慈照院 〔相国寺〕 (京都市上京区) 
Jisho-in Temple
慈照院 慈照院 
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山門


山門


山門「桂宮御牌所」


山門


山門


延段


枯山水式庭園、山門入って右にある枯山水式庭園。




庫裏


庫裏




玄関



本堂





本堂東の庭園



庭園、樹齢300年以上という陸船松(りくせんまつ)



庭園、大きな平石、礼拝石様



庭園、手前から本堂の縁と亀甲形の敷瓦(磚)、縁石、溝石(雨落ち)、苔地
 相国寺の北西にある相国寺塔頭・慈照院(じしょういん)は、足利義政の墓所(香火所)になっている。寺号は義政の法号「慈照院」に因む。
 臨済宗相国寺派。本尊は十一面観世音菩薩。
◆歴史年表 室町時代、1405年頃、相国寺13世・在中中淹(ざいちゅう ちゅうえん)が創建したという。当初は大徳院と称した。
 1490年、第8代将軍・足利義政の没後、当初、その遺骨は相国寺塔頭・大智院に安置されている。相国寺の塔頭は足利家歴代将軍の位牌所になっていた。義政の法号は、「慈照院殿准三宮贈大相国一品喜山道慶大禅定門」であり、焼香を行うための香火所の寺は、院名を法号としていた。だが、「慈照院」と改めることに大智院門徒の反対があったという。(『蔭涼軒日録』)。このため、同年、勅命、蔭涼軒院主・亀泉集証の尽力により、香火所は大徳院(塔主・景徐周麟)に決まり、寺号も「慈照院」と改められた。以後、義政の菩提所になり、遺骨も当院に遷された。(「大徳院被成慈照院最初時冝事」)。さらに、大徳院(塔主・景徐周麟)は、1491年に亡くなった8代将軍・足利義視の香火所だったため、その遺骨は大智院に遷されている。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、相国寺朱印高より30石1升あまりを配されていた。
 江戸時代初期、桂宮家菩提所になる。
 1629年、桂宮は御学問所を当院境内に建てる。 
 1632年、第7世・仏性本源国師・昕叔顕啅(きんしゅく けんたく)は、桂宮初代・智仁親王、2代・智忠親王との親交により、桂宮の御学問所(現在の書院・棲碧軒(せいへきけん)が下賜される。
 1671年、智仁親王妃・常照院殿の遺命により尾張徳川が現在の本堂を建造し桂宮御霊牌殿とした。
 1707年、第113代・東山天皇より宸殿一宇を贈られる。
 宝暦年間(1751-1764)、本堂が増築されたという。
 1763年、桂宮旧殿を贈られ、移築拡張し、広幡家は玄関などを改築した。
 近代、1883年、桂離宮の園林堂に安置されていた八条宮・桂宮家の位牌が慈照院に遷された。(『桂宮日記』)
 現代、1982年、住職が土蔵より朝鮮通信使が贈った襖に貼られた漢詩文、水墨画を発見した。
◆在中中淹 南北朝時代の臨済宗の僧・在中中淹(ざいちゅう ちゅうえん、1342-1428)。能登の人。南禅寺の竜湫周沢の弟子になり、後に比叡山に上り受戒、諸国遊学後、竜湫の法を嗣ぐ。相国寺、天龍寺、南禅寺住持。晩年は南禅寺の瑞雲庵に退隠した。
◆景徐周麟 室町時代の臨済宗の僧・景徐周麟(けいじょ しゅうりん、1440-1518)。父は大舘持房、母は赤松則友の娘。相国寺の用堂中材の法を嗣ぐ。応仁・文明の乱(1467-1477)で1467年、近江永源寺に逃れる。景徳寺、1495年、等持寺、相国寺住持、1496年、鹿苑院主になり僧録。1508年、相国寺に移り慈照院に退隠、当院に葬られた。詩文に秀で、学僧として知られた。
◆足利義政 室町幕府8代将軍・足利義政(あしかが よしまさ、1436-1490)。父・義教の暗殺、兄の早世により、9歳で家督を継ぎ、1449年、14歳で室町幕府8代将軍に就いた。1455年、正室となった日野富子との間に嫡子はなく、1464年、弟・義視(よしみ、義尋)を後継者とする。だが、翌1465年、実子・義尚の誕生により、将軍職を巡る抗争となった。義政側の山名宗全と、義視側についた細川勝元、さらに管領家の斯波、畠山氏、諸大名を巻き込んだ応仁・文明の乱(1467-1477)となった。1473年、義政は実権を8歳の子・義尚に譲り隠棲し、1485年、臨川寺三会院で得度している。最晩年の義政は、銀閣寺の造営に固執した。だが、1489年、後継者の義尚は24歳で早逝する。その跡を追うように、翌年、義政も急逝した。学問、芸術、和歌などに優れた。法名は道慶、後に道号は喜山、院号は慈照院。
◆仏性本源国師 江戸時代の臨済宗の僧・仏性本源国師(ぶっしょう ほんげん こくし、生没年不詳)。昕叔顕啅(きんしゅく けんたく)とも称した。日野輝資の子。有節瑞保に師事、法を嗣ぐ。相国寺を経て、鹿苑院の僧録司、第108代・後水尾天皇により召され、宮中での法要を行う。法皇帰依により、法塔を建て宸筆経を納める。皇后は金襴の袈裟を贈る。第111代・後西院天皇が国師の諡号を贈る。当院7世。桂宮初代・智仁親王、2代・智忠親王、千宗旦らと親交したという。
◆智仁親王 安土・桃山-江戸時代の皇族・智仁親王(としひと しんのう、1579-1629)。誠仁親王(陽光院)第6皇子、母は新上東門院。第107代・後陽成天皇の弟。豊臣秀吉の猶子になるが、1589年、鶴松の誕生により宮家を創立、八条宮と称した。1591年、親王宣下を受け元服、式部卿に任ぜられた。1601年、一品。和歌・連歌を好み、細川幽斎に学んだ。1625年、第108代・後水尾天皇に古今伝授を授ける。1615-1616年、創設した別邸は、2代智忠親王により桂離宮として完成された。四親王家のひとつ桂宮初代。
◆智忠親王
 江戸時代の皇族・智忠親王(としただ しんのう、1620-1662)。八条宮智忠親王。八条宮智仁親王第 1王子、母は丹後国主・京極高知の娘京極常子。八条宮(桂宮)第2代。1624年、第108代・後水尾天皇の猶子になり、1626年、親王宣下、忠仁(ただひと)と称し、後に智忠親王と改称する。1629年、元服、中務卿に任じられる。父没後、宮家を継承した。1642年、前田利常の娘・富子を妃とする。後嗣はなく、1654年、後水尾天皇第13皇子・穏仁親王を養子にした。1657年、二品。学問を好み、和歌、書に秀でた。父造営の別荘(桂離宮)を改修、整備した。
◆広幡忠幸 江戸時代の公卿・広幡忠幸(ひろはた  ただゆき、1624-1669)。父は八条宮智仁親王の第3王子、母は京極常子。1649年、尾張藩主・徳川義直長女・京姫と婚約、義直の猶子になる。1650年、元服、京姫と結婚し名古屋城へ移る。1660年、京都に戻る。1663年、第112代・霊元天皇より源姓を下賜、臣籍に下る(正親町源氏)。広幡の家号も与えられ初代当主になる。1665年、京都へ戻り、朝廷に出仕、従三位・権中納言、左中将、1667年、正三位、1668年、権大納言に就任した。
◆仏像 客殿(本堂)室中の仏間に、本尊「十一面観音立像」、礼の間(北)に中央に「開山像」、広畑家など宮家代々の位牌、右に江戸時代作の8代将軍・足利義政の木像、左に第7世・仏性本源国師・昕叔顕啅(きんしゅくけんたく)を安置する。
建築 江戸時代、1629年建立の桂宮の御学問所は、書院「棲碧軒(せいへきけん)」として当院に移された。智忠親王は昕叔顕啅に和漢を学んだ礼という。草庵風書院造で、桂離宮古書院と同じ様式になっており、当書院に倣ったといわれている。網代張りの腰高障子、格子の長欄間などが見られる。
 「客殿」は、桂宮初代・智仁親王3男・広幡忠幸(1624-1669)が尾張初代藩主・徳川義直(1601- 1650)の猶子になったことから、尾張家により江戸時代に建立された。尾州檜の材による。
 後に、広幡家により、「玄関」などが拡張されている。
◆茶室 茶室「頤神室(いしんしつ)」の名は、精神を養うの意味があるという。昕叔顕啅と茶人・千宗旦(1578-1658)の合作により、「宗旦好みの席」とも呼ばれている。
 南に庇内土間、四畳半の下座床で、南側に障子二枚引の貴人口のみがある。北西に床の間、炉は中央に切られている。北東に茶道口、二つの下地窓が開けられている。床には宗旦に化けたという衣裳を身に着けた「宗旦狐」の掛軸が掛かる。
 南東角に席内の持仏堂である「布袋堂」があり、普段は障子が閉められている。内に布袋像を安置し、像の首は千利休(1522-1591)の首と替えられるようになっていたという。これは、豊臣秀吉により切腹に追い込まれた利休を、密かに祀るための細工だったという。
 茶室「棲碧軒」がある。
◆宗旦狐 宗旦(そうたん)狐にまつわる伝承があり、相国寺には宗旦稲荷社が祀られている。
 安土・桃山時代-江戸時代の茶人・千宗旦(1578-1658)は、塔頭・慈照院に茶室を建てた。披露の日、来客があり茶席の時間に遅れた。だが、茶室ではすでに客人が歓談している。宗旦が遅れた詫びを入れると、来客は不審な顔をする。宗旦はすでに点前を済ませ、いま帰ったばかりだという。
 その後も、同じようなことが続いた。宗旦はある時、その偽の宗旦に直接問い詰めた。宗旦を名乗る茶人は、自分が境内の薮に住む白狐であること、日頃より宗旦宗匠の茶風に憧れ、その姿を借りて茶に親しんでいたと自白する。また、ある時、偽宗旦は本人の前で点前を披露し、その正体が露見した。だが、宗旦は偽宗旦の見事な点前に感心し、以後、狐を許し可愛がったともいう。
 ある時、その狐は猟師に撃たれて死んだという。人々は狐を手篤く葬った。幕末になり、伏見稲荷から神位を受け、慰霊のために境内に社に祀られたという。また、老狐が死ぬ前日、門前の豆腐屋を挨拶に訪れ、主人は好物の油揚げでもてなしたともいう。
 慈照院には、宗旦造営という茶室「頤神室(いしんしつ)」があり、宗旦狐の軸が掛けられている。また、窓は狐が逃げ出した際に破ったため、普通のものより大きくなったと伝えられている。
◆庭園 客殿(本堂)の東、南に表庭が広がる。
 表庭(本堂前庭)は、枯山水式庭園であり、庭の北東に比叡山を望む借景庭園になっている。だが、現在、借景はほぼ失われている。苔地に、樹齢300年以上という陸船松(りくせんまつ)といわれるクロマツが植えられている。その枝は低く南に広がり、礼拝石様の平石の上まで延びている。苔地は大海原とも雲海ともされ、その中を風を受けた船が進む様を表すともいう。灯籠、わずかな植栽がある。庭面南端に枯滝石組(神仙石組)、池泉があり、石灯篭がある。本堂より飛石が延びる。方丈落縁の床には、敷瓦、磚(せん)が敷かれ、亀甲型の六角になっている。キリシマツツジが植えられている。
 書院の南には露地庭(書院前庭)があり、苔に置かれた飛石は、弧を描いて茶室「頤神室(いしんしつ)」まで延びている。樹齢300年という胡蝶侘助は小ぶりの花片に白と赤が混じる。手水鉢は長方形に楕円形の水穴が穿たれている。石灯籠が立つ。
◆以酊庵輪番 江戸時代、朝鮮通信使(1607-1811)の日本訪問の際に、対馬では「対州修文職(たいしゅうしゅうぶんしょく)」が外交文書の起草、翻訳、検閲、接伴などに当たった。それらは「以酊庵(いていあん)輪番」と呼ばれ、南禅寺を除く京都五山の4寺の碩学僧侶が、1人ずつ2年交代で派遣されていた。その数は126番、88人になったという。
 当院からも通算で5人が遣わされた。そのうち第9世・別宗祖縁は、第7回(1682年)、第8回(1711年)に派遣された。第8回の際には大坂から江戸まで往復随行している。また、維天承瞻は、1764年に接伴した。
◆文化財 足利義政の遺品。江戸時代の木造・「足利義政像」(70㎝)がある。
 平安時代初期作の「灰釉四足壷」(重文)は、織田有楽斎が寄進したものという。
 鎌倉時代作の絹本著色「二十八部衆像」(重文)。室町時代、牧松筆、紙本墨画「達磨像」(重文)。南北朝時代作の東林筆、絹本著色「地蔵菩薩像」。室町時代作の「慈照院殿諒闇總簿」(重文)。14世紀後半の絹本著色「無学祖元像」(112×51.2㎝)。
 江戸時代、朝鮮通信使の関連資料がある。1711年、正使・趙泰億、従事官・李(南岡)邦彦、別宗祖縁和尚の交わした朝鮮料紙に記された書跡、別宗祖縁に贈られた「洪世詩稿(天和度)」、通信使が別宗祖縁に贈った巻物詩文「韓客詞章(正徳度)」(朝鮮通信使図資料として世界の記憶(世界記憶遺産)登録)、ほかの詩文、遺墨、絵画資料などがある。 
 狩野派のものという「桜図屏風」「梅図屏風」がある。
 1982年、住職・久山隆昭が土蔵より襖4枚に貼られた大量の漢詩文、土蔵を発見した。江戸時代、1811年、最後の朝鮮通信使より当寺に贈られたものだった。現在は、屏風に仕立てられている。
◆墓 八条宮智仁親王(1579-1629)、八条宮智忠親王(1620-1662)など、桂宮家、広幡家累代の墓所になっている。

足利義政の遺骨 大智院→大徳院(慈照院に改め)
足利義視の遺骨 大徳院→大智院


*普段は非公開。5人以上で事前申し込みにより拝観も可。
*建物内、一部の建物は撮影禁止。
*参考文献 『拝観の手引』『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『京都古社寺辞典』『京の禅寺を訪ねる』『第47回京の冬の旅 非公開文化財特別公開ガイドブック』『京都秘蔵の庭』『講座・人権ゆかりの地をたずねて 2005年講演録』『京の寺 不思議見聞録』『週刊 京都を歩く 32』



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庭園、枯山水式

枯滝石組

本堂から見える桂宮西ノ墓地に立てられている宝篋印塔2基。

庭園、借景としての比叡山の山頂、現在の眺望は失われている。


書院南の路地庭、飛石は弧を描いて茶室にまで延びている。

手水鉢

茶室「頤神室(いしんしつ)」


胡蝶侘助、樹齢300年。春の彼岸に満開になる。



【参照】寺に隣接している桂宮東ノ墓地、宝篋印塔。
安土・桃山時代-江戸時代の誠仁親王第6皇子・智仁(としひと)親王(1579-1629)、江戸時代の八条宮智仁親王第1王子・智忠(としただ)親王(1619-1662)、第108代・後水尾天皇皇子・穏仁(やすひと)親王(1643-1665)、智仁親王妃・常照院(じょうしょういん)、第111代・後西天皇皇子・長仁(おさひと)親王(1655-1675)、後西天皇皇子・尚仁(なおひと)親王(1671-1689)、第112代・霊元天皇第10皇子・作宮(さくのみや、1689-1692)など7墓がある。


【参照】桂宮西ノ墓地、宝篋印塔。
江戸時代の第112代・霊元天皇第7皇子・京極宮文仁親王(第6代)(1680-1711)、家仁親王妃・基子、公仁親王妃・室子女王(しつこ)、文仁親王第1王子・家仁(やかひと)親王(1703-1768)、家仁親王の第1王子・公仁(きんひと)親王(1733-1770)、公仁親王妃・寿子(ながこ)、第119代・光格天皇の第4皇子・盛仁(たけひと)親王(1810-1811)、第120代・仁孝天皇皇子・節仁(みさひと)親王(1833-1836)など8墓がある。


【参照】初来日400周年に再現された朝鮮通信使の行列、四条大橋(2007年11月3日)、朝鮮通信使は江戸時代、1607年-1811年まで12回、400-500人の一行が漢城(ソウル)から対馬、京都、江戸へと向かった。時に対馬止まり、京都止まり、また日光まで行くこともあった。
平安京オーバレイマップ
 慈照院 〒602-0898 京都市上京区相国寺門前町703,今出川通烏丸東入る北側  075-441-6060

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