梨木神社 (京都市上京区) 
Nashinoki-jinja Shrine
梨木神社 梨木神社
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神門




神門
 京都御所の東隣(旧御苑内梨木町)にある梨木神社(なしのき じんじゃ)の地には、かつて旧三条邸が隣接してあった。境内に萩が咲き誇り、萩の社、萩の宮と呼ばれた。境内には名水「染井」が湧水する。
 祭神は公家・五摂家の一つで、尊皇攘夷派の公家・三条実万(さねつむ)、その子・実美(さねとみ)、猿ヶ辻の変で暗殺された姉小路公知を合祀する。
 三条実万・実美父子はともに和漢の学を修めた。特に実万は今天神(菅原道真)と讃えられ、学業成就、学問の神として知られる。「愛の木」とされるカツラがあり、葉がハート形をしている。旧別格官幣社。
◆歴史年表 近代、1885年、久邇宮朝彦(くにのみや あさひこ)の発議(令旨)により、 三条実万の邸宅跡に創祀される。社名は旧三条邸の地名梨木町に因む。別格官幣社になる。
 1925年、京都御所で第123代・大正天皇即位の大典が挙行され、それに伴い、実万の子・実美が合祀された。
◆三条実万 江戸時代後期-近代の公卿・三条実万(さんじょう さねつむ、1802-1859)。三條實萬。三条公修の子。子に三条公睦、三条実美ほか。1824年、権大納言、1848年、武家伝奏として対米政策について幕府と交渉を重ねる。1857年、内大臣、1859年、日米修好通商条約への勅許を巡り関白・九条尚忠と対立、左大臣・近衛忠煕とともに参内停止を命じられた。だが、孝明天皇は参内の勅命を下す。1859年、安政の大獄で一乗寺村に幽居になる。その後、出家し澹空と号した。「今天神」と呼ばれ、光格、仁孝、孝明天皇に仕えた。没後、1862年、右大臣、1899年、正一位が追贈された。
◆三条実美 江戸時代末-近代の公卿・政治家・三条実美(さんじょう さねとみ、1837-1891)。三条実万の子。梨堂と号す。家臣の尊攘志士・富田織部、漢学者で志士の池内大学に学ぶ。1859年、安政の大獄で父・実万が辞官後、公家尊攘派の中心になる。1862年、正使として攘夷の勅書を江戸幕府将軍に授ける。副使は姉小路公知だった。従三位、権中納言。1863年8月18日の政変で京都から長州に下った。(七卿落ち)。1865年、太宰府に移り、幽居する。1867年、王政復古後、1868年、岩倉と共に副総裁に就任。関東鎮撫の責任者になる。1871年、太政大臣、1885年、内大臣に就任した。1889年、内閣総理大臣も2か月間代行している。国葬が行われる。
◆姉小路公知 江戸時代末期の公家,宮廷政治家・姉小路公知(あねがこうじ きんとも、1863-1840)。父は左近衛少将・姉小路公前(きんさき)。屋敷は猿ヶ辻南向いにあった。1858年、老中・堀田正睦が条約勅許を求めて上洛中に反対し、88廷臣の列参奏上に参加。1860年、桜田門外の変後、1862年、同志の廷臣と共に、和宮降嫁の責任を問い久我建通、岩倉具視らを弾劾した。長州藩・尊攘派志士の支持を受け、三条実美と共に攘夷派廷臣の指導者になる。勅使・実美のもと副使として江戸に赴き、攘夷の督促と親兵設置の勅書を伝達した。国事御用掛になる。1863年、国事参政が新設され就任した。攘夷期日の設定を主張し、14代将軍・徳川家茂の上洛後、賀茂社行幸、石清水行幸に随従し幕府を困らせた。大坂湾を巡検し海防について勝海舟に意見を求めた。5月20日深夜、御所の朝議の帰途中、朔平門外で暗殺された。犯人は薩摩藩・田中新兵衛と推定されたが自刃し不明。
「平安神宮」建立計画 御所を挟んだ東西に、同時期に、梨木神社と護王神社が対をなして創建された。この件について、岩倉具視(1825-1883)の仙洞御所跡への「平安神宮」建立計画との関連を指摘する見方もある。
 1883年、岩倉没後、宮内省は、後の平安神宮創建を念頭において、左右の近侍神として梨木神社(祭神・三条実万)と護王神社(祭神・和気清麻呂)を創祀した。
◆染井の水 境内に湧く「染井(そめのい)」は、「洛中三名水」といわれた佐女牛井(さめがい)、京都御所の県井(あがたい、縣井)の一つとされている。また、「御所三名水」の祐井、縣井の一つという。現在も湧水しているのはこの染井だけになった。
 染井の歴史は平安時代にまで遡る。第55代・文徳天皇の明子皇后(828-900、藤原明子)の里、御所井戸として掘られた。その後、宮中での染物にも使われたことから名の由来になった。
 なお、御所内にも同じ謂れの「染殿井」が残されている。「染井」に因み、後世に名づけられたともいう。
◆染井の后 秀麗だった「染井の后」・藤原明子には逸話が残されている。
 物の怪に憑かれた后は、大和金剛山から聖人を招き、加持祈祷させると病は平癒した。だが、道ならぬ仲になり、聖人は山へ追い返される。しかし、鬼と化身した聖人は再び舞い戻り、后のもとへ通いつめたという。(『今昔物語』)
◆萩 萩の名所としても知られ、例年、萩まつり(9月16-18日)が行われている。
 500株の萩が咲く。枝には俳句の書かれた短冊が下げられる。紅白の萩の花、狂言や舞踊などが奉納されている。
◆上田秋成翁終焉地 境内に「上田秋成翁終焉地」の鞍馬石歌碑が立つ。「ふみよめば 絵を巻きみれば かにかくに 昔の人の しのばるるかな」とある。江戸時代の国学者・上田秋成(1734-1809)は、『雨月物語』などを執筆した。後に京都に移住し、友人で歌人・羽倉信美(はくら のぶよし、1750-1827)邸で亡くなる。墓は南禅寺西の西福寺にある。
 羽倉は伏見稲荷大社の神職であり、小沢蘆庵の門下だった。その実際の屋敷は、境内の南東に近接する元百万遍付近(広小路下る東桜町、寺町通荒神口上る東側)にあったといわれている。ここには、江戸時代、1661年まで百万遍知恩寺(左京区)があった。
◆句碑 物理学者・湯川秀樹(1907-1981)の歌碑が二の鳥居脇に立つ。「千年の昔の園もかくやありし木の下かげに乱れさく萩」。湯川は、東京に生まれた。境内北の染殿町で少年期を過ごした。
◆映画 現代劇映画「二人日和」(監督・野村惠一、2004年、野村企画)の撮影が行われた。神祇装束司・黒田玄(栗塚旭)は、唯一の道楽であるコーヒーを炒れるために染井の水を汲みにくる。
◆文学 梨木神社と京都御苑の間の小道には、かつて中川といわれる川が流れ、「中川わたり」と呼ばれた。参道から蘆山寺にかけてあり、紫式部の曾祖父・堤中納言の「堤邸」があった。
 『源氏物語』第6帖「末摘花(すえつむはな)」巻では、末摘花が常陸宮邸、花散里(はなちるさと)などの邸宅に暮らした。第3帖「空蝉」巻では、光源氏と空蝉は道ならぬ恋仲になり夫の邸で逢う。空蝉に紫式部の姿が投影されているという。紫式部はこの付近で物語を紡ぎ始めた。
◆樹木 エノキ、カツラ(愛の木)、ハクウンボクがある。
◆年間行事 春季例祭(舞楽久米舞の奉納)(4月18日)、萩まつり(献詠短冊と鈴虫の献饌、献花大蔵流狂言「萩大名」、舞楽の奉納)(9月16日-18日)、秋季例祭(舞楽久米舞の奉納)(10月10日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『京都古社寺辞典』『京都の寺社505を歩く 上』『京都府の歴史散歩 上』『源氏物語を歩く旅』『京都絵になる風景』『京の社』『京都歴史案内』『紫式部と平安の都』『京都 神社と寺院の森』『週刊 京都を歩く 44 京都御所周辺』


   京都御所      護王神社     周辺      五条大橋・佐女牛井      西福寺      百萬遍知恩寺(知恩寺)        
 

神門



拝殿


拝殿


中門

中門



中門

本殿

萩まつり(9月下旬)






校倉

「宝祚之隆当与天壌無窮者矣」

参集館
旧春興殿

茶室「虚中庵」

茶室「虚中庵」

手水舎





染井の水

「上田秋成翁終焉地」の碑、「ふみよめば 絵を巻きみれば かにかくに 昔の人の しのばるるかな」と詠まれている。

【参照】上田秋成が最晩年を過ごした、友人で歌人・羽倉信美(1750-1827)邸があったという東桜町。

頌徳碑

物理学者・湯川秀樹(1907-1981)の歌碑が二の鳥居脇に立つ。「千年の昔の園もかくやありし木の下かげに乱れさく萩」。

桂の木(愛の木)

桂の木の葉がハート形をしている。
 梨木神社 〒602-0844 京都市上京区染殿町,寺町通広小路上る 075-211-0885
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