|
|
賀陽宮・久邇宮墓地 (京都市東山区) Cemetery of Kayanomiya,Kuninomiya |
|
賀陽宮・久邇宮墓地 | 賀陽宮・久邇宮墓地 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 賀陽宮邦憲王妃・好子墓 ![]() |
泉涌寺境内の南に、賀陽宮・久邇宮墓地(かやのみや-くにのみや-の-ぼち)の宮墓地がある。 近代の皇族・賀陽宮初祖・賀陽宮邦憲王(かやのみや -くにのりおう)、その一族の墓7基がある ◆歴史年表 近代、1909年、賀陽宮邦憲王が亡くなる。この地に墓が造営され、賀陽宮墓地に埋葬された。(宮内庁公文書館) 1915年、6月26日、久邇宮発子女王が亡くなり、久邇宮墓地に葬られる。 1918年、6月18日、久邇宮賀彦王が亡くなる。6月27日、久邇宮光子女王が相次いで亡くなり、いずれも久邇宮墓地に葬られた。 1937年、10月1日、久邇宮多嘉王が亡くなり、久邇宮墓地に葬られた。 1941年、賀陽宮邦憲王妃・好子が亡くなり、賀陽宮墓地に葬られた。 現代、1959年、9月27日、久邇宮多嘉王妃・静子が亡くなり、久邇宮墓地に葬られる。 ◆賀陽宮邦憲王 江戸時代後期-近代の皇族・賀陽宮初祖・賀陽宮邦憲王(かやのみや-くにのり-おう、1867-1909)。幼称は巌宮(いわのみや)、巌麿。久邇宮(くにのみや、旧迩宮、中川宮)朝彦(あさひこ)親王の第2王子。母は家女房・泉亭静(いずみてい)枝子。神宮教院学寮に学ぶ。兄は幼少で亡くなる。自らも病身のため弟・邦彦(くによし)王を継嗣とし久邇宮家を譲る。1828年、神宮祭主に任じられた。1833年、宮家を創立した。1892年、賀陽宮の称号を賜わる。宮号は、朝彦親王邸の榧の木に由来した。同年、醍醐好子と結婚した。1900年、賀陽宮家を創立する。43歳。 墓は賀陽宮墓地(東山区)にある。 ◆好子 江戸時代後期-近代の皇族・賀陽宮邦憲王妃・醍醐好子(だいご-よしこ、1865-1941)。父・公卿・ 醍醐忠順(だいご-ただおさ)の第1女。母・不詳。1892年、賀陽宮邦憲王と婚姻した。1895年、由紀子女王、1900年、恒憲王、1903年、佐紀子女王を産む。1906年、勲一等宝冠章した。76歳。 墓は賀陽宮墓地(東山区)にある。 ◆多嘉王 近代の皇族・久邇宮多嘉王(くにのみや-たかおう、1875-1937) 。中川宮朝彦親王の第5王子。母は泉亭静枝子。西久邇宮の創設予定があったともいう。1909年、病いの兄・賀陽宮邦憲(くにのり)王に代わり、伊勢神宮の臨時祭主を務めた。1919年、神宮祭主に就く。63歳。 墓は久邇宮墓地(東山区)になる。 ◆静子 近現代の皇族・久邇宮多嘉王妃・静子(くにのみや-たかおうひ-しずこ、1884-1959)。子爵・水無瀬忠輔の長女。母は公卿・東園基敬(ひがしその もとゆき)の娘・富子。1907年、23歳で久邇宮多嘉王の妃になる。発子女王、賀彦王、珖子女王、恭仁子女王、家彦王、徳彦王の3男3女を産む。1937年、多嘉王が亡くなる。1947年、皇籍離脱し、久邇静子と名乗る。久邇洋裁学校(上京区河原町荒神口)を設立した。絵も描いた。75歳。 墓は久邇宮墓地(東山区)になる。 ◆発子女王 近代の皇族・久邇宮発子女王(くにのみや-はつこ-じょうおう、1911-1915)。多嘉王の第1王女、母は水無瀬静子。4歳。 墓は久邇宮墓地(東山区)にある。 ◆賀彦王 近代の皇族・久邇宮家賀彦王(くにのみや-よしひこ-おう、1912-1918)。多嘉王の第1王子、母は水無瀬静子。6歳。 墓は久邇宮墓地(東山区)にある。 ◆光子女王 近代の皇族・久邇宮光子女王(くにのみや-みつこ-じょうおう、1913-1918)。珖子(こうこ)。多嘉王の第2王女、母は水無瀬静子。5歳。 墓は久邇宮墓地(東山区)にある。 ◆久邇宮家 久邇宮(くにのみや)家は、1875年に伏見宮邦家(くにいえ)親王の第4王子・朝彦(あさひこ)親王(1824-1891)が創立した。 親王は青蓮院門跡であり、1863年に還俗し、中川宮(後に賀陽宮)と称した。明治維新の後、身分を停められる。1875年に、親王に復し宮家を再興する。山城国恭仁(くに)の地名に因み久邇宮と称した。 第2代・邦彦(くにひこ)王(1873-1929)、第3代・朝融(あさあきら)王(1901-1959)と継がれた。1947年に皇籍離脱し、久邇姓になった。 ◆賀陽宮家 賀陽宮(かやのみや)家は、1892年に久邇宮朝彦親王の第2王子・邦憲(くにのり)親王(1867-1909)が創始した。宮号は、朝彦親王が用いた旧称であり、邸内にあったカヤの老樹に因んでいる。1947年に2代・恒憲(つねのり)王(1900-1978)の時に皇籍離脱し、賀陽姓になった。 ◆墓 拝所は東端にあり、この位置から各墓を確認することは難しい。7基の墓は東西方向に並列している。いずれも南面する。円墳があり、前に鳥居が立てられている。 東端に2基の円墳が同じ石柵内に並んでいる。鳥居も立ち、右に賀陽宮邦憲王、左が賀陽宮邦憲王妃・好子墓になる。その西に同様の2基の円墳が並んでいる。左に久邇宮多嘉王、右に久邇宮多嘉王妃・静子が葬られている。円墳には葺石が施されている。西端には3基の小規模の円墳が並列している。王子、王女の墓になる。右より久邇宮賀彦王、久邇宮発子女王、久邇宮光子女王になる。いずれも夭逝している。 *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 ウェブサイト「宮内庁公文書館」、『宮家の時代』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|