天授庵 〔南禅寺〕 (京都市左京区)
 Tenju-an Temple
天授庵  天授庵  
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「開山大明国師霊光塔」の碑











ツツジ


キキョウ






本堂


本堂、「天授庵」扁額








本堂西、建物は南禅寺三門、敷石






本堂東庭、正門、敷石




本堂東庭、石組






















本堂南庭
 南禅寺塔頭の天授庵(てんじゅあん)は、南禅寺境内の中央付近にある。南禅寺の開山・第1世・大明国師無関普門禅師を祀る南禅寺の開山塔になる。
 臨済宗南禅寺派。
◆歴史年表 鎌倉時代、この地には、駒道智大僧正(1193-1252)が建立した最勝院があった。
 1264年、亀山上皇(第90代)はこの地に離宮「禅林寺殿」を営む。
 1291年、1289年とも、禅寺になり、大明国師(無関普門)が開山になった。
 南北朝時代、1339年、1336年、1338年、1340年とも、南禅寺15世・虎関師練(こかん しれん)により、北朝第1代・光巌天皇の勅許を得て、開山・大明国師の塔所として創建された。塔は「霊光」、庵は「天授」と名付けられた。庭園も作庭される。
 室町時代、1393年、焼失した。
 1447年、南禅寺大火で焼失する。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失し、その後荒廃した。
 安土・桃山時代、1602年、南禅寺226世住持・玄圃霊三は、荒廃していた天授庵再興のために、弟子・雲岳霊圭を天授庵主とした。細川氏が後援し、再興される。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、1602年とも、霊三の知友・細川幽斎の援助を得て、方丈、正門、旧書院、塔などが再興された。以後、幽斎の廟所が造られるなど、細川家ゆかりの寺院になる。
 江戸時代、1853年、庫裏が再建される。
 近代、1868年、外国事務局出張所が置かれ、方丈はオランダ人の宿舎になる。
 1871年、細川家が神祭になり、位牌が引きあげられる。
◆亀山天皇  鎌倉時代の第90代・亀山天皇(かめやま てんのう、1249-1305)。第88代・後嵯峨天皇の第4皇子、母は藤原きつ子(きつし)(大宮院)。1259年、同母兄の第89代・後深草天皇の譲位により即位する。大覚寺統最初の天皇になる。だが、父が院政をしく。1274年、子の第91代・後宇多天皇に譲位し、自らも院政をしく。後深草天皇皇子・煕仁親王(第92代・伏見天皇)が後宇多天皇皇太子に迎えられ、後に皇位継承をめぐる大覚寺(亀山)と持明院(後深草)の両統対立がおこる。
 離宮・禅林寺殿に移り、落飾し、南禅寺を創建した。墓所は天龍寺境内に亀山陵、亀山公園に火葬塚がある。
◆駒道智大僧正
 鎌倉時代の駒道智大僧正(1193-1252)。鎌倉時代前期の公卿・摂政関白・九条道家(1193-1252)の子に生れたという。幼なくして比叡山で仏道修行に入り、天台密教の深奥を極めた。その後、三井寺(園城寺)の62世長更(管長)、かつて天台宗だった禅林寺(永観堂)の住持を務めたという。
 晩年、駒ヶ滝最勝院の地に移り住んだという。
◆虎関師錬 鎌倉時代-南北朝時代の臨済宗の僧・虎関師錬(こかん しれん、1278-1346)。京都に生まれた。父は藤原左金吾校尉、母は源氏。1285年、8歳で臨済宗聖一派三聖寺・東山湛照(とうざん たんしょう)に師事、1287年、比叡山で受戒した。1291年、師没後、南禅寺・規庵祖円、1293年、鎌倉・円覚寺の桃渓徳悟らに付く。京都の菅原在輔、六条有房より儒学を学ぶ。1295年、再び規庵に参じ、鎌倉に下向、円覚寺・無為昭元(むい しょうげん)、1297年、建仁寺・無隠円範、1299年南禅寺・規庵、1304年、東福寺・蔵山順空、無為昭元に学ぶ。1307年、円覚寺・無為、建長寺の一山一寧(いっさん いちねい)を尋ね、1312年、建長寺・約翁徳倹に参じた。1313年、後伏見上皇(第93代)の命により歓喜光院に住した。1314年、白河・済北庵、1316年、伊勢・本覚寺を開く。1324年、山城・円通寺、1326年、三聖寺に住し、1332年、伊勢・神賛寺の開山、東福寺に住した。1335年、三聖寺再住、1337年東福寺再住、1338年、三聖寺・如意庵を開く。1339年、南禅寺住持、1341年、東福寺・海蔵院に退き海蔵和尚と呼ばれた。1346年、洛北柏野(かしわの)・楞伽寺(りょうがじ)を建立する。海蔵院で亡くなり、済北庵、海蔵院に葬られた。諡号は本覚(ほんがく)国師。法嗣に性海霊見、龍泉令淬など多い。
 博覧強記の仏教史家であり儒学も修め、詩文を学び五山文学の先駆者とされた。1322年、日本初の仏教通史で漢文体の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』30巻を著す。
◆無関普門 鎌倉時代の臨済宗の僧・無関普門(むかん ふもん、1212-1291)。仏心禅師。諡号は大明国師。信濃国に生まれた。13歳で越後・正円寺で出家、剃髪。叔父の寂円に仕えた。19歳で上野国・長楽寺の栄朝から菩薩戒を受ける。関東、北越を遊歴し、東福寺開山・円爾(弁円)に参禅し、その法嗣になる。越後・華報寺を開創する。1251年、宋に渡り、けい叟如ぎょく、浄慈寺の断橋妙倫の印可を受けた。1262年、帰国。九州、京都、鎌倉、北越、越後、摂津など各地を歴住した。1281年、東福寺3世。1288年、亀山上皇(第90代)の離宮に出没した怪を降伏したとされる。1291年、南禅寺創建の際に、上皇に開山として招かれる。だが、病に罹り住坊の東福寺・龍吟庵に移る。上皇は禅師を見舞い、手づから薬湯を与えたが龍吟庵で亡くなった。
 遺骸は慧日山龍吟の岡に葬られる。龍吟庵は塔所になる。虎関師錬により南禅寺・天授庵(左京区)も禅師の塔所として建立された。
 遺偈「来たるに所従なく 去るに方所なし 畢竟如何 喝 当初を離れず」。
◆雲岳霊圭 鎌倉時代の僧・雲岳霊圭( ?-? )。若州前川城主・山形刑部少輔の子、母は幽斎の妻の姉妹になる。玄圃霊三の法継、霊三にとっては、兄の妻の姉の子にあたる。霊圭は天授庵主として復興し、聴松院も兼帯した。◆横井小楠 江戸時代後期-近代の思想家・政治家・横井小楠(よこい しょうなん、1869-1809)。名は時存(ときあり)。肥後藩士・横井時直の次男、母はかず。子に時雄。熊本藩士。藩校「時習館」で朱子学を学ぶ。29歳で居寮長に進む。1839年、江戸遊学し、佐藤一斎、藤田東湖らを知る。酒で失敗し、帰藩後、熊本に家塾「小楠堂」を開く。塾生第1号は徳富蘇峰の父・一敬だった。門人に嘉悦氏房らがいる。1843年頃より、長岡監物、元田永孚らと学問と政治を一致させた肥後実学党を結成した。藩政改革に失敗する。1851年、北陸遊歴、1852年、越前藩から求められ『学校問答書』を記した。1853年、ペリー来航後、攘夷論を唱えた。1854年、兄の死により家督相続する。1858年以来、7年間、4回にわたり越前藩主・松平慶永(春岳)に招かれ、藩校明道館で講学した。生糸の大量輸出など富国策の藩政を実施した。この経緯は『国是三論』に著した。1862年、江戸で春岳が幕府政事総裁職に就き、その政治顧問になる。幕府の公武合体、開国貿易、殖産興業、海軍強化策などを説いた。肥後藩江戸留守居役・吉田平之助宅で刺客に襲われ福井に戻る。肥後藩より、逃げたことが士道に背くとして帰国を命じられた。知行没収、士籍剥奪、蟄居の身になる。(士道忘却事件)。1868年、新政府に招かれ上京、徴士、参与、制度局判事になり、岩倉具視の信任を受けた。洋風化によりキリスト教を広めると誤解され、京都で尊攘派の十津川郷士・津下四郎左衛門らに暗殺された。勝海舟、坂本龍馬らが敬服した。
 墓は、南禅寺・天授庵(左京区)にある。
◆梁川星厳 江戸時代後期の漢詩人・梁川星巌(やながわ せいがん、1789-1858)。美濃国安八郡曾根村の富農・長高の子。1807年、江戸に出て山本北山の奚疑塾に入り儒学、詩文を学ぶ。市河寛斎の江湖詩社に参加した。1817年、帰郷し私塾梨花村舎を開く。1819年、京都で頼山陽と出会い意気投合する。1820年、同郷の詩人・紅蘭と結婚した。1822年、妻を伴い西遊し九州に入る。1834年、江戸神田お玉が池に住し、詩社の玉池吟社を起こした。藤田東湖、佐久間象山と交わる。1845年、帰郷する。1846年より京都に移り、晩年は山紫水明処の川向かい「鴨沂(おうぎ)水荘」(川端丸太町上ル東)に住み、「鴨沂小隠」と号した。1849年、ペリー来航後は尊王攘夷を唱える。1858年、安政の大獄に連座し捕らえられる直前、流行っていたコレラにより亡くなる。5000首の作詩を残した。
 梁川夫妻の墓は、南禅寺・天授庵(左京区)にある。
◆梁川紅蘭 江戸時代後期-近代の漢詩人・梁川紅蘭(やながわ こうらん、1804-1879)。美濃国安八郡曽根村の郷士・稲津長好の次女。8歳頃曽根村の華渓寺・太髄に師事、句を学び、1817年、14歳で星巌が開いた塾「梨花村草舎」で漢詩を学ぶ。星巌とはまた従兄妹になる。1820年、17歳で梁川星巌と結婚した。1822年、星巌とともに全国を周遊した。1827年、京都に移る。1832年、夫と江戸に移る。1845年、美濃に帰る。1846年、京都・木屋町二条、1849年、川端丸太町上ルに移る。1858年、星巌病死直後、その身代わりとして安政の大獄で捕らえられる。激しい拷問に半年間耐えた。1859年、釈放される。星巌の遺稿を出版、晩年は京都で私塾を開く。漢詩、絵画も残した。
 梁川夫妻の墓は、南禅寺・天授庵(左京区)にある。
◆新島民治 江戸時代の安中藩士・新島民治(にいじま たみじ、1807-1887)。上野国に生まれた。父は新島弁治。1818年、父が江戸藩邸に移り、これに従う。1831年、中田とみと結婚した。1843年、長男・七五三太(新島襄)が生まれる。江戸祐筆見習い、1853年、中小姓格、1861年、中小姓。1869年、安中に移った。1870年、父没後、家督を継ぎ、すぐに隠居し次男・双六に家督を譲る。1877年、襄が住んだ京都新烏丸頭町に移る。同年、洗礼を受け、西京第二公会に入会した。
 南禅寺・天授庵(左京区)に葬られた。若王子の同志社共同墓地(東山区)にも墓がある。
◆死霊 伝承がある。亀山上皇がこの地に離宮「禅林寺殿」を営んだ際に、夜に死霊が現れたという。かつてこの地に建っていた駒ヶ滝最勝院に住んだ駒道智が、死後もこの地に執着したためだったという。南都北嶺の阿闍梨、巫祝の呪術によっても霊を退散させることはできなかった。
 そのため、東福寺の普門が呼ばれる。普門は、9旬(90日)にわたり、20人の禅侶とともに離宮に宿し、普通に行を続けた。やがて、徳の前に効験が顕れ怨霊は消えたという。
 普門は開山に任じられ、上皇自身も仁和寺の了遍により入飾した。普門が病床に伏した。法皇は東福寺の龍吟庵に移った普門を密かに訪れ、手づから薬をすすめたという。翌日、普門は81歳で亡くなったという。
◆建築 ◈「客殿(本堂)」(京都市指定有形文化財)は安土・桃山時代、1602年に建立された。当初は仏間背面に眠蔵があった。江戸時代、1789年までには、眠蔵が縮小されるなどいくつか改造されている。1854年以降に現在の仏間廻りになった。東面し、六間取方丈形式、西北隅に玄関がある。室中(拭板敷)、奥仏間(正面1間は拭板敷、奥に仏壇、中央間は厨子、両脇壇に歴代・細川家の位牌を祀る)。上間2室(畳敷)、下間2室(畳敷)、上間南面の広縁背面寄り2間は畳敷。杮葺。
 ◈「表門」(京都市指定有形文化財)は、安土・桃山時代-江戸時代の慶長年間(1596-1615)の建立による。禅宗様。
 ◈「庫裡」「書院」は、嘉永年間(1848-1854)に改築されている。
◆茶室 ◈茶室「松関の席」は、妙喜庵茶室「待庵」を写した二畳隅炉になる。近代、1899年、福本超雲居士宅より移した。正面に塗廻しの床の間、左に隅炉(1尺4寸角)・小板(1尺7寸)、二枚立襖、躙口、天井は竿縁天井、掛込天井、次間(1畳)に壁際に板畳、隅棚を吊る。
 ◈広間「養素斎(ようそさい)」(10畳)は、現代、1951年に官休庵の愈好斎宗匠の好みにより改造された。「丘園養素」の語より引かれた。
◆文化財 鎌倉時代の「無関普門禅師頂相」(重文)(13世紀)には、普門自身の賛がある。亡くなる直前に描かれた寿像になる。
 「大明国師木像」(重文)は等身大になる。
 無関普門所用と伝えられる元-明代(13世紀-14世紀)の「九条袈裟」がある。
 江戸時代、1612年の以心祟伝賛の絹本著色「細川幽斎像」(重文)、江戸時代、1618年の雲嶽霊圭賛の絹本著色「細川幽斎像夫人像」(重文)。
◆障壁画 ◈本堂(客殿)の室中16面と上間・下間各8面の計32面襖絵(重文)は、安土・桃山時代、1602年、晩年の長谷川等伯(1539-1610)筆の墨画という。
 ◈室中の間に等伯筆の禅機図(禅宗の人物画)「禅宗祖師図」16面(182.5×143㎝)は、唐代の南泉普願禅師が剣で猫の首を斬った逸話を描く。左手に猫を掲げ、右手に剣を持つ。執着心を捨てることが禅の道であると教えた。
 ◈上間二之間に等伯筆の「商山四皓(しょうざんしこう)図」8面、下間二之間に「松鶴図」8面、「高士(馬+戸)図」「南泉斬猫図」がある。
◆庭園 東庭、南庭の2つがある。南庭は千坪ほどの広さがあり、南北朝時代に作庭されたとみられている。ただ近代、1904年か1905年に、僧・作庭家・虎山恭宗師が大幅に手を加えている。
 ◈本堂前庭(東庭、淵黙庭)は、枯山水式庭園になっている。創建当時、鎌倉時代に造営されたとみられている。
 鉤型鱗敷きの石畳(敷石)と立石、白砂、青苔地、楓、松、椿などの刈込、樹木で構成されている。南北に据えられた石畳(延段)は、正門から本堂に続く。苔地に、切石と四角、菱形の畳石が組み合わされている。これらは、創建当時、鎌倉時代に造営されたとみられている。さらに、南にあるもう一つの石畳は、幽斎の墓所に向かう。江戸時代、1610年に新たに造られた。石組は現代の作による。紅葉で知られる。
 ◈池泉回遊式の書院南庭は、鎌倉時代末-南北朝時代作で、創建当時のものといわれている。ただ、幾度かの改修が行われている。作庭者については不詳。
 東と西の大小二つの池(東池、西池)が中央部で細くつながり、滝、出島などが配されている。東池の出島、滝付近には、作庭当初の石組が一部残といわれている。州浜も見られる。また、二つの池の地割、一部の護岸石組なども遺構ともいう。
 東の築山は、安土・桃山時代-江戸時代の慶長期(1596-1615)の改修があり、全池に及ぶ護岸石組、蓬莱島、石橋、沢飛びが渡されている。近代、明治期(1868-1912)初期にも改修が行われている。幽霊斎好みの茶室跡には、現在は茶室「松関の席」が建てられ、露地庭もある。
◆新島襄の墓
 同志社創立者の新島嚢(1843-1890)が亡くなり、当初は、父・民治が眠る天授庵に葬られる予定だった。
 だが、葬儀の前日、1890年1月26日、南禅寺側は難色を示し、現在の墓所がある若王子山の同志社共同墓地(左京区)に急遽変更されて葬られた。
◆墓所 室町時代-江戸時代の武将・歌人・細川幽斎(1534-1610)夫妻。江戸時代初期の大名・肥後国熊本藩初代藩主・細川忠利(1586-1641)の遺髪塔など細川家の墓がある。
 江戸時代末期の勤皇詩人・梁川星巌(1789-1858)、その妻・紅蘭(1804-1879)。江戸時代末期の熊本藩士・儒学者・横井小楠(1809-1869)。
 江戸時代の蘭方医・新宮凉庭(しんぐう りょうてい、1787-1854)。その本家・凉民、第一分家・凉閣、第二分家・凉介、第三分家・凉哲の墓がある。
 典医・久野家。京都府療病院長・医学校長・医師会創始者・半井秋山(澄)。
 江戸時代-近代の歌人・渡忠秋(わたり ただあき、1811-1881)。江戸時代の新島襄の父・武士・新島民治(1807-1887)。江戸時代後期-近代の日本画家・今尾景年(1845-1924)などの墓がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『古寺巡礼 京都 24 南禅寺』『旧版 古寺巡礼京都 12 南禅寺』『禅僧とめぐる京の名庭』『事典 日本の名僧』『別冊太陽 長谷川等伯』『日本庭園史大系』『岡崎・南禅寺界隈の庭の調査』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都の寺社505を歩く 上』『京の茶室 東山編』『京都市の指定文化財 第5集』『京都の医史跡探訪 増補版』『新選組と幕末の京都』『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』『京都古社寺辞典』『京都大事典』『おんなの史跡を歩く』『京に燃えたおんな』『週刊 日本庭園をゆく 8 京都洛東の名庭 2 南禅寺 平安神宮 無鄰庵』『週刊 京都を歩く 10 南禅寺周辺』『週刊 日本の美をめぐる 金と墨の 長谷川等伯』、ウェブサイト「コトバンク」


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本堂南庭

本堂南庭
 
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