法然水 (京都市上京区)
 Honen-sui
法然水 法然水
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相国寺北、住宅地の中にある。








井桁のみが遺されてる。水は涸れている。
 相国寺北の住宅地に、法然ゆかりの井戸、法然水の井桁が残されている。既に涸れているが、かつては法然の庵室があり、その付近に池水があったという。 
◆歴史年表 
かつて、付近に上賀茂社神宮寺(神宮堂)があったという。円仁作という釈迦像を安置し、「今出川の釈迦堂」「賀茂の河原屋」とも呼ばれていたという。
 平安時代、1175年、法然は比叡山を下り、西山の広谷、東山吉水の辺りに移る。加茂宮司の懇請により、「神宮堂」「河原屋」と呼ばれる草庵に住んだ。法然はこの地で念仏修行を行い、庵は、「加茂河原屋」「加茂禪房」「加茂の釈迦堂」などとも呼ばれていた。
 鎌倉時代、1234年、法然の弟子で2世・源智は、この地に御影堂を建て、師・法然の御影を安置した。師恩に報いるという意味で、「功徳院知恩寺」と名付け再興した。寺は、浄土専修念仏道場となる。
 1331年、都で疫病が流行する。8世・善阿は、宮中で七日間、百万遍念仏を唱え、疫病退散を行う。第96代・後醍醐天皇はこの後、「百万遍」の寺号を与えている。
 南北朝時代、1382年、室町幕府第3代将軍・足利義満による相国寺建立にともない、一条通小川(一条通油小路北、現上京区元百万遍町、知恩寺付近)に移転した。
◆法然 平安時代後期、鎌倉時代前期の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。圓光大師。美作 国に生まれた。9歳で出家、1145年、13歳の時比叡山に登る。源光、叡空に師事し、法然房源空と改名した。25年にわたり修行を重ね、一切経 (5048巻)を5遍通読したという。1175年、中国浄土教の善導(613-681)の『観無量寿 経疏』(『観経疏』)を見出し、比叡山を下りた。専修念仏を確立し、東山大谷で浄土宗を開く。1186 年、南都・北嶺の僧らと洛北大原勝林院で問答(大原談義)する。
 1204年、比叡山僧徒は専修念仏の停止を迫り蜂起、法然は「七箇条制誡」を草し延暦寺に送る。だが、興福寺の奏状により念仏停止の断が下された。 1207年、還俗となり、土佐国(讃岐国)に流罪となる。(「承元の法難」)。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住む。1211年 に帰京し、その翌年に亡くなっている。遺言書『一枚起請文』(1212)。
 法然は、源信と善導の思想的な影響を受けている。あらゆる階層、性別に関係なく専修念仏行、口称名号の念仏により、極楽往生を願う者は救済されると説いた。
 賀茂神社を度々参詣した法然は、法然水の井水を汲んで閼伽井に用いたという。法然は次の歌を歌っている。「わが心池水に似たりけれ濁り澄むこと定めなくして」(続後拾遺集 釈教歌)、「われはただ仏にいつか葵草心の端(つま)に掛けぬ間ぞなき」(新後拾遺集 釈教歌)
◆源智 鎌倉時代前期の浄土宗の僧・源智(げんち、1183-1239)。父は平家一門の武将・平師盛(1171? - 1184)。紫野門徒の祖。妙法院法印とも称される。号は勢観房。
 法然に長く師事し、臨終の際には法然の遺訓『一枚起請文』(1212)を授けられた。
◆善阿空円 鎌倉時代の浄土宗の僧・善阿空円(ぜんな くうえん、生没年不詳)。智恵の法孫にあたる。知恩寺8世。
 1331年、第96代・後醍醐天皇の命により、流行していた疫病を鎮めるための七日念仏百万遍を修した。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 説明版、『京都・山城寺院神社大事典』


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知恩寺による板碑、1935年建立。
法然水、知恩寺の来歴が記されている。

地蔵尊
法然水 京都市上京区相国寺門前町 

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