淑子内親墓・守脩親王墓・朝彦親王墓 (京都市東山区)  
grave of the Princess Sumiko
淑子内親墓・守脩親王墓・朝彦親王墓 淑子内親墓・守脩親王墓・朝彦親王墓
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 泉涌寺境内の南西近くに、桂宮家11代(最後)・淑子(すみこ)内親王、久邇宮初代・朝彦(あさひこ)親王、梨本宮初代・守脩(もりおさ)親王の3基の宮墓地がある。
◆歴史年表 近代、1881年、9月1日、守脩親王が亡くなり、この地に墓が築造され葬られた。10月3日、淑子内親王が亡くなり葬られた。
 1891、10月25日、朝彦親王が亡くなり葬られた。
◆守脩親王 江戸時代末期-近代の皇族・梨本宮(なしもとのみや)初代・守脩親王(もりおさ しんのう、1819-1881)。幼称は万代宮。伏見宮貞敬親王の第10王子。母は不詳。伏見宮邦家親王の弟。1833年、親王宣下を受け、守脩と命名された。円満院に入り、出家し覚諄入道親王と称した。1856年、二品に叙せられる。1859年、円融院に入る。梶井門跡になり、昌仁入道親王に改めた。天台座主も務めた。1868年以降、還俗し、梶井宮守脩親王を名乗る。1869年、上野太守に任ぜられる。1870年、宮号を梨本宮に改称した。
 継嗣が無く、山階宮晃親王の王子・甥の菊麿王を養子にした。
 墓は泉涌寺内(東山区)にある。
◆淑子内親王 江戸時代後期-近代の桂宮家11代・淑子内親王(すみこ ないしんのう、1829-1881)。幼名は敏宮(ときのみや)、准后宮、桂准后。第120代・仁孝天皇の第3皇女。母は按察使典侍(あぜち ないしのすけ/ てんじ)・甘露寺妍子(かんろじ きよこ)。養父は異母弟・第10代・桂宮節仁(みさひと)親王。異母弟に第121代・孝明天皇。異母妹に和宮親子内親王。1840年、11歳で閑院宮愛仁(かんいんのみや なるひと)親王と婚約した。1842年、内親王宣下を受ける。その2日後に親王が亡くなりる。1863年、節仁親王が亡くなり、桂宮を継承した。女宮が当主として世襲親王家を継承した唯一例になる。1866年、准三宮(准后)、一品に叙される。桂准后宮(かつら じゅごうのみや)と呼ばれた。1881年、亡くなる。相国寺(上京区)で葬儀が執り行われ、泉涌寺(東山区)内に葬られた。桂宮邸(現在の二条城本丸御殿)に住んだ。能を愛好した。
 桂宮家は廃絶した。久邇宮朝彦親王は3男・世志麿(久邇宮邦彦王)に継がせようとしたが果たせなかった。
 墓は泉涌寺内(東山区)にある。
◆朝彦親王 江戸時代後期-近代の久邇宮(くにのみや)初代・朝彦親王(あさひこ しんのう、1824-1891)。父は伏見宮邦家親王、母は女房・鳥居小路信子。14歳で得度し、興福寺一乗院門跡門主になる。28歳で青蓮院門跡門主になる。1858年、日米修好通商条約に反対し、将軍に一橋(徳川)慶喜を推した。1858-1859年、安政の大獄により永蟄居処分になる。その後、赦免される。国事御用係に就き、宮号中川宮と称した。幕末、親幕派として、1863年、長州藩、尊王攘夷派公卿を京都より追放した。(八月十八日の政変)。賀陽宮に宮号を改めた。長州征伐は失敗し、1866年、将軍家茂、1867年、孝明天皇を失う。1867年、小御所会議では、長州派、尊攘派公卿らが復権し、親王は広島藩へ移された。1868年、維新後に復権し、久邇宮家を創設した。伊勢神宮の祭主を務める。1882年、伊勢に神宮皇學院(後の皇學院大学)を創設した。
 墓は泉涌寺内(東山区)にある。
◆墓 同域墓内に北東から南西に3基の墓が並立している。北(左)より守脩親王墓、淑子内親王墓、久邇宮朝彦親王墓になる。 
 いずれも拝所が設けられ、鳥居が立つ。その奥に自然石の墓石が立てられ、その背後に円墳がある。周囲は石柵で囲まれている。
 なお、墓地の西に隣接して賀陽宮(かやのみや)・久邇宮(くにのみや)墓地がある。
◆桂宮 安土・桃山時代-近代の宮家、桂宮(かつらのみや)は、世襲の四親王家(ししんのうけ)の一つになる。称号は当初の八条宮の後に、常盤井宮、京極宮、桂宮と変遷する。
 安土・桃山時代-江戸時代の誠仁親王(陽光院)の、第6皇子・智仁(としひと)親王(1579-1629)を初代にする。第106代・正親町天皇の皇孫にあたる。智仁親王は幼少で、豊臣秀吉の猶子になった。安土・桃山時代、1589年、秀吉に鶴松が誕生し、猶子は解消される。親王は親王家の取り立てを申請し、秀吉は所領(丹波山城、宇治)を献じた。1590年、八条宮が創立された。江戸時代、2代将軍・徳川秀忠は、山城国下桂川村に知行を贈る。親王は桂川の畔に別邸「桂山荘」を営んだ。継承した2代・智忠(としただ)親王(1619-1662)の時に完成した。現在の桂離宮になる。
 その後、第108代・後水尾天皇皇子の3代・穏仁(やすひと)親王(1643-1665)、第111代・後西天皇皇子の第4代・長仁(おさひと)(1655-1675)親王が継ぐ。
 第112代・霊元天皇皇子の第5代・尚仁(ひさひと)親王(1671-1689)には継嗣がなく、継嗣に予定されていた霊元天皇皇子・作宮(さくのみや、常磐井宮)も夭折した。このため、同元天皇皇子の6代・文仁(あやひと)親王(1680-1711)が継承し、京極宮(きょうごくのみや)に改めた。作宮の兄になる。
 その後、文仁親王の王子の第7代・家仁親王(1704-1768)、孫の第8代・公仁親王(1733- 1770)にも継嗣になく、第119代・光格天皇皇子の第9代・盛仁(たけひと)親王(1810-1811)が引き継ぎ、1810年に桂宮と改称した。第120代・仁孝天皇皇子の第10代・節仁(みさひと)親王(1833-1836)、続いて同皇女の第11代・淑子(すみこ)内親王(1829-1881)が継承する。近代、1881年、内親王が没したため、桂宮家は断絶した。
 桂宮家屋敷は京都御苑内の今出川門付近にあった。菩提寺は相国寺塔頭・慈照院(上京区)にある。内閣文庫に歌集『桂宮本万葉集(かつらぼん まんようしゅう)』がある。「五大万葉集」の一つで、現存最古の万葉集写本という。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』、サイト「宮内庁公文書館」、ウェブサイト「コトバンク」


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