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清滝・清滝川 (京都市右京区) Kiyotakigawa River,Kiyotaki |
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清滝・清滝川 | 清滝・清滝川 |
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![]() 嵯峨清滝付近の清滝川、橋は金鈴橋。清滝を境に下流の保津川までは金鈴峡と呼ばれている。清滝から続く金鈴峡は、紅葉の名所として知られている。 ![]() ![]() ![]() 清滝「ますや」 ![]() 「ますや」 ![]() 「自然と人生」の碑 ![]() ![]() 清滝の愛宕神社への登り口 ![]() 試峠(ためしとうげ) |
清滝の名は、清涼な水が滝のように激しく流れることに由来するという。 一級河川の清滝川(きよたき-がわ)は、三尾(高尾、槙尾、栂尾)の谷を結んでいる。それぞれに神護寺、西明寺、高山寺の三寺がある。 ◆歴史年表 年代不詳、清滝は愛宕詣の水垢離の場として栄えた。 江戸時代、1694年、6月、俳人・松尾芭蕉が清滝を訪れた。 近代、1887年、同志社大学学生・徳富蘆花が旅館「ますや」に宿泊した。 1930年、与謝野鉄幹、晶子が「ますや」に宿泊する。 ◆松尾芭蕉 江戸時代前期の俳諧師・松尾芭蕉(まつお-ばしょう、1644-1694)。名は宗房、幼名は金作、通称は七郎、甚七郎、忠右衛門、藤七郎、俳号は宗房、桃青、芭蕉、別号は釣月軒、泊船堂、風羅坊坐興庵、栩々斎(くくさい)、花桃夭、華桃園、泊船堂、芭蕉洞、芭蕉庵、風羅坊など多数。伊賀国(三重県)上野/柘植(つげ) の生まれ。士分待遇の農家・松尾与左衛門の次男。1656年、 父が亡くなる。1662年、伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将・藤堂新七郎良精家の若殿・良忠(俳号は蝉吟)に料理人として仕える。京都の北村季吟に俳諧を学んだ。俳号は宗房を使う。1666年、良忠の死により仕官を退き、俳諧に入る。1672年、『貝おほひ』を上野天満宮(上野天神宮)に奉納した。1673年、江戸に出て、水道修築役人になり俳諧師の道を歩む。其角が入門する。延宝年間(1673-1681)、談林俳諧に傾倒した。1675年、西山宗因を歓迎する句会に出席した。この頃、俳号「桃青」を使う。1677年、俳諧の宗匠になった。1680年、『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行した。宗匠を辞し、深川に草庵「芭蕉庵」を結ぶ。1682年、江戸の大火で庵の焼失後に、甲斐国・高山糜塒を頼る。1683年、母が故郷で亡くなる。新しい芭蕉庵へ入る。1684年、「甲子(かっし)吟行」に出る。母の墓参りで伊賀へ帰った。名古屋の連衆と「冬の日」の歌仙の句会を行う。1685年/1686年頃、「野ざらし紀行」に出た。1685年、伊賀、奈良、京都、大津、名古屋、木曾路を経て江戸へ帰る。1686年、 「古池や蛙飛び込む水の音」を発句した。1687年、曾良・宗波と鹿島神宮へ詣でる。(『鹿島詣』「鹿島紀行」)。1687年/1688年、「笈の小文」の旅へ出立し、名古屋を経て伊賀へ到着した。1688年、藤堂良忠の子・良長に招かれる。伊勢神宮へ参詣し、万菊丸(杜国)と吉野へ向かう。越人と名古屋から信州更科へ「更科紀行」に出る。1689年、曾良を伴い「おくのほそ道」へ出て、大垣に到着した。1690年、大津の「幻住庵」に入る。1691年、伊賀で「山里は万歳おそし梅の花」を詠む。『猿蓑』が刊行される。1692年、3度目の「芭蕉庵」に入る。1694年、『おくのほそ道』の清書本が完成した。伊賀に帰郷した。奈良から大坂で病気になり、旅の途上、南御堂前花屋の裏座敷で亡くなった。句集は『俳諧七部集』、紀行文『奥の細道』、日記『嵯峨日記』、絵の『野ざらし紀行画巻』など。51歳。 蕉風の祖。談林俳諧、漢詩文調、破格調を経て蕉風を確立する。「さび」「しおり」「細み」を提唱した。各地を旅し名句・紀行文を残した。門人に蕉門十哲(其角、嵐雪、去来、丈草、許六、杉風、支考、野坡、越人、北枝)、ほかがある。京都での旧居は、金福寺裏の芭蕉庵、嵯峨・落柿舎、円山・芭蕉堂などがある。 遺言により、粟津義仲寺(大津市)に葬られた。命日(陰暦10月12日)を時雨忌、翁忌、桃青忌ともいう。 ◆徳冨蘆花 近代の小説家・徳冨蘆花(とくとみ-ろか、1868-1927)。本名は健次郎。肥後国(熊本県)水俣の生まれ。代々の郷士・徳富一敬の次男(末子)、母は久子。兄は蘇峰(猪一郎)。母方の叔父は横井小楠、叔母は矢島楫子。1870年、一家は大江村に移る。1872年、熊本洋学校に入学する。1874年、 私塾「日新堂幼年塾」に入学した。塾が併合され新設の本山小学校に転校する。1876年、「神風連の乱」を目撃した。1878年、兄・猪一郎に連れられ、京都・同志社英学校(現・同志社大学)に入学した。1880年、合併クラス問題に端を発した新島襄の「自責の杖事件」により、兄とともに同志社を退学した。帰郷し、父の「熊本共立学舎」に入る。文学に親しむ。1882年、兄が開いた「大江義塾」に学ぶ。1883年、兵役逃れのため親戚に養子に出される。1885年、熊本三年坂・メソジスト教会で受洗した。この頃より小説を書く。従弟・伊勢(横井)時雄が牧師した愛媛県今治町の教会に預けられ伝道する。貧民窟で英語教師を教えたともいう。1886年、同志社英学校に再入学する。1887年、 周囲の反対を押し切り、新島襄の義姪・山本久栄(山本覚馬の娘)と駆け落ちし失恋・失踪した。同志社を中退する。1888年、熊本英学校教師(校長は従兄・海老名弾正)になる。1889年、 上京し、兄が設立した民友社に入る。翻訳・校正の下積みに従事した。1894 年、父から財産の分与を受ける。原田愛子と結婚した。その後、神経衰弱に陥る。1896年、 兄と不和になった。1897年、評伝『トルストイ』を脱稿する。1898年、 家族制度の悲劇を扱った小説『不如帰(ほととぎす)』の連載が始まる。1900年、散文集『自然と人生』、『不如帰』、半自伝長編『思出の記』を刊行し名声が高まる。1901年、社会小説『黒潮』で政界批判し執筆中止になる。1903年、自宅に黒潮社を設立した。『小説 黒潮』第一篇で、国粋主義に傾いた兄と告別する。1905年、妻らと富士山に登山し、暴風に遭う。神による警鐘と受け止めた。トルストイに傾倒し、1906年、パレスチナを経て、ロシアにトルストイを訪問する。シベリア経由で帰国し、『順礼紀行』を著した。1907年、粕谷(かすや、東京都)に移り、田園生活をし「美的百姓」を目指した。1909年、青年士官の悲劇・乃木将軍を描く長編『寄生木』を刊行した。1911年、大逆事件で検挙された幸徳秋水らを弁護し、旧制一高で講演『謀叛論』を行う。1913年、 田園生活の記録『みゝずのたはこと』を刊行した。1914年、久栄との失恋体験を描いた『黒い眼と茶色の目』を出版し、虚偽のない「生活即芸術」文学を志した。1915年、九州、南満州、朝鮮を旅行する。1917年、来日中のトルストイを自宅に招く。1918年、自分と妻を告白した随筆集『新春』を出した。1919年-1920年、世界一周の旅に出る。1924年、『小説 冨士』第1巻を起稿した。晩年、文壇から孤立した。1925年-1928年、妻との共著の形をとる自伝的長編『冨士』を書く。1927年、群馬県伊香保で兄・猪一郎と再会し、和解後に死去した。著『蘆花全集』20巻。59歳。 兄・猪一郎に対する劣等感「負け犬」の思いから、徳富家の「富」を、兄とは異なる「冨」の字で徹した。熱心なキリスト教徒であり、トルストイに心酔した。 墓地・旧居は粕谷の蘆花恒春園(東京都)にある。 ◆与謝野鉄幹 近代の歌人・詩人・与謝野鉄幹(よさの-てっかん、1873-1935)。本名は寛(ひろし)。京都の生まれ。西本願寺支院住持・歌僧・与謝野礼厳(れいごん)の4男。母は初枝。幼くして仏典・漢籍・国書を学ぶ。1883年、父の事業の失敗により、大阪・安養寺の安藤秀乗の養子になる。 1889年、西本願寺で得度後、山口の次兄・赤松照幢の寺に赴き、徳山女学校の国語教員になる。布教紙『山口県積善会雑誌』を編集した。1890年より、鉄幹の号を用いる。1891年、養家を離れ与謝野姓に復した。1892年、女学校で女子生徒・浅田信子、林滝野との関係があり、女学校を辞し京都に帰る。上京し、落合直文の門に入る。1893年、創設された浅香社に参加し、和歌革新運動を進める。1894年、御歌所の古い歌風を排し、歌論「亡国の音(おん)」を発表した。1895年、朝鮮に渡り、「乙未(いつみ)事変」に遭い帰国した。1896年、出版社の明治書院編集長になり、跡見女学校で教えた。国家主義的な「虎剣流」の歌集『東西南北』、1897年、歌集『天地玄黄』を上梓し話題になる。1899年、東京新詩社を創立した。妻・浅田信子と離別し、林滝野と同棲する。1900年、『明星』を創刊・主宰し、北原白秋、吉井勇らを見出す。鳳(ほう、与謝野)晶子との関係から妻と離別した。1901年、晶子と再婚する。1901年、晶子の『みだれ髪』を刊行し、以後、『明星』は隆盛になる。1905年頃、鉄幹の号は廃した。1907年、太田正雄(木下杢太郎)、北原白秋らと九州を旅行し、紀行文『五足の靴』を発表した。1908年、『明星』100号で廃刊になる。1911年、パリ、ロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪する。1915年、第12回総選挙に京都府郡部選挙区から無所属で出馬し落選した。1919年-1932年、慶應義塾大学文学部教授に就任した。1921年、西村伊作らとお茶の水駿河台に文化学院を創設する。第2次『明星』を創刊した。1927年、『明星』が廃刊になる。1930年、雑誌『冬柏』を創刊した。1932年、「爆弾三勇士の歌」歌詞公募が一等入選を果たした。『与謝野寛短歌全集』、『与謝野寛遺稿歌集』など。63歳。 『明星』で与謝野晶子、茅野雅子、山川登美子らを育て、妻・晶子とともに浪漫主義詩歌を確立した。 墓は多磨霊園(東京都)にある。 ◆与謝野晶子 近代の歌人・作家・思想家・与謝野晶子(よさの-あきこ、1878-1942)。鳳志よう(ほう-しよう)。大阪府堺の生まれ。老舗和菓子屋「駿河屋」の宗七の3女、母は津祢。店番をしながら文芸・歴史書・古典を独習した。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習う。1888年、宿院尋常小学校卒業し、堺女子校入学した。1891年、堺女子校を卒業した。浪華青年文学会に参加する。1899年、 関西青年文学会機関誌「よしあし草」に鳳小舟の名で新体詩『春月』を発表する。1900年、浜寺公園の旅館での歌会で歌人・与謝野鉄幹を知る。鉄幹、山川登美子とともに永観堂を訪れた。鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表する。1901年、東京に移り、官能の処女歌集『みだれ髪』を、鳳晶子の名で刊行した。実家の反対を押し切り、離婚した鉄幹と結婚し、子ども六男六女を出産した。1904年、日露戦争に出征した弟を思う長編詩『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表した。1905年、歌集『恋衣』を山川登美子、増田雅子と合著で刊行する。1906年、歌集『舞姫』を刊行した。1911年、女性解放を唱えた文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」の詩を寄稿した。1912年、『新訳源氏物語』4冊本の刊行を開始する。夫を追い渡欧し、帰国した。1918年、自選歌集『明星抄』を刊行した。平塚らいてうと母性保護論争をする。1921年、建築家・西村伊作、画家・石井柏亭、夫らと文化学院(お茶の水駿河台)を創設し、学監に就任した。『源氏物語』を講義する。1930年、文化学院女学部長に就任した。1935年、夫・寛が亡くなる。1939年、『新新訳源氏物語』を完成させた。1940年、倒れ、右半身不随の病床生活になる。著『定本与謝野晶子全集』全20巻、『与謝野晶子評論集』など。65歳。 歌は5万首、歌集は『舞姫』など20数冊、詩作、現代語訳『源氏物語』『栄花物語』『和泉式部日記』、政治・教育・社会などの評論活動、女性解放思想家としても活躍した。 墓は多磨霊園(東京都)にある。 ◆清滝の地名 清滝の地名についての伝承がある。 平安時代前期、804年-805年に空海は唐に渡った。長安・青竜寺で師・恵果より密教を学ぶ。日本に帰る際に、寺の守護だったという竜女(清滝権現、インド娑伽羅竜王第3女)が、空海守護のために付いてきた。高雄山寺(神護寺)にまで飛来したという。 竜女が紺碧の海をはるばる渡ってきたとして、「青竜」の字にそれぞれ水偏を付けて「清滝」、清滝(瀧)権現にしたという。地名の清滝、清滝川もこれに由来するという。 なお、清龍宮(右京区)が祀られている。醍醐寺(伏見区)境内には清瀧宮本殿が祀られている。 ◆清滝 清滝川の流れる谷あいに清滝はある。愛宕神社までの表参道は5.5㎞(50町)の道のりがある。昔は、「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り」といわれ、愛宕への参詣者で賑わった。 清滝は、宿場町として、宿屋、茶屋が建ち並んでいた。店では米粉と砂糖を練り蒸した、「しら糸しんこ」という菓子が名物として売られた。清滝川は参拝者が身を清める水垢離場(みずごりば)でもあった。 ◆愛宕山鉄道 近代以降、清滝のケーブル清滝川駅-愛宕山山頂間は、愛宕山鉄道鋼索線(1929-1944)が敷かれている。 嵐山-清滝間は平坦線(10分、5両編成で定員74人)が接続していた。鋼索線は、全長2㎞、2両編成の84人乗り、11分で山頂に到着した。かつて、スキー場も併設していた。だが、第二次世界大戦中(1941-1945)の金属供出により、鉄道、駅舎は撤去される。 かつての軌道はいまは道路、トンネルとして利用されている。 ◆試峠 試峠(ためしとうげ)がある。試坂ともいう。愛宕山に登ることができるかを試す峠とされた。また、清滝の人々は、無事に愛宕山に登り帰る人たちを、伊勢音頭、江州音頭でこの試峠まで見送ったという。 愛宕山にケーブルが敷設された際に、峠下にはトンネルが開けられた。 ◆清滝川 清滝川の全長は20km、流域面積67平方kmある。起点は、京都市北区大森東町にある。桟敷ヶ岳、飯盛山、天童山、茶呑峠などの南麓の水を集めて南流する。流路は、北区大森、小野、中川、右京区の梅ヶ畑では周山街道(国道162号)に沿う。さらに、嵯峨清滝、嵯峨水尾と嵯峨の境で保津川(桂川)左岸に注いでいる。支流には大森川、真弓川、水谷川などがある。 清滝橋-落合橋までは、ゲンジボタル(国の天然記念物)の生息地になっており、5月下旬-6月下旬に飛翔が見られる。オオサンショウウオ(特別天然記念物)、カジカガエルも生息している。 ◆文学 ◈歌枕には、平安時代の『古今和歌集』以来のことであり、『八雲御抄』『藻塩草』にも見える。 ◈僧の文覚(1139-1203)は、清滝川で猿が鵜飼の真似をし、鳥を使って魚を獲ろうとしていたのを見たという。(『古今著聞集』) ◈江戸時代前期の俳人・松尾芭蕉(1644-1694)は、1694年6月に落柿舎より清滝を訪ねた。去来の遠縁の奥西野明(?-?)に招待されている。「清滝の 水汲み寄せて(水くませてや) 心太(ところてん)」、絶句「清滝や 波にちりこむ 青松葉」を詠んだ。なお、絶句は「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」ともいう。 句碑「清滝や 波にちりこむ 青松葉」は、落合橋東詰(鳥居本亀屋町)近くにあり、現代、1971年8月に立てられている。落柿舎11世・工藤芝蘭子の筆による。高さ1m、幅2m、丹波石。 ◈近代、1887年秋、小説家・徳富健次郎(蘆花、1868-1927)は療養のために、清滝の「旅館ますや」に滞在し20日ほど旅館に泊まる。当時は同志社の学生だった。旅館には、愛宕神社の参詣者が宿泊した。この時、『レ・ミゼラブル』を読んだという。清滝は、自伝的小説『黒い目と茶色の眼』(1914)にも描かれている。敬二は、寿代への思いを断ち切るために、寿代の手紙と、自分の写真を破り、猿渡橋の上から清滝川に流した。現在、橋の西詰に「自然と人生」の碑、「人は自然ととけあひ 自然の懐に抱かれて 限りある人生を哀しみ 限りなき永遠を慕う」の副碑が立つ。 ◈「ますや」には、与謝野晶子(1878-1942)、鉄幹(1873-1935)夫妻も泊った。晶子は「ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里 水の清滝 夜の明けやすさ」(『みだれ髪』、与謝野晶子、1901年5月頃)と詠んでいる。清滝川にその句碑がある。宿では短歌会も催されていた。 ◈学生時代の小説家・梶井基次郎(1901- 1932)、歌人・脚本家・吉井勇(1886- 1960)、小説家・織田作之助(1913-1947)らも宿泊している。 ◆映画 ◈清滝川では、時代劇映画「宮本武蔵 巌流島の決斗」(監督・内田吐夢、1965年、東映)の撮影が行われた。武蔵(中村錦之助)とお通(入江若菜)が抱擁する。 ◈時代劇映画「新諸国物語 笛吹童子」(監督・荻原遼、1954年、東映京都)では、霧丸(中村錦之助)と桔梗(田代百合子)の場面、時代劇映画「薄桜記」(監督・森一生、1959年、大映京都)では、傷を負った夫・丹下典膳(市川雷蔵)と妻・千春(真城千都世)が再会する。 ◆紅葉 清滝川周辺は紅葉名所で知られている。高雄楓と呼ばれるイロハモミジ、ヤマモミジ、オオモミジなどがある。 *参考文献・資料 『愛宕山と愛宕詣り』、『京都の地名 検証2』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都大事典』、『文学散歩 作家が歩いた京の道』、『京都・湖南の芭蕉』、『京都シネマップ 映画ロマン紀行』、『京都絵になる風景』、ウェブサイト「芭蕉翁顕彰会」、ウェブサイト「ネットミュージアム兵庫文学館」、ウェブサイト「与謝野晶子倶楽部」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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