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厳島神社 (京都市上京区) Itsukushima-jinja Shrine |
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厳島神社 | 厳島神社 |
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![]() コンクリート小橋 ![]() 唐破風鳥居 ![]() 唐破風鳥居、最上部横木の笠木とその下に付く島木が共に、中央がやや上に膨らむ唐破風になっている。 ![]() ![]() 本殿 ![]() 本殿、「弁財天」の扁額 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 弁財天の絵馬 ![]() 弁財天の絵馬 ![]() ![]() 九条池(拾翠池、勾玉池)に架かる高倉橋 ![]() サルスベリ |
京都御苑内南端にある九条池の中島に、小社・厳島神社(いつくしま-じんじゃ)が建つ。一帯は五摂家の一つ九条家の旧邸跡で、境内は池泉回遊式庭園の一部になっていた。「池の弁天さん」とも呼ばれている。祇園女御ゆかりの社という。 祭神は宗像三女神を主祭神とする。市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、祇園女御を合祀している。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 平安時代、平清盛(1118-1181)が母・祇園女御のために、安芸の厳島神社を築島(摂津国莵原郡)に勧請したことに始まるという。 室町時代後期、11代将軍・足利義晴(1511-1550)により、京都の細川高国邸内に移された。 江戸時代、1771年、公卿・九条道前がその邸内(現在地)に移した。以後、同家の鎮守社になる。 1788年、天明の大火により焼失した。 近代、1869年、東京遷都以後、九条家は東京に移り、当社のみが残された。 1927年、現在の社殿が改築される。 1938年、石鳥居が重要美術品に認定された。 ◆祇園 女御 平安時代後期の祇園 女御(ぎおん-にょうご、 ?-?)。詳細不明。女性。祇園社脇の水汲み女、源仲宗の妻、仲宗の子・惟清の妻ともいう。白河法皇の寵妃・法皇の下級官女として仕え寵愛を受ける。1104年頃、藤原公実の娘・待賢門院璋子を養女とし、法皇の養女として育てる。1105年、祇園社の東南に阿弥陀堂を建て住した。1111年/1109年、仁和寺内に威徳寺を建立し晩年は移る。僧・禅覚を養子とした。1113年、六波羅蜜堂で一切経供養を営む。権勢を誇るが女御宣旨は下らず祇園女御と通称され、東御方、白河殿とも呼ばれた。 白河院が、ある事件での武勲により、平忠盛の思慮深さを愛で祇園女御を贈ったという。ただ、その時すでに女御は懐妊しており、法皇は女子であれば法皇が、男児であれば忠盛の子とするとしたという。男児であったため、忠盛が育てたのが平清盛だったという。(『平家物語』巻6「祇園女御」)。また、忠盛が賜ったのは女御の妹の方であり、清盛は妹と法皇の子ともいう。女御は養母であったともいう。 ◆足利 義晴 室町時代後期の室町幕府第12代将軍・足利 義晴(あしかが-よしはる、1511-1550)。男性。幼名は亀王丸、法号は万松院。室町幕府第12代将軍。近江・岡山城(滋賀県)の生まれ。父・義澄(よしずみ)の長子/次男。生後すぐに父を失い、播磨(兵庫県)・赤松義村の庇護下に育つ。1521年、将軍・足利義稙(よしたね)は執政・細川高国に追放される。高国は義晴を将軍に擁立した。実権はなかった。1530年、従三位大納言になる。1525年、北室町柳原に幕府を造営した。高国一族の内紛から、1526年、丹波の柳本賢治らが反し、1527年、桂川の戦で細川晴元・三好元長らに大敗した。高国と近江に逃亡し、各所に移る。1532年、晴元と和睦し、同母兄・義維政権を倒した。一向一揆、法華一揆、町衆の自治によって京都に入れず、1534年、還京した。1535年、法華一揆が潰滅し、三好長慶が台頭した。1536年、京都の御所に定住する。1546年、近江に逃れ実子・義藤(義輝)に将軍を譲る。1548年、摂津江口の戦で晴元が長慶に敗れ、1550年、近江で没した。40歳。 慈照寺(東山区)に葬送された。 ◆細川 高国 室町時代後期の武将・細川 高国(ほそかわ-たかくに、1484-1531)。男性。法号は道永、常桓。父・細川政春。室町幕府管領。民部少輔、右京大夫、武蔵守を歴任。細川政元の家督を巡る争いで澄元に付き、1507年、澄之を滅ぼす。1508年、国人ともに澄元も追放する。1508年、前将軍・足利義尹(義稙)復帰により右京大夫、管領に任じられた。1521年、将軍義稙を廃し、前将軍・足利義澄の子義晴を擁立した。1526年、香西元盛の殺害によりその兄弟らが挙兵、さらに三好勝長ら、之長の孫・元長らの堺進行により敗れた。摂津国天王寺で三好元長に敗れ自刃した。48歳。 ◆九条 道前 江戸時代中期の公卿・九条 道前(くじょう-みちさき、1746-1770)。詳細不明。男性。父・九条尚実。1753年、従三位。1759年、内大臣、1769年、従一位。25歳。 ◆建築 「本殿」は、近代、1927年に再建された。切妻造、平入銅板葺。 ◆唐破風鳥居 石造の「唐破風鳥居」が立つ。室町時代作とみられている。ほかに例がないとされ、「京都三鳥居」「京都三珍鳥居」(ほかに、北野天満宮伴氏社石鳥居、蚕の社三角鳥居)の一つとされている。 平安時代、築島(摂津国莵原郡)にあったともいう。室町幕府第12代将軍・足利義晴(1511-1550)が上洛の際に、武将・細川高国(1484-1531)邸内に移したという。江戸時代中期、1771年、公卿・九条道前(1746-1770)が、徳川幕府に請いその邸内(現在地)に移した。京都所司代交替の際には、鳥居を検査する定めがあったという。近代、1938年に重要美術品に認定された。 最上部の横木の笠木と、それに付く下の島木が共に唐破風になる。両柱は外へやや開く。明神鳥居を基本にして唐破風に仕立てたという。ただ、笠木、島木に反り増しはなく、笠木、島木ともに鼻は水切になる。花崗岩製、高さ2.5m。 ◆小橋 境内のある中島にコンクリート小橋が架けられている。 ◆高倉橋 九条池(拾翠池、勾玉池)に擬宝珠欄干付きの高倉橋が架かる。 近代、1878年に仮橋が架けられた。1882年に現在の橋が架かる。御所の建礼門から丸太町に出るための御幸道の計画により造られた。だが、その後計画は中止になっている。 旧三条大橋、五条大橋の橋脚を再利用している。かつて三条小橋の擬宝珠を載せていた。現在は、新調したものを使っている。長さ43m、幅3.3m。 ◆年間行事 例祭(6月15日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都大事典』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京の石造美術めぐり』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京をわたる 橋がつなぐ人と暮らし』、『京都御所・仙洞御所』、『京都歴史案内』、『京を彩った女たち』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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