孝明天皇御衣更処御茶室址・明治天皇御幼少時御遊庭蹟 (京都市左京区)  
Resting place for Emperor Komei
孝明天皇御衣更処御茶室址 孝明天皇御衣更処御茶室址
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「賀茂御祖神社御参詣時 孝明天皇御衣更処御茶室址・明治天皇御幼少時御遊庭蹟」の石標

 下鴨神社の西に「賀茂御祖神社御参詣時(かもみおや-じんじゃ-ごさんけいじ) 孝明天皇御衣更処御茶室址(こうめいてんのう-おころもがえ-の-ところ-おちゃしつ-あと)・明治天皇御幼少時御遊庭蹟(めいじてんのう-ごようしょうじ-ごゆうてい-あと)」の石標が京都市により立てられている。
 江戸時代後期に、第121代・孝明天皇が上賀茂神社・下鴨神社両社に攘夷祈願した際の旧跡ではないかとみられている。
◆歴史年表 江戸時代、1854年、4月6日(新暦5月2日)、嘉永の大火により内裏は炎上する。第121代・孝明天皇は、下鴨神社に避難した。以後、下鴨神社は一時期、仮御所とされた。
 1863年、3月11日(新暦4月28日)、孝明天皇は上賀茂神社・下鴨神社両社に攘夷祈願の行幸をしている。
◆孝明天皇 江戸時代後期の第121代・孝明天皇(こうめい-てんのう、1831-1867) 。統仁(おさひと)。京都の生まれ。第120代・仁孝天皇の第4皇子、母は新待賢門院藤原(正親町)雅子(なおこ)。1840年、立太子、1846年、幕府に海防要請の勅旨を出した。1847年、即位する。父の遺志により公家の学問所(学習院)を創設する。石清水臨時祭で勅旨を遣わし外国勢力打ち払いを行う。1850年、伏見稲荷大社など七社七寺に国家安泰などを祈祷させた。1853年、ペリー来航以後、七社七寺に国家安泰などを外患祈祷させた。1854年、日米和親条約(神奈川条約)は許した。内裏が焼失する。平安神宮などに外患祈祷させた。1855年、御所の安政度の造営を幕府に通達する。1858年、日米修好通商条約で、老中・堀田正睦の条約調印の勅許は拒否した。幕府が独断で調印し、一時、天皇は譲位を表明する。条約調印を了承した。(条約勅許問題)。1860年、桜田門外の変後、将軍・徳川家茂と皇妹・和宮の婚姻を承認し、公武合体の立場をとった。幕府に10年内に鎖国に復することを条件にした。1861年、長井雅楽の政治外交思想「航海遠略策」を受理する。1862年、薩長土3藩主の要請に基づき、三条実美らを勅使として派遣し、幕府に攘夷を督促する。1863年、「攘夷断行」を幕府から上奏させる。長州藩の建議を受け、3月、上京した家茂を謁見する。家茂を従え237年ぶりに上賀茂神社・下鴨神社両社に行幸する。4月、攘夷祈願の石清水八幡宮への行幸を行う。8月、攘夷親政祈願の大和行幸を宣布する。八月十八日の政変で、攘夷派公卿の三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放した。(七卿の都落ち)。その後、宣布は撤回している。1864年、家茂に公武一和の協力を命じた。禁門の変の直後、長州追討を命じる。1865年、幕府の要請を受け長州再征を許可した。慶喜の強要を容れ条約を許可した。1866年、第二次長州征伐中に将軍・家茂が死去し、天皇は征長の停止を幕府に指示した。第15代将軍・慶喜の就任直後に疱瘡(ほうそう)で京都で没した。毒殺説も噂される。36歳。
 攘夷佐幕を主張した。公武合体策による攘夷、日米条約の破棄を意図した。岩倉具視ら公卿の王政復古倒幕論には批判的だった。歌を詠み、御集に『此花詠集』がある。
 陵墓は後月輪東山陵(東山区)になる。
◆下鴨神社参詣 江戸時代後期、1853年6月に、アメリカ使節ペリーが通商を求めて浦賀に来航した。黒船来航は幕府、人々に大きな恐怖心を与えた。
 1854年3月3日(新暦3月31日)の日米和親条約の締結後、4月6日(新暦5月2日)に、京都では嘉永の大火が起きている。女院御所から火の手が上がり禁裏(上京区)は炎上する。周辺の190余町も焼失した。
 孝明天皇は当初、下鴨神社(左京区)に避難している。警固はなく、数人の近臣と徒歩で移った。天皇自ら三種の神器を捧げていたという。以後、下鴨神社の神服殿が仮御所になる。皇后は細殿御所に、皇子・祐宮(さちのみや、第122代・明治天皇)は三井社舞殿に、和宮内親王など王女・宮は、禰宜、祝(はふり)の亭を仮御所にした。その後、天皇らは聖護院(左京区)に移っている。さらに、禁裏御所北側の桂宮邸(上京区)が仮御所にされた。
 1854年4月に、孝明天皇は石清水八幡宮(八幡市)に攘夷祈願の行幸をしている。12月にペリーが再来し、天皇は太政官符を出し、寺々の鐘を毀し大砲を鋳造するようにと命じた。
 1855年11月27日(新暦1月15日)、災異改元により「嘉永」から「安政」に変わる。災異改元とは、天災地変など凶兆とみられる現象が相次いだ際に、新しい年号に代えるもので陰陽道思想に基づいている。
 1858年には、安政の大火、安政のコレラが大流行している。1862年2月に、孝明天皇は、妹・皇女和宮が将軍・徳川家茂に降嫁することを認め公武合体を進めた。
 1863年3月11日(新暦4月28日)に、孝明天皇は小雨模様の中、将軍家茂、慶喜らを従え、上賀茂神社・下鴨神社両社に攘夷祈願行幸をした。この時、下鴨神社には御生神事(みあれ-しんじ)の際の馬具である唐鞍を寄進している。「異船の治まることをさらにいまふかくも頼む鴨の御社」と詠んだ。
 江戸幕府は第108代・後水尾天皇(1596-1680)を最後に、天皇が内裏の外に出ることを認めなかった。孝明天皇は237年ぶりに両社への行幸を決行し、その後の尊王倒幕の流れを促した。攘夷のためには江戸幕府を倒し、本来の統治者である天皇が、新たに政治を行う国家を意図していた。
◆石標 京都市により立てられた石標について、現時点で詳細はわかっていない。
 江戸時代後期、1863年の孝明天皇による下鴨神社への攘夷祈願行幸の史跡ではないかとみられる。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「近世京都の火災と復興-嘉永7年の大火と安政内裏造営期の京都-」、ウェブサイト「鴨社へ攘夷御祈願行幸 - 宮司挨拶詳細- 下鴨神社」、『京都の御大礼ー即位礼・大嘗祭と宮廷文化のみやび-』、『京都大事典』、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 孝明天皇御衣更処御茶室址 〒606-0804 京都市左京区下鴨松原町43
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