くに、「垂釣岩(鯛釣岩、二宮釣垂岩)」という大岩があり磐座という。『古事記』(712)中の、大山咋神(山末之大主神)が鎮座した神奈備山、「近淡海国の日枝の山」とは、この小比叡山、波母山(はもやま)ではないかともいう。かつては、ここに、二宮権現という社が祀られていたという。 鞍部である峰辻に、「せりあい地蔵(釈迦・多宝の石仏)」が祀ってある。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*八瀬秋元町の長谷出(はせだし)の比叡山登山口から青龍寺までは、途中に人家はなく急坂の山道が続きます。奥比叡ドライブウェイ側からの方が近く楽な道ですが、一部に急坂があります。
*参考文献・資料 『比叡山諸堂史の研究』、『闘いと祈りの聖域 比叡山史』、『京都・宗祖の旅 法然』、『京都・山城 寺院神社大事典』、『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』、『日本の名僧』、『古代地名を歩くⅡ』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『源氏物語を歩く旅』、『紫式部と平安の都』、『京都 神社と寺院の森』 、ウェブサイト「コトバンク」


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【参照】「べんてつ観音(如意輪)」、ここで道が二手に分かれており左は横川へ、右が黒谷へと向う。

【参照】途中の景色、比叡山に連なる横高山(767m)、釈迦ヶ岳、小比叡ノ峰、波母山ともいう。

【参照】登山道は回峯行者が葛川参籠を終え、大原から無動寺に戻る際に使う行者道という。かなり急峻だが石段などで整備されている。青龍寺までは1.5㎞、標高差400mほどの道程になる。

スギの人工林
黒谷青龍寺 〒601-1252 京都市左京区八瀬秋元町946  075-722-1300
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