石峰寺(石峯寺) (京都市伏見区)
Sekiho-ji Temple
石峰寺  石峰寺
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総門




総門、龍宮造


本堂



本堂



本堂





庫裏

 七面(しちめん)山の西麓にある石峰(峯)寺(せきほうじ)は、山号は百丈山(ひゃくじょうざん)という。伊藤若冲ゆかりの寺として知られる。
 黄檗(おおばく)宗、本尊は薬師如来。
◆歴史年表 江戸時代、宝永年間(1704-1711)、1713年とも、萬福寺の千呆(せんがい)による創建という。禅道場であり、当初は大寺だった。
 寛政年間(1789-1801)、伊藤若冲は境内に庵を結ぶ。
 安永年間(1772-1780)半-天明年間(1776-1781)初年、1776年以降とも、若冲は7代・密山とともに石仏群を造立している。
 1798年、観音堂が完成する。大坂の富豪・武内新蔵が仏具などを寄進した。この頃、若冲は観音堂に「花卉図」を描く。
 幕末-1868年、観音堂が破却される。
 近代、1915年、火災により伽藍の多くを失う。
 現代、1979年、焼失する。
 1985年、現在の本堂が再建された。
◆千呆 江戸時代前期の渡来僧・黄檗千呆(せんがい、?-1705)。福建省に生まれた。雪峰崇聖寺・明の即非(1616-1671)について出家、1657年、即非と共に来日した。長崎・崇福寺2代、黄檗山万福寺6代住持となる。長崎の千人ガマで知られた。全国を托鉢して周った。
◆伊藤若冲 江戸時代の画家・伊藤若冲(いとう じゃくちゅう、1716-1800)。京都・錦小路の青物問屋「桝屋(ますや)」に生まれた。1738年、父没後、4代当主・桝屋(伊藤)源左衛門を襲名した。1751年頃、宝蔵寺に父母の墓をたてる。1752年頃、相国寺の僧・大典顕常より、若冲の居士号を与えられる。大典は若冲を支援した。萬福寺の中国僧・伯珣照浩とも交流した。1755年、40歳で家督を弟・宗巌に譲り、隠居し作画に入る。1758年頃、「動植綵絵」連作着手。1759年、鹿苑寺大書院障壁画を制作する。1764年、金比羅宮奥書院上段の間に描く。1765年、「動植綵絵」「釈迦三尊像」を相国寺に寄進(1770年完了)。宝蔵寺に亡弟の墓を立てた。1773年、萬福寺で道号「革叟」を授かる。1766年、相国寺に寿蔵を建てた。1767年、拓版画「乗輿舟」制作。1768年、『平安人物誌』に3番目に名が載る。1774年、若冲らが奔走し、錦市場の再開が許される。1776年頃、石峰寺五百羅漢の石像を制作を開始する。1788年、天明の大火で家を焼かれた。1790年、大坂・西福寺に襖絵「群鶏図」を描く。1791年(1790年とも)頃より、石峰寺の門前に草庵「斗米(とべい/とまい)庵」を結び、深窓真寂禅尼(心寂、末弟・宗寂の妻)と住んだ。斗米翁とも号した。名の由来は、米一斗(14kg)の謝礼で、墨画を描いたためという。一時、相国寺・林光院に住した黄檗宗・売茶翁(月海元昭)が、茶を売り一日の糧を得ていた逸話に倣ったものという。1798年、石峰寺の観音堂に天井画「花卉図」を描く。1800年、石峰寺に土葬され、相国寺で法要が行われた。
 商いに興味を抱かず、妻帯肉食を拒み、狩野派、中国宋元画、清国・南蘋派に学ぶ。障壁画、画巻、水墨画、木版、拓版画に及び、花鳥、特に鷄の写生に専念する。その画風により「奇想の画家」といわれた。石峰寺境内に墓がある。相国寺には生前墓の寿蔵がある。
◆本尊 かつての本尊の薬師如来は、天台宗の僧・恵心(942-1017)作ともいう。平安時代中期の清和源氏の六孫王経基の子で、武将の多田(源)満仲(912?-997)が念持仏としていた。満仲が建立した沙羅連石峰寺(摂州多田郷)に安置していた仏像という。
 1979年に焼失し、鈴木白峰禅師により、裏山の楠により新たに彫られた。
◆石峰寺と若冲 石峰寺と伊藤若冲の関わりは深い。 江戸時代、1791年(1790年とも)頃より、若冲は、石峰寺の門前に草庵「斗米(とべい/とまい)庵」を結び、深窓真寂禅尼(心寂、末弟・宗寂の妻)と住んだ。斗米翁とも号したのは、米一斗(14kg)の謝礼で、墨画を描いたためという。一時、相国寺・林光院に住した黄檗宗・売茶翁(月海元昭)が、茶を売り一日の糧を得ていた逸話に倣ったものという。
 境内に若冲が制作に関わった500-530体の石仏がある。かつて1000体あったという。2007年、石像30体が倒壊され、3体が破損している。釈迦如来像、十大弟子、羅漢、禽獣魚鳥など、若冲が釈迦の誕生から涅槃までの下絵を描き、寺の東の裏山に約10年をかけて石仏を彫った。7代住職・密山とともに造仏した、また石工に作らせたともいう。
 「来迎菩薩」「出山の釈迦」「十八羅漢」「説法場(釈迦、文殊、普賢)」「托鉢修行」「諸羅漢座禅屈」「涅槃場」「賽の河原」などの各場面がある。斜面下の1体は、若冲を表したといわれている。膝を立て体を横たえて周囲を眺めている。白川石製、像高200-200数十cm。
 若冲は、1791年に紙本墨画「石峰寺図」(京都国立博物館)を描いた。俯瞰した石峰寺の境内の様を独特の筆遣いで描く。門、金剛力士像、五百羅漢の石像群も描かれ、その設計図とも完成図ともいわれている。
 1798年、若冲は、石峰寺の観音堂に天井画「花卉図」を描いている。観音堂が完成し、大坂の富豪・武内新蔵が仏具などを寄進したことに感銘を受けて寄進したという。天井図は、後に石峰寺より移され、現在は信行寺(左京区)にある。
 1800年、若冲は石峰寺に土葬され、相国寺で法要が行われた。
◆文化財 伊藤若冲筆の紙本墨画「虎図」(112×56.6㎝)は、虎の全身ではなく、体前半分、前脚、後跡、尾などを簡潔に描く。薄い墨上に刷毛目で毛を描き、濃い墨で縞模様を入れた。前脚の指は筋目描きによる。虎の眉に特徴があり、大きな二つの白い楕円で表現されている。
◆墓 江戸時代の画家・伊藤若冲の墓碑には「斗米庵若冲居士」と刻まれている。
 江戸時代の儒学者、書家、文人画家としても知られた貫名海屋(ぬきな すうおう 、1778-1863)の筆塚もある。
◆花暦 桜、南天がある。
◆名水 寺の門前西、地蔵堂(深草大門町)の近くに、かつて「茶碗子(ちゃわんこ)の水」という名水があり、茶の湯にも用いられたという。2代住職・石門隠居跡、また、歓喜心院の井水ともいう。
◆年間行事 若冲忌(法要、若冲の掛軸など鑑賞できる。)(9月10日)。


*現在は羅漢像の写真撮影、スケッチなども禁止になりました。羅漢像の掲載写真はそれ以前に撮影したものです。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『京都・美のこころ』『古都歩きの愉しみ』『伏見学ことはじめ』『若冲の花』『若冲への招待』『週刊 日本の美をめぐる 13  驚異のまなざし伊藤若冲』


          ぬりこべ地蔵      錦市場       相国寺      伊藤若冲の生家跡       信行寺      金閣寺(鹿苑禅寺           

地蔵尊

1985年、地蔵尊の下の土中より発見されたマリア像という。最上部に十字架が刻まれ、下にマリア像らしきものが半肉彫りである。

宝塔

伊藤若冲の墓

伊藤若冲の墓

石仏群

 石峰寺 〒612-0883 京都市伏見区深草石峰寺町26  075-641-0792
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