清和天皇 火葬塚 (京都市左京区)  
cremation mound of Emperor Seiwa
清和天皇 火葬塚 清和天皇 火葬塚
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拝所


 金戒光明寺の東の墓地内、文殊塔のすぐ東に清和天皇火葬塚(せいわ てんのう かそうづか)がある。
◆歴史年表 平安時代、880年、12月4日、清和天皇は粟田院で亡くなる。12月7日、洛東の上粟田山で火葬された。その後、遺詔により水尾山陵(右京区)に埋葬されたという。
 近代、1926年、火葬塚は治定された。
清和天皇 平安時代前期の第56代・清和天皇(せいわ てんのう、850-880)。惟仁(これひと)。水尾帝(水尾天皇)、水尾御門とも呼ばれた。第55代・文徳天皇の第4皇子、母は藤原良房の娘・明子(あきらけいこ、染殿皇后)。良房の染殿邸に生まれた。850年、兄の3親王(惟喬、惟条、惟彦)を差し置き、生後8カ月で立皇太子になる。858年、9歳で即位し、後見した外祖父・良房が人臣(臣下)最初の摂政になる。(正式には866年以降)。866年、応天門の変が起こり、大伴家が没落する。良房が権勢を誇る。876年、天皇は27歳で基経の妹・女御・藤原高子との間の3カ月の貞明(さだあきら)親王(第57代・陽成天皇)に譲位した。以後、藤原北家良房一門の権勢は確立された。879年、出家し、素真と称した。清和院(旧染殿邸)に移る。良房の養子・基経の粟田山荘(後の円覚寺)で落飾する。畿内巡幸の旅へ出る。棲霞観(清凉寺)に住み、天台宗の名刹・水尾山寺に入寺したという。勅命により「貞観格式」が編まれた。880年、粟田山荘に移り没した。 
 金戒光明寺裏山に火葬塚がある。嵯峨水尾山(水尾山陵)に葬られた。僧の身になった天皇は生前に、薄葬、陵墓を造営しないようにと遺詔している。 
 後世、武門の棟梁となる清和源氏の始祖とされた。
火葬塚 火葬塚は南面し、円丘がある。南正面に拝所が設けられている。かつて経塚とされていた。近代、1926年に火葬塚として治定されている。
 火葬塚は、かつての火葬場所になる。古代-中世には、火葬塚も陵墓に準じるものと考えられていた。最も格式の高い葬法であり、公式には天皇と近親者に限られた。火葬後に遺骨は別の墳墓に納められた。火葬地の施設を取り除いた後に土を盛り、石卒都婆を立てた。釘貫(くぎぬき、木戸)を建て四面に溝を掘った。(『吉事略儀』) 


55 文徳天皇 (在位 :850-858)→56 清和天皇 (在位 : 858-876) →57 陽成天皇 (在位 :876-884)


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*年間行事(拝観)などは、中止、日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 『京都市の地名』『天皇陵を訪ねて』『昭和京都名所図会 4 洛西』『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『天皇陵』『歴代天皇年号事典』『歴代天皇125代総覧』『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 清和天皇 火葬塚 〒606-8331 京都市左京区黒谷町
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