慶光天皇 廬山寺陵 (京都市上京区)  
Imperial mausoleum of Emperor Kyoko
慶光天皇 廬山寺陵  慶光天皇 廬山寺陵
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「廬山寺陵参道」の石標


参拝道




「慶光天皇 廬山寺陵」








慶光天皇 廬山寺陵


慶光天皇 廬山寺陵




藤原賀子(新崇賢門院)御墓


善行院(多祉宮)御墓


圓鏡院(治宮)御墓


解脱楽院(猗宮)御墓



 廬山寺境内の東に廬山寺陵(ろざんじのみささぎ)がある。
 江戸時代中期の追尊天皇・慶光天皇(きょうこう てんのう)が葬られている。同域内には、天皇陵も含めて15基以上の墓がある。
◆歴史年表 江戸時代、1733年、7月6日(新暦4月1日)、典仁親王は亡くなる。7月12日、入棺になる。7月21日、廬山寺で勅会により葬儀が行われ埋葬された。10月15日、石塔が建立され開眼供養が行われる。(『国史大辞典』第8巻)
 近代、1884年、3月19日、親王の没後90年忌に先立ち、太上天皇の尊号、慶光天皇の諡号が追贈された。以後、墓地は陵墓になる。
 1895年、陵名は廬山寺陵に改められた。
◆典仁親王 江戸時代中期の皇族・典仁親王(すけひと しんのう、1733-1794)。自在王院。慶光(きょうこう)天皇。おりゐのみかど、もとのうへ、むなしきふね。閑院宮直仁(かんいんのみや なおひと)親王の第2王子。1742年、第114代・中御門天皇の猶子になる。1743年、三品、大宰帥(だざいのそつ) 、親王宣下を受け閑院宮家を相続した。1744年、元服して大宰帥に任ぜられ、帥宮と呼ばれた。1748年、二品、1753年、閑院宮2代を嗣ぐ。1780年、第6王子・兼仁(ともひと)親王(第119代・光格天皇)の即位に伴い一品に叙せられた。父・典仁親王の太上天皇の尊号宣下の承認を幕府に拒否された。(尊号一件)。
 1884年、中山忠能(ただやす)の発議により、第122代・明治天皇より太上天皇の尊号、慶光天皇の尊号が追謚(ついし)された。
 陵墓は廬山寺陵(上京区)になる。
◆成子内親王 江戸時代中期の皇族・成子内親王(ふさこ ないしんのう、1729-1771)。籌宮(かずのみや)、恒子。第114代・中御門天皇の第5皇女。母は久世通夏の娘・掌侍・久世夏子(源内侍)。1738年、内親王、1749年、典仁(すけひと)親王(慶光天皇)の妃になる。
 陵墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆美仁親王 江戸時代中期-後期の皇族・美仁親王(はるひと しんのう、1758-1818)。致宮(おきのみや)。典仁(すけひと)親王(慶光天皇)の第1王子。母は大中臣祐智の娘・成子内親王。第116代・桃園天皇の猶子になる。1763年、親王。1794年、父・典仁親王の没後、閑院宮3代を継ぐ。職仁(よりひと)親王に和歌を学ぶ。歌集に『美仁親王御詠草』などがある。
 陵墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆近衛因子 江戸時代中期-後期の皇族・近衛因子(このえ の よりこ、?-?)。詳細不明。藤原因子。文君。関白・近衛内前の娘、母は徳川勝子。閑院宮美仁親王の御息所になる。
 墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆新崇賢門院 江戸時代前期-中期・新崇賢門院(しんすうけんもんいん、1675-1710)。慶子、賀子(よしこ)。父は櫛笥隆賀(くしげ たかよし)。母は西洞院時成の娘。第113代・東山天皇の後宮に入り、新大典侍になる。1702年、第114代・中御門天皇、直仁親王、3皇子1皇女を産む。1709年、天皇の退位後、一条局、四条局と称した。
 没後、1711年、従二位を追贈、准三宮、院号を受ける。
 墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆閑院宮直仁親王 江戸時代中期の皇族・閑院宮直仁親王(かんいんのみや  なおひとしんのう、1704-1753)。秀宮。第113代・東山天皇の第6皇子、母は典侍・藤原賀子。1710年、世襲親王家の一つ、閑院宮家を創設する。 親王宣下、弾正尹に任じられた。
 墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆閑院宮家致宮 江戸時代中期の皇族・閑院宮家致宮(かんいんのみや おきのみや、1812-1813)。閑院宮孝仁親王の第1王子、母は鷹司吉子。1歳。
 墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆閑院宮孝仁親王
 江戸時代後期の皇族・閑院宮孝仁親王(かんいんのみや たつひとしんのう、1792-1824)。寿宮(ひさのみや)。父は美仁親王。母は関白・鷹司政熙の娘・御息所・藤原吉子。1808年、親王宣下、元服、常陸太守。1820年、式部卿。1824年、一品。閑院宮第4代当主。
 墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆閑院宮愛仁親王 江戸時代の皇族・閑院宮愛仁親王(かんいんのみや なるひと しんのう、1818-1842)。父は孝仁親王。母は関白・鷹司政熙の3女・鷹司吉子。1828年、親王宣下、元服した。1840年、第120代・仁孝天皇の第3皇女・敏宮淑子内親王と婚約する。婚儀前に亡くなる。閑院宮第5代当主。
 墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆鷹司吉子 江戸時代後期の閑院宮孝仁親王妃・鷹司吉子(たかさつかさ ちかこ、1787-1873)。微妙覚院。関白・鷹司正煕の娘。孝仁親王の御息所になる。愛仁親王、教仁親王ら3男3女を産む。1873年、夫・孝仁親王の没後に、子・愛仁親王が宮家を相続した。1842年、愛仁親王の没後、一時、閑院宮の当主格になる。
 墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆近衛脩子 江戸時代中期の皇族・近衛脩子(このえ しゅうし、1706-1727)。八十君。八百君。関白・近衛基熙の2女。母は家女房の西洞院氏ともいう。1719年、閑院宮直仁親王の御息所になる。1720年、長女・始宮治子女王(西本願寺16世宗主湛如の裏方)を出産した。22歳。
 墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆治宮俊宮 江戸時代後期の皇族・俊宮(としのみや、1793-1794)。第119代・光格天皇の第2皇子。母は葉室頼熙の娘・典侍・葉室頼子(民部卿典侍) 。1歳。
 墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆多祉宮 江戸時代後期の皇族・多祉宮(たけのみや、1808)。第119代・光格天皇の第2皇女。母は勧修寺経逸の娘・典侍・勧修寺婧子(東京極院)。法号は善行院。6カ月。
 墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆娍宮 江戸時代後期の皇族・娍宮(ながのみや、1817-1819)。第119代・光格天皇の第4皇女、母は、勧修寺経逸の娘・典侍・勧修寺婧子(東京極院)。2歳。
 墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆猗宮 江戸時代後期の皇族・猗宮(なかのみや、1815-1819)。第119代・光格天皇の第6皇子。母は、高野保香の娘・典侍・高野正子(督典侍) 。
◆治宮 江戸時代後期の皇族・治宮(まさのみや、1822-1822)。第119代・光格天皇の第6皇女、母は、富小路貞直の娘・掌侍・富小路明子(右衛門掌侍)。5カ月。法号は解脱楽院。
 墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆胤宮 江戸時代後期の皇族・胤宮(たねのみや、1844-1845)。第120代・仁孝天皇の第7皇子。母は橋本実久の娘 ・典侍・橋本経子。11カ月。
 墓は廬山寺陵域(上京区)にある。
◆尊号一件 江戸時代、1789 年に第119代・光格天皇は所司代を通じ、父・典仁親王の太上天皇の尊号宣下承認を江戸幕府に求めた。天皇は、前大納言・中山愛親に先例を調べさせ、平安時代後期-鎌倉時代の後高倉院、室町時代の後崇光院の2太上天皇の先例があるとした。
 老中・松平定信は、皇統継承なく尊号を受けるのは皇位を私するとして拒否した。(名分論)。朝廷は、参議以上の公卿 35人の意見により幕府に再度求める。5年にわたる折衝の後、1793年に幕府は最終的に拒否した。定信は、武家伝奏・正親町公明、議奏・中山愛親を処罰し、武家伝奏・万里小路政房の役を免じた。これらは、「尊号一件(そんごういっけん)」と呼ばれ、以後、朝廷、幕府間に緊張が生じる。
 当時、11代将軍・徳川家斉(いえなり)は、父・一橋治済(はるさだ)に大御所の称号を贈る意図があり、定信は同様に反対した。(大御所事件)。親王の尊号宣下の反対も、大御所称号の先例になることを恐れたためともいう。
 近代、1884年の親王の90年忌にあたり、公卿・中山忠能(ただやす)の発議により、第122代・明治天皇は典仁親王の太上天皇、慶光天皇の尊号を追謚(ついし)している。
◆陵墓 慶光天皇廬山寺陵は南面し、石造多宝塔(3m)が立つ。法号「自在王院尊儀」が刻まれている。
 典仁親王は、江戸時代、1733年7月6日(新暦4月1日)に亡くなる。7月12日に入棺、7月21日の夜に勅会により廬山寺で葬儀が行われた。10月15日に石塔が建立され開眼供養が行われ、廬山寺に埋葬された。
 1884年、太上天皇の尊号、慶光天皇の諡号追贈により陵墓になる。
 同域内に、天皇も含め15基以上の石塔、宝篋印塔などが立つ。天皇陵の東隣には慶光天皇妃・成子内親王墓(石造多宝塔)がある。
 ほかに、第113代・東山天皇典侍・新崇賢門院藤原賀子墓(無縫塔)、東山天皇皇子・直仁親王墓(石造多宝塔)、東山天皇皇子・直仁親王妃・脩子墓(宝篋印塔)、東山天皇皇曾孫・美仁親王墓(石造多宝塔)、東山天皇皇曾孫・美仁親王妃・因子墓(宝篋印塔)、東山天皇皇玄孫・孝仁親王墓(石造多宝塔)、東山天皇皇玄孫・孝仁親王妃・吉子墓(石造円墳)、東山天皇5世皇孫・致宮墓(石造宝塔)、東山天皇5世皇孫・愛仁親王墓(石造多宝塔)が立つ。
 第119代・光格天皇皇女・治宮墓(宝篋印塔)、光格天皇皇女・多祉宮墓(宝篋印塔)、光格天皇皇子・俊宮墓(宝篋印塔)、光格天皇皇子・娍宮墓(宝篋印塔)がある。
 第120代・仁孝天皇皇子・胤宮墓(宝篋印塔)がある。   
 石仏像墓がある。


113 東山天皇(在位 :1687-1709) →114 中御門天皇(在位 :1709-1735) →115 桜町天皇(在位 :1735-1747)→116 桃園天皇(在位 :1747- 1762)→117 後桜町天皇(在位 :1762-1770)→118 後桃園天皇(在位 :1770-1779) →119 光格天皇(在位 :1779-1817) →120 仁孝天皇(在位 :1817-1846)


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 ウェブサイト「陵墓 陵印 掲示板」『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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