光明天皇 大光明寺陵・伏見殿跡・大光明寺跡・指月城跡 (京都市伏見区)
Imperial mausoleum of Emperor Komyo,Ruins of Daikomyo-ji Temple
光明天皇 大光明寺陵・伏見殿跡 光明天皇 大光明寺陵・伏見殿跡 
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「光明天皇 大光明寺陵」の石標




北東方向の伏見城跡の眺望
 桃山町泰長老(ももやまちょう たいちょうろう)に、大光明寺陵(だいこうみょうじ の みささぎ)が築造されている。一帯は指月の岡(指月の森)といわれる高台になっており、南に崖地があり眼下に宇治川が望める。御陵の北東にJR奈良線を挟み、第50代・桓武天皇の伏見桃山陵の丘陵地帯が見えている。
 この地は、平安時代の伏見山荘、伏見殿、その傍らに創建された大光明寺、安土・桃山時代に豊臣秀吉による築城を経て、近代に入り大光明寺陵が築造される。さまざまな歴史の変遷を経てきた。
 地名の泰長老とは臨済宗の僧・西笑承兌(さいしょう じょうたい、1548-1608)のことをいう。秀吉の指月城の時代に、この付近に西笑の屋敷があったとされ、呼ばれている。
◆歴史年表 平安時代、1093年頃、この地には官人・歌人の橘俊綱の伏見山荘が営まれる。
 1094年、橘俊綱の没後、白河院(第72代、1053-1129)の皇室の荘園に加えられた。
 その後、平範頼( ?-?)に譲られる。
 1167年、後白河院(第77代)が伏見殿を建て、船津御所、伏見離宮とも称された。
 鎌倉時代、1278年、後深草上皇(第89代)が行幸し、以来、持明院統の仙洞として使われた。
 鎌倉時代中期、後嵯峨院(第88代、1220-1272)の後院として使われる。その後、伏見院(第92代、1265-1317)、後伏見院(第93代、1288-1336)に継がれた。
 南北朝時代、文和年間(1352-1356)、1339年とも、第93代・後伏見天皇女御・広義門院西園寺寧子が、亡き天皇の菩提を弔うために大光明寺を創建した。(『智覚普明国師語録』)。開基は仏統国師(夢窓疎石)による。(『坊目誌』)。当初は持明院の仙洞があった伏見殿(伏見離宮、伏見区桃山町)の傍らに置かれた。
 伏見殿は、北朝の光厳上皇(北朝初代1313-1364)、光明上皇(北朝2代、1322-1380)に受け継がれる。
 伏見殿は、後光厳院(北朝第4代、1338-1374)、北朝3代・崇光天皇第1皇子・栄仁親王(1351-1416)以後、伏見宮家の御所になる。
 1363年、光厳院(北朝初代)は、崇光院(北朝3代)に対して、伏見御領を大光明寺塔頭に付し、領は崇光院子孫に伝領するよう置文した。(「光厳院置文写」)。大光明寺で春屋妙葩が広義門院の7回忌法要を営む。
 1364年、春屋妙葩が1年ほど大光明寺に住し天龍寺に移る。以後、夢窓派の五山派僧が入る。
 1380年、6月24日、光明天皇は大和国・長谷寺の庵室で亡くなる。没後、大光明寺に遺骨が納められる。(『山城名勝志』)
 1398年、崇光院は伏見殿で没し、大光明寺で葬送された。足利義満は伏見殿を没収する。(『椿葉記』)
 1399年、伏見殿は伏見宮家に返却される。(『椿葉記』)
 室町時代、1401年、伏見殿、大光明寺が焼失している。(『迎陽記』)
 1409年、栄仁親王は大光明寺塔頭・大通院を建立している。 
 1416年、栄仁親王は没後、大光明寺内に葬られる。以来、大光明寺は伏見宮の菩提所になる。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で大光明寺は荒廃、その後、復興する。(『蔭涼軒日録』)
 安土・桃山時代、1592年、豊臣秀吉は、聚楽第を豊臣秀次に譲り、隠居城として現在の伏見桃山城の南西1㎞ほどの指月の岡(伏見区桃山町泰長老)に築く。「太閤隠居所」「太閤隠居城」、また便宜的に「指月屋敷」「指月城」「指月山伏見城」とも呼ばれる。
 1593年、8月、秀頼が誕生し、本城とするために本格的な改築が予定される。
 1594年、正月、改築が始まり、普請奉行・佐久間政家が任命される。この地にあった大光明寺、伏見寺(即成就院、即成院)、般舟三昧院がそれぞれ移されたともいう。淀古城から天守、櫓が移築された。城は秋に完成している。秀吉が入城した。便宜的に「指月城」「指月山伏見城」と呼ばれる。秋、支城として宇治川を隔てて向島城が築かれたとみられている。秀吉は、巨椋池の池周、池中に大規模な築堤をしている。
 1595年、破却された聚楽第から建物が移築される。春、向島に指月城の支城・向島城が築城されたともいう。向島城は洪水により被災した。
 1596年、城は完成するが、直後、閏7月13日、慶長伏見地震により天守は全壊する。男女御番衆の多くが犠牲になる。城下での被害もあり、向島城も 崩壊する。このため、文禄の役(1592-1593)終結のための明の冊封使との会見は、予定されていた伏見城ではなく、大坂城で行われた。地震は、秀次自害一年に当たり、巷では「関白秀次の祟り」と恐れられた。
 震災の1日後、7月14日、旧地の北東1㎞ほど離れた木幡山(伏見桃山町、明治天皇陵内)で早くも作事が行われる。10月、木幡山に本丸が完成する。
 1597年、5月、木幡山に城の天守が完成し、秀吉、秀頼が移る。その後、殿舎、茶亭が完成した。城は、便宜的に「木幡山城」「木幡山伏見城」と呼ばれる。本丸の西北に五重の天守、二ノ丸、松ノ丸、名護屋丸、出丸など十二の曲輪(くるわ)がある平山城だった。向島城も再建され、6月27日、瓜見の宴を催す。
 文禄年間(1592-1596)、豊臣秀吉は伏見殿に伏見城を築造し、大光明寺の方丈が建てられる。庫裏、諸堂も徳川家康などの寄進により再興される。(『承兌和尚事蹟』)
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、大光明寺は焼失した。(『相国寺塔頭末派略記並歴代』)
 江戸時代、元和年間(1615-1624)、大光明寺、大通院は相国寺山内に移るともいう。(『相国寺塔頭末派略記並歴代』)
 近代、1864年、当地を崇光天皇陵とした。
 明治期(1868-1912)、大光明寺陵が築造された。南北朝時代の北朝第2代・光明天皇、北朝第3代・崇光天皇、伏見宮家第2代・治仁(はるひと)親王が葬られている。
 1889年、光明天皇陵が現在地に定められる。
 1911年、天皇家はそれまでの北朝系より南朝系が正統とされ、それに伴い光明天皇、崇光天皇は歴代より外されている。その後も大光明寺陵は存続し、宮内庁が管理している。
 1917年、治仁親王墓を現在地に決定した。
◆橘俊綱 平安時代中期-後期の官吏・歌人・橘俊綱(たちばな の としつな、1028-1094)。伏見修理大夫(しゅりのだいぶ)。父は公卿・藤原頼通。母は進命婦。讃岐守・橘俊遠の養子とされた。丹波・播磨国守、正四位上、修理大夫、近江守を歴任した。伏見山南麓に「伏見山荘」を造営する。三名勝(ほかに高陽院、石田殿)の一つとされた。1093年、焼失する。1050年、橘俊綱家歌合などを開き、僧・歌人・能因、僧・歌人・良暹(りょうぜん)、和歌六人党の一人・官吏・藤原範永などが訪れた。『後拾遺和歌集』などの勅撰集に入首。笛、笙、造園に通じ、日本最古の庭園集『作庭記』作者ともいう。「伏見の長者」と呼ばれた。
◆光明天皇 南北朝時代の北朝第2代・光明天皇(こうみょう てんのう、1322-1380)。豊仁(とよひと)。持明院殿、宇治殿。法名は真常恵、真恵。第93代・後伏見天皇の第2皇子。母は西園寺公衡の娘・広義門院寧子(ねいし)。実兄は北朝初代・光厳天皇でその猶子になった。1336年、足利尊氏は第96代・後醍醐天皇の建武の新政に離反し京都に入る。後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃れた。代わりに豊仁親王が三種の神器無く、光厳上皇の院宣により北朝第2代・光明天皇として即位する。(実際には光明天皇が北朝初代になる)。天皇は尊氏を征夷大将軍に任じ、室町幕府が始まる。後醍醐天皇は、即位を一度は認め、その後、吉野に逃れ南朝を設立する。(南北朝時代)。光明天皇に対し、兄・光厳上皇による院政が敷かれた。1338年、光厳上皇の第1皇子・興仁(おきひと)親王を皇太子に立てた。1348年、興仁親王(北朝第3代・崇光天皇)に譲位する。1351年、足利尊氏・義詮が南朝に降伏し、崇光天皇が廃された。(正平一統)。1352年、足利氏の内紛・観応の擾乱に乗じ、第97代・後村上天皇の軍が京都の義詮を追い、南朝軍により光明上皇、光厳上皇、崇光上皇、直仁廃太子らは大和国・賀名生(あのう)に軟禁される。その後、河内・金剛寺などに移された。北朝が廃されたため、落髪して仏道に入る。幕府は、母・広義門院寧子を担ぎ、弥仁(いやひと)親王(北朝第4代・後光厳天皇)を即位させている。1355年、京都に戻ることが許され、伏見・保安寺、深草・金剛寿院、大光明寺に住し、諸国遍歴した。1380年、大和・長谷寺(摂津・勝尾寺とも)で亡くなる。
 夢窓疎石に帰依した。自筆日記『光明天皇宸記』がある。陵墓は大光明寺陵(伏見区)にある。
◆陵墓 大光明寺陵には、持統院統(北朝)の第2代・光明天皇、第3代・崇光天皇、崇光天皇の孫・伏見宮貞成親王の3人が葬られている。陵形は、円丘で東西に並び北面している。空堀がある。
 大光明寺は、光明天皇の父・後伏見天皇の菩提を弔うために建立された。持統院統にゆかりの深い伏見殿に隣接して建てられていた。光明天皇は、晩年に禅宗修行に励み、伏見の大光明寺に深く帰依している。1380年6月24日、光明天皇は大和国・長谷寺の庵室で亡くなる。火葬後、大光明寺に遺骨が納められた。(『山城名勝志』)。その後、1592年以降の豊臣秀吉の伏見城築城に伴い、天皇陵は破壊され消滅した。江戸時代、元禄年間(1688-1704)以来、摂津国・勝尾寺(箕面市)で天皇が亡くなったともいわれ、同寺東谷にある石塔が光明天皇の陵所ともされた。1865年、守戸が置かれている。近代、明治期(1868-1912)に現在地が大光明寺陵として整備されている。
 崇光天皇も、南朝による抑留生活後に京都に戻ることが許され、伏見殿に隠棲した。晩年は、大光明寺に帰依した。 
 1911年、天皇家はそれまでの北朝系より南朝系が正統とされ、それに伴い光明天皇、崇光天皇は歴代より外されている。その後も大光明寺陵は存続し、宮内庁が管理している。
◆伏見城 指月城について詳細はわかっていない。豊臣秀吉は安土・桃山時代、1592年、指月の岡(指月の森)に隠居のための屋敷を造営した。1594年に城郭として拡張整備を始め、1596年に完成したが、慶長大地震により直後に倒壊し、現在地の北東にある木幡山に新たに木幡山城を築城して移った。
 現在の大光明寺陵は、城の推定地の東端に当たると見られている。城は北は立売通付近(それ以北とも)にあり北堀(幅20m、深さ2m以上)があったとみられている。西に城郭の正面の大手があったとみられ、豊後橋(渡月橋)、豊後街道(現在の国道24号線)付近まで、南側は宇治川北岸の崖地まで、東はさらに大光明寺陵東の南北方向の窪地まであり、ここには宇治川と繋がっていた長方形の舟入(南北330m、東西100m、深さ20m)が築造されていたとみられている。現時点で城内は東西500m、南北250mの規模だったと推定されている。
◆伏見学校・圓光寺 安土・桃山時代、1601年、徳川家康は伏見指月(しげつ)に、学問所の伏見学校(伏見区桃山桃山町秦長老、立売町付近とも)を開く。下野足利学校の9世庠主(ようしゅ、校長)で僧の三要元佶(かんしつげんきつ)を学校に招いた。その場所は現在の大光明寺陵の西に隣接する付近とみられている。また、陵の北端の俗称「ガッコウ」付近ともいう。藤原惺窩、林羅山らが講じた。
 その後、三要を開基として学校を寺に改め、圓(円)光寺と称した。江戸時代、1603年、圓光寺は相国寺の境内に移され、さらに洛北に再移転している。寺では家康に与えられた木活字、銅活字を用い書物の印刷を手がけた。これを「伏見版」「圓光寺版」と呼び、漢籍『周易』『六韜(りくとう)』、史書『東鑑』などを刊行した。


北1 光厳天皇(在位:1331-1333)→北2 光明天皇(在位:1336-13481)→北3 崇光天皇(在位:1348-1351) →北4 後光厳天皇(在位:1352-1371)→北5 後円融天皇(在位:1371-1382)→北6・100 後小松天皇 (在位:1382-1412)→101 称光天皇(在位:1412-1428)→102 後花園天皇(在位:1428-1464)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『古代史研究の最前線 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『検証 天皇陵』『歴代天皇125代総覧』『京都大事典』『京都市の地名』「それでも指月伏見城はあった- 京都府埋蔵文化財調査研究センター」「リーフレット京都 No.261 発掘ニュース95 伏見・指月城の復元」『秀吉の京をゆく』『大学的京都ガイド こだわりの歩き方』『伏見学ことはじめ』『伏見の歴史と文化』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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光明天皇 大光明寺陵 〒612-8034 京都市伏見区桃山町秦長老 
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