宇治陵 (京都府宇治市)  
Uji Mausoleum
宇治陵 宇治陵 
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1号陵


1号陵


1号陵


1号陵


藤原氏栄域碑


2号陵


3号陵


4号陵


5号陵


6号陵


7号陵


8号陵


9号陵


10号陵


11号陵


12号陵


13号陵


14号陵


15号陵


15号陵


16号陵


16号陵


17号陵


18号陵


19号陵


20号陵


21号陵


22号陵


23号陵


24号陵


25号陵


26号陵


26号陵


27号陵


28号陵


29号陵


30号陵


31号陵


32号陵


33号陵


34号陵


35号陵


36号陵


37号陵


 宇治陵(うじ-りょう/うじ-の-みささぎ)は、宇治市の木幡(こはた)東方一帯に散在する古墳群を総称している。
 埋葬者、埋葬地については各陵所ともに確定していない。現在は、平安時代中期-後期の藤原氏出身の皇室関係者(17陵3墓)の陵所とされている。おもに入内した子女20人であり、陵所は一帯に37カ所が散在し、総遥拝所は1号陵(宇治市木幡南山畑)になっている。
◆歴史年表 詳細は不明。
 古墳時代以来、一帯は付近住民の埋葬地になっていたと見られている。また、古く、一帯は木幡墓所(こわた-の-むしょ)と呼ばれていたという。
 平安時代前期、元慶年間(877-885)、藤原基経(836-891)は、この地に藤原氏一門の埋骨所を営んだという。(「木幡寺鐘銘幷序(政事要略)」、『栄花物語』巻15)
 平安時代中期、907年、7月20日(旧暦6月8日)、藤原温子(おんし)が亡くなった。
 954年、2月9日(旧暦1月4日)、藤原穏子(おんし)が亡くなる。
 964年、6月11日(旧暦4月29日)、 藤原安子(あんし)が亡くなる。
 967年、4月14日(旧暦3月2日)、敦実(あつみ)親王が亡くなった。
 975年、5月16日(旧暦4月3日)、藤原懐子(かいし)が亡くなる。
 979年、6月29日(旧暦6月3日)、藤原媓子(こうし)が亡くなった。
 982年、2月24日(旧暦1月28日)、藤原超子(ちょうし)が亡くなる。
 平安時代後期、1002年、2月7日(旧暦12月22日)、藤原詮子(せんし)が亡くなる。
 1005年、藤原道長(966-1027)は荒廃した墓地の整理を行い、木幡三昧堂(木幡寺、浄妙寺)を建立したという。
 1007年、11月14日(旧暦10月2日)、敦道(あつみち)親王が亡くなった。
 1017年、6月27(旧暦6月1日)、藤原遵子(じゅんし)が亡くなる。
 1025年、4月25日(旧暦3月25日)、藤原娍子(せいし)、8月30日(旧暦8月5日)、藤原嬉子(きし)が亡くなった。
 1027年、10月16日(旧暦9月14日)、藤原妍子(けんし)が亡くなる。
 1036年、9月28日(旧暦9月6日)、藤原威子(いし)が亡くなる。
 1062年、7月30日(旧暦6月22日)、藤原茂子(もし)が亡くなる。
 1068年、9月20日(旧暦8月21日)、藤原生子(せいし)が亡くなった。
 1074年、 10月25日(旧暦10月3日)、藤原彰子(しょうし)が亡くなる。
 1102年、9月30日(旧暦8月17日)、藤原歓子(かんし)が亡くなった。
 1103年、3月5日(旧暦1月25日)、藤原苡子(いし)が亡くなる。
 1127年、9月24日(旧暦8月14日)、藤原寛子(かんし)が亡くなる。
 1164年、藤原忠通が東山月輪(東山区)に葬られ、以後、藤原氏の木幡の墓地は廃絶した。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、山野には大小230基の古墳が点在していた。
 近代、1877年、宮内庁は木幡陵(後に宇治陵)とし、藤原氏出身の皇室関係者20人の陵所とした。
◆藤原温子 平安時代前期-中期の女御・藤原温子(ふじわら-の-おんし/よしこ、872-907)。七条中宮、東七条院、東七条皇后、七条后。藤原基経(もとつね)の3女、母は操子女王。887年、基経と第59代・宇多天皇との間に起きた基経の参内拒否事件の阿衡(あこう)の紛議(阿衡事件)の収拾策として、888年、入内し第59代・宇多天皇の女御になった。890年、均子内親王を産む。893年、正三位。897年、宇多天皇の譲位により、第60代・醍醐天皇(実母・胤子)の継母として皇太夫人になり中宮と称した。905年、病により出家した。36歳。
 東五条堀川院、朱雀院、東七条宮などに住む。和歌に優れ、歌壇の中心になる。歌人・伊勢は温子の女房だった。
 深草山で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原穏子 平安時代前期-中期の中宮・藤原穏子(ふじわら-の-おんし/やすこ、885-954)。別称は五条后、皇太后、太皇太后。父は関白太政大臣・藤原基経、母は人康(さねやす)親王の娘/藤原得子。899年、第60代・醍醐天皇の後宮に入り、901年、女御になる。903年、保明(やすあきら、崇象)親王、923年、寛明親王(第61代・朱雀天皇)を産む。皇后になった。926年、成明親王(第62代・村上天皇)、923年、康子内親王を産む。946年、朱雀天皇に譲位を迫り、皇太弟・成明親王(村上天皇)を即位させ、憲平親王の立太子に采配を振るう。日本最古の女性日記『太后御記』を著した。70歳。
 皇太子、皇太孫の死去は菅原道真の祟りとされ、寛明親王は3歳まで御殿の格子も上げずに養育したという。国母として、兄の太政大臣・忠平と結び摂関全盛の時代をもたらした。醍醐寺五重塔を建立した。
 鳥部野で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原安子 平安時代中期の中宮・藤原安子(ふじわら-の-あんし/やすこ、927-964)。藤原師輔(もろすけ)の娘、母は藤原経邦の娘・盛子。940年、東宮成明親王(第62代・村上天皇)と成婚し、女御になり従三位に叙された。946年、天皇即位により女御になる。952年、為平親王(第63代・冷泉天皇)、959年、守平親王(第64代・円融天皇)を産む。958年、立后し、皇后になる。964年、選子内親王を産み、難産のため亡くなる。その死は立太子を逸した広平親王の母・祐姫、祐姫の父・民部卿・藤原元方の「物の怪」によるとされた。38歳。
 贈皇太后、太皇太后、従二位。3男4女(ほかに内親王の承子、輔子、資子、選子)を産む。後宮に勢力あり、兄弟の伊尹(これまさ)、兼通、兼家らの立身に貢献した。『大鏡』に村上天皇が師尹(もろただ)の娘・芳子を女御にしたことについて、安子の嫉妬について記されている。
 愛宕郡東南の野で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆敦実親王
 平安時代前期-中期の皇子・敦実親王(あつみ-しんのう、893-967)。通称は六条式部卿宮、仁和寺宮、法名は覚真。第59代・宇多天皇の第8皇子、母は藤原胤子(いんし)。895年、親王になる。中務卿、式部卿を歴任した。950年、出家し、仁和寺に住んだ。75歳。
 一品、宇多源氏の祖。和歌、和琴、楽琵琶、蹴鞠などをよくし、源家音曲の祖といわれた。
 墓は宇治陵(宇治市)同域にある。
◆藤原懐子 平安時代中期の女御・藤原懐子(ふじわら-の-かいし/かねこ、945-975)。藤原伊尹(これただ)の娘、母は恵子女王。東宮憲平親王(第63代・冷泉天皇)の更衣になる。964年、宗子内親王、966年、尊子内親王を産む。967年、冷泉天皇の即位により女御になった。968年、師貞親王(第65代・花山天皇)を産む。師貞は生後1カ月で第64代・円融天皇の皇太子になった。972年、父・伊尹の死により、後見を失った花山天皇は後に、藤原兼家の策略により2年で退位に追われる。974年、従二位に進む。31歳。
 没後の984年、贈皇太后。
 陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原媓子 平安時代中期の藤原媓子(ふじわら-の-こうし/てるこ、947-979)。堀河中宮。藤原兼通の娘、母は昭子女王。973年、入内し、第64代・円融天皇の女御、皇后になる。皇子女には恵まれなかった。33歳。
 鳥部野で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原超子 平安時代中期の藤原超子(ふじわら-の-ちょうし/とおこ、?-982)。御匣(みくしげ)殿。藤原兼家の娘、母は藤原中正の娘・時姫。道兼・詮子・道長の同母姉。968年、入内し、第63代・冷泉天皇の女御になる。父が公卿でない女御の初例になった。976年、居貞親王(第67代・三条天皇)、977年、為尊親王、981年、敦道親王、973年、光子内親王を産む。
 従四位下。1011年、三条天皇の即位により皇太后を追贈された。
 陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原詮子 平安時代中期-後期の女御・藤原詮子(せんし/あきこ、962-1001)。東三条院。太政大臣・藤原兼家の娘、母は藤原時姫、藤原道長の姉。幼少期を東三条殿で過ごした。978年、第64代・円融天皇の女御になり、980年、従四位下に叙せられる。東三条邸で懐仁親王(第66代・一条天皇)を産む。だが、関白・藤原頼忠の娘・遵子に后の座を奪われ、父・兼家と共に里邸の東三条邸に篭り、天皇の召還にも応じなかった。986年、一条天皇の即位により、皇太后の宣下を受けた。991年、円融法皇が没し出家する。皇太后宮職を廃止し、太上天皇に準じ女院号の最初である東三条院を授けられる。1001年、四十賀(よそじのが、40歳になった祝い)が行われた。別当・藤原行成(ゆきなり)の邸で亡くなる。40歳。
 鳥部野で火葬され、宇治山に納骨される。陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆敦道親王 平安時代中期-後期の皇族・歌人・敦道親王(あつみち-しんのう、981-1007)。帥宮(そちのみや)。第63代・冷泉天皇の第4皇子、母は藤原兼家の娘・超子(ちょうし)。993年、元服した。大宰帥(だざいのそち)になり、帥宮と呼ばれた。関白・藤原道隆の3女と結婚し、995年、道隆の没後に離婚した。正妃・藤原済時の次女と結婚後、1003年、兄・為尊親王の生前の交際相手である和泉式部と恋愛関係になる。召人として邸に住まわせ、正妃の怒りを買う。のちに離婚する。1006年頃、歌人・和泉式部との間に男子(岩蔵の宮、出家し永覚)を儲ける。27歳。
 容姿端麗で和歌、漢詩をよくした。和泉式部との贈答歌が『和泉式部日記』におさめられている。勅撰歌人として、『新古今和歌集』に入集した。
 墓は宇治陵(宇治市)同域にある。
◆藤原遵子 平安時代中期-後期の皇后・藤原遵子(ふじわら-の-じゅんし/のぶこ、957-1017)。弘徽殿(こきでんの)女御、四条中宮、子がなく素腹の后。父は藤原頼忠の娘、母は代明親王の娘・厳子女王。978年、女御になる。982年、第64代・円融天皇の皇后になり中宮を称した。997年、出家する。1000年、皇太后になった。1012年、太皇太后になる。61歳。
 深く仏教に帰依した。
 般若寺東北艮地で火葬され葬送された。1018年、木幡に納骨され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原娍子 平安時代中期-後期の皇后・藤原娍子(ふじわら-の-せいし/すけこ、(972-1025)。娀子、宣耀殿女御、堀河女御。藤原済時(なりとき)の娘、母は源延光の娘。991年、第67代・三条天皇の東宮時代の妃になる。994年、敦明親王(小一条院)、997年、敦儀(あつのり)親王、999年、敦平親王、1005年、師明(もろあきら)親王、1001年、当子内親王、1003年、禔子(しし)内親王を産む。1011年、天皇即位により藤原道長の娘・妍子 (けんし)とともに女御になった。1012年、皇后になる。54歳。
 雲林院西院の西北で火葬され、1026年、木幡に納骨された。陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原嬉子
 平安時代中期-後期の妃・藤原嬉子(ふじわら-の-きし/きよこ、1007-1025)。藤原道長の娘、母は源倫子。1015年、従三位。1018年、尚侍になる。1019年、着裳。1021年、東宮敦良親王(第69代・後朱雀天皇)に入る。1025年、病を患いつつ親仁親王(第70代・後冷泉天皇)を出産し、同年、亡くなった。19歳。
 贈正一位。摂関家の権勢の維持拡大に寄与した。
 1045年、後冷泉天皇の即位により皇太后を贈られた。
 船岡の西野で火葬され、木幡に納骨された。陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原妍子 平安時代中期-後期の中宮・藤原妍子(ふじわら-の-けんし、994-1027)。枇杷(びわ)皇太后。藤原道長の次女、母は源倫子。1004年、尚侍、従三位に叙せられる。1010年、従二位に進み、東宮居貞親王(第67代・三条天皇)に入る。1011年、天皇の即位で娍子 (せいし) とともに女御になった。1012年、中宮になる。娍子も皇后になり、二后併立になった。1013年、禎子内親王(陽明門院)を出産する。父・道長は、天皇外戚として摂関の地位を確保しようとし、内親王の誕生を喜ばなかったという。1018年、皇太后になる。1027年、禎子内親王を東宮敦良親王(第69代・後朱雀天皇)に入れた。同年、死に臨み出家する。34歳。
 大峯寺の前野で火葬され、木幡に納骨された。陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原威子 平安時代中期-後期の中宮・藤原威子(ふじわら-の-いし/たけこ、999-1036)。大中宮。藤原道長の娘、母は源雅信の娘・源倫子。第68代・後一条天皇の尚侍を経て、1018年、入内し、後一条天皇の女御になる。中宮・妍子を皇太后とし、威子は中宮になった。1027年、章子内親王(二条院)、1029年、馨子(けいし)内親王を産む。1036年、後一条天皇の没後、後を追うように亡くなる。38歳。
 従二位。『栄花物語』に記されている。一時、威子、同母姉・太皇太后・彰子、皇太后・妍子と、藤原家から前代未聞の3人の后が立った。父・道長は立后の祝いの席上で、望月の歌「此の世をば我世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」とその栄華を詠んだ。
 陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原生子 平安時代中期の女御・藤原生子(ふじわら-の-せいし/なりこ/いくこ、1014-1068)。梅壺女御、弘徽殿(こきでんの)女御。藤原教通(のりみち)の長女、母は藤原公任(きんとう)の娘。1018年、着袴、御匣殿別当になる。1039年、入内、正五位下に叙され、第69代・後朱雀天皇の女御になる。1044年、従三位、1045年、天皇没後は仏事に専心した。1046年、正二位、1050年、従一位に至る。1053年、出家した。55歳。 
 墓は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原茂子 平安時代中期の御息所(みやすどころ)・藤原茂子(ふじわら-の-もし/しげこ、?-1062)。滋野井御息所。藤原公成(きんなり)の娘、藤原能信(よしのぶ)の養女。1046年、東宮(第71代・後三条天皇)妃になる。1053年、貞仁親王(第72代・白河天皇)、1050年、聡子内親王、1056年、俊子内親王、1057年、佳子内親王、1060年、篤子内親王を産む。
 贈従二位、のち贈皇太后。
 桜本で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原彰子 平安時代中期-後期の中宮・藤原彰子(ふじわら-の-しょうし/あきこ、988-1074)。上東門院彰子。公卿・藤原道長(966-1028)の娘、母は源雅信(まさのぶ)の娘・倫子(りんし)。999年、入内し、1000年、第66代・一条天皇の中宮になる。天皇には藤原道隆の娘・中宮・定子(ていし)がいた。二后併立のため、定子を皇后、彰子を中宮とした。1008年、敦成親王(第68代・後一条天皇)、1009年、敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を産む。1012年、皇太后、1018年、太皇太后宮になる。1026年、出家し、上東門院の院号宣下を受けた。1030年、法成寺(ほうじょうじ)無量寿院の傍に東北院を建立した。87歳。
 後一条、後朱雀院、父・道長、妹・妍子(けんし)、威子(いし)、嬉子(きし)らに先立たれ、『栄花物語』に記されている。女官・歌人の紫式部(?-?)、和泉式部、((976頃-1036頃)、伊勢大輔(989?-1060)、赤染衛門(956?-1041)らの才媛を集めた。
 大谷口で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原歓子 平安時代後期の皇后・藤原歓子(ふじわら-の-かんし/よしこ、1021-1102)。小野皇太后。藤原教通(のりみち)の3女、母は藤原公任(きんとう)の娘。1047年、入内し、1048年、第70代・後冷泉天皇の女御になる。1049年、皇子を死産した。1051年、准三宮になる。1068年、病に臥した後冷泉天皇は、歓子を皇后とし亡くなる。天皇の没後、出家し、小野の里に常寿院を建立し隠棲した。1072年、第72代・白河天皇即位に伴い皇太后に立てられる。1102年頃より、病気がちになり、念仏を修し、西に向かって亡くなったという。82歳。
 琵琶、絵に秀でた。
 鳥部野で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原苡子 平安時代後期の女御・藤原苡子(ふじわら-の-いし、1076-1103)。大納言・藤原実季(さねすえ)の娘、母は藤原経平の娘・睦子。養母は斎宮俊子内親王。1098年、入内し、第73代・堀河天皇の女御になる。1103年、宗仁親王(第74代・鳥羽天皇)を産み死去した。28歳。
 1107年、鳥羽天皇の即位に伴い、皇太后を追贈された。
 鳥部野で火葬され、木幡納骨、陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆藤原寛子 平安時代後期の皇后・藤原寛子(ふじわら-の-かんし/ひろこ、1030-1127)。四条后、宇治大宮。関白・藤原頼通(よりみち)の娘、母は藤原祇子(ぎし)。1050年、入内し、第70代・後冷泉天皇の女御になる。1051年、皇后になる。1068年、後冷泉天皇の没後に出家し、宇治・法定院に居住した。第71代・後三条天皇の即位に伴い、太皇太后に立てられる。藤原歓子の立后により中宮になる。1069年、皇太后に立てられた。92歳。
 子に恵まれず、頼通の権勢崩壊する因になったという。「皇后宮春秋歌合」などを主催した。
 宇治南の一坂東辺で火葬され、木幡に納骨された。陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆宇治陵 宇治陵(うじ-りょう/うじの-みささぎ)は、京都府宇治市の木幡(こはた)東方一帯の地蔵山、御蔵山(みくらやま)周辺に散在する古墳群を総称している。個々の墳塚について埋葬者、埋葬地についてもすべて確定していない。現在は、藤原氏出身の皇室関係者(17陵3墓)とされ、おもに平安時代中期-後期に入内した子女の陵所になっている。陵域は南北1.8km、東西0.9km、総面積8万9332㎡ある。
 一帯には、古墳時代以来、前方後円墳などがあり、付近住民の埋葬地になっていたと見られている。また、古く、一帯は「木幡墓所(こわた-の-むしょ)」と呼ばれたという。
 平安時代前期、元慶年間(877-885)には、この地に人臣最初の関白になった藤原基経(836-891)が、藤原氏一門の埋骨所を営んだという。平安時代後期、1005年に、藤原氏全盛期の最頂点に立つ藤原道長(966-1027)は、墓地の整理を行っている。墓域のほぼ中央付近に、木幡三昧堂(木幡寺、浄妙寺)を建立し供養したという。以来、木幡での埋骨はおもに道長家系により占められ、藤原北家の菩提所になった。
 道長家系の凋落とともに墓所、浄妙寺も次第に荒廃した。平安時代後期、1164年に藤原忠通(1097-1164)は東山月輪(東山区)に葬られており、以後、藤原氏が木幡に葬られることはなくなる。その後、陵所は廃絶した。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、山野に大小320基の墓が点在していたという。近代、1877年に宮内省は付近の調査を行っている。当初は、「木幡陵」とし整備し、9世紀末-12世紀初頭の藤原氏出身の皇室関係者(皇后、中宮、女御、皇子)ら20人の陵所(17陵3墓)として治定した。墓域の320基の墳塚の中から37カ所のみを選び国有地化された。後に、これらを「宇治陵」とし、陵所には管理上の番号である1号陵-37号陵の番号が付けられた。なお、1号陵は総遥拝所に充てられている。 陵所のうち15号陵、29号陵は前方後円墳、ほかは円墳などになっている。23号陵(周囲1.1km)が最も大きく、陵所内に90余りの古墳(前方後円墳、円墳)を包括した変則陵墓になっている。次いで13号陵、26号陵の規模が大きい。
◆被葬者 宇治陵の被葬者としては、第59代・宇多天皇中宮・温子、第60代・醍醐天皇皇后・穏子、第62代・村上天皇皇后・安子、第64代・円融天皇皇后・遵子、円融天皇皇后・媓子、第65代・花山天皇御母贈皇太后・懐子、第66代・一条天皇御母尊称皇太后詮子、一条天皇皇后皇后・彰子、第67代・三条天皇御母贈皇太后・超子、三条天皇皇后・媙子、三条天皇皇后皇后・妍子、第68代・後一条天皇皇后・威子、第70代・後冷泉天皇御母贈皇太后・嬉子、後冷泉天皇皇后・寛子、後冷泉天皇皇后・歓子、第72代・白河天皇御母贈皇太后・茂子、第74代・鳥羽天皇御母贈皇太后・苡子。
 同域墓に、第59代・宇多天皇皇子・敦実親王墓、第63代・冷泉天皇皇子・敦道親王、第69代・後朱雀天皇女御・准后藤原生子。
◆藤原氏栄域碑 「藤原氏栄域碑」は、1号陵のすぐ西側に立てられている。陵所内に被葬者として藤原氏の8人も宇治陵に包括されている。
 碑の裏面に「伝寛弘2年(1005年)造立浄妙寺堂桂礎石 木幡区供与石塔婆共」とある。1951年8月に、藤原後裔有志・篤志者により立てられた。賛助として宇治市有志者、平等院、京阪電鉄・京阪自動車京阪宇治交通(株)の名がある。
 藤原冬嗣(775-826)、藤原基経(836-891)(36号陵?)、藤原時平(871-909)(35号陵?)、藤原兼家(929-990)、藤原道隆(953-995)、藤原道長(966-1027)(32号陵?)、藤原頼通(992-1074)、藤原師実(1042-1101)らになる。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都府の地名』、『昭和京都名所図会 7 南山城』、『京都事典』、ウェブサイト「新陵墓探訪記」ウェブサイト「コトバンク」


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 総遥拝所(1号陵) 〒611-0002 京都府宇治市木幡南山畑34-1
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