京都所司代跡 (京都市上京区)  
Site of the Kyoto Shoshidai (local governor of Kyoto)
京都所司代跡 京都所司代跡 
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敷地東側の「京都所司代跡」の石標


敷地東側の「明治天皇行幸所京都府中學阯」の石標


敷地北西の「所司代屋敷址」の石標・道標
 猪熊通丸太町下ル西側、旧待賢小学校敷地東側に「京都所司代跡(きょうとしょしだいあと)」の石標が立てられている。
 この地には、安土・桃山時代-江戸時代に江戸幕府の行政機関の一つだった京都所司代が置かれていた。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1601年、京都所司代には、初代・板倉勝重が任命された。
 1619年、重宗は、父・勝重の後を継ぎ2代・所司代に就く。
 江戸時代、1668年、京都所司代は、京都支配など民政上の権限を京都町奉行に譲る。
 1862年、京都守護職が設けられ、所司代はその管轄下に属した。   
 1867年、廃止された。
 近代、1870年、跡地には、日本初の中学校、京都府立京都第一中学校が建てられた。
 現代、1959年、 京都市により石標が立てられる。
◆板倉勝重 江戸時代初期の譜代大名・板倉勝重(いたくら かつしげ、1545-1624)。三河生まれ。板倉好重の二男。幼少時に出家し、香誉宗哲と称した。父・好重、兄らの討死にともない還俗し家を継ぐ。1586年、徳川家康が駿府城に入った際に、駿河町奉行を務めた。以後、関東の代官、小田原の地奉行になる。1590年、江戸の町奉行を兼任した。1601年以来、京都の町奉行になる。1603年、家康の将軍宣下により伊賀守、初代・京都所司代に就く。1609年、宮中の密通事件(猪熊事件)を契機に、公家の信用を得る。朝廷の監察も行う。1611年、伏見より三条堀川の邸宅に移る。1612年より、公家諸法度、勅許紫衣・諸寺入院法度の制定に関与した。以心崇伝に協力した。1614年-1645年、大坂の陣では、豊臣氏対策に役割を果たす。1620年、東福門院和子入内に際し、内裏造営の総責任者を務めた。
 政治手腕に優れ、家康の信頼は高かった。伏見、二条城の造作、金座・銀座整備を行う。裁判は厳正であり、公家・寺社の統制を行った。父子2代にわたる名所司代として知られ、後人著の政務記録『板倉政要』がある。堀川邸で亡くなる。 墓は光悦寺(北区)に、息子・重宗とともにある。
◆板倉重宗 江戸時代初期の幕臣・板倉重宗(いたくら げむね、1587-1656)。駿府生まれ。板倉勝重の長男。母は栗生永勝の娘。徳川秀忠に近侍した。1590年、秀忠の上洛に供奉した。1600年、関ヶ原の戦に従う。1605年、徳川秀忠の将軍宣下に際し、従五位下周防守を叙任した。1614-1615年、大坂の両陣に従軍する。1614年以来、徳川和子の入内問題が起こる。書院番頭を経て、1619年、父・勝重の後を継ぎ2代・所司代になる。1626年、大御所秀忠、徳川家光の上京、第108代・後水尾天皇の二条行幸に携わる。1629年、後水尾天皇の突然の譲位を拒めなかった。1654年、職を辞する。退任後も、後任所司代・牧野親成を補佐した。1656年、下総国関宿城に転封され、同地で亡くなる。
 父子2代にわたる名所司代として知られる。幕政を定着させた。牢人の追放、キリシタン禁圧、京都民政に関する21カ条の町触発布などを行う。裁判では厳正な態度で臨んだ。後人著の政務記録『板倉政要』がある。 
 墓は光悦寺(北区)に、父・勝重とともにある。
◆京都所司代 安土・桃山時代、1573年に織田信長は足利義昭を追放し、村井貞勝(? -1582)を所司代に任じた。1583年、豊臣秀吉は前田玄以(1539-1602)を任じる。1600年の関ヶ原の戦い後に、徳川家康が奥平信昌(1555-1615)を任じた。
 安土・桃山時代、1600年に「京都所司代(きょうとしょしだい)」は京都に置かれた。江戸幕府の行政機関であり、西日本支配の権能を得た。名称は室町幕府の侍所所司代に由来する。
 所司代屋敷は二条城北一帯にあった。東は猪熊通、西は大宮通辺まで、北は丸太町通、南は竹屋町通内にあった。現在の旧待賢小学校用地にほぼ重なる。 敷地内に、上屋敷、堀川屋敷、千本屋敷があった。
 所司代は定員1人で、3万石以上の譜代大名から任命され老中に次いだ。与力30騎(のち50騎)、同心100人が付属した。1601年より初代・板倉勝重(1545-1624)、1620年より、その子・重宗(1586-1656)、1654年より牧野親成(1607-1677)の3代が続いた。幕末まで58人が任じられている。
 任務は、京都の制圧・警備、朝廷・公家の監察・折衝、西日本33カ国大名の監視、京都の禁裏付役人・京都町奉行・城代・城番などの統率、京都・伏見・奈良3町奉行の管理、五畿内・近江・丹波・播磨8カ国の民政総括、近畿全域の訴訟裁決を行っていた。
 初期には、徳川家康・秀忠・家光の歴代将軍の上洛に際して役割を果たした。1668年に、京都支配など民政上の権限を京都町奉行に譲る。以後は政治力が急激に低下した。幕末、1862年には、京都守護職が所司代の上位機関として設置され、衰微する。1867年に廃止された。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 京都市の駒札、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 京都所司代跡 〒602-8144 京都市上京区藁屋町,丸太町猪熊通下ル西側(旧待賢小学校前)
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