法然水 (京都市上京区)
 Honen-sui
法然水 法然水
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home

相国寺北、住宅地の中にある。








井桁のみが遺されてる。水は涸れている。


知恩寺による板碑、1935年に建立された。
法然水、知恩寺の来歴が記されている。


地蔵尊
 相国寺北の住宅地に、法然ゆかりの井戸である法然水(ほうねんすい)の井桁だけが残る。水は現在は涸れている。かつて、この地に法然の庵室があり、池水があったという。
◆歴史年表 
年代不詳、かつて、付近に上賀茂社神宮寺(神宮堂)があったという。円仁(794-864)作という釈迦像を安置し、「今出川の釈迦堂」「賀茂の河原屋」とも呼ばれていたという。
 平安時代、1175年、法然は比叡山を下り、西山の広谷、東山吉水の辺りに移る。賀茂明神を崇敬し、加茂宮司の懇請により、「神宮堂」「河原屋」と呼ばれる草庵に住んだ。法然はこの地で念仏修行を行う。庵は、「加茂河原屋」「賀茂の河原院」「加茂禪房」「加茂の釈迦堂」などとも呼ばれる。法然は、一時、この神宮寺より賀茂社に参詣した。井水は閼伽井として用いた。
 鎌倉時代、1234年、法然の弟子で2世・源智は、この地に御影堂を建て、師・法然の御影を安置した。師恩に報いるという意味で、「功徳院知恩寺」と名付けて再興した。寺は、浄土専修念仏道場になる。
 1331年、都で疫病が流行する。8世・善阿は、宮中で七日間、百万遍念仏を唱え、疫病退散を行う。第96代・後醍醐天皇はこの後、「百万遍」の寺号を与える。
 南北朝時代、1382年、室町幕府第3代将軍・足利義満による相国寺建立に伴い、神宮寺は一条通小川(一条通油小路北、現上京区元百万遍町、知恩寺付近)に移転した。知恩寺の前身になる。
 その後、現在地に井水だけが残される。相国寺塔頭・松鷗軒(しょうおうけん)の所有になる。
 近代、1872年、松鷗軒が廃寺になる。井戸桁だけが残された。
◆法然 平安時代後期-鎌倉時代前期の浄土宗の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。諱は源空、勅諡は円光大師、明照大師、通称は黒谷上人、吉水上人、幼名は勢至丸。美作国(岡山県)に生まれた。父は押領使・漆間時国、母は秦氏。1141年、9歳の時、父は夜襲により目前で殺される。父は出家を遺言する。天台宗菩提寺の叔父・観覚のもとに預けられた。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法(宝)房源光に師事、1147年、皇円の下で出家受戒。1150年、西塔黒谷慈眼坊叡空の庵室に入り、浄土宗に傾く。法然房源空と名乗る。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。善導は、阿弥陀仏の誓った本願を信じひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができるとした。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。東山吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場となる。1186年/1189年、天台僧らとの大原談義(大原問答)で専修念仏を説く。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1201年、親鸞が入門した。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を天台座主に要請した「元久の法難」が起きる。「七箇条制誡」を定め、弟子190人の連署得て天台座主に提出する。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫) らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止(ちょうじ)となり、1207年、法然は四国・讃岐へ流罪となる。10か月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住み、1211年ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近) に移る。翌1212年ここで亡くなった。『選択本願念仏集』(1198)、『一枚起草文』(1212)などを著す。80歳。
 法然の専修念仏とは、誰もがひたすら祈ることで極楽往生できるとするもので既存の仏教で救われる対象ではない人々に希望をもたらした。
◆源智 平安時代後期-鎌倉時代中期の浄土宗の僧・源智(げんち、1183-1239)。妙法院法印、号は勢観房(せいかんぼう)。父は平清盛の5男・武将・平師盛(もろもり)、母は秘妙。1185年、平家滅亡後、源氏の探索から逃れ、母・秘妙は密かに源智を法然の弟子・真観房感西に託した。1195年、13歳で法然の門に入り、円頓戒を受けた。源智は終生身分を隠し、感西、法然両師に仕えたという。後に慈円により出家する。その後、18年間、法然に近侍し、本尊、大谷の坊舎、円頓戒の道具などを譲り受ける。1212年、法然の臨終の際に、法然が書いた遺訓『一枚起請文(きしょうもん)』を授けられた。同年、法然没後、勧進し阿弥陀仏像を造立した。胎内に源智自筆の願文、4万数千人の結縁者交名(けちえんしゃ-きょうみょう)を納めた。(滋賀・玉桂寺)。その後、賀茂社の傍ら神宮寺・功徳院(知恩寺の基)に住し、隠遁生活を送る。念仏衆の紫野門徒を擁していた。1234年、東山大谷の法然廟を修理し、知恩院の基を築く。著『選択(せんちゃく)要決』、醍醐寺本『法然上人伝記』。56歳。
 墓は百万遍知恩寺(左京区)にある。
◆善阿空円 鎌倉時代後期の浄土宗の僧・善阿空円(ぜんな-くうえん、?-?)。智恵の法孫にあたる。知恩寺8世。1331年、第96代・後醍醐天皇の命により、流行していた疫病を鎮めるための七日念仏百万遍を修した。
◆法然水 平安時代、1175年、法然は比叡山を下りる。賀茂明神を崇敬し、加茂宮司の懇請により、「神宮堂」「河原屋」と呼ばれる草庵に住んだ。法然はこの地で念仏修行を行う。法然は、一時、この神宮寺より賀茂社に参詣し、井水は閼伽井として用いた。
 法然は井水を讃え次の歌を詠む。「わが心池水に似たりけれ濁り澄むこと定めなくして」(『続後拾遺集』巻19、釈教歌)、「われはただ仏にいつか葵草(あふひくさ)心の端(つま)に掛けぬ間ぞなき」(『新後拾遺集』巻18、釈教歌)
 南北朝時代、1382年、相国寺建立に伴い、神宮寺は一条通小川(一条通油小路北、現上京区元百万遍町、知恩寺付近)に移される。その後、現在地には井水だけが残された。相国寺塔頭・松鷗軒(しょうおうけん)の所有になる。近代、1872年、松鷗軒が廃寺になり、井戸桁だけが残された。井戸は一時所在不明になったともいう。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 説明版、『京都・山城寺院神社大事典』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺   周辺相国寺   関連知恩寺  関連上賀茂神社  関連延暦寺・黒谷青龍寺(左京区)    
法然水 〒602-0898 京都市上京区相国寺門前町699

50音索引,Japanese alphabetical order  Home   50音索引,Japanese alphabetical order  Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光