慈雲院 〔相国寺〕 (京都市上京区)
Jiun-in Temple
慈雲院   慈雲院 
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庫裡



玄関







「富春」の扁額が掛る。
 相国寺の境外、北西に塔頭・慈雲院(じうんいん)がある。 
 臨済宗相国寺派。本尊は釋迦牟尼佛。
◆歴史年表
 室町時代、長禄年間(1457-1459)、瑞渓周鳳(ずいけい-しゅうほう、明教瑞溪)により創建された。当初は現在地の南東にあった。慈雲庵と呼ばていた。
 その後(年代不詳)、2世・黙堂壽昭が継ぐ。
 江戸時代、1745年、大典(だいてん、梅荘顕常)が住持になる。 
 1772年、大典は一時当院を離れ、この年に再び慈雲庵に帰る。
 1788年以降、9世・大典は、天明の大火被災後の相国寺復興に尽力する。
 近代、1869年、毀却し寺号は富春軒に移される。
 1924年、15世・琢堂周圭は、境内に和敬学園を創立する。
◆瑞渓周鳳 室町時代中期の臨済宗の僧・瑞渓周鳳(ずいけい-しゅうほう、1392-1473)。俗姓は伴、諡号は興宗明教禅師、号は臥雲(がうん)山人、羊僧、竹郷子、刻楮子(こくちょし)。和泉(大阪府)生まれ。1399年、応永の乱で父を失い、1404年、10歳で相国寺の無求周伸(むきゅう-しゅうしん)に参じ、1405年、受戒し天竜寺に属した。1413年、その法嗣になる。師の没後、厳中周噩(げんちゅう-しゅうがく)、天章澄(てんしょう-ちょういく)、惟肖得巌(いしょう-とくがん)らに師事し、五山文学を学ぶ。1416年-1417年、上杉禅秀(氏憲)の乱を調停した。6代将軍・足利義教に拝謁する。1436年、山城国・景徳寺の住持に任じられる。1437年、等持寺の住持、1438年、関東公方・足利持氏と上杉憲実の対立を義教の使として調停した。1439年、永享の乱後の処理のため、義教の命を受け関東に赴く。1441年/1440年、相国寺50世、1446年-1447年、1456年-1460年、1467年-1473年、相国寺・鹿苑院院主兼僧録に3度再任された。8代将軍・足利義政に重用され、幕府外交文書の作成、明への国書の起草も行う。外交史書『善隣国宝記』を編集、日記に『臥雲日件録』。諡号は興宗明教禅師。83歳。
 五山学芸を集大成した。門下に横川(おうせん)、綿谷(めんこく)、桃源(とうげん)ら文学僧が輩出した。
◆黙堂壽昭 室町時代の臨済宗の僧・黙堂壽昭(?-?)。詳細不明。慈雲院2世。相国寺に伝わる梵唄を校訂した。声明『観音懺法』などを残す。
◆梅荘顕常 江戸時代の臨済宗の学僧・梅荘顕常(ばいそう-けんじょう、1719-1801)。別号は大典(だいてん)、竺常、北禅老人、大典禅師。近江(滋賀県)の生まれ。8歳で黄檗山・華蔵院、11歳で相国寺・慈雲庵の独峰慈秀の侍者となる。宇野明霞(うの-めいか)、大潮元皓(だいちょう-げんこう)らに儒学、詩文を学んだ。1745年、独峰の法嗣、慈雲庵の住持。師・独峰没後、洛北洛東の寺庵に閑居した。1772年、慈雲庵に帰り、1779年、相国寺113世。京都五山碩学と朝鮮修文職を任じられる。対馬・以酊庵に住持として2年間赴任、南禅寺住持、1785年、幕府の辞令を受け江戸へ下る。朝鮮通信使に関する国書起草、朝鮮外交の幕府顧問となる。1788年、天明の大火で被災した相国寺の典籍再収集、寺の再建に尽力した。
 和歌、詩文に優れ池大雅の詩文の師、僧・漢詩人・六如慈周、画家・伊藤若冲を支援した。売茶翁と親交あり、その伝記「売茶翁伝」(『売茶翁偈語』の巻頭)を著す。木村蒹葭堂と清国の『煎茶訣』を刊行。代表作に『昨非集』(1761)。83歳。
◆琢堂周圭 近代の臨済宗の僧・琢堂周圭(?-?)。詳細不明。相国寺・慈雲院15世。一日一善を提唱し社会活動を行う。1917年、「衆善」誌を発刊。1924年、慈雲院内に社会福祉施設、和敬学園を創立する。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都の禅寺散歩』、当院ウェブサイト、ウェブサイト「コトバンク」


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慈雲院  〒602-0898 京都市上京区相国寺門前町703,烏丸通寺之内上ル東入ル  075-211-7735  
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