養源院 〔相国寺〕 (京都市上京区)
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養源院 養源院 
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大川大明神



大川大明神
 相国寺境内の南西に塔頭・養源院(ようげんいん)がある。 
 臨済宗建仁寺派。本尊は薬師如来。
◆歴史年表 室町時代、曇仲道芳(どんちゅう どうぼう、1367-1409)は相国寺の常徳院内に隠居所、養源軒を建てる。
 1409年、曇仲道芳が亡くなり、長生軒(東山百万遍)に塔された。後に珍蔵軒と改名される。
 その後、曇仲の門人は常徳院内の旧隠居所に倣い、養源院と改名した。
 相国寺79世・横川景三(おうせん けいさん、1429-1493)は、曇仲道芳33回忌に東山養源院で香を焚き、その弟子になる。養源院を相国寺山内に移転し、2世に就いた。
 江戸時代、1845年、現在地に移転した。  
 近代、1868年、鳥羽・伏見の戦いでの薩摩藩負傷者は、養源院内の野戦病院、薩摩病院に収容された。イギリス人外科医・ウィリアム・ウィリスは、通訳アーネスト・サトウとともに病院を訪れ、治療にあたった。
◆曇仲道芳 南北朝時代-室町時代の臨済宗の学僧・曇仲道芳(どんちゅう どうほう、1367-1409)。京都生まれ。幼くして相国寺の空谷明応(くうこく みょうおう、常光国師)の法嗣。師の焼香侍者、結制(夏安居の初日)に問禅の禅客を勤めた。1408年、首座(しゅそ)。座元以上の法階は望まず、終生黒衣で通した。相国寺常徳院内に養源軒を建て退隠する。
 絶海中津(ぜっかい ちゅうしん)に四六文(漢文文体)の作法を学ぶ。詩文に優れ足利義満、義持父子と親交した。四六文集に「曇仲遺藁」。
◆横川景三 室町時代の臨済宗の僧・横川景三(おうせん けいさん、1429-1493)。播磨の生まれ。4歳で相国寺・常徳院の英叟に僧童として仕える。1441年英叟の師・曇仲道芳の33回忌に、東山・養源院で師資の礼を結び、薙染(剃髪染衣)した。応仁・文明の乱(1467-1477)で近江に移り、豪族・小倉実澄の帰依を受け、永源寺・識廬庵に住した。1472年、京都に戻る。管領・細川勝元により相国寺・小補軒を与えられ住む。曇仲の法嗣。1478年、相国寺79世(3度再任)。1484年、相国寺・崇寿院(開山塔)塔主。1487年、南禅寺住持。1492年、相国寺・鹿苑院の院主、僧録司に就任するが半年で辞した。小補軒で亡くなる。
 足利義政の東山山荘建立に関わる。五山文学中期代表のひとりに数えられた。
ウィリアム・ウィリス 近代のイギリス人医師・ウィリアム・ウィリス(William Willis, 1837-1894)。アイルランドの生まれ。スコットランド・エディンバラ大学で医学を学ぶ。1859年、大学卒業後、ロンドン・ミッドルセックス病院で医員、1862年、日本の江戸駐在英国公使館の補助官兼務医官として着任した。箱館領事館第二補佐官兼医官、江戸の公使館に着任する。イギリス公使館を襲撃した第二次東禅寺事件に遭う。公使ハリー・パークスの下で医官。1863年、薩英戦争でイギリス人負傷者の治療をした。1864年、元公使館医官ジェンキンズと横浜で最初の薬局を開業した。1866年、医官・首席補佐官兼会計官に昇進する。パークスの鹿児島・下関・宇和島訪問に同行した。1867年、江戸副領事・横浜副領事に昇進した。1868年、大坂副領事代理を兼任する。鳥羽・伏見の戦いで戦病傷者治療の名目で通訳・サトウとともに大坂・京都に行く。土佐佐藩主・山内容堂の診察、パークス襲撃事件、横浜で彰義隊討伐戦、北越戦争での戦傷者の治療にあたる。江戸(東京)副領事に復帰する。1869年、新政府の要請で東京医学校の教授兼任、病院の指導にあたる。1870年、教授とイギリス外務省員を辞し、西郷隆盛、医師・石神良策の招きにより鹿児島医学校長、附属病院長に就任した。日本人の八重と結婚した。1877年、西南戦争により東京に戻る。1881年、イングランドに戻り、シャムのバンコク・イギリス公使館勤務後、1892年、帰国した。
◆仏像 本尊の「薬師如来像」を安置する。
 鎌倉時代の秘仏「毘沙門天像(多聞天像)」がある。慶派仏師作という。像高170cm。寄木造。
 毘沙門天像には逸話が残されている。江戸時代、相国寺近くの奈良屋与兵衛という人物に夢告があった。毘沙門天像が夢中に顕れ、像を修復し人々に参拝するようにと告げた。その後、像が発見されたという。相国寺内で像の法要が催された際には、伊藤若冲(1716-1800)の「釈迦三尊像」「動植綵絵(さいえ)」が初公開された。
◆建築 五摂家筆頭、近衛家の「桜御所」より移築した書院「相和亭(そうわてい)」がある。
 茶室「道芳庵(どうほうあん)」がある。
◆薩摩病院  1868年、鳥羽・伏見の戦いが始まり、薩摩藩士にも多くの戦傷者があった。この時、養源院は薩摩病院(野戦病院)として負傷者を収容した。当時の日本人医師は外科手術に習熟せず、衛生管理も未熟だったため死者が相次ぐ。薩摩藩砲隊長・大山巌により西洋医への治療が依頼され、英国公使・パークスに外科医の派遣が要請された。ただ、当時の京都は天皇の住む神聖な地とされ、外国人の入京を厳しく禁じていた。やむなく、西郷隆盛は薩摩藩主・島津茂久が朝廷に願書を提出する形で許可を得る。
 外科医・ウィリアム・ウィリスと、枢密顧問官・通訳アーネスト・サトウ(1843-1929)は、外国人として初めて京都に入り、病院を訪れる。院長・新宮拙蔵、薩摩藩医・石神良策(1821-1875)、河村豊洲(1849-1933)、上村泉三、山下弘平(1821-1875)らが迎えた。ウィリスは彼らを助手として使い、10日間にわたり100人を超える重傷者の治療にあたった。その中に、頸部に銃創を受けた西郷隆盛の弟・信吾(従道、1843-1902)もおり全癒している。(「元師公爵大山巖」)。ウィルスは、日本で初めてクロロホルム麻酔による外科手術を行っている。藩医らは後にそれぞれ医者として活躍した。
 「長生軒」の柱に、藩士らが傷付けた刀痕が残る。
◆庭園 書院前に池泉回遊式庭園がある。近衛家邸宅より移築、復元された。白砂、飛石、池、植栽により構成される。


*非公開
*参考文献 『京都の禅寺散歩』、当院サイト、『京の冬の旅 非公開文化財特別公開 ガイドブック』


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庭園

庭園
茶室

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養源院 〒602-0000 京都市上京区今出川通鳥丸東入相国寺門前町701  075-231-6702 

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