明保野亭騒動跡(青龍苑) (京都市東山区)  
The ruins of Akebonotei Jiken(the Akebonotei incident),Seiryu-en
明保野亭騒動跡 明保野亭騒動跡
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南門


南門


庭園







行の茶室「長嘯庵(川の茶室)」

真の茶室「三玄(山の茶室)」


行の茶室「長嘯庵(川の茶室)」

草の茶室「清涼(池の茶室)」




【参照】柴司の墓、金戒光明寺の会津墓地内(左京区)
 かつて、清水坂参道の三年坂に料亭「明保野亭(あけぼの てい)」はあった。旧地に現在は、料亭「阪口」、複数の土産物店が入る「青龍苑」、庭園などがある。
 幕末に、この地で「明保野亭騒動(明保野亭事件)」が起きている。
◆歴史年表 
安土・桃山時代-江戸時代
、1601年頃以降、この地は、武将・歌人・木下長嘯子(勝俊、1569-1649)の隠棲地になる。
 江戸時代
後期、「明保野(あけぼの)亭」は料理旅館だった。坂本龍馬(1836-1867)も常宿にしていたという。中岡慎太郎(1838-1867)、長州藩士も出入りした。
 1864年、6月5日(新暦7月8日)、旅籠「池田屋」で志士らの密会中に、新撰組が急襲する。(池田屋事件)
 6月10日(新暦7月13日)夜、明保野亭で志士が密会中との情報により、新撰組・原田左之助、京都守護職、会津藩・柴司らが踏み込む。柴は、土佐藩士・麻田時次郎を槍で突き負傷させた。(明保野亭騒動)。6月11日、時次郎は切腹した。6月12日、司も切腹している。
 現代、2000年、7月15日、料亭「京都 阪口(霊鷲山荘)」は、「青龍苑」として新たに開業した。
◆木下長嘯子 江戸時代前期の武将・歌人・木下長嘯子(きのした ちょうしょうし、1569-1649)。名は勝俊。別号に挙白堂など。尾張の北政所(高台院)の兄・木下家定の嫡男。少年時代より羽柴(豊臣)秀吉に仕え、1587年、19歳で播磨国・竜野城主になる。左近衛権少将。秀吉に従い、1590年、小田原攻め、1592年、文禄の役に加わる。1594年、若狭国小浜城主になる。1600年、関ヶ原の戦で豊臣秀頼の命により、伏見城の留守を預かる。石田三成の挙兵により任務放棄した。1601年、徳川家康の怒りに触れ、北政所の嘆願により命だけは救われた。所領没収になる。京都東山霊山に32歳で隠棲し、剃髪し長嘯子と号した。山荘は北政所の援助により広大で、多くの文人が集った。晩年の10年間ほどは、洛西小塩に移る。
 国学、漢学に通じ、細川幽斎に和歌を学ぶ。藤原惺窩、林羅山、九条道房、松永貞徳、堀杏庵、小堀遠州、安楽庵策伝らと交わる。歌風は自由清新で先駆になる。家集『挙白集』など。
 墓は高台寺山中(東山区)にある。
◆麻田時太郎 江戸時代後期の土佐藩士・麻田時太郎(?-1864)。詳細不明。1864年6月10日夜、料亭「明保野亭」で、会津藩・柴司に槍で突かれ負傷した。6月11日、公武合体派である会津藩・土佐藩の友藩関係悪化の回避のためとして切腹した。(明保野亭騒動)。
 墓は常楽寺(中京区)にある。
◆柴司 江戸時代後期の会津藩士・柴司(しば  つかさ、1844-1864)。諱は次正(つぐまさ/つぎまさ)、幼名は又四郎。父・柴友右衛門次直の4男、母は西郷氏。1864年、池田屋事件の残党探索を行なう新選組の応援として派遣された。6月10日、料亭「明保野亭」に踏み込む。現場にいた土佐藩士・麻田時太郎を負傷させる。当初、会津藩は司は正当な職務行為としていた。6月12日、公武合体派の会津藩・土佐藩の友藩関係悪化回避のために切腹した。(明保野亭騒動)。21歳。
 墓は金戒光明寺の会津墓地(左京区)内にある。
◆明保野亭・明保野亭騒動 「明保野(あけぼの)亭」は江戸時代末期には料理旅館であり、坂本龍馬(1836-1867)が常宿としていたという。中岡慎太郎(1838-1867)、長州藩士も出入りした。龍馬は二階から階下を見張ったともいう。司馬遼太郎の小説『龍馬がゆく』中では、お田鶴との密会に使われた宿として登場する。ただ、史実ではない。新撰組の武田観柳斎(?-1867)も出入りしていたという。
 1864年6月5日(新暦7月13日)の「池田屋事件」後、新撰組は市中の志士取締を強化した。6月10日(新暦7月13日)未明、料亭「明保野亭」に長州浪士が多数集結しているとの情報が入る。新撰組壬生屯所の十番隊組長・原田左之助(1840-1868)ら10人、京都守護職、会津藩士・柴司、吉原四郎、石塚勇吉ら7人、町奉行与力同心らが亭に踏み込んだ。だが、すでに浪士の姿はなかった。
 二階の奥座敷で一人の男が飲酒していた。一行の姿を見て男は、庭に飛び降り逃げようとした。司は男の背後より槍で突き取り押さえる。負傷し捕らえられた男は、浪士ではなく、友藩の土佐藩士・麻田時太郎だった。事件は新撰組、会津藩の勇み足だった。
 時太郎は一命を取り留める。会津藩は麻田の傷の手当てを手厚く行い、河原町の土佐藩邸に送り届けた。京都守護職・会津藩主・松平容保(1836-1893)は、家臣・小室金吾、手代木(てしろき)直右衛門(1826-1826)を伴い、土佐藩邸に見舞いをした。事件について謝罪するとともに、時太郎の治療も申し出ている。土佐藩はこれまでの両藩の関係を慮り、この申し出を断った。小室、手代木は明保野亭にも謝罪をした。
 6月11日、会津藩の重臣・広沢富次郎(1830-1891)、医師・高橋順庵が土佐藩別邸(東山七条)に謝罪に向かう。土佐藩留守役・中島小膳は、時太郎への面会を断っている。当日、時太郎は、土佐藩により士道不覚悟として切腹に追われる。土佐藩士の一部は反発し、市中には土佐藩と会津藩・新撰組の交戦も噂された。
 6月12日、司は兄・幾馬の立ち合いのもと、次兄・外三郎の介錯により騒動の責任を取る形で切腹した。切腹については、家老・神保内蔵助(1816-1868)が命じている。友藩である会津藩と土佐藩の衝突回避のためとされた。司の上役・加須屋左近が兄らと相談した上での結果だったという。
 会津藩家老は、土佐藩邸に司の詰腹について報告に訪れている。土佐藩側は前夜11日に、時太郎が「士道の本意相立たず」として自害したと伝え遺書も示した。(明保野亭騒動)
 麻田時太郎は常楽寺(中京区)に眠る。柴司は黒谷・会津藩墓地(左京区)に葬られる。
◆青龍苑 かつてこの地には、老舗料亭「京都 阪口」の霊鷲山荘があった。
 2000年より「青龍苑」に生まれ変わる。京都を司る四神のうち東の「青龍」に因んで名付けられた。現在は料亭「京都阪口」が営業している。
◆庭園 霊鷲山荘は、造園家・小川治兵衛の作庭した名庭として知られた。青龍苑では、庭園の一部を改修している。
 池泉回遊式の庭園で、東に山があり、池には2本の石橋が架かる。マツ、サクラ、モミジなどの植栽がある。
 庭園には、真行草の3つの格の茶室が配されている。
◆茶室・建築 ◈真の茶室「三玄(山の茶室)」は、池の奥の左手、山際の最も高い位置にある。裏千家11代・精中宗室(玄々斎、1810-1877)により、江戸の徳川家領内に造営された茶室の主要部材を移築した。
 ◈行の茶室「長嘯庵(川の茶室)」は、池の奥、山の中腹にある。床下に小川が流れる。木下長嘯子に因んでいる。草庵形式になる。
 ◈草の茶室は「清涼(池の茶室)」は、池の手前、右手にある。近代、大正期(1912-1926)の東山大茶会の一席になった草庵形式を残している。
 ◈「待合(滝見の待合)」は、池の奥右手にある。落差5mの滝を臨み、滝音も聞くことができる。
 ◈南門は庭園の南側にある。
◆遺跡 青龍苑の庭園池を改修した際に、「あけぼの」と書かれた徳利が見つかったという。明保野亭は現在地付近にあった。 
 なお「維新 明保野亭跡」の小さな石碑は、現在地の南、三年坂(産寧坂)に面した料亭「明保野亭」の傍らに立てられている。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 案内板、ウェブサイト「青龍苑」、『新選組事典』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、『京都隠れた史跡100選』 、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「コトバンク」

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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 明保野亭騒動跡(青龍苑) 〒605-0862 京都市東山区清水3丁目334  phone 青龍苑 075-532-5959  Opening time 9:00-18:00
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