香川景樹宅跡 (京都市左京区)  
The ruins of the residence of Kagawa, Kageki
香川景樹宅跡 香川景樹宅跡
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「香川景樹址」の石標
 岡崎東福ノ川町の住宅地の一角に、「香川景樹址(かがわ かげき たくあと)」の石標が立てられている。
 この地に、江戸時代後期の歌人・歌学者・香川景樹の邸宅があった。一門は「桂園派(けいえんは)」と呼ばれ、近代初期まで大きな影響を与えた。
◆歴史年表 江戸時代、1793年、香川景樹は京都に出る。
 1803年、11月、この地の「桂園(かつらその)」「東塢亭(とううてい)」に移り住み、歌を教えたという。
 近代、1917年、京都市教育会により石標が立てられた。
◆香川景樹 江戸時代後期の歌人・歌学者・香川景樹 (かがわ かげき、1768-1843)。号は桂園など。因幡生まれ。鳥取藩士・荒井小三次の次男。7歳で父を亡くし一家離散した。伯父・奥村定賢の養子になる。和歌を清水貞固に学ぶ。1793年、京都に出る。1796年、二条派地下(じげ)歌人・香川景柄(かげもと)に入門し、後に養子入りした。徳大寺家に出仕し、堂上歌会に出席した。『古今和歌集』の歌風を尊重し、「ただご(こ)と歌」を唱えた小沢蘆庵(ろあん)の影響を受けた。猪飼敬所に儒学を学ぶ。1804年、新歌風により、景柄(梅月堂)と離縁する。以後も香川姓を名乗る。1818年、江戸進出は失敗する。1825年、『新学異見』を著し、賀茂真淵の『新学』を論駁した。
 桂園派を興し、和歌の本質は「調べの説」にあり、美の本質は「清ら」と唱えた。万葉集を範にした賀茂真淵らの門流「県門(けんもん)」の復古主義を否定した。京都、江戸歌壇の激しい批判に晒される。江戸、伊勢、尾張も含め門人1000人の江戸時代最大の一門なる。
 京都では三条木屋町に別宅「臨淵社(りんえんしゃ)」「観騖亭(かんぼくてい)」、岡崎の本宅「東塢亭(とううてい)」などに住む。小沢蘆庵と親交した。別宅で亡くなった。墓は聞名寺(左京区)の香川家墓にある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 香川景樹宅跡 〒606-8321 京都市左京区岡崎東福ノ川町
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