八木邸 (京都市中京区)
Residence of YAGI
八木邸 八木邸 
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家紋、三つ木瓜


隊旗


長屋門






井戸「鶴寿井」


母屋、芹沢鴨、平山五郎らが粛清された。


母屋、玄関の式台は3段になっている。


現在は、京都鶴屋鶴寿庵が屯所跡に併設している。現在の店舗部分に新撰組隊士が寝起きしていた。


屯所餅
 新撰(選)組は壬生で旗揚げされた。壬生寺近く、当初の屯所が置かれた壬生郷士・八木源之丞邸は現存し、いまも子孫が住居する。 
◆歴史年表 鎌倉時代初期、八木家は、但馬国(兵庫県養父郡朝倉の庄)の八木安高を始まりとするという。
 室町時代、1573年、天正年間(1573-1592)とも、朝倉家が織田信長に滅ぼされ丹波八木之庄に移る。又兵衛は八木姓を名乗る。
 安土・桃山時代、1582年、本能寺の変後、京都に移り壬生住人士の一軒になる。山城国葛野郡壬生村に移る。
 江戸時代、壬生村には10軒ほどの郷士(壬生住人士)があった。八木家は村の経営、行司役、壬生狂言にも携わり、京都守護職、京都所司代とも関わりがあったという。(八木家、前川家文書)
 1863年、2月23日(旧暦)、清河八郎の指揮下で上洛した浪士組のうち、10代当主・八木源之丞邸には、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司ら13人が分宿する。清河は夜、近くの本部が置かれた新徳寺で尊王攘夷の演説を行う。
 3月3日、浪士組に江戸帰還命令が出される。だが、帰還は2度延期されている。
 3月13日、清河八郎らの浪士組は京都を発ち江戸へ帰還する。尊王攘夷派の清河に反対した芹沢、近藤らは京都に残留し、京都守護職・会津藩預かりになる。以後、壬生浪士組(後の新撰組)を名乗る。3月、八木邸右門柱に、「松平肥後守御預新選組宿」の看板が掲げられた。
 8月18日、八月一八日の政変に壬生浪士組も出動する。その後、会津藩より新撰組の名を拝命する。
 9月16日/18日、八木邸内で芹沢鴨、平山五郎、平間重助らが粛清された。
 9月20日、芹沢、平山の葬儀が行われ、壬生寺に埋葬される。
 1865年、4月、新撰組は壬生から西本願寺の北集会所(西本願寺屯所)に移る。新撰組から迷惑料として5両が支払われた。当主はこの金で樽酒を求め隊に届けたという。
 現代、1983年、建物が京都市指定有名文化財になる。 
◆八木源之丞 江戸時代後期の郷士・八木源之丞(やぎ げんのじょう、1814-1903)。山城国壬生に生まれる。9代・八木応乗(やぎ まさのり)の長男。1836年、父没後、八木家を継ぎ、10代目当主に就く。諱は応迅(まさはや)、本姓は日下部氏。
◆八木家 八木家は、鎌倉時代初期、但馬国(兵庫県養父郡朝倉の庄)の朝倉高清の子・八木安高を始まりとするという。詳細不明。源頼朝(1147-1199)の富士裾野での巻狩りの際に、白い猪を射止めた功により家紋(三つ木瓜)を拝領したという。(「鎌倉武鑑」)。室町時代、1573年、朝倉家が織田信長に滅亡され、丹波八木之庄に移る。又兵衛は落ち延び、八木姓を名乗る。1582年、本能寺の変後、京都に移る。
 八木家は、江戸時代、壬生村に10軒ほどあった壬生住人士(みぶしゅうにんし)の一つで、京都守護職、京都所司代、幕府との関わり深く、農業を営み苗字帯刀を許されていた。八木家は長老として、村の経営、行司役を務めた。壬生狂言にも携わる。(八木家、前川家文書)。現在は、15代当主が継ぎ和菓子屋を営む。いまも残る旧4郷士の一つになる。
◆近藤勇 江戸時代後期、新撰組局長・近藤勇(こんどう いさみ、1834-1868)。武蔵国に生まれた。父は豪農の宮川久次郎、母えいの3男。1848年、天然理心流3世・近藤周助に師事、4世を襲名する。1849年、周助の実家島崎養子になり、1860年、近藤勇藤原昌宜と称した。1862年、清河八郎らの浪士組に加わる。1863年、将軍家茂警護の名目で上洛の浪士組先番宿割役、一時は三番組の小頭をを務めた。尊王攘夷派清河らに従わず京都に残留、壬生浪士組局長、芹沢鴨を粛清し新撰組局長に就く。1864年、池田屋事件で尊攘派志士を襲撃した。1865年、長州訊問使・永井主水正尚志に随行。1867年、新撰組隊士が幕府召しかかえになる。西軍武力討幕蜂起の諜報により京都守護職に報じる。油小路事件で伊東甲子太郎ら新撰組を脱退した御陵衛士を粛清する。御陵衛士により、伏見街道墨染辺りで報復狙撃され重傷を負う。1868年、鳥羽・伏見の戦を経て江戸に移り、甲陽鎮撫隊を組織、甲州勝沼で敗走、下総流山で官軍に自ら投降した。板橋で斬首、首は同所、三条河原、大坂で晒された。
◆芹沢鴨 江戸時代後期の新撰組局長・芹沢鴨(せりざわ かも、1827-1863)。水戸藩士・芹沢又衛門以幹の三男が有力説という。前名を下村嗣次と称したともいう。松井村神官・下村祐斎の婿養子となる。戸賀崎熊太郎に神道無念流剣術を学び、免許皆伝、師範代を務めた。1860年、尊王攘夷の玉造組(天狗党前身)に参加し、1861年、水戸藩により弾圧され入獄する。1862年、大赦令により出獄した。1863年、江戸の清河八郎の浪士組に参加し、六番組小頭に任命された。清河らと京都に入り、芹沢は近藤勇らとともに壬生の郷士・八木邸に分宿した。尊攘派清河の江戸帰還に反対し、近藤らとともに京都に残留する。京都守護職会津藩御預りとなり壬生浪士組を名乗り、芹沢が局長筆頭になった。八月十八日の政変に御所の警備のために出動する。その活躍により新撰組と改める。1863年、芹沢の借財、乱暴狼藉の咎により八木邸内で近藤らに粛清された。墓所は壬生寺にある。
◆平山五郎 江戸時代後期の新撰組隊士・平山五郎(ひらやま ごろう、1829-1863)。詳細不明。姫路、水戸藩出身ともいう。元姫路藩士堀川福太郎の門人となり剣術を学び、神道無念流の免許皆伝。花火事故で隻眼になる。1863年、清河八郎の浪士組に参加、芹沢鴨の六番組に配属され上京。浪士組の江戸帰還に反し芹沢らと京都に残留。壬生浪士組の副長助勤になった。水戸派に属し芹沢と行動を共にした。1863年、八木邸での暗殺事件で芹沢とともに斬殺された。
◆暗殺事件 芹沢鴨は酒の上での乱行で知られた。1863年、生糸問屋の大和屋焼き討ち事件に対して、京都守護職・松平容保は芹沢の暗殺を命じたという。新見錦は本名・新家粂太郎であり、長州で死亡したというのが有力説になる。1863年9月16日/18日、新撰組は島原の揚屋・角屋で宴会を開いた。その後、芹沢は平山五郎、平間重助、土方歳三らと角屋を出る。雨の中、駕籠で八木邸に戻り、再び宴会を催した。土方はいない。芹沢の愛妾・お梅、平山馴染みの芸妓・桔梗屋吉栄、平間の輪違屋糸里らが宴に同席する。泥酔した芹沢、平山は北端の10畳間で、平間は玄関脇小部屋で就寝する。大雨が降る深夜、複数の何者かが八木邸の庭から押し入り、平山、芹沢、お梅を惨殺した。刺された芹沢は暗闇の中で応戦し、庭に面した縁側沿いに西の隣室に一端逃げ込む。ここには、八木家の子息と母が就寝していた。芹沢は子の文机に躓き、斬りつけられ絶命した。子も足に刀を受ける。平間らは逃亡し、その後の消息は知れない。
 事件の詳細は判っていない。当初より犯行は長州藩士の仕業とされたが、刺客に新撰組の土方歳三、沖田総司、山南敬助などがいたともいう。素行に問題があり、尊王攘夷派の芹沢の粛清が目的だったともいう。
 現在、北西隅の居室の鴨居、柱に複数の刀傷が残されている。隣室に逃げた芹沢を追った刺客のものという。
◆建築  江戸時代後期、1809年建造の武家屋敷風造であり、長屋門、母屋(主屋)に式台を備えた本玄関を構えている。1983年に京都市指定有名文化財になる。
  ◈「長屋門」は普請願より江戸時代、1804年の造営という。腰に下見板、与力窓、出格子窓がある。
  ◈「母屋」の入口は、南東に式台のある本玄関・4畳、中の間(6畳)、奥の間(8畳)と続く。本玄関の西隣に内玄関・4畳半があり、家人はこちらを利用した。その奥に箱階段のある中間の一室、さらに奥に居室(6畳)がある。西端に土間、台所があり奥(北)まで通じている。このように、南北方向に居室を三室ずつ二列に配している。北端に縁側、中庭、井戸などがある。武家風の建築様式と町屋風が混交している。三段の式台の中間部分は広く、ここに籠を下したという。室内での斬り合いを防ぐために低めの天井、鴨居上に提灯を入れたという5つ並んだ家紋入りの提灯箱などがある。5つとは壬生住人士の長老の証であるという。中庭からはかつて二条城の櫓、五山送り火も見渡せたという。
 新撰組屯所に使われた当時は、600坪の敷地があり、敷地の北東、現在の和菓子店付近に離れ座敷(6畳、4畳半、3畳、板の間)があり、8人の隊士が寝起きしていた。やがて新撰組は母屋も使用した。その後、道場「久武館」(東西3間半、南北8間半)が新築されている。
◆新撰組の足跡 当初、浪士隊のうち八木邸に分宿したのは、芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13人で、近藤、土方は邸内の離れを使っていた。その後、母屋に移る。さらに、隊士が増えたため近くの前川家や南部家などにも宿所を振り分けた。 
 芹沢鴨らの暗殺事件の際に付けられたという刀傷などが奥の間の柱などに残る。
 長屋門前には、隊士たちが腰を下ろした腰掛石もある。
 新撰組は麻の羽織、紋付の単衣、小倉袴を着用した。羽織の山形模様は、赤穂浪士討入りの切腹裃をもとにしている。壬生は藍を産し、水も豊富だったことから藍染めも行われていた。浅葱色を用いて染めた。「誠」の隊旗は赤地に、誠の字と下に山形を白く染め抜いている。縦6尺(182㎝)、横5尺(150㎝)ある。
◆名水 門前にある井戸「鶴寿井」は、飲むと健康長寿に恵まれるといわれ、新撰組隊士も飲用していたという。



【参照】八木邸、壬生寺の北隣にある新撰組屯所跡。建物は、江戸時代後期、1809年建造の武家屋敷風造、主屋(京都市指定有形文化財)に式台を備えた本玄関を構えている。長屋門(京都市指定有形文化財)は、江戸時代後期、1804年に建造された。
 壬生郷士の八木源之丞の邸宅は、新選組の発祥地、宿舎跡となっている。八木家は、農業をしながら武士の身分を与えられた壬生郷士の旧家だった。
 江戸時代、1863年、11代当主の時、14代将軍・徳川家茂の上洛警護のために清河八郎率いる浪士組が入洛した際に宿舎の一つとして使われた。また、1863年9月18日深夜、新撰組組長・芹沢鴨は、商家に狼藉を働いたとして、沖田総司、土方歳三により粛清された。邸内8畳間の鴨居に現在も刀傷(2㎝)が残されている。芹沢が文机に躓き、不覚となったところを斬りこまれた。その八木の妻愛用の机も残されている。



*門内の写真撮影禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『新選組事典』『京都新選組案内』『新選組大事典』『京都歩きの愉しみ』『京都歴史案内』、八木邸サイト 



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 八木邸 〒604-8821 京都市中京区壬生梛ノ宮町24,坊城通綾小路下る西側   075-841-0751 (京都鶴屋鶴寿庵)
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