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宇治陵 (京都府宇治市) Uji Mausoleum |
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宇治陵 | 宇治陵 |
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![]() 1号陵 ![]() 1号陵 ![]() 1号陵 ![]() 1号陵 ![]() 藤原氏栄域碑 ![]() 2号陵 ![]() 3号陵 ![]() 4号陵 ![]() 5号陵 ![]() 6号陵 ![]() 7号陵 ![]() 8号陵 ![]() 9号陵 ![]() 10号陵 ![]() 11号陵 ![]() 12号陵 ![]() 13号陵 ![]() 14号陵 ![]() 15号陵 ![]() 15号陵 ![]() 16号陵 ![]() 16号陵 ![]() 17号陵 ![]() 18号陵 ![]() 19号陵 ![]() 20号陵 ![]() 21号陵 ![]() 22号陵 ![]() 23号陵 ![]() 24号陵 ![]() 25号陵 ![]() 26号陵 ![]() 26号陵 ![]() 27号陵 ![]() 28号陵 ![]() 29号陵 ![]() 30号陵 ![]() 31号陵 ![]() 32号陵 ![]() 33号陵 ![]() 34号陵 ![]() 35号陵 ![]() 36号陵 ![]() 37号陵 |
宇治陵(うじ-りょう/うじ-の-みささぎ)は、宇治市の木幡(こはた)東方一帯に散在する古墳群を総称している。 埋葬者、埋葬地については各陵所ともに確定していない。現在は、平安時代中期-後期の藤原氏出身の皇室関係者(17陵3墓)の陵所とされている。おもに入内した子女20人であり、陵所は一帯に37カ所が散在し、総遥拝所は1号陵(宇治市木幡南山畑)になっている。 ◆歴史年表 詳細は不明。 古墳時代以来、一帯は付近住民の埋葬地になっていたと見られている。また、古く、一帯は木幡墓所(こわた-の-むしょ)と呼ばれていたという。 平安時代前期、元慶年間(877-885)、藤原基経(836-891)は、この地に藤原氏一門の埋骨所を営んだという。(「木幡寺鐘銘幷序(政事要略)」、『栄花物語』巻15) 平安時代中期、907年、旧6月8日、藤原温子(おんし)が亡くなった。 954年、旧1月4日、藤原穏子(おんし)が亡くなる。 964年、旧4月29日、 藤原安子(あんし)が亡くなる。 967年、旧3月2日、敦実(あつみ)親王が亡くなった。 975年、旧4月3日、藤原懐子(かいし)が亡くなる。 979年、旧6月3日、藤原媓子(こうし)が亡くなった。 982年、旧1月28日、藤原超子(ちょうし)が亡くなる。 平安時代後期、1002年、旧12月22日、藤原詮子(せんし)が亡くなる。 1005年、藤原道長(966-1027)は荒廃した墓地の整理を行い、木幡三昧堂(木幡寺、浄妙寺)を建立したという。 1007年、旧10月2日、敦道(あつみち)親王が亡くなった。 1017年、旧6月1日、藤原遵子(じゅんし)が亡くなる。 1025年、旧3月25日、藤原娍子(せいし)、旧8月5日、藤原嬉子(きし)が亡くなった。 1027年、旧9月14日、藤原妍子(けんし)が亡くなる。 1036年、旧9月6日、藤原威子(いし)が亡くなる。 1062年、旧6月22日、藤原茂子(もし)が亡くなる。 1068年、旧8月21日、藤原生子(せいし)が亡くなった。 1074年、 旧10月3日、藤原彰子(しょうし)が亡くなる。 1102年、旧8月17日、藤原歓子(かんし)が亡くなった。 1103年、旧1月25日、藤原苡子(いし)が亡くなる。 1127年、旧8月14日、藤原寛子(かんし)が亡くなる。 1164年、藤原忠通が東山月輪(東山区)に葬られ、以後、藤原氏の木幡の墓地は廃絶した。 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、山野には大小230基の古墳が点在していた。 近代、1877年、宮内庁は木幡陵(後に宇治陵)とし、藤原氏出身の皇室関係者20人の陵所とした。 ◆藤原 温子 平安時代前期-中期の女御・藤原 温子(ふじわら-の-おんし/よしこ、872-907)。女性。七条中宮、東七条院、東七条皇后、七条后。父・藤原基経(もとつね)、母・操子女王の3女。887年、基経と第59代・宇多天皇との間に起きた基経の参内拒否事件の阿衡(あこう)の紛議(阿衡事件)の収拾策として、888年、入内し第59代・宇多天皇の女御になった。890年、均子内親王を産む。893年、正三位。897年、宇多天皇の譲位により、第60代・醍醐天皇(実母・胤子)の継母として皇太夫人になり中宮と称した。905年、病により出家した。36歳。 東五条堀川院、朱雀院、東七条宮などに住む。和歌に優れ、歌壇の中心になる。歌人・伊勢は温子の女房だった。 深草山で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 穏子 平安時代前期-中期の中宮・藤原 穏子(ふじわら-の-おんし/やすこ、885-954)。女性。別称は五条后、皇太后、太皇太后。父・関白太政大臣・藤原基経、母・藤原得子(人康[さねやす])親王の娘)。899年、第60代・醍醐天皇の後宮に入り、901年、女御になる。903年、保明(やすあきら、崇象)親王、923年、寛明親王(第61代・朱雀天皇)を産む。皇后になった。926年、成明親王(第62代・村上天皇)、923年、康子内親王を産む。946年、朱雀天皇に譲位を迫り、皇太弟・成明親王(村上天皇)を即位させ、憲平親王の立太子に采配を振るう。日本最古の女性日記『太后御記』を著した。70歳。 皇太子、皇太孫の死去は菅原道真の祟りとされ、寛明親王は3歳まで御殿の格子も上げずに養育したという。国母として、兄の太政大臣・忠平と結び摂関全盛の時代をもたらした。醍醐寺五重塔を建立した。 鳥部野で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 安子 平安時代中期の中宮・藤原 安子(ふじわら-の-あんし/やすこ、927-964)。女性。父・藤原師輔(もろすけ)、母・盛子(藤原経邦の娘)。940年、東宮成明親王(第62代・村上天皇)と成婚し、女御になり従三位に叙された。946年、天皇即位により女御になる。952年、為平親王(第63代・冷泉天皇)、959年、守平親王(第64代・円融天皇)を産む。958年、立后し、皇后になる。964年、選子内親王を産み、難産のため亡くなる。その死は立太子を逸した広平親王の母・祐姫、祐姫の父・民部卿・藤原元方の「物の怪」によるとされた。38歳。 贈皇太后、太皇太后、従二位。3男4女(ほかに内親王の承子、輔子、資子、選子)を産む。後宮に勢力あり、兄弟の伊尹(これまさ)、兼通、兼家らの立身に貢献した。『大鏡』に村上天皇が師尹(もろただ)の娘・芳子を女御にしたことについて、安子の嫉妬について記されている。 愛宕郡東南の野で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆敦実 親王 平安時代前期-中期の皇子・敦実 親王(あつみ-しんのう、893-967)。男性。通称は六条式部卿宮、仁和寺宮、法名は覚真。父・第59代・宇多天皇、母・藤原胤子(いんし)の第8皇子。895年、親王になる。中務卿、式部卿を歴任した。950年、出家し、仁和寺に住んだ。75歳。 一品、宇多源氏の祖。和歌、和琴、楽琵琶、蹴鞠などをよくし、源家音曲の祖といわれた。 墓は宇治陵(宇治市)同域にある。 ◆藤原 懐子 平安時代中期の女御・藤原 懐子(ふじわら-の-かいし/かねこ、945-975)。女性。藤原伊尹(これただ)、母・恵子女王。東宮憲平親王(第63代・冷泉天皇)の更衣になる。964年、宗子内親王、966年、尊子内親王を産む。967年、冷泉天皇の即位により女御になった。968年、師貞親王(第65代・花山天皇)を産む。師貞は生後1カ月で第64代・円融天皇の皇太子になった。972年、父・伊尹の死により、後見を失った花山天皇は後に、藤原兼家の策略により2年で退位に追われる。974年、従二位に進む。31歳。 没後の984年、贈皇太后。 陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 媓子 平安時代中期の藤原 媓子(ふじわら-の-こうし/てるこ、947-979)。女性。堀河中宮。父・藤原兼通、母・昭子女王。973年、入内し、第64代・円融天皇の女御、皇后になる。皇子女には恵まれなかった。33歳。 鳥部野で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 超子 平安時代中期の藤原 超子(ふじわら-の-ちょうし/とおこ、?-982)。女性。御匣(みくしげ)殿。父・藤原兼家、母・時姫(藤原中正の娘)。道兼・詮子・道長の同母姉。968年、入内し、第63代・冷泉天皇の女御になる。父が公卿でない女御の初例になった。976年、居貞親王(第67代・三条天皇)、977年、為尊親王、981年、敦道親王、973年、光子内親王を産む。 従四位下。1011年、三条天皇の即位により皇太后を追贈された。 陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 詮子 平安時代中期-後期の女御・藤原 詮子(せんし/あきこ、962-1001)。女性。東三条院。父・太政大臣・藤原兼家、母・藤原時姫、藤原道長の姉。幼少期を東三条殿で過ごした。978年、第64代・円融天皇の女御になり、980年、従四位下に叙せられる。東三条邸で懐仁親王(第66代・一条天皇)を産む。だが、関白・藤原頼忠の娘・遵子に后の座を奪われ、父・兼家と共に里邸の東三条邸に篭り、天皇の召還にも応じなかった。986年、一条天皇の即位により、皇太后の宣下を受けた。991年、円融法皇が没し出家する。皇太后宮職を廃止し、太上天皇に準じ女院号の最初である東三条院を授けられる。1001年、四十賀(よそじのが、40歳になった祝い)が行われた。別当・藤原行成(ゆきなり)の邸で亡くなる。40歳。 鳥部野で火葬され、宇治山に納骨される。陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆敦道 親王 平安時代中期-後期の皇族・歌人・敦道 親王(あつみち-しんのう、981-1007)。男性。帥宮(そちのみや)。父・第63代・冷泉天皇、母・超子(ちょうし)(藤原兼家の娘)の第4皇子。993年、元服した。大宰帥(だざいのそち)になり、帥宮と呼ばれた。関白・藤原道隆の3女と結婚し、995年、道隆の没後に離婚した。正妃・藤原済時の次女と結婚後、1003年、兄・為尊親王の生前の交際相手である和泉式部と恋愛関係になる。召人として邸に住まわせ、正妃の怒りを買う。のちに離婚する。1006年頃、歌人・和泉式部との間に男子(岩蔵の宮、出家し永覚)を儲ける。27歳。 容姿端麗で和歌、漢詩をよくした。和泉式部との贈答歌が『和泉式部日記』におさめられている。勅撰歌人として、『新古今和歌集』に入集した。 墓は宇治陵(宇治市)同域にある。 ◆藤原 遵子 平安時代中期-後期の皇后・藤原 遵子(ふじわら-の-じゅんし/のぶこ、957-1017)。女性。弘徽殿(こきでんの)女御、四条中宮、子がなく素腹の后。父・藤原頼忠、母・厳子女王(代明親王の娘)。978年、女御になる。982年、第64代・円融天皇の皇后になり中宮を称した。997年、出家する。1000年、皇太后になった。1012年、太皇太后になる。61歳。 深く仏教に帰依した。 般若寺東北艮地で火葬され葬送された。1018年、木幡に納骨され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 娍子 平安時代中期-後期の皇后・藤原 娍子(ふじわら-の-せいし/すけこ、(972-1025)。女性。娀子、宣耀殿女御、堀河女御。父・藤原済時(なりとき)、母・源延光の娘。991年、第67代・三条天皇の東宮時代の妃になる。994年、敦明親王(小一条院)、997年、敦儀(あつのり)親王、999年、敦平親王、1005年、師明(もろあきら)親王、1001年、当子内親王、1003年、禔子(しし)内親王を産む。1011年、天皇即位により藤原道長の娘・妍子 (けんし)とともに女御になった。1012年、皇后になる。54歳。 雲林院西院の西北で火葬され、1026年、木幡に納骨された。陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 嬉子 平安時代中期-後期の妃・藤原 嬉子(ふじわら-の-きし/きよこ、1007-1025)。女性。父・藤原道長、母・源倫子。1015年、従三位。1018年、尚侍になる。1019年、着裳。1021年、東宮敦良親王(第69代・後朱雀天皇)に入る。1025年、病を患いつつ親仁親王(第70代・後冷泉天皇)を出産し、同年、亡くなった。19歳。 贈正一位。摂関家の権勢の維持拡大に寄与した。 1045年、後冷泉天皇の即位により皇太后を贈られた。 船岡の西野で火葬され、木幡に納骨された。陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 妍子 平安時代中期-後期の中宮・藤原 妍子(ふじわら-の-けんし、994-1027)。女性。枇杷(びわ)皇太后。父・藤原道長、母・源倫子の次女。1004年、尚侍、従三位に叙せられる。1010年、従二位に進み、東宮居貞親王(第67代・三条天皇)に入る。1011年、天皇の即位で娍子 (せいし) とともに女御になった。1012年、中宮になる。娍子も皇后になり、二后併立になった。1013年、禎子内親王(陽明門院)を出産する。父・道長は、天皇外戚として摂関の地位を確保しようとし、内親王の誕生を喜ばなかったという。1018年、皇太后になる。1027年、禎子内親王を東宮敦良親王(第69代・後朱雀天皇)に入れた。同年、死に臨み出家する。34歳。 大峯寺の前野で火葬され、木幡に納骨された。陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 威子 平安時代中期-後期の中宮・藤原 威子(ふじわら-の-いし/たけこ、999-1036)。女性。大中宮。父・藤原道長、母・源倫子(源雅信の娘)。第68代・後一条天皇の尚侍を経て、1018年、入内し、後一条天皇の女御になる。中宮・妍子を皇太后とし、威子は中宮になった。1027年、章子内親王(二条院)、1029年、馨子(けいし)内親王を産む。1036年、後一条天皇の没後、後を追うように亡くなる。38歳。 従二位。『栄花物語』に記されている。一時、威子、同母姉・太皇太后・彰子、皇太后・妍子と、藤原家から前代未聞の3人の后が立った。父・道長は立后の祝いの席上で、望月の歌「此の世をば我世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」とその栄華を詠んだ。 陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 生子 平安時代中期の女御・藤原 生子(ふじわら-の-せいし/なりこ/いくこ、1014-1068)。女性。梅壺女御、弘徽殿(こきでんの)女御。父・藤原教通(のりみち)、母・藤原公任(きんとう)の娘の長女。1018年、着袴、御匣殿別当になる。1039年、入内、正五位下に叙され、第69代・後朱雀天皇の女御になる。1044年、従三位、1045年、天皇没後は仏事に専心した。1046年、正二位、1050年、従一位に至る。1053年、出家した。55歳。 墓は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 茂子 平安時代中期の御息所(みやすどころ)・藤原 茂子(ふじわら-の-もし/しげこ、?-1062)。女性。滋野井御息所。父・藤原公成(きんなり)、藤原能信(よしのぶ)の養女。1046年、東宮(第71代・後三条天皇)妃になる。1053年、貞仁親王(第72代・白河天皇)、1050年、聡子内親王、1056年、俊子内親王、1057年、佳子内親王、1060年、篤子内親王を産む。 贈従二位、のち贈皇太后。 桜本で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 彰子 平安時代中期-後期の中宮・藤原 彰子(ふじわら-の-しょうし/あきこ、988-1074)。女性。上東門院彰子。父・公卿・藤原道長(966-1028)、母・倫子(りんし)(源雅信[まさのぶ]の娘)。999年、入内し、1000年、第66代・一条天皇の中宮になる。天皇には藤原道隆の娘・中宮・定子(ていし)がいた。二后併立のため、定子を皇后、彰子を中宮とした。1008年、敦成親王(第68代・後一条天皇)、1009年、敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を産む。1012年、皇太后、1018年、太皇太后宮になる。1026年、出家し、上東門院の院号宣下を受けた。1030年、法成寺(ほうじょうじ)無量寿院の傍に東北院を建立した。87歳。 後一条、後朱雀院、父・道長、妹・妍子(けんし)、威子(いし)、嬉子(きし)らに先立たれ、『栄花物語』に記されている。女官・歌人の紫式部(?-?)、和泉式部、((976頃-1036頃)、伊勢大輔(989?-1060)、赤染衛門(956?-1041)らの才媛を集めた。 大谷口で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 歓子 平安時代後期の皇后・藤原 歓子(ふじわら-の-かんし/よしこ、1021-1102)。女性。小野皇太后。父・藤原教通(のりみち)、母・藤原公任(きんとう)の娘の3女。1047年、入内し、1048年、第70代・後冷泉天皇の女御になる。1049年、皇子を死産した。1051年、准三宮になる。1068年、病に臥した後冷泉天皇は、歓子を皇后とし亡くなる。天皇の没後、出家し、小野の里に常寿院を建立し隠棲した。1072年、第72代・白河天皇即位に伴い皇太后に立てられる。1102年頃より、病気がちになり、念仏を修し、西に向かって亡くなったという。82歳。 琵琶、絵に秀でた。 鳥部野で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 苡子 平安時代後期の女御・藤原 苡子(ふじわら-の-いし、1076-1103)。女性。父・大納言・藤原実季(さねすえ)、母・睦子(藤原経平の娘)。養母は斎宮俊子内親王。1098年、入内し、第73代・堀河天皇の女御になる。1103年、宗仁親王(第74代・鳥羽天皇)を産み死去した。28歳。 1107年、鳥羽天皇の即位に伴い、皇太后を追贈された。 鳥部野で火葬され、木幡納骨、陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆藤原 寛子 平安時代後期の皇后・藤原 寛子(ふじわら-の-かんし/ひろこ、1030-1127)。女性。四条后、宇治大宮。父・関白・藤原頼通(よりみち)、母・藤原祇子(ぎし)。1050年、入内し、第70代・後冷泉天皇の女御になる。1051年、皇后になる。1068年、後冷泉天皇の没後に出家し、宇治・法定院に居住した。第71代・後三条天皇の即位に伴い、太皇太后に立てられる。藤原歓子の立后により中宮になる。1069年、皇太后に立てられた。92歳。 子に恵まれず、頼通の権勢崩壊する因になったという。「皇后宮春秋歌合」などを主催した。 宇治南の一坂東辺で火葬され、木幡に納骨された。陵所は宇治陵(宇治市)になる。 ◆宇治陵 宇治陵(うじ-りょう/うじの-みささぎ)は、京都府宇治市の木幡(こはた)東方一帯の地蔵山、御蔵山(みくらやま)周辺に散在する古墳群を総称している。個々の墳塚について埋葬者、埋葬地についてもすべて確定していない。現在は、藤原氏出身の皇室関係者(17陵3墓)とされ、おもに平安時代中期-後期に入内した子女の陵所になっている。陵域は南北1.8km、東西0.9km、総面積8万9332㎡ある。 一帯には、古墳時代以来、前方後円墳などがあり、付近住民の埋葬地になっていたと見られている。また、古く、一帯は「木幡墓所(こわた-の-むしょ)」と呼ばれたという。 平安時代前期、元慶年間(877-885)には、この地に人臣最初の関白になった藤原基経(836-891)が、藤原氏一門の埋骨所を営んだという。平安時代後期、1005年に、藤原氏全盛期の最頂点に立つ藤原道長(966-1027)は、墓地の整理を行っている。墓域のほぼ中央付近に、木幡三昧堂(木幡寺、浄妙寺)を建立し供養したという。以来、木幡での埋骨はおもに道長家系により占められ、藤原北家の菩提所になった。 道長家系の凋落とともに墓所、浄妙寺も次第に荒廃した。平安時代後期、1164年に藤原忠通(1097-1164)は東山月輪(東山区)に葬られており、以後、藤原氏が木幡に葬られることはなくなる。その後、陵所は廃絶した。 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、山野に大小320基の墓が点在していたという。近代、1877年に宮内省は付近の調査を行っている。当初は、「木幡陵」とし整備し、9世紀末-12世紀初頭の藤原氏出身の皇室関係者(皇后、中宮、女御、皇子)ら20人の陵所(17陵3墓)として治定した。墓域の320基の墳塚の中から37カ所のみを選び国有地化された。後に、これらを「宇治陵」とし、陵所には管理上の番号である1号陵-37号陵の番号が付けられた。なお、1号陵は総遥拝所に充てられている。 陵所のうち15号陵、29号陵は前方後円墳、ほかは円墳などになっている。23号陵(周囲1.1km)が最も大きく、陵所内に90余りの古墳(前方後円墳、円墳)を包括した変則陵墓になっている。次いで13号陵、26号陵の規模が大きい。 ◆被葬者 宇治陵の被葬者としては、第59代・宇多天皇中宮・温子、第60代・醍醐天皇皇后・穏子、第62代・村上天皇皇后・安子、第64代・円融天皇皇后・遵子、円融天皇皇后・媓子、第65代・花山天皇御母贈皇太后・懐子、第66代・一条天皇御母尊称皇太后詮子、一条天皇皇后皇后・彰子、第67代・三条天皇御母贈皇太后・超子、三条天皇皇后・媙子、三条天皇皇后皇后・妍子、第68代・後一条天皇皇后・威子、第70代・後冷泉天皇御母贈皇太后・嬉子、後冷泉天皇皇后・寛子、後冷泉天皇皇后・歓子、第72代・白河天皇御母贈皇太后・茂子、第74代・鳥羽天皇御母贈皇太后・苡子。 同域墓に、第59代・宇多天皇皇子・敦実親王墓、第63代・冷泉天皇皇子・敦道親王、第69代・後朱雀天皇女御・准后藤原生子。 ◆藤原氏栄域碑 「藤原氏栄域碑」は、1号陵のすぐ西側に立てられている。陵所内に被葬者として藤原氏の8人も宇治陵に包括されている。 碑の裏面に「伝寛弘2年(1005年)造立浄妙寺堂桂礎石 木幡区供与石塔婆共」とある。1951年8月に、藤原後裔有志・篤志者により立てられた。賛助として宇治市有志者、平等院、京阪電鉄・京阪自動車京阪宇治交通(株)の名がある。 藤原冬嗣(775-826)、藤原基経(836-891)(36号陵?)、藤原時平(871-909)(35号陵?)、藤原兼家(929-990)、藤原道隆(953-995)、藤原道長(966-1027)(32号陵?)、藤原頼通(992-1074)、藤原師実(1042-1101)らになる。 ◆遺跡発掘 現代、2025年5月に、宇治市は宇治市中心部、平等院の西側付近の宇治市街遺跡(宇治壱番26番ほか)での発掘調査(2024年12月-2025年4月)結果を発表した。 平安時代後期(12世紀)の大型井戸跡・小鍛冶関係遺構が見つかっている。確認された方形の井戸跡(一辺3.6m、深さ2m超)は、通常の井戸の3倍の大きさがあった。内部からは皿、椀、煮物用の羽釜、能登地方珠洲焼の壺破片などが出土した。井戸の南に藤原氏一族の別業邸宅があったことから、一族が宴を催した際に使用した井戸遺構とみられている。 平安時代後期の小鍛冶関係遺構は、小型炉1基(直径40㎝)、炭・焼け土を含む層があった。別業関連の手工業実態を知る手掛かりになるという。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『京都府の地名』、『昭和京都名所図会 7 南山城』、『京都事典』、ウェブサイト「新陵墓探訪記」、ウェブサイト「宇治市歴史まちづくり推進課」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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