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三条小橋 (京都市中京区) Sanjyo-kobashi Small Bridge |
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三条小橋 | 三条小橋 |
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![]() 三条小橋 ![]() ![]() ![]() 「佐久間象山先生遭難之碑・大村益次郎 先生遭難之碑」、三条小橋北東角 ![]() 近代、1912年12月竣工の親柱 ![]() 近代、1929年以前の三条小橋、吉野家(右)、大津屋(左)、三条小橋商店街振興組合の説明板より |
三条大橋の西、高瀬川に石橋の三条小橋(さんじょう-こばし)が架けられている。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、1590年、三条大橋が完成した。 1591年、三条小橋が架設される。 江戸時代、1711年、朝鮮人来聘のため、三条小橋は三条大橋とともに修復されている。(「京都御役所向大概覚書」) 近代、1882年、11月まで、旧三条小橋は架橋されていた。12月、京都御苑内の高倉橋に備え換えられた。(『大日本金石史 第3巻』) 明治期(1868-1912)、新三条小橋は、京都府により現在の西洋式石橋に架け替えられた。 ◆旧三条小橋 旧三条小橋は、江戸時代中期、1711年に朝鮮人来聘のため修復されている。修復奉行は平岡彦兵衛(?-?)、角倉与一(1571-1632)だった。修復費用は銀974匁4分であり、長さ4間3尺9寸、幅3間5尺5寸あった。(「京都御役所向大概覚書」) 近代の三条小橋の擬宝珠は、架け替えの際に京都府庁に引き取られている。1882年の京都御苑内九条邸跡の九条池(勾玉池)に架かる高倉橋に使用したという。(『坊目誌』)。 ◆三条西小橋 当時の三条小橋の擬宝珠の銘には、安土・桃山時代、「天正十九(1591年)暦辛卯 三条西小橋」と刻まれていたという。高瀬川に三条小橋として架橋される以前に、別の川に三条西小橋という名で架橋されていたとみられている。 三条通には、鴨川に架かる三条大橋の西に高瀬川があり、それに架る三条小橋があった。さらに西の京極通(現在の寺町通の東側を流れていた中川京極川)に架けられていた石橋の三条西小橋があったという。(『三条大橋 復刻版』) また、河原町から西は石橋町(中京区三条通寺町東入ル)と呼ばれた。「石はしノ丁」「石橋丁」「柳ノ下町」とも呼ばれている。石橋町の町名由来は、京極川に架けられていた石橋(三条西小橋?)に因むとの伝承があったという。(『坊目誌』) ◆三条小橋界隈 江戸時代には三条通(木屋町-河原町)は現在より道幅が狭く、現在の河原町以西の道幅と同じだったという。 江戸時代前期に、儒学者・本草学者・貝原益軒(1630-1714)は、三条小橋下より伏見に向かう舟が出ており、三条小橋から三条大橋の辺りまで旅籠屋が多かったと記している。(『京城勝覧』、1706年) 江戸時代後期に、後に浪士組を結成した志士・清河八郎(1830-1863)は、母を奉じた伊勢参りの旅で、三条小橋の傍らにあった「吉岡や」に泊まったと記している。(『西遊草』1855年)。三条小橋の北側には江戸時代から続く旅館「吉岡家」があった。 橋の南側には、江戸時代から続く「大津屋」、北側には池田屋騒動の「池田屋」もあった。池田屋の建物は昭和期(1926-1989)初期まで存在していたという。(三条小橋商店街振興組合) ◆歌謡 江戸時代の庶民の歌謡に、「面白いぞや三条(さんじょ)の橋は 上は糺の森見ゆる 三条小橋に待てとは云へど どこが三条の小橋やら」がある。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『京都市の地名』、ウェブサイト「レファレンス協同データベース」、三条小橋商店街振興組合の説明板、ウェブサイト「国立国会図書館デジタルコレクション」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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