黒谷青龍寺(比叡山延暦寺・西塔別所)・黒谷道 (京都市左京区) 
Kurodani Seiryu-ji Temple
黒谷青龍寺 黒谷青龍寺
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山門




圓光大師旧跡の石標、、圓光(法然)


真盛上人旧跡の石標






本堂


本堂、「青龍寺」扁額










報恩蔵、法然はここで一切経を5度閲読したという。



報恩蔵


報恩蔵、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、善導大師、法然木像が祀られている。経典も一部あるという。


鐘楼
 黒谷青龍寺(くろだに せいりゅうじ)は比叡山山腹の西塔北谷の黒谷(くろだに)にある。鬱蒼と生い茂る杉の巨木の森に建ち、古くより隠遁者の住居となっていた。この地は、浄土宗の祖、若い頃の法然(源空)の修行地とされ「浄土一宗開発根本の御遺跡」「我宗(浄土宗)根本の霊地」とも呼ばれた。 
 西塔5谷に含まれず、比叡山延暦寺一山寺院の別所谷、西塔別所で、正式には比叡山黒谷青龍寺という。黒谷青龍寺、浄土宗では元黒谷(もとくろだに)ともいう。
 天台宗、浄土宗総本山・知恩院が管理している。本尊は、恵心僧都(源信)作という阿弥陀如来坐像。
 法然上人第20番霊場。法然上人(圓光大師)二十五霊場特別霊場(番外)。比叡山五別所(ほかに東塔東谷・神蔵寺、横川兜率谷・霊山院、横川兜率谷・香積寺、横川飯室谷・帝釈寺)の一つ。
◆歴史年表 平安時代、後期、開基は18代天台座主・良源(?-1179)によるという。(『山門堂舎由緒記』)
 叡空(えいくう、えくう、?- 1179?)も修行した。(『山門堂舎由緒記』)
 1150年、18歳の法然はこの地の里坊を訪れ叡空に入門した。天台・浄土教学を学ぶ。43歳までこの地に留まり隠棲した。
 室町時代、1483年、1482年とも、真盛が隠遁し、『往生要集』により、称名念仏「日課念仏六万遍」を唱えた。(『真盛上人往生伝記』)
 1571年以前、文殊堂に行基作という文殊菩薩を本尊として安置していた。大黒堂、法然房が建てられていた。(『比叡山堂舎僧坊記』」)
 1571年、織田信長の元亀法難(元亀の乱、比叡山焼き討ち)により、法然房の建物は焼失したという。また、焼失は免れたともいう。
 江戸時代、初期、文殊堂、大黒堂、法然坊はすでに旧跡になっていた。(『比叡山堂舎僧坊記』)
 1614年、禿盛は、青龍寺を再興した。
 江戸時代中期、本堂、鐘堂、経蔵、方丈、庫裡が建てられていた。(『山門堂舎由緒記』)
 現代、1967年、浄土宗総本山・知恩院は、天台宗総本山・比叡山延暦寺の理解を得て、青少年修練道場として再興した。
◆良源
 平安時代中期の天台宗の僧・良源(りょうげん、912-985)。元三大師良源、慈恵大師。近 江国に生まれた。比叡山四大師(伝教、慈覚、智証)のひとり。923年、12歳で比叡山西塔宝幢院の日燈の坊で理仙大徳の弟子となり、17歳の時、座主尊意 から受戒した。論議に優れ、937年、興福寺維摩会の威儀師に選ばれ、叡山を勝利に導く。950年、村上天皇皇子憲平親王の護持僧になる。950年、阿闍梨とな る。963年、清涼殿での南都との法華十講の論戦に参加し、勝利した。964年、内供奉十禅師となる。965年、権律師になる。981年、史上2番目の大僧正ま で昇りつめた。966年、55歳の若さで18世天台座主になり以後19年に渡り在任した。その間、伽藍の増改築を行い、比叡山中興の祖となる。藤原忠平、そ の子・師輔、兼家の後援を得て、山内経営の基盤を築いた。また、問答形式の法会の広学堅義を始めた。970年、「二十六か条起講」を布告し、綱紀粛正も規 した。横川を独立させ、三塔体制を確立した。他方、権門勢力の影響を受け、世俗化、その後の派閥抗争の一因となった。
 良源が著した『極楽浄土九品往生義』は、極楽浄土往生者を位付し、それぞれの極楽の相違を述べ、後の浄土宗の展開になった。
 元三(がんさん)大師の別名は、正月三日に亡くなったことによる。学識、政治力、霊感にも優れていたため、没後は、元三大師信仰が生まれた。鬼大師、魔 滅大師(豆大師)、角大師、木葉大師、御廟(みみょう)大師、御鏡大師などとも呼ばれた。お神籤(おみくじ)の原型となった「観音籤」を考案したといわれ ている。また、考案したという漬物「定心漬」がある。 
◆叡空 平安時代後期の天台宗の僧・叡空(えいくう、?- 1179?)。慈眼房。太政大臣・藤原伊通の子に生まれたともいう。良忍から円頓戒(天台宗での大乗菩薩の戒法)を受け、授戒の師となる。密教、浄土教を学び、黒谷に住した。源信の『往生要集』の講義、大乗戒律、密教についても比叡山随一の学僧とされ、大乗戒律では黒谷流の祖とされる。
 法然に天台と浄土の教義を教え、円頓戒を授けた。
◆源信
 平安時代中期の天台宗の僧・源信(げんしん、942-1017)。恵心僧都、横川僧都。大和国に生まれた。950年/956年、9歳で比叡山の良源に学ぶともいう。955年、得度した。956年、15歳で『称讃浄土経』を講じ、第62代・村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。だが、名声より聖人になるという母の諫言を守り横川の恵心院に隠棲し続けた。1004年、公卿・藤原道長の帰依により権少僧都となる。1005年、権少僧都を辞する。恵心院で亡くなる。臨終にあたり、阿弥陀如来像の手に結んだ糸を手にし、合掌しながら入滅したという。
 浄土宗の基礎となり、地獄極楽観を説いた『往生要集』(985)の編者。『源氏物語』第53帖、『宇治十帖』第9帖の「手習」巻では、宇治川に入水した浮舟を助けた「横川の僧都」といわれている。(良源弟子の覚超ともいう)。絵、彫刻に優れたという。源信作の和讃「極楽六時讃」がある。
◆法然 平安時代末期-鎌時代前期の浄土宗の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。勢至丸。美作国に生まれた。父は押領使・漆間時国、母は秦氏。1141年、9歳の時、父は夜襲により目前で殺される。父は出家を遺言する。天台宗菩提寺の叔父・観覚のもとに預けられた。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法(宝)房源光に師事、1147年、皇円の下で出家受戒。1150年、西塔黒谷慈眼坊叡空の庵室に入り、浄土宗に傾く。法然房源空と名乗る。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。善導は、阿弥陀仏の誓った本願を信じひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができるとした。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。東山吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場となる。1186年(1189年とも)、天台僧らとの大原談義(大原問答)で専修念仏を説く。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1201年、親鸞が入門した。1204年、比叡山僧徒は専修念仏の停止を迫り蜂起、法然は「七箇条制誡」を草し弟子190人の連署得て天台座主に提出する。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止(ちょうじ)となる。1207年、法然は還俗となり、土佐国(讃岐国)に流罪となる。(「承元の法難」)。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住み、1211年ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近)に移る。翌1212年、ここで亡くなった。『選択本願念仏集』(1198)、『一枚起草文』(1212)などを著す。
 法然は、源信と善導の思想的な影響を受けている。法然は、あらゆる階層、女人往生説にみられるように性別に関係なく専修念仏行、口称名号の念仏により、極楽往生を願う者は救済されると説いた。既存の仏教で救われる対象ではない人々に希望をもたらした。
◆源光 平安時代後期の天台宗の僧・源光(生没年未詳)。比叡山西塔北谷の学僧で、法然が13歳で最初に師事した。法然の才を見抜き、これ以上教えることがないとして、皇円(肥後阿闍梨)の許に送ったという。
◆真盛 室町時代の天台宗の僧・真盛(しんせい、1443-1495、円戒国師、慈摂大師)。伊勢国に生まれた。比叡山西塔の慶秀に師事、20年間修行を続けた。応仁・文明の乱(1467-1477)後、黒谷青龍寺に移り、『往生要集』に拠り称名念仏を唱えた。1485年、山を下り、近江国坂本・西教寺を再興し、天台宗真盛派の本寺とした。
 天台宗真盛派(天台真盛宗)の開祖。
◆仏像・木像 本堂に本尊、恵心僧都作という「阿弥陀如来坐像」、右脇侍に、「阿弥陀如来像」、「釈迦如来像」、「伝教大師像」、「慈眼大師像」、左脇侍に、安土・桃山時代、焼き討ちの際に里人によって避難され護られたという「十一面観世音菩薩」、「叡空上人像」、「法然上人像(鏡の御影)、「真盛上人像」、右外陣に「良雄上人像」、「維摩居士(ゆいまこじ)坐像」、左外陣に「恵心僧都像」、「阿弥陀如来像」、「歴代位牌」などが祀られている。
 「維摩居士坐像」(重文)は、像高34.8㎝の一木造の木造、彩色、翻波式衣文、『維摩経』中の維摩と文殊の問答を表し、目は伏し目、左手二本の指を立て、結び紐を垂らし頭頂部が尖った頭巾を被る。平安時代初期作。国宝殿安置。
 木造「慈恵大師像(良源)」(重文)は、走井の大師といわれる。弘安九年(鎌倉時代、1286)の胎内銘がある。像高77.3㎝、寄木造。
◆文化財 本堂外陣に、江戸時代の山本春洞による極彩色の二人の天女舞う天井画が描かれている。
◆黒谷・黒谷道 この地はかつて、大黒天の現れた霊地とされ、「大黒谷」と呼ばれていた。その後、「黒谷」と呼ばれた。
 金戒光明寺(左京区)が黒谷と呼ばれるのも、比叡山を下りて金戒光明寺に隠棲した法然が、「黒谷のご上人」と呼ばれたことに由る。当初、寺は「新黒谷」と呼ばれ、やがて「黒谷」とのみ呼ばれるようになった。
 黒谷青龍寺への登り口、大原に向かう国道367号線(若狭街道)の八瀬秋元町の長谷出(はせだし)、脇ヶ原橋横に比叡山登山口がある。登山道は、黒谷道、元三大師道、長谷出(走出)の名から走出道、八瀬道とも呼ばれている。八瀬から峰道までは約2.8㎞、1時間40分の道程になる。道は、八瀬、黒谷青龍寺を経て峰道、横川、仰木、堅田、雄琴へ向かう。なお、長谷出の長谷(はせ)は、馳道(はせみち)の意味であり、古代には近江路に繋がる最短の行程だった。
 夏目漱石が作家として執筆した第一作『虞美人草』(1907)では、この登り口からの情景描写で始まる。
◆墓 かつては法然の墓もあったという。
◆植物 カエデ、モミ林、エイザンスミレがある。
◆滝 境内西の大黒滝は、慈恵大師が草創期に大黒天が顕れた聖地となっている。また、かつては、青龍池、浄名水もあったという。
◆源氏物語 『源氏物語』の『宇治十帖』の第53帖「手習」巻に、「小野」が登場する。場所は特定されていない。比叡山に登る僧都、聖が行き交う黒谷道(元三大師道、走出路)付近だったともいう。
 浮舟は、薫大将、匂宮の2人の男性から求愛され苦しむ。入水をはかり、横川(よかわ)の僧都(そうず)に助けられる。僧都の母と妹が住む小野に身を寄せた。第54帖「夢浮島」巻では、薫は横川の僧都を訪ねる。僧都は薫を小野に案内せず、浮舟は薫の文に返事をしなかった。
◆年間行事 2010年10月、黒谷青龍寺天台宗総本山・比叡山延暦寺(大津市)と浄土宗総本山・知恩院(東山区)は、青龍寺で合同法要を営んだ。1961年以来の合同法要という。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『比叡山諸堂史の研究』『闘いと祈りの聖域 比叡山史』『京都・宗祖の旅 法然』『京都・山城 寺院神社大事典』『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』『日本の名僧』『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』『古代地名を歩くⅡ』『源氏物語を歩く旅』『紫式部と平安の都』『京都 神社と寺院の森』


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天満宮

求道者真盛像

18歳の法然像、法然は「名利の望をやめて、しずかに仏法を修学」したいと、黒谷の慈眼坊叡空に師事した。

「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ」(光明編照十万世界念仏衆生摂取不捨の心を、「続千載集」より)、法然、「月かげ」。
月光はすべての里を照らし、くまなく降り注ぐ。だが、蓋を閉ざした器の水に月を映すことはできない。月を眺める者以外に月の美しさは伝わらない。阿弥陀仏の慈悲心も、すべての人々に平等に注がれているが、手を合わせ「南無阿弥陀仏」と念仏を称える者のみが、阿弥陀仏の救いを被ることができる。

境内の杉の巨木



西塔からの参道、杉木立の中を急坂が続いている。余りにも急坂のため走出道(はせだしみち、走出坂)ともいう。道は西塔北谷墓地、浄泉院址碑を経て峰道レストランへ続く。

本堂背後の景色、比叡山に連なる横高山(767m)の峰近くに玉体杉(写真中央やや右)がある。千日回峯行者が唯一腰を下ろして休むことが出来る蓮台石がある。行者はこの石に坐して、御所に向かい天下泰平、玉体の安全祈願する。
 また、近くに、垂釣岩(鯛釣岩、二宮釣垂岩)という大岩があり、これも磐座という。『古事記』(712)中の、大山咋神(山末之大主神)が鎮座 した神奈備山、「近淡海国の日枝の山」とは、この小比叡山、波母山(はもやま)ではないかともいう。かつては、ここに二宮権現という社があったという。 鞍部である峰辻に、せりあい地蔵(釈迦・多宝の石仏)が祀ってある。
黒谷道(くろだにみち)

【参照】黒谷青龍寺への登り口

【参照】元三大師道の大きな石碑

【参照】「円光大師(法然)旧跡黒谷青龍寺 是ヨリ十五町」(1904)の石標。

損壊しているが「浄刹結界跡」の石標、延暦寺の結界を示すという。

【参照】「べんてつ観音(如意輪)」、ここで道が二手に分かれており左は横川へ、右が黒谷へと向う。

【参照】途中の景色、比叡山に連なる横高山(767m)、釈迦ヶ岳、小比叡ノ峰、波母山ともいう。

【参照】登山道は回峯行者が葛川参籠を終え、大原から無動寺に戻る際に使う行者道という。かなり急峻だが石段などで整備されている。青龍寺までは1.5㎞、標高差400mほどの道程になる。

スギの人工林
 黒谷青龍寺 〒601-1252 京都市左京区八瀬秋元町946  075-722-1300
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