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 長得院 〔相国寺〕 (京都市上京区)
Chotoku-in Temple
長得院  長得院
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庫裏
 相国寺境内の北西に塔頭・長得院(ちょうとくいん)がある。 
 臨済宗相国寺派。
◆歴史年表 室町時代、1410年、応永年間(1394-1428)とも、相国寺19世・鄂隠慧かつ(がくいん えかつ)が創建した。当初は大幢院と称した。
 1425年、5代将軍・足利義量が亡くなる。長得院殿と号し、当院を影堂として寺号も法号に因み長得院と改める。以後、香火所となる。
 江戸時代、1788年、天明の大火で焼失する。
 1820年、現在の庫裡が再建される。
 1834年、旧慈受院よりの金170両の援助で現在の客殿が再建された。
◆鄂隠慧かつ 室町時代の臨済宗の僧・鄂隠慧かつ(がくいん えかつ、1366‐1425)。筑後の生まれ。幼くして絶海中津により出家、その法嗣。1386年、入明、行中至仁、仲銘克新などに参じた。1387年、帰国、大内義弘に応じて周防・瑞雲寺を開き、細川頼之に招かれ阿波・宝冠寺、等持寺などに住した。1410年、相国寺19世、1414年、相国寺・鹿苑院の院主、1417年、天竜寺に住した。1418年、将軍・足利義持との不和のため土佐・吸江庵に隠遁、中興した当庵で没した。夢窓派。別号は関西。諡号は仏慧正続国師。 
*鄂隠慧かつの「かつ」は「大」の下に「歳」
◆足利義量 室町時代の5代将軍・足利義量(あしかが よしかず、1407-1425)。父・義持の長男、母は日野資康の娘・栄子。1417年、元服、正五位下、右近衛中将に叙任。1423年、父・義持を継ぎ17歳で将軍に任官、実権は義持が持ち続けた。1424年、従四位下に昇叙、右近衛中将如元、参議参議、右近衛中将美作権守兼任如元。1425年、正四位下に昇叙するが、直後に病死した。19歳。戒名は「長得院殿鞏山道基」。没後、1428年まで、義持が将軍代行する。没後の1457年、左大臣従一位を追贈。
◆岸徳
 江戸時代後期の画家・岸徳(がんとく、1804-1859)。号は岸連山(きし れんざん)。岸駒(がんく)の婿養子、1846年、岸岱(がんたい)と、豊岡・隆国寺の障壁画を制作する。1855年頃、安政度御所造営の障壁画制作に加わる。幕末画壇の「平安四名家」の一人として知られた。山水花鳥画を得意とした。
◆M. F. デントン 近代の教育者・M. F. デントン(Mary Florence Denton、1857-1947)。米国ネバダ州生まれ。ピューリタンの子孫。1887年、バサデナの小学校校長の時、帰国中の同志社教員・M.L.ゴートンと出会う。1888年、来日し、同志社女学校に在任した。1897年、出町幼稚園を開園した。巨額の寄付を集め、女学校などの教育設備を整える。キリスト教教育を勧め、「同志社女子部の母」といわれた。住居は「デントン・ハウス」と呼ばれた。
 墓は本人の遺志により相国寺・長得院にある。
◆文化財 朝鮮通信使、以酊庵の関連資料がある。
 朝鮮通信使による扁額「長得院」がある。
◆障壁画 方丈襖絵は岸徳の単独で描いた52面があり、代表作とされている。天保年間(1830-1844)の再建時に制作された。岸派の筆法を継承しながら、淡彩は柔和で装飾的な要素を強めている。
 方丈右手の杉戸に描かれた鳥は、雪の積もった針葉樹にとまる。下間(げんか)二之間に、水辺で母虎と遊ぶ虎児を描いた「水辺虎図」、下間一之間に「四人の老人図」、室中の間に「山水図」、上間二之間に「波涛鷲図」、上間一之間に「花鳥図」などがある。
◆庭園 方丈前庭は南、西にあり苔地に覆われ、延壇により構成される。
◆墓 鎌倉時代の第93代・後伏見天皇9世皇孫女の瑞珍女王(ずいちん)墓、江戸時代の第119代・光格天皇皇女の嘉糯宮(かたのみや)墓、近代の教育者・M. F. デントンの墓がある。


*普段は非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都の禅寺散歩』『同志社山脈』、当院サイト、『京の冬の旅 非公開文化財特別公開 ガイドブック』


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長得院 〒602-0898 京都市上京区相国寺門前町701,今出川通烏丸東入   075-231-7214 
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