相国寺 (京都市上京区)
Syokoku-ji Temple
相国寺 相国寺
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総門








勅使門







法堂(はっとう)(雷音堂、いまは無畏堂、本堂)(重文)


法堂内陣、須弥檀。天井には江戸時代、狩野光信筆の龍図が描かれている。「鳴き龍」といわれ、下で手を叩くと音が反響する。円相外の龍雲は剥落している。
 


天龍図(蟠龍図)、狩野光信筆。説明板より


法堂、床は敷瓦(せん)の四半敷。


法堂、東にある玄関廊



法堂












ヒガンバナ




庫裏、宗務本所・台所(香積院、こうしゃくいん)、江戸時代、1807年の再建による。切妻造。


庫裏




庫裏前


方丈、唐門







方丈




方丈庭園



方丈西の庭園


方丈北庭園(裏方丈庭園)




方丈北庭園、滝組、枯池




方丈東の坪庭




開山塔(円明塔)



開山塔



開山塔、前庭(龍渕水の庭)


開山塔、前庭(龍渕水の庭)


開山塔、前庭(龍渕水の庭)



開山塔、前庭


開山塔、前庭(龍渕水の庭)


開山塔、前庭(龍渕水の庭)、流水の後


開山塔、前庭(龍渕水の庭)



開山塔、前庭(龍渕水の庭)





境内に広がるアカマツの林、般若林といい、かつては学林寮、仏殿、山門などがあり、江戸時代、1788年の天明の大火で焼失後は再建されていない。


経蔵


経蔵、宝珠


経蔵


フヨウ


浴室




浴室


浴室


浴室


浴室、蒸し風呂だが、かけ湯しながら入る。常の立ち振る舞いも行とされる。「威儀即仏法」による。


浴室


鐘楼


鐘楼


鐘楼




鐘楼、組物


鐘楼、袴腰と壇の部分






天界橋と放生池(功徳池)


放生池(功徳池)、ハス
 相国寺(しょうこくじ)は、4万坪(132231.4㎡)の境内が広がる。古代、この地には、出雲氏一族の住む出雲郷があり、現在の出雲路橋付近、鴨川の西を上出雲郷(雲上里)、東は下出雲郷(雲下里)といった。
 足利将軍家ゆかりの禅寺であり、寺号の「相国」とは中国語で大臣(宰相)の意味という。また、京童の囃子歌では、「相国寺の声明面(しょうみょうづら)」と称され、独特の節回しの梵唄が寺に伝えられている。 
 山号は万年山、正式には相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)という。
 臨済宗相国寺派大本山、本尊は釈迦如来。
 山外塔頭に鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、真如寺の3寺がある。山内塔頭は瑞春院など12寺。全国に末寺が100余りがある。
 神仏霊場会第99番、京都19番。京都五山の第二位。
◆歴史年表 室町時代、1382年、室町第花の御所東の現在地に建立された。発願、開基は3代将軍・足利義満による。勧請開山はすでに没していた夢窓疎石とし、資寿院を建て開山塔にした。事実上の開山は、2世として天龍寺の春屋妙葩(しゅんおく  みょうは)による。春屋の命名により、当初は「万年山承天相国寺」と称した。釈迦三尊像(釈迦、文殊・普賢菩薩)を安置した。当初の境内は144万坪(東は寺町通、西は大宮通、南は一条通、北は御霊神社)を有していたという。仏殿、法堂の立柱、以後、10年に渡り伽藍の造営が続けられる。
 1383年、義堂周信の勧めにより、寺名を「相国承天禅寺」に改める。(『空華日用工夫略集』同年条)。「相国」とは太政大臣を意味し、義満の位に因む。「承天」は、第100代・後小松天皇の意を受け承り創建されたことを意味した。当時の総門は一条通に面し、義満の室町第の一部をなしていた。寺領が定まり、寄進状が与えられる。2世・春屋が住持として入る。
 1384年、大仏殿立柱となる。(『空華日用工夫略集』同年条)。山号を万年山、寺号を相国承天にする。
 1385年、義堂を導師として仏殿に本尊・毘盧遮那仏、普賢菩薩、文殊菩薩を安置し、法要が行われる。(『空華日用工夫略集』同年条)
 1386年、義満は、宗教の統制と支配のために義堂と相談し、京都五山を制定し寺格を定める。相国寺は第2位になる。(『扶桑五山記』・「円覚寺文書」)。三門立柱、上棟される。3世・空谷明応が入る。
 1388年、僧堂が落慶になる。
 1390年、七間の八講堂が完成した。南面に金箔が貼られていたともいう。(『蔭凉軒日録』)。足利尊氏の三十三回忌仏事が修される。
 1391年、1392年とも、法堂(法雷堂)が竣工される。
 1392年、10年の歳月をかけて諸堂が整う。落成供養が執り行われ、導師は3世・空谷明応が務める。五山十刹の住持が参列した。(『相国寺供養記』)。6世・絶海中津が入る。
 1393年、大塔立柱となる。
 1394年、9月24日、本坊(直歳<しつすい>寮)より火が出て全山焼失している。(『大乗院日記目録』、同年の条)。足利義満は八講堂で、父・義詮の三十三回忌法要を執り行う。
 1395年、仏殿、開山塔の立柱が行われる。義詮忌、法華八講を修す。
 1396年、法堂など伽藍再建され、仏殿(三世如来殿)供養となる。(『相国寺諸回向并疏』)
 1399年、1401年とも、足利義満は父・義詮三十三回忌追善供養のため、京都随一の高さを誇った七重大塔(107m、110mとも)を境内東方の寺域外に建立した。塔内に大日如来、両界曼荼羅を表す仏像が安置されていた。導師は青蓮院尊道、呪願は仁和寺永助、千僧供養には延暦寺400人、興福寺300人、園城寺100人、東寺100人、東大寺100人の僧が出仕し、塔上より花弁(散華)が撒かれた。(『相国寺塔供養記』『薩戒記』)
 1401年、足利義満により京都五山の第1位になる。法堂が完成する。
 1403年、七重大塔は落雷により焼失した。(『兼宣卿記」)
 1404年、足利義満は七重塔の再建を決め、立柱の儀を行う。(『「吉田家日次記」同年条、「『大乗院日記目録』同年条)
 1405年、方丈、蔵殿が落成となる。13世・在中が入る。
 1407年頃、伽藍が復興される。三門が落成になる。五山第2位に復する。
 1410年、京都五山の第2位に戻される。
 1416年、七重塔が暴風雷雨により焼失したという。(『看聞日記』)
 1418年、法界門、薬師堂などが焼失する。(『看聞日記』)
 1425年、塔頭・賢徳院より出火し、塔頭などの多くが焼失した。(『薩戒記』)。足利義持は仏殿再建を始める。(『看聞日記』)
 1431年、足利義教により再興が始まる。大仏殿立柱になる。
 1436年、仏殿が再興され、釈迦三尊を安置した。僧堂が完成する。
 1438年、法堂が完成する。
 1440年、三門が落慶法要となる。
 1441年、足利義教は鹿苑院に参詣、蔭凉僧録に命じ「相国寺十境」を定める。
 1458年、足利義政による再興が続く。
 1463年、法界門などが落成される。この頃、寺域は南は一条、北は上御霊神社、東は寺町、西は大宮に達した。
 1466年、比叡山僧兵と京極入道の兵火により、鹿苑院塔、南門、蔭凉軒東門、鎮守堂などが焼失した。
 1467年、10月、応仁・文明の乱(1467-1477)の際には、境内が東軍・細川勝元方の陣地となる。西軍は寺内の密通者に火を放たせる。西軍・山名宗全方による攻撃があり、惣門近く、蓮池付近で激しい戦闘になる。(『応仁記『続史愚記』)。三門などが焼失した。
 1468年、開山塔が再建される。崇寿院と改められる。
 1470年、1467年とも、七重大塔が落雷(戦乱とも)により焼失したともいう。その後再建されることはなかった。
 1473年、足利義政の再興が始まる。
 1478年、法堂、山門が再興される。仮仏殿が立柱となる。浴室が初開きとなる。
 1490年、足利義政が亡くなり、大徳院を影堂として慈照院に改める。
 永正年間(1504-1551)、復興された。
 1551年、天文法華の乱で、三好長慶の家臣・松永久秀は、相国寺に陣を敷いた管領・細川晴元の武将・香西元盛、三好政勝軍と門前で戦い、寺は全焼失した。(『厳助往年記』)
 1553年、方丈再建の地鎮祭が行われる。
 1569年、織田信長の庇護の下、所領からの地子銭が納められる。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、朱印寺領1762石1斗あまりを有した。
 安土・桃山時代、1574年、茶会が開かれ、松井友閑、千利休、今井宗久、津田宗及らが集い、織田信長は方丈で点前を披露した。(「『津田宗及茶湯日記」)
 1582年、長谷川等伯が「竹林猿猴図」屏風を作成したとみられる。
 1584年、相国寺中興の祖となる92世・西笑承兌(せいしょうじょうたい)が入り、以後復興される。
 1596年、浴室が再建される。
 1598年、西笑は、豊臣秀吉追善のために豊光寺を創建する。
 江戸時代、1603年、圓光寺(旧伏見学校)は相国寺の境内に移された。
 1605年、豊臣秀頼により現在の法堂が再建された。
 1609年、徳川家康の寄進により、三門が建立される。
 1615年、幕府は五山十刹諸山之法度を発した。鹿苑僧録職が廃され、以後、南禅寺金地崇伝に代わられた。
 1620年、類焼により方丈、開山塔が焼失する。圓光寺も焼失している。
 1623年、圓光寺は大名・細川忠利により縮小して再建された。以後、相国寺と圓光寺の間に寺地を巡る対立があった。
 1631年、第108代・後水尾天皇により再建される。旧殿を移築し、方丈とした。
 1645年、庫裡(香積院)が再建される。
 1654年、1653年とも、後水尾天皇により三層宝塔が再建される。
 1666年、後水尾上皇は開山塔を再建する。
 1667年、圓光寺は幕命により、沢雲住持の時、愛宕郡修学院村に移転している。
 1680年、仏師法橋了無は、無学祖元木像、高峰顕日木像を造り、開山塔に安置する。
 1682年、寺域東西4町、南北6町に及ぶ。
 1765年、伊藤若冲は「釈迦三尊像」、「動植綵絵」を相国寺に寄進する。
 1768年、東本願寺門跡光遍上人が、若冲筆の「動植綵絵」一覧を相国寺に申し入れ許可される。
 1783年、日光准皇后宮公遵法親王が伊藤若冲筆の「動植綵絵」」を観覧した。
 1788年、天明の大火で多くの伽藍を焼失している。法堂は、廊下を破却し類焼を免れた。浴室も焼け残る。
 1797年、総門が再建される。
 1802年、恭礼門院旧殿を開山塔として再建する。方丈、庫裡再建になる。
 文化年間(1804-1817)までに伽藍が再建される。現在の寺観が整えられる。
 1807年、現在の方丈、庫裏が再建される。
 1808年、閣懺法が方丈で行われるようになる。
 1818年、僧堂が完成した。
 1819年、原在中の方丈襖絵が完成する。
 1820年、僧堂が開かれる。大通院を僧堂常在にあてる。誠拙周樗を師家とした。
 1843年、鐘楼が落成となる。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、塔頭の統廃合、寺領の上知などが行われ、7万坪の寺領は2万5000坪に減じた。
 1870年、独園承珠が126世・相国寺住持になる。
 1876年、相国寺派総本山として独立している。
 1889年、伊藤若冲の「動物綵絵」を皇室に献納する。その際の1万円の下賜金で、1万8000坪の寺領を買い戻した。
 現代、1984年、承天閣美術館が開館する。
 2004年、境内北東に、鴨川上流の水を送っていた「禁裏御用水」跡が発掘された。
 2007年、承天閣美術館の新展示室が完成する。
◆春屋妙葩 鎌倉時代-南北朝時代の臨済宗の僧・春屋妙葩(しゅんおく みょうは、1311-1388)。国師号は知覚普明など。七朝の国師と称され、7代の天皇に国師号を贈られた。甲斐の生まれ。夢窓疎石の甥、1322年、甲斐・慧林寺の道満につく。1325年、得度、1326年、南禅寺住持の夢窓のもとで登壇受戒。夢窓に従い鎌倉の浄智寺・瑞泉院(後の瑞泉寺)に移る。1327年より、鎌倉・浄智寺の元の渡来僧・竺仙梵僊に師事、鎌倉・円覚寺に赴く。1334年より、竺仙の書状侍者、1335年、京都の夢窓に参じた。1336年、南禅寺・元の渡来僧・清拙正澄に梵唄(声明)を学んだ。1345年、天龍寺・雲居庵主、夢窓により春屋の号を受け印可を得た。1357年、等持寺に住した。1351年、夢窓没後、無極志玄につき、1359年、その没後は同派領袖の一人となる。1363年、天龍寺に住した。1368年、南禅寺山門破却事件で延暦寺と対立、管領・細川頼之の裁定に反発し、強硬派の春屋一派は朝廷、幕府に抗議したため、春屋らは丹後・雲門寺に10年間隠棲する。1379年、頼之失脚後、天龍寺・雲居庵、南禅寺住持に戻り、足利義満の外護により禅宗最高要職・天下僧録司に任じられた。宝幢寺住持、寿塔を建て鹿王院と名付ける。1382年、天龍寺再住。1384年、義満創建の相国寺勧請開山を夢窓とし、自らは2世に就く。鹿王院で亡くなり、当院に葬られる。相国寺・大智院にも分葬された。
 『夢窓国師年譜』などを著す。五山版の祖録、外典など出版事業に業績を残した。
◆義堂周信 鎌倉時代-南北朝時代の僧・義堂周信(ぎどう しゅうしん、1325-1388)。土佐に生まれる。7歳で松園寺・浄義に学び、14歳で剃髪、翌年比叡山に上り受戒した。1341年、禅宗に帰依し臨川寺の夢窓疎石に師事、周信と称した。後に法嗣となる。法兄・方外宏遠に学ぶ。1351年、師没後、建仁寺の臨済宗黄竜派・竜山徳見に参じた。1359年、法兄・春屋妙葩の命により、関東公方・足利基氏の招請に応じ鎌倉に下り、基氏、氏満父子の教育係、上杉朝房、能憲の帰依を受ける。石室善玖、中巌円月、不聞契聞を知り、常陸・勝楽寺、鎌倉・善福寺、瑞泉寺、円覚寺・黄梅院などの住持、報恩寺開山。1380年、3代将軍・足利義満の召還により帰京、義満庇護により相国寺建立を進言、建仁寺、等持寺に住した。1385年(1384年とも)、南禅寺、南禅寺・慈氏院、上生院、常在光院などに住した。南禅寺・慈氏院に退隠し、塔された。
 中国文化に通じ、中巌円月、絶海中津と並び五山文学の代表、絶海とは双璧とされた。日記『空華(くうげ)日用工夫略集』、『重編貞和類聚祖苑聯芳集』を編じた。 
◆絶海中津 南北朝時代-室町時代の臨済宗の僧・絶海中津(ぜっかい ちゅうしん、1336-1405)。仏智広照国師、浄印翊聖国師。土佐の津野氏に生まれた。1348年天竜寺の僧堂になる。西芳寺の夢窓疎石に師事し剃髪、1350年、春屋妙葩に従う。1351年、具足戒を受け大僧になる。1388年、春屋没後、1353年、建仁寺・竜山徳見、大林善育、放牛光林参じ、1364年、報恩寺・義堂周信、建長寺・青山慈永、大喜法忻に参じた。1368年、入明、杭州・中天竺山・季潭宗ろくなどに参じ、1376年、皇帝・洪武帝に謁した。1378年帰国、1379年、天竜寺・性海霊見に参じ前堂首座、1380年、甲斐・恵林寺、1383年、相国寺・鹿苑院、1384年、摂津に隠棲する。1385年、有馬・牛隠庵、阿波・普済院に住し、大雄山宝冠寺を開く。足利義満に呼び戻され等持寺に住した。1391年、等持院、相国寺、1397年、相国寺再住、1441年、相国寺三住。
 足利義満の帰依を受けた。僧録に就く。義満の明との勘合貿易に際し国書を起草、義満が明の冊封を受けた文書を起草する。五山文学者、詩僧といわれ、詩文集『蕉堅稿』、『絶海和尚語録』などがある。
◆足利義満 南北朝時代-室町時代の室町幕府第3代将軍・足利義満(あしかが よしみつ、1358-1408)。2代将軍・義詮の子。 母・紀良子は石清水八幡宮検校善法寺通信の娘、順徳天皇の玄孫に当たる。1366年、後光厳院より義満の名を賜り改名した。従五位下に叙する。1367年、10歳で将軍職を継ぎ、朝廷内で権力を振い、天皇祭祀の形骸化を謀る。地方の有力守護大名を弾圧し権力を掌握、公武権力共に手にする。1377年より、「花の御所」の築造を始める。夫人・日野素子が女児を産む。その後、亡くす。1378年、室町の「花の御所」に幕府を移す。権大納言に任ず。従二位。1380年、従五位。1381年、内大臣。1382年、左大臣、相国寺を建てた。1383年、源氏長者になる。奨学院、淳和院別当。准三后の宣下を受けた。1384年、右大臣を辞す。1390年、土岐康行の乱により土岐を滅ぼす。1391年、明徳の乱で幕府への反乱を撃破する。1392年、勢力の衰えた南朝を吸収し南北朝を合一、全国統一した。相国寺を建立している。1394年、義持に将軍職を譲り隠居する。実際には太政大臣として政治上の実権を握り続ける。義教誕生。1395年、出家して東大寺で受戒。道義と号した。1398年、北山第を立柱、1399年、大内義弘の謀反を鎮圧した。1401年、北山文化が盛んになり、明の倭寇取締。1402年、明の使僧を北山第に引見する。1403年、明帝より朝貢貿易上の「日本国王源道義」の詔書を受け取る。 1404年より、明との勘合貿易を再開した。北山に大塔建立を計画する。1405年、日野業子が亡くなる。1407年、日野康子を北朝第6代・第100代・後小松天皇の准母となす。1408年、北山第に後小松天皇を迎え、子・義嗣を親王とした。自らの上皇位を目前に急死した。病死とも、暗殺ともされる。
 相国寺建立に際しては、3度にわたり自ら「もっこ」を担いだといわれている。臨川院の位牌には「鹿苑院太上(だいじょう)法皇」、相国寺過去帳には「鹿苑院太上天皇」と記されている。義満の、君主の地位を奪取する皇位簒奪(こういさんだつ)とする見方もある。没後、朝廷は「太上天皇」の称号を贈る。だが、幕臣会議で辞退となり一日太上天皇に終わる。等持院で火葬され、鹿苑院に葬られた。
◆西笑承兌  室町時代-江戸時代の僧・西笑承兌(せいしょう じょうたい、1548‐1608)。山城に生まれた。豊臣秀吉、徳川家康の政治顧問として重用され、寺社行政、外交に関わった。1584年、相国寺の住持となり、多くの寄進が相次ぎ、中興の祖となる。鹿苑院に入り僧録となる。梵唄に優れた。
◆三要元佶 安土・桃山時代-江戸時代の臨済宗の僧・三要元佶(さんよう げんきつ、1548-1612)。閑室(かんしつ)元佶。肥前国に生まれた。父は野辺田伝之助、晴気城主・千葉胤連ともいう。幼少で円通寺で得度、金庭口菊に師事、その法嗣。足利学校の九華老人・玉崗瑞與に学ぶ。1587年、足利学校の9代庠主となる。1591年、小田原の後北条氏滅亡に伴い、豊臣秀次に従い京都に移る。1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川家康の陣中に随行し、易の占筮によって功績をたて、南禅寺の坐公文(いなりくもん、入寺せずに官銭を得る)を得た。1601年、家康の建立した伏見・円光寺の開山、学校の主宰。1603年、家康の命により円光寺は相国寺に移る。三要は寺社訴訟など政務を行う。1609年、家康建立の駿府・円光寺に移る。佐賀・三岳寺の開山。駿府・円光寺で亡くなる。
 四書五経に通じた。家康に与えられた木活字により慶長古活字本の伏見版を手がけた。帰依した家康には禅、政治諮問、武術兵法も授けた。金地院崇伝、西笑承兌、板倉勝重らとともに、寺社奉行、行政訴訟、朱印状の事務取扱、外交文書起草の任にも関わる。
◆長谷川等伯 安土・桃山時代-江戸時代の画家・長谷川等伯(はせがわ とうはく、1539-1610)。長谷 川派の祖。能登畠山家家臣・奥村家に生まれた。染め物屋を営む長谷川宗清の養子となる。義父から絵を教わる。雪舟門弟・等春の弟子・宗清に学び、1564年、信春(しんしゅん)と称し、熱心な法華信徒として仏画「十二天像」を描く。1571年、本法寺を頼り、妻・妙浄、子・久蔵と共に上洛、狩野永徳に入門するが後に出る。千利休、本法寺10世・日通、大徳寺・春屋宗園らと親交を結ぶ。大徳寺塔頭・三玄院事件により世に認められ、長谷川派は狩野派に拮抗した。1590年、仙洞御所対屋障壁画を、京都所司代・前田玄以は等伯に描かせようとする。だが、永徳は勧修寺晴豊によりこれを覆した。1590年、その永徳は急逝する。1591年、等伯は秀吉が愛息を弔うために建てた祥雲寺障壁画を手掛け、派を確立した。1599年、亡き子・久蔵菩提のために「仏涅槃図」を完成させた。「自雪舟五代」と署し、雪舟画系であるとした。1604年、法眼に就く。1610年、家康に招かれ江戸に着き亡くなる。
 狩野派とともに、1589年頃、大徳寺にある南宋の牧谿(もっけい)の絵に多大な影響を受け、相国寺に「竹林猿猴図屏風」がある。水墨画の最高傑作といわれる1593年頃の「松林図屏風」 (東京国立博物館蔵)は、子・久蔵の死を乗り越えて描いた下絵とされる。
◆大典顕常 江戸時代の臨済宗の僧・大典顕常(だいてん けんじょう、1719-1801)。梅荘顕常。近江国の儒医の子。8歳で黄檗山に入る。11歳で臨済宗に改め、相国寺・慈雲庵で得度した。慈雲庵住持になる。1752年頃、伊藤若冲と知り合い、若冲を支援した。41歳で病により退隠、1772年、相国寺に戻る。朝鮮修文職に任じられる。1767年、若冲と淀川を下る。1779年、相国寺113世。黄檗僧・大塩に文学を学ぶ。「京都禅林中最高の誌僧」といわれた。『昨非集』を著す。
 若冲の号も名付けたという。「大盈(たいえい)は若冲(むなしきがごとく)も、其の用は窮(きわ)まらず」(『老子』)
◆伊藤若冲 江戸時代の画家・伊藤若冲(いとう じゃくちゅう、1716-1800)。京都・錦小路の青物問屋「桝屋(ますや)」に生まれた。1738年、父没後、4代当主・桝屋(伊藤)源左衛門を襲名した。1751年頃、宝蔵寺に父母の墓をたてる。1752年頃、相国寺の僧・大典顕常より、若冲の居士号を与えられる。大典は若冲を支援した。萬福寺の中国僧・伯珣照浩とも交流した。1755年、40歳で家督を弟・宗巌に譲り、隠居し作画に入る。1758年頃、「動植綵絵」連作着手。1759年、鹿苑寺大書院障壁画を制作する。1760年、売茶翁が「動植綵絵」を絶賛し、一行書を贈る。1764年、金比羅宮奥書院上段の間に障壁画を描く。1765年、「動植綵絵」「釈迦三尊像」を相国寺に寄進(1770年に寄進完了)、相国寺と永代供養を契約した。宝蔵寺に亡弟の墓を立てた。1773年、萬福寺で道号「革叟」を授かる。1766年、相国寺に寿蔵(寿陵)を建てた。1767年、大典と舟で淀川を下り、拓版画「乗輿舟」制作。1768年、『平安人物誌』に大西酔月、円山応挙に次いで3番目に若冲の名が載る。1774年、若冲らが奔走し、錦市場の再開が許される。1776年頃、石峰寺五百羅漢の石像を制作を開始する。1788年、天明の大火で家を焼かれた。1790年、大坂・西福寺に襖絵「群鶏図」を描く。1791年(1790年とも)頃より、石峰寺の門前に草庵「斗米(とべい/とまい)庵」を結び、深窓真寂禅尼(心寂、末弟・宗寂の妻)と住んだ。斗米翁とも号した。名の由来は、米一斗(14kg)の謝礼で、墨画を描いたためという。一時、相国寺・林光院に住した黄檗宗・売茶翁(月海元昭)が、茶を売り一日の糧を得ていた逸話に倣ったものという。1798年、石峰寺の観音堂に天井画「花卉図」を遺す。1800年、石峰寺に土葬され、相国寺で法要が行われた。
 商いに興味を抱かず、妻帯肉食を拒み、狩野派、中国宋元画、清国・南蘋派に学ぶ。障壁画、画巻、水墨画、木版、拓版画に及び、花鳥、特に鷄の写生に専念する。その画風により「奇想の画家」といわれた。石峰寺境内に墓がある。相国寺には生前墓の寿蔵がある。
◆誠拙周樗 江戸時代中期-後期の臨済宗の僧・誠拙周樗(せいせつ しゅうちょ、1745-1820)。伊予国生まれ。鎌倉円覚寺仏日庵の東山周朝に師事し、その法嗣、1783年、円覚寺前堂首座。1820年頃、相国寺に移り、当寺は一時、関山派古月下の禅になる。和歌を香川景樹に学び、歌集に「誠拙禅師集」がある。号は無用道人。諡号は大用(だいゆう)国師。著作に「忘路集」。
◆独園承珠 江戸時代末期-近代の僧・独園承珠(どくおん しょうじゅ、1819-1895)。備前国に生まれた。8歳で叔父の掌善寺・泰宗につく。18歳で豊後・帆足万里門下となる。23歳で上京し、相国寺・大拙承演に参じた。1855年、塔頭・心華院(大光明寺)、1870年、126世・相国寺住持になる。
 1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈に対し、臨済、曹洞、黄檗三宗の総管長となる。1872年-1875年、教部省が設置した神仏合併の大教宣布運動のための教導職道場・大教院(東京芝増上寺内)の教頭に就く。高知に退耕庵(国清寺)、鹿児島に相国寺鹿児島別院(南洲寺)を開いた。塔頭・豊光寺で没した。
◆相国寺 相国寺の寺号は春屋妙葩により名付けられた。「相国」とは、北宋の開封の皇帝の寺、相国寺に因んでいる。また、左大臣・足利義満の唐での官職名「相国」による。国を相(たす)ける宰相、太政大臣、左大臣という意味がある。
 学僧・義堂周信により、「相国承天禅寺」と名付けられた。これは、100代・後小松天皇の意を受け、帝に奏上し承ったことを意味している。新しい寺建立について奏上し、天皇から思し召しを承るの意味がある。
◆仏像・木像 鎌倉時代の仏師・運慶作という本尊の「釈迦如来坐像」は、結跏趺坐禅定印を結ぶ。脇侍は向かって左に「阿難(あなん)尊者像」、右に「迦葉(かしょう)尊者像」。
 開山塔には、室町時代作の曲ろく法被姿の「夢窓疎石像」がある。なで肩の「夢窓肩」で知られている。ほかに、「無学祖元像」、「春屋妙葩像」、「足利義満僧形像」を安置する。
 法堂に江戸時代、1653年、京仏師・吉野右京藤原種久作の「夢窓疎石像」が安置されている。
◆建築 伽藍配置は南から勅使門、方丈池がある。さらにかつては三門、仏殿があったが、いまは空地になっている。その北に法堂、方丈が直線状に建ち並んでいる。
 室町時代、1399年(1401年とも)、京都随一の高さを誇った「七重大塔」(109m)が境内東方に建立されている。平安時代の白河院の法勝寺(ほっしょうじ)、八角九重塔を意識しており、初重に大日如来、金剛界の五仏、二重に胎蔵界大日如来、扉に二十四天像が描かれていた。だが、2年後に失火、1403年に落雷により焼失する。その後、北山第に移されたという。再び相国寺に再建され、1467年(1470年とも)、戦乱により焼失し、その後再建されることはなかった。現在跡地には、東門前町に上・下塔之段という地名のみが残る。ちなみに毘沙門町、裏風呂町もそれぞれ毘沙門堂、浴室の旧跡地になる。なお、町田家本「洛中洛外図」の俯瞰図はこの塔から見渡した景観であるともいう。
 
「法堂(はっとう)(雷音堂、いまは無畏堂、本堂)」(重文)は、当初の建物は室町時代、1392年に建立された。現在の建物は江戸時代、1605年、豊臣秀頼の寄進による。建物は4度焼失し、過去に5度再建されている。現存する法堂としては日本最古であり、京都五山禅院中最大になる。須弥壇中央に本尊の釈迦如来像、脇侍の阿難、迦葉(かしょう)、2世・大津櫪堂老師木像を安置する。「祖師堂(達磨、臨済、百丈、夢窓)」、「土地堂(大権修利菩薩)」などの壇もある。鏡天井(高さ10.79m)には、狩野光信筆の「蟠(ばん)龍図」が描かれている。堂内で手を叩くと音が反響し「鳴き龍」といわれている。裳階のため単層入母屋造の唐様、禅宗様建築、桁行5間、梁間4間、正面28m、側面22m、高さ22m。単層切妻造、本瓦葺の玄関廊付。上層の軒の斗栱(ときょう)は詰組。中央5間に桟唐戸、両脇に花頭窓。
 「方丈」は、江戸時代、1807年に建立された。張即子の扁額がある。室内は六間取、室中に遠塵斎(加藤信清)(1734-1810)筆「観音菩薩画像」が掲げられている。線は法華経経文によって描かれている。単層入母屋造、桟瓦葺、14間9間。桁行25m、梁間16m。
 「勅使門」は、安土・桃山時代から江戸時代、慶長年間(1596-1614)創建という。一間一戸の四脚門。
 
「唐門」は、江戸時代、1841年に建立された。一間一戸の四脚門。屋根は唐破風。門の奥に書院がある。
 総門は、江戸時代末期建立。薬医門。
 「開山塔(円明塔)」は、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失し、江戸時代、寛文年間(1661-1673)に再興された。だが、1788年の天明の大火で焼失した。1807年の移築により再興されている。第116代・桃園天皇皇后・恭礼門院(きょうらいもんいん、1743-1796)旧殿(黒御殿)が移され、仏堂とした。恭礼門院が住した旧殿の女院御所(京都御所南西)は、後に賀陽宮家の邸宅となる。当初は資寿院と号した。室内中央に「圓明」の額が掛かる。西の壇に勧請開山・夢窓国師石像、夢窓疎石の師・高峰顕日像、開山・春屋妙葩像、開基・足利義満像を安置する。円山応挙の絵がある。前庭にはかつて水が流れ、今出川の一部だった。「龍渕水」と呼ばれる。5間4間。礼堂、祠堂、南正面に広縁、落縁、縁高欄付。
 「鐘楼」は、江戸時代、1844年(1843年とも)再建された。「洪音楼(こうおんろう)」「袴腰付鐘楼」ともいわれ、花崗岩の壇上に建つ。和様と禅宗様(唐様)の折衷様であり、大型の建物として有数という。鐘は、江戸時代、1629年に鋳造された。
 「僧堂」は、塔頭・大通院内にある。もとは大通院宮栄仁親王菩提所の元伏見大光明寺にあったものが、江戸時代に移築された。
 「経蔵」は、120世・盈冲和尚の寄進により、江戸時代、1860年に落成、「高麗版一切経(宋版も含む)」が納められている。
 
「浴室」は、室町時代、1400年頃に創建された。安土・桃山時代、1596年の再建による。2002年に復元された。格式高い寺の浴室であることから「宣明(せんみょう)」と呼ぶことが許されていた。
 「庫裏」、「宗務本所」、「台所(香積院、こうしゃくいん)」は、江戸時代、1807年の再建による。切妻造。
 「弁財天社」は、江戸時代、1676年に当初は京都御苑内久邇宮邸に鎮守社として建立された。1880年、宮家の東京移転に伴い、相国寺の独園が朝彦親王の寄進を受けた。その後、1885年に山内の現在地に遷された。2007年、京都府指定有形文化財に指定されている。2013年、解体修理が施された。
 「承天閣美術館」は、1984年に開館になった。国宝、重要文化財などを調査研究、展示している。
◆旧地 現在の境内地には、平安時代、最澄(767-822)開創といわれる出雲寺、鎌倉時代、法然(1133-1212)の開いた神宮寺(百万遍知恩寺)、円爾(えんに、1202-1280)の安聖寺が存在した。
◆僧録
 室町幕府でも、五山、十刹、諸寺の人事、訴訟などを統括する僧録司の制度が置かれ、1379年、春屋妙葩が南禅寺住持となり禅宗最高要職・天下僧録司に任じられた。やがて、臨済宗の最高機関として五山以下の諸寺を管轄し、外交にも関わった。相国寺塔頭・鹿苑院の絶海中津が僧録に任じられ、住持が兼務する鹿苑僧録、後に、蔭凉職が実務を握る。
 だが、江戸幕府の1615年、五山十刹諸山之法度制定以後は廃止され、幕府の直接支配となる。4年後、南禅寺の崇伝により金地院僧録が取って代わる。
◆五山 五山は、京都五山・鎌倉五山と呼ばれ禅宗(臨済宗)の主要寺院をいう。
 五山制度はインドに由来し、中国では五山、その下に十刹、35か寺の諸山が置かれた。日本では鎌倉時代末に、当初は鎌倉五山として採り入れられた。南北朝時代に京都の寺院も入るようになる。1341年に5か寺の定めが崩れ、1386年以降は、京都五山が鎌倉五山より優位に立った。室町時代に官寺の制度として確立した。1410年以降、京都五山の第1位は天龍寺、第2位は相国寺、第3位は建仁寺、第4位は東福寺、第5位は万寿寺、五山の「上」に南禅寺が置かれた。
 相国寺は、1401年に天龍寺と入れ替えられ第1位になる。1410年に第2位に戻されている。
◆五山文学 相国寺は五山文学の中心地だった。南北朝時代-室町時代、五山僧による漢詩文学が盛んになる。開山の夢窓疎石とその門下の学僧・義堂周信(1325-1388)、6世・絶海中津(1334-1405)、瑞渓周鳳(1392-1473)、景徐周麟(1440-1518)などの学僧、画僧で日本の水墨画の先駆・如拙(生没年不詳)、その弟子・周文(生没年不詳)、周文の教えを受けた雪舟(1420-1506)らが知られている。
◆対馬の輪番制  
江戸時代(1635-1866)、朝鮮通信使との接伴、文書の作成などを行った碩学僧侶が、南禅寺を除く五山の僧により、輪番(「以酊庵(いていあん)輪番」)で二人ずつ、二年毎に対馬に送られていた。
 相国寺塔頭・慈照院には、朝鮮通信使来日時の遺墨、絵画などの関連史料が残されている。
◆十坊住持制 住持の初代から5世・雲谿支山までは、門派にとらわれず実力によって住持を選ぶ「十坊住持制(じゅうぼうじゅうじ)」を採っていた。
 足利義満は6世・絶海中津を信頼し、夢窓派が継承する「徒弟院」に変えた。室町時代には、五山制度下でそれまで原則とされていた十坊住持制は形骸化していった。
◆東班 室町時代、五山には教学の専門家で住持に就くことができる「西班(せいばん)衆」と、寺院の経理や荘園経営など会計を専門に行う「東班(とうばん)衆」に分かれていた。これは、中国宋代の寺院機構を取り入れている。
 東班の最高位を「都聞(つうぶん)」、「都管(つうがん)」、その下に「都寺(つうす)」、「監寺(かんす)」、「副寺(ふうす)」、「維那(いのう)」、「典座(てんぞ)」、「直歳(しっすい)」の各役職を置き「東班六知事」と呼んだ。禅僧のことを「東班衆と総称した。
 相国寺の室町時代の画僧・天章周文は、雪舟の師であり、この東班衆のひとりだった。東班衆の中には、荘園経営に乗り出す庄子(しょうす)も出たという。
◆禅 B.C.5世紀、現在のネパールの釈迦は、菩提樹の下での坐禅により悟りを得た。6世紀前半、南インドの達磨大師は、これを中国に伝える。平安時代、宋より栄西は臨済宗と看話禅(公案を重視し、研究理解することで大悟に至る)を、鎌倉時代、道元は曹洞宗と黙照禅(座禅を重視し、無念無想となることにより悟りを得る)を日本に伝えた。
 臨済宗の公案禅は、師家が弟子に公案といわれる問題を出題し、坐禅の中でその答えを見出すことより悟りを得ようとした。江戸時代、臨済宗中興の祖・白隠は、公案の体系化を行っている。
◆鹿苑院 かつての相国寺の塔頭に鹿苑院があった。当山開基の足利義満の墳塔になっていた。南北朝時代、1382年に日野宣子の中陰道場として安聖寺で供養を営み、弁道所としたことを始まりとした。相国寺創建に伴い、安聖寺は聖寿寺に移され、跡地には小御所が建てられた。これを、1383年に鹿苑院と改めた。初代・院主は絶海中津(ぜっかい ちゅうしん)、その後も夢想派が継承し、僧録を兼帯、「鹿苑僧録」といわれた。焼失と再建を繰り返し、室町時代、1425年、1467年、1527年、1551年に焼失した。1576年-1585年、浄土宗・報恩寺の替地に当てられている。寺領など少なく、財政的な基盤は脆弱だったという。江戸時代、1615年、徳川家康は僧録を停止し廃した。以後、院主と僧録は分離し、最後の院主は54世・昕叔顕たく(きんしゆく けんたく) になった。
 室町時代-江戸時代の歴代院主の日記は「鹿苑日録」(1487‐1651)と称された。景徐周麟(けいじょ しゅうりん)、梅叔法霖(ばいしゅく ほうりん)、西笑承兌(さいしょう しょうたい)、有節瑞保(ゆうせつ ずいほ)、昕叔が書き、禅宗寺院のみならず、室町幕府の日明貿易、社会情勢なども記録された。
◆蔭凉軒・蔭凉軒主 寮舎「蔭凉軒(いんりょうけん)」は、鹿苑院の南坊にあった。1386年に足利義満(1358-1408)が鹿苑院内に心斎の室を開創したことを前身とする。この寮舎を義持(1386-1428)が継承し、応永年間(1394-1428)、「蔭凉軒」と命名したという。1425年、相国寺炎上に際し蔭凉軒も焼失した。1439年、義教(1394-1441)により再建される。1441年の嘉吉の乱(かきつのらん)で閉鎖され、1458年、再開した。応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失し、以後再建されなかった。その後は、在任中の蔭凉職の私寮舎を蔭凉軒と呼んだ。
 将軍の小御所であり軒主は将軍であり、留守職として鹿苑僧録司に属する近侍の禅僧が任じられた。最初は仲方中正が就く。次第に僧録司を凌ぐ力を有し、後に蔭凉職と呼ばれた。江戸時代、1615年に僧録司とともに廃されるまで続く。最後は蘭秀等芳になる。軒主歴代の日記「蔭凉軒日録」があり、前半を季瓊真蘂(きけい しんずい)、後半を亀泉集証(きせん しゅうしょう)が記した。
◆鳴き龍 法堂は、江戸時代、1605年、豊臣秀頼の寄進による。鏡天井(高さ12m/10.79m)に、絵師・狩野光信(1565/1561-1608)筆の「蟠(ばん)龍図(鳴き龍)」(1605)が描かれている。現存最古であり、光信最後の作品になった。直径9mの円内に逆遠近法で描いている。龍は仏法の守護神であり、水を司り火除の神でもある。
 堂内の須弥檀両脇、一定の場所に立ち下から手を叩くと、音が天井と床の間を複数回反響し、その残響音が龍の鳴き声であるかのように聞こえることから名付けられた。1秒間に約16往復した音(音速毎秒345m)は、最後に天井板(5cm)に吸収される。また、天井は一定の高さではなく、須弥檀両脇上部がそれぞれ周囲よりやや高くなった「むくり」構造(凹面)になっており、その下の二点でのみ集音され、反射している。
◆文化財 鎌倉時代、1297年の無学祖元墨蹟、紙片墨書「与長楽寺一翁偈語(ちょうらくじいちおうにあたうるのげご)」(国宝)は、禅林墨蹟の傑作という。仏の教えを韻文調で記した。故事「撃竹大悟」を引く。上野国長楽寺住職・一応院豪に請われて書いた。唐代の禅僧・香厳智閑(1210-1281)が掃除している際に、小石が竹にぶつかる音で悟りを開いたという逸話に因む。
 夢窓国師墨跡「別無工夫」、普明国師墨跡「応無所住而生其心」、足利義満筆「放下便是」。
 室町時代の「二世春屋妙葩頂相」(重文)、中国浄慈寺の祖芳道聯の賛がある。室町時代の僧形の「開基足利義満画像」(重文)は禅宗頂相洋、法衣で椅子に坐している。室町時代の「足利義満坐像」。
 安土・桃山時代、16世紀後半の長谷川等伯筆、代表作の一つ紙本墨画金泥引「竹林猿猴図屏風」六曲一双(重文)(154×345㎝)は、竹林と木に遊ぶ手長の母子猿、枝にぶら下がる父猿を軟らかな表現で描く。大徳寺の中国の画僧・牧谿(もっけい)画に倣うが金泥も施され、徐々に独自性も垣間見える。猿家族の団欒の描写は牧谿にはない。
 絹本著色「釈迦三尊図」3幅は、伊藤若冲筆になる。江戸時代、1765年、伊藤家(亡父33回忌)と若冲自身の永代供養を願い相国寺に寄進される。色彩鮮やかな絹本著色「釈迦三尊図」(215×110.8㎝)は、東福寺の伝・張思恭筆「釈迦三尊図」の写しという。椅子に座る釈迦如来像のほか、右に緑の獅子に乗る文殊菩薩、左に白象に乗る普賢菩薩から成る。
 「開山夢窓疎石木像」(重文)。室町時代の絶海中津筆「十牛頌」(重文)は、足利将軍のために中国輸入の紙に書かれた。元時代の陸信忠筆「十六羅漢図」(重文)。画僧・周文筆「十牛図」。元時代の絶海中津賛のある「寒山行旅山水図」(重文)。室町時代の伝土佐行広筆「足利義満肖像」。室町時代の「足利義満坐像」。明時代の文正画といわれる「鳴鶴図」(重文)は絶海中津が持ち帰ったもので、狩野派、伊藤若冲に影響を与えた。明代、林良筆「鳳凰石竹図」(重文)。江戸時代の円山応挙筆「牡丹孔雀図」(重文、1771)、江戸時代の俵屋宗達筆・烏丸光広賛「蔦の細道図屏風」(重文)。長谷川宗也筆「龍虎図屏風」。吉山明兆筆「白衣観音像」は観音懺法の本尊として掛けられる。
 中国宋代に吉州窯で焼かれた「玳皮盞(たいひさん)天目散花文茶碗」(国宝)、安土・桃山時代の「古瀬戸天目茶碗」は、大光明寺に寄進された50個のうちの2つであり、多くは失われたという。室町時代の「古瀬戸丸壺茶入」には、箱表に小堀遠州の「七夕」の銘がある。江戸時代、伝・小堀遠州「東山殿唐物肩衝覚」。江戸時代の本阿弥光悦作「赤楽茶碗「加賀」(重文)はかつて裏千家4代・仙叟宗室が金沢で所持していた。
◆障壁画 
方丈襖絵は、室中に原在中筆「中国補陀洛山図」、竹の間に玉りん筆「竹の図」、梅の間に維明周たつ筆「老梅図」、御所移しの間に土佐派筆「吉野山桜」、聴呼の間に原在中筆「八仙人図」、琴棋画の間に原在中筆「琴棋画図」など。
 
伊藤若冲筆のものとしては、1984年に承天閣美術館に、鹿苑寺大書院にあった障壁画が移された。「松鶴図」。 
 1765年作、若冲筆の色彩鮮明な絹本着色「釈迦三尊像」(釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩)(各210.3×111.3㎝)がある。中国の張思恭の作品を感銘を受けて模写した。
 1759年、若冲筆の大書院の襖絵は、相国寺113世・大典禅師(梅荘顕常)の推挙による。「大書院障壁画」(重文)50面のうち一の間「葡萄小禽図」(重文)は、葡萄の枝と虫食った葉まで描写されている。
 二の間に「松鶴図」(居士若冲の銘がある)、三の間「芭蕉叭々鳥図」は、大胆な余白のとり方をしている。ほかに一の間「葡萄図」、二の間「松鶴図」、三の間「月夜芭蕉図」、四の間「双鷄図」、四の間「秋海棠図」、四の間「菊鷄図」、狭屋の間「竹図」など。
 なお、「葡萄小禽図」は承天閣美術館新館第2展示室に常設展示されている。
◆若冲・動植綵絵
 江戸時代の画家・伊藤若冲は、相国寺の僧・大典顕常(後に113世住持、梅荘顕常)と親交があった。「若冲」の号も、大典が老子「大盈は沖しきが若きも、其の用は窮まらず(大いなる完成は、欠けているように見えるが、その働きは衰えない。」から与えられた居士号という。若冲作品が寺に伝わっている。
 若冲が10年の歳月を費やし、動植物を描いた代表作の「動植綵絵(どうしょくさいえ)」30幅(1758-1766)は、「山川草木悉皆仏性」を、観音経の「三十三応身」になぞらえて描いた。綿密な描写、画絹や絵具にも注意を払っている。裏彩色の効果も用いた。鳥、特に鶏(8幅)は、だまし絵の手法で描かれている。ほかに、魚介類、昆虫、草花が多種、濃密に色鮮やかに描かれた。売茶翁は「丹青活手妙通神」、色遣いは神業と称賛している。
 1765年、「動植綵絵」24幅、絹本著色「釈迦三尊図」3幅は、伊藤家(亡父33回忌)と若冲自身の永代供養を願い相国寺に寄進される。色彩鮮やかな絹本著色「釈迦三尊図」(215×110.8㎝)は、東福寺の伝・張思恭筆「釈迦三尊図」の模写になる。釈迦のほか、緑の獅子に乗る文殊菩薩、白象に乗る普賢菩薩になる。1766年に「動植綵絵」6幅が追加され、全30幅になる。若冲は、相国寺に寿塔を立てた。この年、絵公開の契機になったのは、住民の夢告により見つかった毘沙門天立像の法要のためだった。以後、法要「観音懺法会」に際して、方丈の間に「釈迦三尊図」、「動植綵絵」12幅が掛けられた。1766年の虫干しでは、「動植綵絵」24幅が、長谷川等伯の作品とともに公開された。1788年の天明の大火の際にも無事運び出されている。
 近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈により寺が窮乏に陥る。1889年に「動植綵絵」と寄進状、売茶翁の一行書は明治天皇に献納される。この時の下賜金1万円により境内は守られたという。現在、「動植綵絵」は宮内庁三の丸尚蔵館が蔵している。「釈迦三尊図」は相国寺に残る。
 境内に若冲の生前墓の寿蔵がある。かつては、塔頭・松鴎庵に立てたものという。遺体は石峰寺に埋葬され、四十九日の法要は相国寺で大典により営まれている。
◆護国廟 相国寺の鎮守社、護国廟には、室町幕府将軍足利家が源氏の流れをくむことから、その氏神の八幡神を祀っていた。(「扶桑五山記」)
◆宗旦稲荷社
 境内に宗旦(そうたん)稲荷社が祀られている。祭神は白狐神(陀き尼尊天とも)になる。正しくは、夕顔稲荷と呼ばれたという。寺鎮守、福神、吉凶予言、祟り示現稲荷、狐変化伝承になる。商売繁盛、開運、技芸上達の信仰がある。
 逸話がある。安土・桃山時代-江戸時代の茶人・千宗旦(1578-1658)は、塔頭・慈照院に茶室を建てた。披露の日、来客があり茶席の時間に遅れた。だが、茶室ではすでに客人が歓談している。宗旦が遅れた詫びを入れると、来客は不審な顔をした。宗旦はすでに点前を済ませ、いま帰ったばかりだという。
 その後も、同じようなことが続いた。宗旦はある時、その偽宗旦に問いただす。するとその茶人は、自分が境内の薮に住む白狐であること、日頃より宗旦宗匠の茶風に憧れ、その姿を借りて茶に親しんでいるという。また、ある時、偽宗旦は本人の前で点前を披露し、その正体が露見した。だが、宗旦は茶人の見事な点前に感心し、以後許し可愛がったという。(「喫茶余録」、1830年)
 幕末、狐は雲水に化けて僧堂で勉強した。この頃、僧堂の経営が成り立っておらず、狐は会計係に任じられ立て直したという。狐は、御所に度々出かけ、皆も狐であることを知っていたという。武者小路石井家には、庭に宗旦腰掛石があり、狐は囲碁が好きで夢中でやっていると思わず尻尾が出たという。狐は、源平合戦を見ていたといい、戦況を詳しく語ったという。ただ、勇士の顔は知らないと語ったという。
 お告げにより灸屋が繁盛したともいう。出町の豆腐店「丁字屋」(今出川通寺町東)が、宗旦狐のお告げにより経営が持ち直したともいう。主人は、狐が取ってきた蓮の葉を売って歩き、大豆を買って商売が続けられたという。老狐が死ぬ前日、門前の豆腐屋を挨拶に訪れ、主人は好物の油揚げでもてなしたともいう。ある時、狐は猟師に撃たれて死んだ。油揚げを盗み、野犬に追いかけられ井戸に落ちて絶命したともいう。豆腐屋がお礼に持参した(誤って揚げた)鼠の天麩羅を食べ、狐は忽ち神通力を失い老狐に化し、野犬に追われ、井戸に嵌りあえなく死んだともいう。碁仲間の豆腐屋に騙され、荒神橋で死んだともいう。
 人々はこの雅狐を手厚く葬った。幕末、伏見稲荷から神位を受け、慰霊のために境内の社に祀られたという。
 塔頭・慈照院には、宗旦造営という茶室「頤神室(いしんしつ)」があり、宗旦狐の軸が掛けられている。また、窓は狐が逃げ出した際に破ったため、修理を施し、少し大きくなったといわれている。
◆法然水・龍淵水 相国寺建立以前、この地には功徳院神宮寺という寺院があり、庭池には浄土宗開祖・法然も閼伽(あか)水に使った井戸があった。法然は、ここから加茂社に参詣した。その井戸は、今も「法然水」として残っている。寺は、知恩寺の前身となる。
 開山塔前庭には、かつて「今出川」の流れがあり、「龍淵水(りゅうえんすい)」と呼ばれていた。
◆禁裏御用水 2004年、境内北東の現在の承天閣美術館の地に、境内南にある御所に鴨川上流の水を送っていた「禁裏御用水」跡が発掘された。
 水路は、北から南へ走り、石組みはなく、幅約2m、深さ約1mあった。開削時期は桃山時代とみられている。禁裏御用水は、鴨川上流から2km引かれ、1912年に「御所水道」が完成するまで、御所の生活、防火、庭園用の多目的用水として使われていた。
 禁裏御用水の流路は、鴨川上流から相国寺境内を通り、今出川、近衛邸の池へ引かれていた。京都御所、京都御苑内では室町時代中期から、「御溝水(みかわみず)」と呼ばれる小川が流れていた。御溝水は、禁裏御用水の御所内での呼称で、京都御所、大宮・仙洞御所、京都御苑の周りを流れる小川のことをいう。
◆庭園 方丈南の前庭は、枯山水式庭園であり、白砂のみが敷かれ、「本来無一物」の世界とされている。西側築地塀沿いには赤松が一列に植えられ、白砂の中央には敷石道が北丈に向かっている。借景は山内の伽藍のみになっている。
 北の裏庭(裏方丈庭園)は、大がかりな枯山水式庭園になる。江戸時代、1783年の改作という。庭面は東西にあり、滝口からの流れが掘り下げた谷筋を流れ下る様を、敷き詰めた石で表している。手前は枯山水式であり、白砂、石による。苔、石組、植栽、背後の大規模な築山は自然の地形を利用し巨木の植栽がある。
 開山塔(堂)の前庭は、枯山水式であり、周囲を葛石により囲んだ長方形の庭面になる。一面に白砂が敷かれている。石が据えられ、松などの植栽、背後にも楓などの豊かな植栽がある。さらに塀の外の松などの高木、伽藍も借景に取り入れられている。白砂の表庭と周囲の裏庭(龍淵水の庭)が一体となった珍しい構成になっている。この裏庭は、室町時代作とされ『作庭記』にも記されている。作庭当初、鴨川から引かれた禁裏御用水(龍淵水)が蛇行しながら庭を通り抜け南の御所へと続いていた。龍には開山堂を守護する意味も含まれていた。現在も川の遺構があり、石組も残る。立石なども残されている。川の遺構は、表庭の外縁沿いに東より西へさらに庭園の南へと下っている。
◆茶室 室町時代、1398年、金閣寺古材で造られた茶室「夢中庵」がある。
◆鴬宿梅 境内にある塔頭・林光院に「鴬宿梅(おうしゅくばい)」がある。平安時代、天暦年間(947-957)、第62代・村上天皇の時、清涼殿の梅が枯れたため、紀貫之娘・紀内侍(きのないし)の家の梅を移植させた。すると、枝に「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ」の歌が結び付けてあった。天皇は深く恥じ、元の場所に戻したという。
 後世、室町時代、応永年間(1394-1428)、夢窓疎石が境内に林光院を創建した。その後、相国寺に移り、梅も移されたという。
◆塔頭 12院ある。慈雲院、慈照院、長徳院、豊光寺、大光明寺、瑞春院、養源院、普広院、玉龍院、光源院、林光院、大通院(専門道場、僧堂)。
◆後水尾天皇髪歯塚 江戸時代の第108代・後水尾天皇の毛髪や歯を納めた「後水尾天皇髪歯塚」がある。天皇は、1631年に旧殿を移し方丈とした。1653年に落髪の際の髪を柱心に納めた宝塔を建てた。後水尾天皇(1596-1680)は、後陽成天皇第3皇子であり、1600年に日親王宣下、1611年に即位した。1620年、将軍徳川秀忠の娘和子を女御として迎える。1629年、女一宮興子内親王(明正天皇)へ突然に譲位した。その理由は、天皇の病とともに、紫衣事件(1627-1629)、春日局参内への不満などによるとみられている。朝儀復興、宮廷文化、宮廷歌壇を確立した。泉涌寺月輪陵に葬られた。
 1653年、焼失した大塔再建の際に、出家落髪の髪と歯を上層心柱に納めた。1788年、天明の大火により焼失、その後、歯髪塚が建てられた。
◆桜塚 
墓地に「桜塚(さくらづか)」と呼ばれる五輪塔(90㎝)がある。平安時代末の公卿・藤原頼長(1120-1156)は、1156年、保元の乱で斬首された。これは、810年、平城太上天皇の変(薬子の変)以来の死刑執行になった。その頼長の墓(首塚)という。
 平安時代、白河北殿の東、現在の京都大学熊野寮の東南角(左京区川端通丸太町下る東竹屋町)には、「桜塚」と呼ばれる古塚があったという。宇治悪左府頼長(藤原頼長)の社旧地といわれた。(『拾遺都名所図会』巻2)。塚は、かつて、「左府(さふ)塚」と呼ばれたという。左府とは左大臣の唐名であり、転訛し桜塚になったともいう。
 近代、1888年、この地に第一絹糸紡績会社が創設され、工場に塚が取り込まれた。1902年、合同し絹糸紡績会社になる。1911年に鐘淵紡績に合併される。1907年に工場増築により塚を発掘すると、五輪塔の立つ塚の下に石棺らしきものが発見されたという。
 五輪塔は相国寺墓地に遷され、脇に経緯を記した副碑を立てた。
◆墓 墓地には、室町幕府8代将軍・足利義政、鎌倉初期の公家・歌人・藤原定家と並んで、江戸時代の絵師・若冲の墓もある。かつて、各塔頭にあったものが、第二次世界大戦後に並べて立てられたという。
 室町時代幕府8代将軍・足利義政(1436-1490)の墓は、塔頭・慈照院より遷された。宝篋印塔。
 鎌倉時代の公家・歌人・藤原定家(1162-1241)の墓は、塔頭・普広院にあった。普広院が冷泉家の宅地の一部を買収した縁による。地輪に宝篋印塔の基礎を用いている。花崗岩の五輪塔、高さ1m。
 江戸時代の絵師・伊藤若冲(1716-1800)の墓には「斗米庵(とべいあん)若冲居士墓」とある。
◆天界橋・放生池 
天界橋と放生池(功徳池、蓮池)では、室町時代、1551年の天文の乱(天文石橋の乱)の際には、橋を挟んで細川晴元、三好長慶が激突したという。天界とは、かつて池が門前にあり、橋が御所との境をなしていたためという。功徳池の功徳も、御所に接しているからという。
 池にいまは蓮が植えられている。
◆遺跡 承天閣美術館付近より、創建時の防御的な土塁(幅5m、高さ2.5m、外の溝幅2m、深さ1m)が見つかった。ほかに石列、井戸、土壙、溝、堀状遺構などがあった。
 隣接した同志社中学校では南北の溝、1551年焼却の際の瓦だめなどが見つかっている。
 承天閣美術館東付近より、7世紀半-後半の20棟の竪穴住居(一辺3-4m、9棟に竈、鉄滓、鍛造剥片)、8世紀の掘立柱建物1棟(梁間2間、桁行3間以上)、柵列跡2か所(柱間180cm、柱穴堀形1m四方)が検出された。これらは、上出雲寺、下出雲寺の造営に関わった工人の住居、工房跡と推定されている。
◆文学 1907年4月、夏目漱石は当寺を訪れている。『門』の中では、苦悩する主人公・野中宗助が級友に倣い当寺で参禅した。
◆映画 時代劇映画「女帝・春日局」(監督・中島貞夫、1990年、東映)の撮影が行われた。方丈は江戸城大奥に設定された。大姥局(草笛光子)はおふく(春日局)(十朱幸代)を乳母に取り立てようとする。民部卿の局(名取裕子)、おつめ(鳥越マリ)らが控えた。
 時代劇映画「赤穂城断絶」(監督・深作欣二、1978年、東映京都ほか)では、境内の宗旦稲荷付近が登場する。赤穂浪士を侍らが追い、橋本平左衛門(近藤正臣)に行方を尋ねる。
◆樹木 アカマツ林がある。
◆修行体験 維摩会(近代の相国寺住職126世・荻野独園禅師が在家を対象として始めた坐禅会であり、以来歴代住持が指導する。毎月第2・第4日曜日坐禅9:00-10:30、法話10:30-11:00、1月は第2日曜日、8月は第2・第4日曜日、休会は12月第4日曜日)。
 智勝会(居士の坐禅会、第2・第4日曜日9:00-11:00)。
◆年間行事 元旦祝聖(1月1日-3日)、臨済忌・百丈忌・西笑忌・独園忌(1月15日)、羅漢講式(1月18日)、常光忌(2月1日)、仏涅槃会・舎利会(2月15日)、大施餓鬼・講中斎(大方丈で布教師による説教、亡者回向)(3月彼岸)、春の特別拝観(3月24日-6月4日)、仏誕生会(法堂須弥檀中央に花御堂が据えられる。梵唄の中、浴仏偈を唱えながら行導する)(4月8日)、鹿苑忌・崇陽記(足利義満の命日法要)(5月6日/5月21日とも)、観音懺法(観音菩薩に自らの罪を懺悔する。声明・梵唄が唱和される。法堂に明兆筆白衣観音像、脇侍に伊藤若冲筆の普賢・文殊菩薩が掲げられる)(6月17日)、山門施餓鬼(8月1日)、後水尾天皇忌(8月21日)、斗米庵若冲忌(9月15日)、秋の特別拝観(9月15日-12月8日)、仏光忌(9月24日)、大施餓鬼(大方丈で布教師による説教、亡者回向)(9月彼岸)、普明忌(春屋妙葩の忌日法要)(10月3日-4日)、達磨忌(10月5日)、開山毎歳忌(開山・夢窓疎石忌では、法堂須弥壇に曲ロクに法被を掛けた疎石像が安置される。20日に宿忌、21日に半斎が行われる。献粥諷経、諸堂焼香、奠供十八拝、出斑焼香などが続く。妙心寺、大徳寺、南禅寺、建仁寺、東福寺、萬福寺重役が出頭し、西本願寺、百萬遍知恩寺の使僧が焼香する)(10月20日-21日)、仏国忌(11月21日)、臘八大接心(12月1日-8日)、仏成道会(12月8日)、冬至祝聖(12月21日)、除夜諷経(12月31日)など。
 開山忌(毎月1日)、維摩会(毎月第2・4日曜日)。特別公開は春(3月24日-6月4日)、秋(9月15日-12月8日)で、方丈、法堂、浴室が公開される。


*行事は日時内容変更中止の可能性があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都の五山寺院 その歴史と系譜』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『古寺巡礼京都 2 相国寺』『京都・山城寺院神社大事典』『拝観の手引』『歴史のなかの宗教 日本の寺院』『京都歴史案内』『足利義満と京都』 『別冊太陽 長谷川等伯』『日本の仏教を築いた名僧たち』『庭を読み解く』『相国寺』『京都古社寺辞典』『事典 日本の名僧』『京都秘蔵の庭』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『若冲の花』『若冲への招待』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都絵になる風景』『京の寺 不思議見聞録』『意外と知らない京都』『京都の寺社505を歩く 上』『京の怪談と七不思議』『お稲荷さんの起源と信仰のすべて 稲荷大神』『京都 神社と寺院の森』『稲荷信仰と宗教民俗』『週刊 京都を歩く 38 御室』『週刊 日本の美をめぐる 金と墨の 長谷川等伯』『週刊 古寺を巡る 47 相国寺』『週刊 仏教新発見 27 相国寺 金閣寺 銀閣寺』『週刊 古寺名刹巡礼の旅 10 洛北きぬかけの路』『週刊 日本の美をめぐる 34 竜安寺石庭と禅の文化』『週刊 古寺名刹巡礼の旅 42 御所界隈 京都』


  大光明寺〔相国寺〕     慈照院〔相国寺〕      瑞春院〔相国寺〕      慈雲院〔相国寺〕     養源院〔相国寺〕      光源院〔相国寺〕      長得院〔相国寺〕      普廣院〔相国寺〕     豊光寺〔相国寺〕      玉龍院〔相国寺〕      林光院〔相国寺〕      大通院〔相国寺〕     瑞春院〔相国寺〕      銀閣寺(慈照寺)       金閣寺(鹿苑禅寺)      京都御所     明光寺      真如寺〔相国寺〕       知恩寺       南禅寺     金地院〔南禅寺〕       天龍寺      志明院       石峰寺       圓光寺       応仁・文明の乱戦跡、西陣       錦市場      延暦寺・東塔(大津市)       法然水           

三門址

鐘楼

鐘楼、梵鐘

三門跡の礎石、石積み基壇もある。江戸時代、1788年の天明の大火により焼失し、その後は再建されていない。

仏殿跡の土壇、天文の乱以後、再建されていない。

ヒガンバナ

承天閣(じょうてんかく)美術館、相国寺、金閣寺、銀閣寺などの文化財を調査研究、収蔵展示している。1984年開館。


宗旦稲荷社、かつて境内に白狐が住んでいたという。狐は、茶人・千宗旦に化けてお点前を披露することを得意としていた。ある時、本人の前で披露し、その正体が露見したが、茶人は見事なお点前に感心し、以後可愛がられたという。狐は猟師に撃たれ、その慰霊のために社に祀られたという。

宗旦稲荷社

宗旦稲荷社

宗旦稲荷社

弁財天社、手水舎

弁財天社、手水舎

弁財天社

弁財天社

弁財天社、本殿、春日造 

八幡宮

八幡宮

八幡宮

八幡宮


後水尾帝歯髪塚

「後水尾天皇御歯髪塚」の石標

流水路

流水路

左から鎌倉時代の公家で歌人・藤原定家(1162-1241)、室町時代幕府8代将軍・足利義政(1436-1490)、江戸時代の絵師・伊藤若冲「斗米庵(とべいあん)若冲居士墓」(1716-1800)。かつては、各支院にあったものが、第二次世界大戦後に並べて葬られたという。

伊藤若冲、墓石の裏には詳しい経歴が書かれている。

禁門の変長州藩殉難者墓所

禁門の変長州藩殉難者墓所、「1864年の蛤御門の変(禁門の変)で薩摩藩士は長州藩士と戦い、長州の首20あまりをこの地に葬り塔を建てた。歳月を経て世の人も知る者も減る。明治39年(1906)、山口県人桂半助が偶然に塔を見つけ、毛利公爵に報告した。調べると葬られたのは29とも21ともいう。姓名も詳細も知ることができなかった。おそらく湯川庄蔵、有川常槌といった戦死者も含まれているだろう。公爵は塔を整備することを命じ、当寺に供養料を寄付、永く冥福を祈ることになった。相国寺住職東嶽、明治四十年(1907)」

平安時代末の公卿・藤原頼長の墓(首塚)(1120-1156)は、1156年保元の乱で斬首された。810年の平城太上天皇の変(薬子の変)以来の死刑執行となる。
平安時代、白河北殿の東、現在の京都大学熊野寮の東南角には、「桜塚」と呼ばれる塚があったという。宇治悪左府頼長(藤原頼長)の社旧地といわれた。(『拾遺都名所図会』巻2)。かつては左府(さふ)塚と呼ばれたという。左府とは左大臣の唐名であり、転化し桜塚(さくらづか)となったともいう。近代、1888年、この地に第一絹糸紡績会社が創設され、工場に塚が取り込まれた。1902年、合同し絹糸紡績会社となる。1911年鐘淵紡績に合併される。1907年工場増築により塚を発掘すると、塚の下に石棺らしきものが発見されたという。五輪塔は相国寺墓地に遷され、脇に経緯を記した副碑を立てた。

副碑

【参照】境内西に残る塔ノ段町、かつてはこの付近も境内であり、ここには室町時代まで京都で最も高い七重の塔が建てられていた。近年まで礎石が残っていたというが、現在は宅地になり遺跡は破壊されたという。

【参照】境内東に残る毘沙門町、ここには、毘沙門堂が建っていた。

【参照】法然水、相国寺の北(相国寺北門中之町)の住宅地にあるが、すでに水は涸れている。
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