愛宕神社・愛宕山  (京都市右京区)
Atago-jinja Shrine
愛宕神社 愛宕神社
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愛宕山、伏見稲荷大社より


鉄鳥居、石段手前左に「下り亀石」が祀られている。鳥居本一の鳥居の「上り亀石」と対になっている。


鉄鳥居、神仏分離令以前には鳥居に「白雲寺」の額が掲げられていたという。


鉄鳥居の猪




石段、江戸時代に立てられた石燈籠。



神門


本殿 




奥宮 


本殿の猪の透かし彫り、ほかにも見事な彫刻で飾られている。


若宮 


末社、神明社の祭神は天照大御神、熊野社は伊邪那美神


社務所


慶俊社、好庵社


稲荷社


白髭社 


「火廼要慎(ひのようじん)」の火伏札


樒、本殿


冠雪した愛宕山、広沢池より


霞たなびく愛宕山遠景、桂川より


愛宕山、桂川


愛宕山、桂川

表参道(清滝から山頂)


嵯峨鳥居本の一の鳥居を起点として、愛宕神社までは50丁(5.5㎞)の参道が続いている。


清滝の二の鳥居、清滝は、愛宕山の登り口で、愛宕神社までは4.4㎞の道のりがあり、徒歩で登りは約2時間、降りは約1.5時間かかる。往時は、「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り」といわれ、愛宕への参詣者で賑わった。清滝は、宿場町として、また、参拝者が身を清める水垢離場だったという。 


杉木立の中を登る山道は、急峻だが整備されている。


岩清水の「お助け水」


火燧(ひうち)権現跡



山頂まで3.7㎞、17町目にある火燧(ひうち)権現跡、清滝社火権現、下権現社ともいわれ、火の神、火産霊命(ほむすびのみこと)を祀っていた。都で火事が起こると鳴動することから名付けられたという。
 室町時代、大覚寺の寺務を行う坊官の支配下に置かれた。戦国時代以後、神宮寺の白雲寺に実権が移される。だが、この社は引き続き、坊官から神事奉行を出し、祭礼、神供燈明の世話もした。近代以降、1879年、神門横へ神社として遷されたという。



18町目の「壷割坂」、宇治の茶は、下界より10度低いというこの地の気温を利用して、愛宕山山上に一時貯蔵された後に、江戸幕府に献上されていた。ある時、運ぶ途中の茶壷が、この坂で割れたことから名の由来となったという。




鳥居本の一の鳥居を起点として、50丁(5.5㎞)ある参道には、板碑(いたび)型(上)、地蔵型(下)という二種類の道標「丁石(町石)」が置かれていた。板碑型は、愛宕の本地仏・地蔵菩薩の種子「力」と何丁目という里程が刻まれている。地蔵型には光背に里程が刻まれている。現在、前者は32基、後者は40基が残っているという。



茶屋跡、25町目(山頂まで2.3㎞地点)、一の鳥居からの参道沿いには、一町毎に茶屋があったという。参道の半分のこの地点には、「なかや」という茶店宿屋があったという。「しんこ」という米粉を練って蒸したお菓子が名物として出されていた。明治期初めでも、まだ19軒の店が残っていた。現在も参道の各所に残る石垣は、これらの茶屋跡という。



大杉大神からの水尾方向の眺め
 京都市最高峰の愛宕山(標高924m)は、東に聳える比叡山(848.3m)と対峙する。山頂に鎮座する愛宕神社(あたご じんじゃ)は、「愛宕さん」とも呼ばれている。近代以前には神仏習合の霊山であり、寺があったことから「白峰寺」、「愛宕権現」とも呼ばれていた。
 愛宕山は、都の乾(北西)にあり、古くより祖霊神の地とされた。また、嵯峨野の死霊が迎えられ、衣笠、双ヶ岡、曼荼羅山などの霊も集まる霊山とされていた。古くは戦勝祈願の地になった。近代以降は、火伏せの神(鎮火神)としての信仰も篤く、台所に貼られる「火廼要慎(ひのようじん)」の火伏札が知られている。「三歳参り」は、3歳までに参詣をすると、生涯にわたり火の災いを逃れられるとされた。全国約900社の愛宕神社の総本社になる。
 祭神は本殿(端御前)に、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、埴山姫神(はにやすひめのかみ/はにやまひめのみこと)、天熊人命(あめのくまひとのみこと/あめくまうしのみこと)、稚産霊神(わくむすひのかみ)、豊受姫命(とようけひめのみこと)、若宮に、雷神(いかづちのかみ)、迦遇槌命(かぐつちのみこと)、破无神(はむしのかみ/はむのかみ)を祀る。
 防火、火伏せ、厄除、家内安全、会社繁栄などの信仰がある。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 飛鳥時代、大宝年間(701-704)、修験道開祖・役小角が、修験道僧・泰澄と共に、愛宕山朝日峰に神廟を造立したのが始まりという。(『愛宕山神道縁起』『山城名勝志』)
 奈良時代、781年、宝亀年間(770-781)とも、第49代・光仁天皇の勅命を受け、官僚・和気清麻呂が、慶俊僧都とともに鷹ヶ峰(京都市北区鷹峯)の「阿多古(あたご)社」を当地に遷座したという。(『神祇拾遺』『神社啓蒙』)。「丹波国愛当護(あたご)神」と記され、この頃、愛宕山は丹波国に属していたことによるという。阿多古社は、かつて丹波国桑田郡国分(元愛宕社)にあったともいう。当地では愛宕権現と称し、王城鎮護の社として中興したという。『延喜式』には阿多古社は「丹波国桑田郡条」と記している。
 また、同781年、光仁天皇の勅命により、慶俊僧都が中興し、和気清麻呂が五峰に五寺を建立したという。愛宕山朝日峰には白雲寺(はくうんじ)、大鷲峰に月輪寺、高雄に神願寺(神護寺)、竜上に日輪寺、賀魔蔵に伝法寺の五寺が置かれた。寺は、中国の五台(ごだい)山を模し、愛宕大権現といわれた。(『愛宕山神道縁起』『山城名勝志』)。愛宕山の白雲寺は、愛宕権現の別当寺とされ、開山は泰澄という。
 また、同781年、鷹峯東麓より慶俊が愛宕郡に遷したという。以後、手白山を旧名により愛宕山と改めたともいう。(『雍州府志』)。ただ、愛宕寺との混同があるともいう。
 9世紀(801-900)、山は、修験道場の七高山のひとつとして、春秋に薬師悔過法を修した。また、天狗の姿をした愛宕権現太郎坊を祭神として合祀し、以後、天狗信仰が生まれる。修験者(愛宕聖、清滝川聖)の行場となる。本殿に、愛宕大権現の本地仏で戦勝祈願の勝軍(しょうぐん)地蔵、奥の院(若宮)に愛宕権現太郎坊が祀られた。
 864年、丹波国愛当護(あたご)神に正六位上より従五位下が授けられる。文献初例となる。(『三代実録』)。ただ、愛宕神社(亀岡市)を指すものともいう。
 872年、従五位上の神階を授けられる。
 879年、従四位下を授けられる。
 880年、雷神、破无神に従五位下の神階を授けられる。
 982年、左近少将・惟章(これあきら)、右近少監・遠理(とおまさ)の兄弟は西山・神名寺(神名寺)で出家し、愛太子(あたご)・白雲寺にのぼったという。(『小右記』)。白雲寺の文献初例となる。
 987年、奈良東大寺の奝然が、愛宕山を中国の五台山(ごだいさん、中国山西省東北部五台県の霊山)に見立て、その山麓に「大清凉寺」建立を試みた。だが、比叡山延暦寺はこれに反対する。その後、弟子により現在の清凉寺が建立される。
 996年、花山法皇(第65代)への不敬事件を起こした内大臣・藤原伊周(これちか)は、高階道順(みちのぶ)とともに中宮定子の御所より愛太山(愛宕山)に逃げた。 (『小右記』)
 1027年、関白・藤原頼道が愛太子・白雲寺に登る。(『小右記』)
 中世(鎌倉時代-室町時代)、神仏習合が進展する。奥院の祭神は愛宕権現太郎坊とされ、本宮に本地仏の勝軍地蔵が祀られる。多くの坊舎があり、「愛宕五峯」と呼ばれた。
 室町時代、愛宕山は、大覚寺の寺務を行う坊官の支配下に置かれる。
 1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失している。
 幕府管領で応仁・文明の乱の東軍総大将・細川勝元(1430-1473)により再建された。
 1490年、法印・祐厳により、愛宕五坊のひとつ長床坊(勝地院)が建立される。(『寺院記』)
 1520年、権僧正・祐仙により教学院(尾崎坊)が建立された。(『寺院記』)
 1521年、権僧正・幸海により福寿院(下坊)が建立される。(『寺院記』)
 1524年、法印・行厳により威徳院(西坊)、大善院(上坊)が建立された。(『寺院記』)
 1549年、三好長慶に敗れた管領・細川晴元が近江に逃れた際に、大覚寺の坊官も随行したため、大覚寺御前大・義俊准后は、以後4年にわたり愛宕社の儀を五坊に守護させたという。(『愛宕山権現之記』)
 1552年、後奈良院(第105代)の綸旨により、再び神事奉行に愛宕山の儀が戻される。(『愛宕山権現之記』)
 1562年、義俊准后が再び志賀に逃れたため、以後、白雲寺に実権が移り、寺領安堵の朱印状も五坊に出された。(『愛宕山権現之記』)
 1571年、宝蔵院が福寿院退院坊として建てられ、六坊となる。(『寺院記』)
 室町時代後期(戦国時代)以後、神宮寺の白雲寺に実権が移されている。
 安土・桃山時代、1582年、武将・明智光秀は、主君・織田信長を本能寺に討つ数日前に、戦勝祈願のために愛宕神社に参蘢した。社頭でお御籤を何度も引いたという。この日、境内に泊まり、翌日は連歌会を催した。
 1588年、毛利輝元は黒田官兵衛の案内により参詣した。
 1596年、慶長の大地震により坊舎が倒壊する。(『当代記』)
 江戸時代、1603年、将軍の命があり、江戸桜田山に修法僧・神証春音により愛宕神社が分祀勧請される。
 1620年、社殿造営される。(『元禄覚書』)
 1640年、社殿が造営される。(『元禄覚書』)
 1645年、全山焼失した。(『元禄覚書』)
 1649年、再建が始まる。(『元禄覚書』)
 1652年、正遷宮となる。(『元禄覚書』)
 1798年、山火事により焼失し、その後、再建された。
 1800年、本社、奥の院などが焼失する。ご神体は御茶蔵に遷される。
 1814年、伊能忠敬が愛宕山に参詣し、裏坂、清滝、祇王寺、清凉寺なども測量している。(『伊能忠敬測量日記』)
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、愛宕大権現より愛宕大神と改称した。6寺坊はすべて破却される。愛宕大権現の本地仏・将軍地蔵は、一時、月輪寺に遷され、その後、金蔵寺に遷された。
 1929年、清滝のケーブル清滝川駅から愛宕山山頂まで、ケーブルカーの愛宕山鉄道鋼索線が開通した。
 1944年、太平洋戦争中にケーブルカーは、不要不急線として金属供出の対象となり、鉄道、駅舎はすべて撤去された。
 現代、2004年、北海道弟子屈原野に愛宕神社分社・愛宕社が建立される。
◆役行者 7、8世紀(7世紀末)の伝説的な修験道開祖・役行者(えん の ぎょうじゃ、生没年不詳)。詳細不明。大和国に生まれた。賀茂一族(高賀茂朝臣)の出身ともいう。役小角(えんのおづぬ)、役の優婆塞(うばそく)とも呼ばれる。生駒山、葛城山、大峰、熊野で修行した。吉野金峰山、大峰を開く。699年、弟子・韓国連広足に密告され伊豆国に流罪にされる。701年、赦される。数多くの呪術的な伝承が残され、修験道と結びついた。富士山、九州の山々で苦行し、前鬼、後鬼の二鬼を従えたという。
 後世、江戸時代、1799年、朝廷より神変大菩薩の諡号が贈られた。
◆泰澄 奈良時代の修験道僧・泰澄(たいちょう、682-767)。雲遍。越前国、豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男に生まれる。14歳で出家し、法澄と名乗る。越智山で修行し、702年、第42代・文武天皇から鎮護国家の法師に任じられた。717年、越前国白山で妙理大菩薩を感得、白山を開山した。719年より、各地で布教活動を行う。722年、第44代・元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師の号を贈られた。737年、疱瘡流行を収束させ、泰澄の戒名と大和尚位を贈られた。越の大徳とも称された。
◆和気清麻呂 奈良時代末期-平安時代初期の官僚・和気清麻呂(わけ の きよまろ、733-799)。備前国に生まれた。父は乎麻呂。女帝・称徳天皇の寵愛を受け、右兵衛少尉、764年、藤原仲麻呂の乱の功により勲6等を授けられた。 766年、従五位下、近衛将監。769年、皇位に就こうと画策した道鏡による宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)で、広虫の代わりに宇佐に派遣され、画策を阻 止した。だが、称徳天皇により大隅国に配流された。770年、光仁天皇即位に伴い召還される。桓武天皇により、783年、摂津職の長官に任じられる。 784年、長岡京遷都にも関わる。788年、中宮大夫、民部大輔も兼ね、美作・備前国国造。794年、平安京遷都を桓武天皇に上奏した。796年頃、平安 京造宮大夫、799年、従三位民部卿兼造宮大夫。「民部省例(20巻)」を選修した。姉は広虫(法均尼)、子は広世、真綱、仲世など。
◆慶俊
 奈良時代の僧・慶俊(けいしゅん/きょうしゅん、?-778?)。河内国、渡来系氏族葛井(藤井)氏に生まれた。出家後、大安寺の入唐僧・道慈を師として、三輪、法相、華厳などを学ぶ。華厳講師、753年、法華寺の大鎮となる。756年、第45代・聖武天皇の死に際して律師に任じられる。770年、少僧都。聖武天皇の光明皇后(701-760)、藤原仲麻呂(706-764)と親交あり、仲麻呂政権の崩壊で失脚、その後、律師に返り咲いた。勤操より受けた虚空蔵求聞持法を空海に伝えたという。京都に珍皇寺(愛當寺)を建立したという。
◆明智光秀 室町時代の武将・明智光秀(あけち みつひで、1528?-1582)。美濃に生まれた。越前・朝倉義景に仕え、織田信長、足利義昭にも奉仕し、各所を転戦する。1575年、丹波入りした光秀は、年貢を軽減するなどにより民に慕われていたという。1582年、信長が光秀を顧みないことに反発、光秀は、亀山城(亀岡市)に入り、愛宕山に詣り謀反を決意した。備中出陣の名目により、兵1万3000を率い、亀山城を発し、6月2日に本能寺を急襲、信長を自刃させた。だが、1582年、羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れ、敗走中の小栗栖で土民の襲撃によって傷を負い、自刃して果てたという。
◆愛宕・愛宕山 愛宕は愛当護、愛宕護、愛太子、阿当護、阿多古(『延喜式』)とも記された。
 愛宕の語源について神話にまつわる伝承がある。火の神、カグツチ、父・イザナギと母・イザナミとの間に生まれた。火の神のために、出産時にイザナミの陰部に火傷を負わせ、イザナミは死ぬ。
 イザナギは怒り、十拳剣「天尾羽張(アメノオハバリ)」によりカグツチを殺害した。カグツチは、母を死なせたために「仇子(あだこ)」と呼ばれた。この「あだこ」が「あたご(愛宕)」に転訛したものともいう。
 京都市最高峰の愛宕山(924m)は、朝日峰、白山(はくさん)、白雲山とも呼ばれていた。朝日峰については、都で最初に朝日を受けることから名づけられたという。
 「山城名所十景」の一つであり、愛宕層楼のほかに、洛城春霞、亀山白雲、高雄紅葉、叡山晴雪、桂川長流、清滝寒月、広沢暫雨、水尾朝烟、月輪松涛が挙げられた。
 愛宕山は歌枕にもなっている。「愛宕山しきみのはらに雪つもり花つむ人の跡だにぞなき」(『好忠集』三三八)
◆祭神 平安時代、781年、慶俊は迦遇槌命の本地仏として勝軍地蔵尊を安置したという。豊臣秀吉(1537-1598)は朝鮮出兵に際してこの地蔵尊に戦勝祈願している。徳川家康(1543-1616)は江戸芝の愛宕山に勧請した。1582年、明智光秀が織田信長打倒の戦勝祈願した。近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈により、愛宕山大権現(勝軍地蔵)は金蔵寺に厨子ともに遷されている。
 現在は本殿(端の御前)に伊弉冉尊、埴山姫神、天熊人命、稚産霊神、豊受姫命の5柱が祀られている。
 奥の院には、愛宕山太郎坊が祀られていたが、若宮に、雷神、迦遇槌命、破无神が端御前として新たに祀られた。
 奥の院背後に大国主社として大国主命、護王社(光仁天皇、慶俊、和気清麻呂)、太郎子社、日吉社2柱、水分社、厳島社、司箭社3柱、春日社4柱、戎子社の計17柱を祀る。
 渡廊下両側に摂社・熊野社(熊野大神)、神明社(天照大神)、登り廊下横に稲荷社(宇迦之御魂神)、神門横に燧社を新たに祀った。さらに、白髭社(白髭神)、慶俊社(祠)(慶俊僧都)、好庵社(祠)(中川好庵)などがある。
 またかつて、氷雨社(火之迦遇槌命、猿田彦神)、光仁天皇祠があったともいう。
◆神仏習合 近代以前の神仏習合の頃、境内には、白雲寺(真言宗大覚寺寺務)社僧の住坊があった。白雲寺の五坊とは天台宗の勝地院長床坊、教学院尾崎坊、大善院上坊、威徳院西坊、真言宗・天台兼学の福寿院下坊をいう。(『山城名勝志』)
 さらに、室町時代、1571年には宝蔵院が加わり6坊となり、総称して白雲寺と呼ばれていたという。近代、1868年の神仏分離令以後に寺は廃絶となる。また、愛宕山山中には神護寺子院の雲心寺もあったとみられている。
◆伝承 愛宕山に関するいくつかの伝承がある。
 役小角が泰澄とともに、愛宕山へ向かった際に清滝で雷雨に遭う。そこで、真言を唱えると、一転晴れ渡り、地蔵菩薩、龍樹菩薩、毘沙門天、愛染明王が現れる。さらに、老杉の上に愛宕山太郎坊、唐の善海坊、天竺の日羅が多くのけん族を従えていた。神々は、2000年来、この霊鷲山を守護してきたという。このため、役小角らは清滝の上に千手観音、杉を史郎明神として祀ったという。
 標高では比叡山を上回る愛宕山と比叡山の喧嘩により、比叡山に叩かれた愛宕山の山頂に瘤ができたという。逸話は、二つの山を巡る歴史的な対立を象徴しているといわれている。987年、奈良東大寺の奝然が、愛宕山を中国の五台山に見立て、その山麓に描いた「大清凉寺」建立の構想は、比叡山の抵抗により実現することはできなかった。
 後世、戦勝祈願の勝軍(しょうぐん)地蔵は、多くの武将の崇敬を集めた。地蔵は甲冑を身に纏い、剣を持ち馬に乗る。平安時代の坂上田村麻呂は、蝦夷との戦いの際に清水寺に戦勝祈願した。すると、本尊の千手観音脇士の地蔵尊が小僧となり、田村麻呂を助けたという。それが、勝軍地蔵という。また、その前身は天竺円祇長者の5人兄弟のうちの四郎といい、出家し地蔵に変じた。それが、愛宕権現であるともいう。安土・桃山時代、1582年、武将・明智光秀は、主君・織田信長を本能寺に討つ数日前、戦勝祈願のために愛宕神社に参蘢している。細川勝元は社殿修造、織田信長と豊臣秀吉は社地寄進、徳川氏は652石の朱印地を寄せている。
◆文化財 鎌倉時代の「革包太刀(かわつつみたち)」(重文)、東京国立博物館保管がある。
◆七高山 平安時代に「七高山(しちこうざん)」と呼ばれる七山があった。愛宕山のほか、比叡山(近江)、比良山(近江)、伊吹山(美濃)、金峯山(大和)、葛城山(大和)、神峯山(摂津)の7つの山をいう。これらの山はいずれも修験道場として、9世紀以来、春秋に49日間の薬師悔過法を修していた。
◆天狗 天狗は、古くより愛宕山、高雄、比良山、鞍馬などを住処としていたとされる。愛宕山の天狗は太郎坊と呼ばれ、天狗の総帥の役割を担った。比良山は次郎坊、鞍馬は僧正坊と呼ばれていた。愛宕山の太郎坊は、毘沙門天の化身とされ、長岡京の北方に位置し、都を守護する意味も持たされていた。
 鞍馬・僧正が谷で、九郎判官義経に兵法を伝授した天狗はこの太郎坊らだったという。また、1156年の保元の乱で敗れた崇徳上皇らが化した天狗の話がある。(『太平記』)。第76代・近衛天皇の夭逝は、愛宕山の天狗の呪詛によるものともされた。(『台記』)。
◆樒 愛宕神社では神花、樒(シキミ)を売る水尾の里の「清めの樒女」がいた。樒は、火災除け(火伏せ)のご利益があるとされ、竃などのそばに供花した。当社では、神事でも榊の代わりに用いられてきた。これは、神仏習合期の名残といわれている。
 樒女は、頭に樒を載せて愛宕神社へ毎日登った。樒は神前に供えられ、参拝者に売られた。樒女は榛の木染め(榛と桃の白皮)による赤袴を身に着けており、天皇に仕えた女官の緋(ひ)の袴の遺風ともいう。江戸時代以降は、三巾の前垂れに変わる。
 千日詣り(7月31日)では、火除けの護符「火廼要慎」と神花の樒が授けられる。これを持ち帰り、神棚、竈に供えた。竈に火を入れる際には、樒の葉を入れると火事にならないといわれた。
◆芸能 嵯峨大念仏狂言に「愛宕詣り」の演目がある。旦那一行が愛宕詣りをする。茶屋で菅笠の娘に出会い気に入り、羽織、刀、さらに供の着物まで付けて娘を手に入れる。だが、菅笠をとった娘の顔はお多福であり、旦那は逃げ回ることになる。
 落語の「愛宕山」は、江戸の旦那が大坂の二人の太鼓持と愛宕詣をする。カワラケ投げで、太鼓持は小判を投げるようにと旦那に言う。その後、一人の太鼓持が、谷底の小判を懐に入れようと拾いに降りて行く。やっとの思いで谷から山に戻ると、小判を持ち帰るのを忘れていた。
◆茶 江戸時代初期、宇治の茶業上林家が、幕府御用の茶壷を土用の間、愛宕山で冷蔵後に江戸に送っていたという。
◆不思議 愛宕山、周辺にまつわる不思議な伝承がある。
 「幼児の登山」は、3歳までの幼児を背負い山に登ると、生涯火難を免れるとされた。/「不浄の人」は罰が当り、腹痛になり登山できないとされた。/「樒のお守り」は、守り札を樒に付け持ち帰る。これを竈の上に挿して火難除にしていた。神社にもかかわらず榊を用いない。/「粽奉納」は、粽を愛宕山に奉納すると歯形が付くという。明智光秀は、連歌の会を催した際に、伏見より献じた粽を噛みながら歌ったためという。/「金灯篭の猪」は、猪の彫刻であり、金属の部分を舐めると足の疲れが治るとされた。
 「試みの坂」は、鳥居本と清滝にある坂であり、この坂を越すことができると愛宕山にも登ることができるとされた。/「時雨桜」は、月輪寺にある。別れに訪れた親鸞が植えた桜という。枝葉先より涙のような滴を落とす。/「空也滝の土砂」は、取るなといわれた。愛宕山の神は物への執着心が激しく、持ち帰った者の身体の具合が悪くなった。このため、昔は草履の砂も払ったという。/「鳥居本の人形硯」は、かつて麓の鳥居本で愛宕詣りの土産物として売られていた。天神、娘、小野道風などの形があった。
◆光秀・連歌会・本能寺の変 明智光秀は、1582年5月27日、丹波・亀山城より愛宕山に登った。主君・織田信長を本能寺に討つ前に、戦勝祈願のために参蘢したという。なお、5月24日、27日、28日だったともいう。光秀は、本能寺を攻めるかどうかを籤で占った。3度の凶の後、4度目に吉を引いたという。
 5月28日、境内にあった西坊威徳院(現在の社務所付近)で連歌会を催した。発句は光秀、脇句を威徳院の行祐法印、第三句は宗匠になった連歌師の里村紹巴(さとむら じょうは)だった。9人で100韻を詠んだ「愛宕百韻」を書き留めた懐紙は、神前に捧げられた。
 光秀の発句「時は今 あめ(天)が下知る 皐月(五月)哉」は、「土岐氏(時)の流れをくむ光秀の天下(あめ)を取る、領る(知る)5月になった」の意味として受け取られ、光秀の野望、決意を秘めたものともいう。また、「今こそ存亡危機の時、天が下界のことを見抜いている五月」として、『三国志』の存亡危機の秋に譬え、信長の野望を光秀が危惧するものともされた。
 5月29日、光秀は、一度、亀山城に戻り、翌6月1日、1万3000の軍勢とともに城を発した。
◆ケーブルカー かつて愛宕山には、嵯峨嵐山より鉄道とケーブルカーが接続していた。
 近代、1927年、愛宕山鉄道株式会社が結成され、京都電燈、京阪などが合同出資した。1929年4月、嵐山-清滝間に「平坦線(普通鉄道)」が開通する。3.3㎞、10分、5両編成、定員74人、運賃15銭だった。7月にはそれに接続する清滝川駅-愛宕山山頂の「愛宕山鉄道鋼索線(ケーブルカー)」が開通した。2.1㎞、11分、2両編成、定員84人だった。
 ケーブルカーは、清滝の二の鳥居の右手に発着所の駅舎があった。愛宕山7合目(標高740m)に頂上側の乗降口が設けられた。ケーブルカーはその延長において「東洋一」と謳われた。愛宕山には、ホテル、山上遊園、スキー場も併設され、「地上の楽園」と呼ばれる。
 1929年、世界大恐慌になり、その後も経営不振が続いた。1944年、太平洋戦争中にケーブルカーは、不要不急線として金属供出の対象になる。鉄道、駅舎はすべて撤去される。戦後になっても運行が再開されることはなかった。
 かつての軌道跡は、現在、平坦線跡は道路(京福嵐山駅-清滝間)、平坦線の清滝隧道(現在の清滝トンネル)として再利用されている。清滝には発着所跡、頂上側には発着所跡の廃墟、鋼索線柱跡、線路跡などがわずかに残されている。 
◆清徳聖 10世紀半の『宇治拾遺物語』上・19、「清徳聖奇徳の事」に、清徳という聖僧の逸話がある。
 清徳は、母没後、その成仏を祈り、遺骸を愛宕山に運び、山に籠り絶食した。3年間を経て夢告があり、母が現れ、成仏したというので火葬し、山を下りた。西の京より、四条の北に来た。
 清徳聖は空腹のあまり、植えられた作物を食べた。右大臣・藤原師輔(908-960)が米10石を施行する。聖の尻には山で憑いた餓鬼、畜生、獣などが数万も続いて歩いていた。だが、師輔のほかの者にはこれが見えなかった。米で御飯を炊くと聖は食べず、これらの者がすべてを食い尽くした。ほかの者には聖一人が食べたと見えた。聖が四条の北の小路(現在の錦小路付近)に出かける度に、聖が「ゑど(糞)」をした。また、聖の尻に付いた鳥獣らが小路に糞を垂らし散らした。皆がこれを汚がり、小路は「糞の小路」と呼ばれた。第62代・村上天皇がこのことを聞くに及び、「あまりに汚なき名なり」として、四条の南を「綾の小路」と呼んだことから「錦の小路」と呼称したという。これが、錦市場の名称の由来になったという。
◆文学 平安時代、969年、藤原道綱母は『蜻蛉日記』に安和の変について記した。藤原氏は高明らが為平親王を擁立し、皇太子・守平親王 (第64代・円融天皇) の廃立をたくらんでいると密告し、大臣・源高明(たかあきら)らを追放した。 高明はあたごへ逃亡しようとした。道綱母は、高明室・愛宮へ長歌を贈る。
 『古本説話集』上、28にも法師にも記されている。
◆年間行事 元旦祭(1月1日)、初詣祭(1月23日)、和気祭(4月4日)、春祭(4月10日)、鎮火祭・鎮火講祭(丹波・丹後地方の講社の代参)(4月24日)、鎮魂祭(動植物の絶滅種鎮魂祭として2007年より始まった)(4月29日)、雷神祭(5月立夏)、神楽講祭(京都の講社の講員が代参する)(5月23日)、嵯峨祭神幸祭(5月第3日曜日)、嵯峨祭還幸祭(5月第4日曜日)、大祓式(6月3日)、千日詣(千日通夜祭)(参拝すると千日分の火伏・防火の御利益があるといわれる。また、千日詣に限らず3歳までに参拝すると、一生火事に遭わないとされている。)(7月31日夜-8月1日未明)、白髭祭(9月25日)、好庵祭(9月26日)、例祭(9月28日)、火焚祭(11月8日)、秋祭・フイゴ祭(12月8日)、大祓式(12月31日)。
 月次祭(毎月1日、15日、23日)。


*愛宕山の登山口の清滝から山頂の愛宕神社までは4.4㎞の道のりがあります。登るには徒歩しか方法がなく、登りは成人で約2時間、下りにも約1.5時間かかります。途中に人家はありません。参詣ですが、標高1000m近い山であり実際には登山です。遭難の事例もあります。無理のない計画をお願いします。
*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『愛宕山と愛宕詣り』『京都古社寺辞典』『愛宕本宮 愛宕神社』『京都府の歴史散歩 上』『あたごさん 調査資料集Ⅰ』『洛西探訪』『古佛』『京都まちかど遺産めぐり』『京都の寺社505を歩く 下』『京都の地名検証』『京都の地名検証 3』『新版 京のお地蔵さん』『京都歩きの愉しみ』『京の怪談と七不思議』『京のしあわせめぐり55』『京都 神社と寺院の森』『週刊 京都を歩く 35 嵯峨野2』『京都時代MAP 安土桃山編』



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杉の巨木の下に祀られた大杉大神

7合目付近(山上まで1.6㎞付近)、左に銀色に光るのは広沢の池、右に細く光るのは桂川、かつては和歌山、淡路島まで見わたすことができたという。この付近の茶屋では、カワラケ投げを楽しんだという。話は落語にも登場する。大念仏狂言「愛宕詣り」のくだりでは、うまく投げられない旦那と太鼓持、茶屋の女性が登場する。 

水尾への山道がある、碑には「水尾山陵参道」とある。水尾までは3㎞の道のり、降り40分。

ハナ売り場(1.1㎞)、樒(しきみ)売り場、麓の水尾の女性が樒を売りに里から登ってきた。榛(はん)の木で染めた三幅の前垂れ姿で、水尾から参詣し、神前に供えてから販売していた。樒は、火災除けの神符として土産にされた。毎日、樒の葉を一枚ずつ竈にくべると、火事にならないといわれていた。

水尾の里

44町目(頂上まで0.45㎞地点)、最後の「ガンバリ坂」

黒門、京口惣門ともいわれた。かつては、もうひとつの惣門、丹波口の門もあったという。


黒門内には、近代以前は6坊、天台宗の勝地院長床坊、教学院尾崎坊、大善院上坊、威徳院西坊、真言宗・天台兼学の福寿院下坊、後に加わる宝蔵院が建ち並んでいた。

頂上の石燈籠の参道

愛宕神社の石段

山上付近からの京都市内の景色

【参照】右京区嵯峨樒原(しきみがはら)の鳥居

【参照】樒原

【参照】樒原の里

【参照】樒原
 愛宕神社 〒616-8458 京都市右京区嵯峨愛宕町1  075-861-0658  9:00-16:00
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