御霊神社(上御霊神社)・出雲寺・御霊の森 (京都市上京区)
Goryo‐jinja Shrine
御霊神社 御霊神社
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西門






南門




拝殿


本殿、江戸時代、1755年造営


本殿


本殿











八幡宮


左(西)より八幡宮、疫除社、白髭社、淡嶋社、大舞宮、天満宮、多度神社、貴船社、春原社、荒神社、稲葉神社、今宮神社、熊野神社、愛宕神社、熱田神社、多賀神社、厳嶋神社、猿田彦神社、貴布禰社、丹生神社、梅宮神社、八坂神社、廣田神社、吉田神社、日吉神社、住吉神社、龍田神社、廣瀬神社、大和神社、石上神社、大神社、大原神社、平野神社、春日神社、松尾神社、八幡神社、賀茂神社、鴨神社


厳島神社





神明神社



神明神社
 御霊神社(ごりょう じんじゃ)は上御霊神社(かみごりょう じんじゃ)、八所御霊とも呼ばれている。平安遷都以来の王城守護の神として知られた。
 境内は室町時代の応仁・文明の乱発祥の地になる。境内規模は縮小されたが、位置は創建以来動いていないという。江戸時代には、上御霊、御霊丁、御霊地と呼ばれた。
 祭神は八所御霊を祀る御霊社で、八所御霊大明神ともいわれた。旧府社。 
 神仏霊場会第100番、京都第20番。京都十六社朱印めぐりの一つ。
 御霊、国家守護、禁裏産土神、都民擁護、厄除開運、学業成就、心の悩み、ストレスを鎮めるなどの信仰を集める。
 授与品は吉祥宝舟絵馬、吉祥干支絵馬、こころしづめお守り、神輿絵馬、干支土鈴などがある。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細不明。
 飛鳥時代-奈良時代、7世紀-8世紀(601-800)、出雲一族の氏寺・出雲寺(上出雲寺)が創建されたとみられる。鎮守社の御霊社が、現在の怨霊神(天変地異、疫病流行は怨霊の祟りとする信仰)を祀る社になったという。
 平安時代、794年、第50代・桓武天皇の勅願により、非業の死を遂げた桓武天皇の弟・崇道天皇(早良親王)の神霊を祀る。(社伝)。この際に、大和国宇智(うち)郡の霊安寺(りょうあんじ)御霊社より遷座されたともいう。他戸親王(第49代・光仁天皇皇子)、井上内親王(光仁天皇皇后)の霊を遷したともいう。以後、都の守護神とされた。
 863年、御霊会が始まったという。
 10世紀(901-1000)前半、上出雲寺は盂蘭盆会供養料を納める七か寺の一つ、5月5日の菖蒲珮を納める15か寺の一つとして記されている。(『延喜式』)
 939年、勧請されたともいう。
 958年、宣旨の「上出雲御霊堂」に該当するともいう。(『類聚符宣抄』)
 966年、御霊堂・上出雲寺が、疫病流行の際の読経所になった。(『日本紀略』同年条)
 985年、御霊会が行われる。
 平安時代後期、荒廃した。(『宇治拾遺物語』巻13)。下御霊神社が移転している。
 南北朝時代、1384年、1386年とも、御霊神が正一位の神階となる。(『諸社根源記』)
 中世(鎌倉時代-室町時代まで、上出雲寺御霊堂として知られた。
 室町時代、1423年、足利義満が参詣し、太刀を奉納した。
 1467年、畠山政長は御霊神社の森に布陣した。これを畠山義就の軍が攻め「御霊合戦」となる。畠山政長は神社拝殿に火をかけて逃走した。(『応仁記』)。以後、戦乱は応仁・文明の乱(1467-1477)に拡大する。
 1478年、焼失している。
 その後、足利氏により再建される。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代、御所より毎年正月には歯固の御初穂の寄進がある。 
 安土・桃山時代、天正期(1573-1592)、社殿修造に際して内侍所仮殿を下賜される。
 1585年、神殿が造営される。(『社記』)
 江戸時代、天皇家の産土神(うぶすながみ)になる。
 1690年、松尾芭蕉、向井去来らが当社を訪れた。
 宝永期(1704-1710)、社殿修造に際して内侍所仮殿を下賜される。
 享保期(1716-1735)、社殿修造に際して内侍所仮殿を下賜された。
 1733年、1755年とも、内裏賢所御殿を寄進され、現在の本殿とした。
 宝暦期(1751-1763)、社殿修造に際して内侍所仮殿を下賜される。
 1778年、御霊宮正遷宮になるともいう。「六条家記録」)
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈以後、境内にあった観音堂、鐘堂などが撤去された。鬼門にあった疫伏(えやみぶせ)社も失われた。
 1871年以降、御霊祭の御所巡行が途絶える。
 1936年頃、出雲寺の古瓦が境内より発見された。
 現代、1970年、本殿が再建された。
 2009年、御霊祭の御所巡行が復活する。
◆祭神 平安時代、平安京では人口流入により衛生状態が悪化した。頻繁に疫病が流行し、多くの死病者が出る。これらの疫病の原因は、政争により都を追われ、非業の死を遂げた人々の御霊(怨霊)が引き起こすと恐れられた。このため、御霊を神として祀ることで、疫神・疫病を鎮めようとした。
 当社の祭神については諸説ある。平安時代、794年、第50代・桓武天皇の勅願により、非業の死を遂げた桓武天皇の弟・崇道天皇(早良<さわら>親王、750? -785)の怨霊の祟りを恐れ、神霊を祀ったのを始まりとする。早良親王は、785年、長岡京造営長官・藤原種継暗殺事件に関与したとされ、淡路島に左遷され、断食死した。
 その後、第54代・仁明天皇、第56代・清和天皇により、祭神が追祀された。
 ①桓武天皇の異母・井上(いのえ)内親王(井上大皇后<いのえのおおきさき>、第45代・聖武天皇第一皇女・光仁天皇皇后、717-775)は、難波内親王を呪い殺した嫌疑により、子・他戸親王(おさべ しんのう、761? -775)とともに幽閉され、母子同時に死去した。毒殺されたともいう。
 ②桓武天皇の異母弟で光仁天皇第4皇子・他戸(おさべ)親王。
 ③桓武天皇夫人の藤原大夫人(ふじわら の たいふじん)(藤原吉子<よしこ>、?-807)は、謀反の嫌疑により、子・伊豫親王とともに川原寺(弘福寺)に幽閉され飲食を絶たれ没した。
 ④官人・橘逸勢(たちばな の はやなり、橘大夫<たちばなのだいぶ>、782? -842)は、842年の承和の変に連座して捕らえられ、伊豆へ流される途中で没した。
 ⑤文室(屋)宮田麻呂(麿)(ふんや の みやたまろ、生没年不詳)は、反乱の嫌疑により伊豆に流された。
 ⑥文大夫<ぶんのだいぶ>、文室宮田磨呂とも)。
 ⑦6神の荒魂の火雷神(からいしん、菅原道真とも)。
 ⑧吉備真備(吉備大臣、きびのまきび、695-775)は、藤原仲麻呂に疎まれ、筑前守に一時左遷された。
 8神は、平安京鬼門に祀られ八所御霊大明神と称された。
 また、伊豫親王(桓武天皇第3皇子)、藤原大夫(藤原広嗣、?-740)を加え、火雷神は菅原道真(845 -903)ともいう。藤原広嗣は乱で挙兵し、斬殺された。菅原道真は、大宰府左遷後に亡くなる。
 井上、他戸、早良はいずれも桓武天皇の父の第49代・光仁天皇に関係がある。光仁天皇の皇太子・井上内親王は、その後廃位になり、後継の他戸親王も皇太子の地位を剥奪された。桓武天皇の弟・早良親王も、無実の罪を叫び亡くなる。山部王(後の桓武天皇)周辺の相次ぐ失脚、都での悪疫の流行により、御霊信仰は皇室のみならず、武士、庶民にも広がった。
◆出雲族 かつて、この一帯の山背国愛宕郡出雲郷は、平安遷都以前から先住していた出雲一族の居住する地域だった。この地にあった出雲族の氏寺・出雲寺は、奈良・平安時代の延暦年間(728-806)、伝教大師(最澄)によって開創されたともいわれている。寺は上下二寺に分かれていた。
 上出雲寺は、上京区の上御霊竪町、馬場町、相国寺門前町(上御霊神社境内)付近にあり、大寺だったという。延喜式七大官寺の一つ御霊寺とされ、創建は、延暦年間(782-806)といわれる。小山寺の別名もある。最澄の開創とも、出雲氏の氏寺ともいわれる。その後、境内に鎮守社の上御霊神社が創祀され、御霊寺ともいわれた。なお、下出雲寺は、現在の相国寺近くにあったとみられる。下御霊神社の創祀によってその修法堂となった。
 なお、上出雲寺の旧仏「聖観音像」は、「出雲観音」「出雲路観音」と呼ばれたという。上出雲寺の廃絶により、上御霊神社の観音堂に祀られた。その後、1868年の神仏分離令に伴い、1872年に近くの出雲寺(光明山念佛寺、上京区藪之下町)に遷された。
 また、出雲氏族の出雲井於(いのえ、いのへ)神社との関連も指摘されている。ほかにも、出雲氏ゆかりの出雲高野神社、宇治郡天穂日命(あまのほひのみこと)神社なども創祀された。
 移住氏族である出雲氏は、天穂日命を祖神とし、賀茂氏とともに北山城盆地の開拓に関わった。また、7世紀後半の武人・出雲狛(いずものこま)は、672年の壬申の乱で大海人皇子(第40代・天武天皇)につき戦功をあげ、臣の姓を賜った。 出雲氏は平安京の貴族や政府の下級役人に仕えた。ただ、その勢力は弱く、平安時代の初期には衰微している。
◆応仁・文明の乱 境内にあった御霊の杜は、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)の発端になった。
 室町幕府の弱体化の中で、8代将軍・足利義政下、管領家(かんれいけ)畠山、斯波家(しばけ)の跡目争いと、幕府管領の細川勝元と山名持豊(山名宗全)らの権力争いが絡んだ。
 端緒になったのが「御霊合戦」であり、1467年1月18日、畠山政長(まさなが)は畠山義就(よしなり)への明け渡しを迫られた畠山邸に火を放つ。畠山政長は御霊神社の森に布陣した。これに畠山義就の軍が攻め込み、一晩の戦闘「御霊合戦」になる。政長方の細川勝元は、将軍により止められたため参戦しなかった。畠山政長は、御霊神社拝殿に火をかけて逃走した。また、近くに広い声門師(しょうもんじ)池があり、その声門師の村にも火が放たれている。以後、11年にわたり戦乱が続いた。
 なお、境内西の内構町(上京区)には、細川勝元邸があり、東軍の陣が敷かれた。陣内に構えたとして内構町の町名由来になった。
◆建築 西の楼門である「西門(さいもん)」は、江戸時代中期に再建された。伏見城四脚門を移築したといわれている。
 「本殿」は江戸時代、1755年に下賜された賢所(かしこどころ)を1970年に復元した。入母屋造、正面に一間の唐破風向拝付。
◆鳥居 境内社・八幡宮の鳥居は、江戸時代、1658年に建立された。明神鳥居、東照宮形であり、島木の反り増しはあり、島木鼻の切り様は水切、石造。
◆末社 末社・花御所八幡は、閑臥庵の東北にあった五所八幡社を明治期に遷した。
◆文化財 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1645)、第107代・後陽成天皇寄進の「御所車」がある。
 神輿の「南之御座(小山郷)」は、安土・桃山時代、1595年に第107代・後陽成天皇の寄進による。第106代・正親町天皇が使用した鳳輦を神輿に改作している。平安時代の古式に倣う。
 神輿の「北之御座(今出川口)」は、江戸時代、1619年に第108代・後水尾天皇の即位の際に、第107代・後陽成天皇の使用した鳳輦を寄進され、神輿に改作した。平安時代の古式に倣う。
 神輿の「中之御座」は、近代、1877年に当社に移された。神輿本体は、江戸時代中期の製作という。豪華絢爛な彫刻が施されている。入母屋造、屋根に千木を飾る。
 鎌倉時代、1294年、第92代・伏見天皇寄進の「太刀鉾」、室町時代、1431年、第102代・後花園天皇寄進の「龍鉾」がある。
 歴代宮司による「神社明細帳」には和宮降嫁の際の宣下につき金百疋御納の記述がある。
◆狩野永徳 安土・桃山時代の絵師・狩野永徳(1543 -1590)が1565年に描いた「上杉本洛中洛外図屏風」には、御霊祭の祭列、当時の御旅所だった中御霊神社などが描かれている。永徳が御霊神社の氏子だったことによるという。
◆芭蕉 境内に芭蕉句碑、「半日は 神を友にや 年忘れ」(「俳諧謔八重桜集」)が立つ。江戸時代、1690年12月、松尾芭蕉(1644-1694)は当社に向井去来、門人と参詣し、「年忘歌仙」を奉納した。宮司・小栗栖祐玄(俳号・示右)、その子・景桃丸も加わった。
氏子 氏子域には和歌・冷泉家、画家・狩野家、尾形光琳邸、茶道・千家、近現代の国語学者・新村出などがある。
◆千日回峯行 比叡山延暦寺の千日回峯行者は、京都大廻りの際に当社を拝する。
◆遺跡 1936年頃、境内から古瓦が見つかっている。瓦窯は、1983年に発掘された蟹ヶ坂瓦窯(北区西賀茂)で造られたものだった。
 また、本薬師寺(奈良県五條市)の同笵瓦も見つかっている。寺は飛鳥時代、580年、天武天皇発願により持統天皇が完成させた。 
◆映画 時代劇映画「丹下左膳 百万両の壺」(監督・津田豊滋、2004年、日活)では、左膳(豊川悦司)らが金魚釣りをする場面が撮影された。
◆唐板 境内の西にある老舗菓子店「水田玉雲堂」(上京区上御霊前町)は、疫厄病除けの菓子とされる「唐板(からいた)」で知られている。創業500年以上といい、京都の最老舗になる。
 最も古い菓子とされる「唐板」は、平安時代、863年、第56代・清和天皇が怨霊を鎮めるために神泉苑で御霊会を行った。この時、神前に厄病除けの煎餅が供された。「唐板煎餅」と呼ばれ授与されたことに始まる。以後、疫病除けの菓子として広まった。その起源は、遣唐使が伝えた菓子の技法によるともいう。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により一時途絶し、戦後、製法が復興された。1477年に御霊神社境内で売られていたという。近代以前まで、皇室に皇子が誕生すると参詣後、唐板を土産として求めていたという。
 小麦粉、上白糖、卵、塩などが材料で、これを薄い短冊形にして銅板の上で焼き上げる。茶人にも好まれた。
◆御霊祭 平安時代、863年、平安京で「咳逆病」が流行し、朝廷主催の御霊会が神泉苑で始まったという。当社の祭礼、御霊祭は、この御霊の退散を祈願した御霊会を起源とし、京都で最も古い祭礼の一つとされている。かつては神幸祭(7月18日)から還幸祭(8月18日)の一カ月に渡り行われていた。
 現在は社頭之儀(5月1日)より渡御之儀(5月18日)まで催されている。渡御之儀では総勢500人の祭列が巡行し、剣鉾が供奉し神輿3基、鉾、稚児列、牛が曳く御所車などが加わる。
 神輿に、神を乗せ市中を巡ることで、疫病を祓い清める意味がある。神輿は、京都御所の北門・朔平門にも巡行し、門前で神輿振りを行う。江戸時代には、天皇、皇族が高覧した。近代、1871年以来途絶えていた神輿の御所巡行が2006年に復活した。
 神輿は3基ある。「南之御座」は、小山郷神輿会の奉仕による。「ほいと、ほいと」との掛け声で担ぐ。「北之御座」は、今出川口京極神輿会(出町地区)の奉仕による。「ほいと、ほいと」との掛け声で担ぐ。「中之御座」は、末廣会(出雲路地区)の奉仕による。「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」との掛け声で担ぐ。
◆中御霊社 本殿前に立つ石燈籠には「中御霊」と刻まれている。中御霊社は、近代、1871年まで中御霊町(広小路寺町東入)にあり、御霊神社、下御霊神社両社の御旅所だった。
 旧境内地はほかにもあり、中御霊図子町、仲御霊町、両御霊町などと地名として残る。
◆森・樹木 かつて境内の南にかけて、広大な森が広がっていた。森は「御霊の森(杜)」といわれ、現在の2倍の面積を有していたという。
 境内にトウオガタマノキ、カゴノキ、クスノキ、カイノキ、ケヤキ、神明社にセンダンがある。
◆花暦 4月下旬から5月上旬に、境内南の外堀にアヤメ科の多年草イチハツが咲く。江戸時代の絵師・尾形光琳(1658-1716)の紙本金地着色 6曲1双「燕子花図」はこのイチハツを描いたもという伝承もある。光琳邸は境内近くにあったという。
◆京都十六社朱印めぐり 京都十六社朱印めぐり(1月1日-2月15日)は、1976年に始まり当初は14社だった。古社16社を巡拝し、各社より朱印を授かる。すべての神社を参拝すると一年間のあらゆるご利益が得られるという。
 専用の朱印帳で期間中に、全てのご朱印を受けると干支置物が授けられる。
◆年間行事 歳旦祭(9時より)(1月1日)、三が日(神酒接待)(1月1日-3日)、京都十六社朱印めぐり(1月1日-2月15日)、節分祭・古神札焼納神事(2月3日)、紀元節(2月11日)、祈年祭(3月中旬)、御霊祭・神幸祭・社頭之儀(5月1日)、子供神輿巡行(5月5日)、かがり火コンサート(5月第2日曜日)、御霊祭・還幸祭・渡御之儀(5月18日)、春季御内儀祭(5月28日)、夏越の大祓式・茅の輪くぐり(6月30日)、例大祭・小山郷六斎奉納・狂言奉納(8月18日)、七五三奉祝祭(11月15日)、火焚祭・湯立神楽奉納(11月18日)、秋季御内儀祭(11月28日)、大晦日(終夜開門)(12月31日-1月1日)。
 月次祭さえずり市(毎月18日、5月を除く)。
 

*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『飛鳥白鳳の甍 京都の古代寺院』『京都古社寺辞典』『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 上』『京都の地名検証 3』『鳥居』『おんなの史跡を歩く』『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『京都の寺社505を歩く 上』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『京都のご利益めぐり』『京都のご利益手帖』『京都絵になる風景』『京都歩きの愉しみ』『京都 神社と寺院の森』『週刊 古社名刹巡礼の旅 42 御所界隈 京都』、御霊神社『御霊祭』


   出雲寺       出雲路橋      相国寺       尾形光琳宅跡      下御霊神社        崇道神社     神泉苑        西陣、応仁・文明の乱戦跡       京都御所(京都御苑)       大聖寺(御寺御所・花の御所)      延暦寺・東塔(大津市)       延暦寺・無動寺谷(大津市)       延暦寺・飯室不動堂(大津市)              

福寿稲荷神社



イチョウ



絵馬舎

富士谷御杖詩碑、「底津磐根に宮はしらふと 志り高天原に氷水たかしるは ただかみつ世の宮つくりに あらず いでかしこきたくみの 神のたまはる斎砥は かしてむ 手斧得せよ てをの とくせよ」、富士谷御杖(1768-1824)は、江戸時代中期から後期にかけての国学者。

広辞苑の編者、新村出(1876-1967)歌碑、「上御霊のみやしろに詣でてよめる 千早振 神のみめぐみ 深くして 八十ぢに満つる 幸を得にけり」1956 

芭蕉句碑、「半日は 神を友にや 年忘れ」、1690年、松尾芭蕉(1644-1694)は当社に門人と参詣し、「年忘歌仙」を奉納した。「俳諧謔八重桜集」より。

西の鳥居右手にある「応仁の乱勃発地」の碑

花の御所は、鎮守として源氏の氏神・八幡神が勧請された。その跡地を示す「御所八幡宮」跡の石標。ただ、実際には御所八幡町(烏丸通上立売下ル)とみられている。

石燈籠

石燈籠、「中御霊」と刻まれている。

小山郷六斎念仏踊り(8月19日)


御霊祭、2009年は、140年ぶりに御苑巡行が復活した。京都御苑内京都御所の朔平門前

社の南にあるアヤメの一種イチハツ。鳥居の西、南にはかつて中川という川が流れていた。

今も残る御霊の杜の面影

上御霊神社鳥居の西にある「水田玉雲堂」、最も古い菓子とされる「唐板」は、小麦粉、上白糖、卵、塩などが材料で、これを短冊形にして焼き上げる。茶人にも好まれる。
平安京オーバレイマップ
上御霊神社 〒602-0896 京都市上京区上御霊堅町495    075-441-2260 
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