元勝軍地蔵尊・瓜生山・勝軍山城 (京都市左京区)
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元勝軍地蔵尊・瓜生山 元勝軍地蔵尊・瓜生山 
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狸谷不動院の本堂脇から瓜生山に入る山道。





山頂までは石段、山道が続いている。


「元勝軍地蔵尊道」の石標


奥の院、瓜生山山頂


奥の院内


奥の院、「奥之院 幸龍大権現」の扁額



元勝軍地蔵が祀られていた石室
 狸谷不動院の本堂脇から東の瓜生山(うりゅうやま、勝軍山)に入ると、元勝軍地蔵尊道といわれる山道が山頂まで続いている。
 瓜生山山頂(301m)には、かつて、勝軍地蔵堂に戦勝祈願の勝軍地蔵が祀られていた。現在は、奥の院の御堂に幸龍大権現が祀られている。堂の背後(北)に石室は残され、いまは石造の地蔵菩薩が安置されている。
◆歴史年表 詳細は不明。
 南北朝時代、1361年、瓜生山山頂に勝軍地蔵が安置されたともいう。
 室町時代、近江・戦国大名の六角定頼(1495-1552)により、勝軍地蔵が祀られたともいう。
 また、1520年、12代将軍・足利義晴(1511-1550)下の幕府管領・細川高国(1484-1531)が、六角定頼とともに入城し、細川澄元(1489-1520)の軍を撃破した。その際に、山頂に高国祈願による勝軍地蔵を祀ったともいう。
 江戸時代、地蔵尊は痘瘡無難の信仰を集めたという。 
 1762年、宝暦年間(1751-1764)とも、地蔵尊への参詣が困難なことから、北白川門跡・照高院二品忠誉法親王(1722-1788)により、南の西山(丸山とも)の勝軍地蔵堂(現バプテスト病院)に遷された。
 現在、奥の院の御堂には、幸龍大権現が祀られている。背後(北)の石室は残され、いまは石造の地蔵菩薩が安置されている。
◆六角定頼 室町時代の戦国大名・六角定頼(ろっかく さだより、1495-1552)。近江国守護・六角高頼の子。幼少より相国寺に入り、光室承亀と称した。1518年兄・氏綱死去により、還俗して六角家を継ぐ。10代将軍・足利義稙、12代将軍・足利義晴に仕え、朝廷からの信任も得る。1546年、管領代に任じられた。1549年の江口の戦いでは三好長慶と戦う。北近江の領主・浅井久政とも戦い、従属下に置いた。領国城下において楽市を設けた。
◆細川高国 室町時代の幕府管領・細川高国(ほそかわ たかくに、1484-1531)。政春の子。細川政元の家督相続を巡る澄之と澄元との争いで澄元に付き、1507年、澄之を滅ぼした。だが、翌1508年、澄元を近江に追放する。1508年、前将軍・足利義尹(義稙)復帰により、右京大夫、管領に任じられ支えた。一時、澄元を擁した三好之長から奪回する。1521年、義稙を廃し、前将軍・足利義澄の子・義晴を擁立した。1526年、香西元盛殺害により、兄弟・波多野稙通らが挙兵、1527年、澄元の遺児晴元、三好元長らに敗れ、その後自刃した。
◆忠誉法親王 江戸時代の皇族・聖護院宮忠誉法親王(しょうごいんのみや ちゅうよ ほうしんのう、1722-1788)。第114代・中御門天皇の第3皇子、母は典侍園常子。親王宣下により忠篤、忠得度後の法諱は忠誉。園城寺長吏を歴任した。
◆北白川宮智成親王 江戸時代末期-近代の皇族・北白川宮智成親王(きたしらかわのみや  さとなり しんのう、1856-1872)。伏見宮邦家親王第13王子。1860年、第121代・孝明天皇の養子になり、聖護院門跡雄仁法親王(後の聖護院宮嘉言親王)附弟となる。1866年、親王宣下を受け、聖護院で落飾、信仁入道親王と称した。近代、1868年、照高院宮と称し還俗、智成親王に戻る。聖護院宮を継承し、1870年、北白川宮に改称し初代となる。
◆瓜生山 瓜生山(うりゅうやま、310m)は、北白川北東にあり、勝軍山ともいう。花折断層により、比叡山より分離して成立した。花崗岩よりなる。
 歌枕にもなった。「瓜生山紅葉の中に鳴く鹿の声は深くも聞こえ来るかな」(『元真集』一一一)、「つらなげる気色を見るに瓜生山ならし顔にも立ち出でたるかな」(『赤染衛門集』一六三)。
◆勝軍地蔵 石造の「勝軍地蔵(白川勝軍地蔵、将軍地蔵)」(71.6㎝)は、かつて瓜生山頂の石窟に祀られていた。江戸時代、1762年に忠誉法親王により丸山丘陵(左京区北白川山ノ元町)に遷された。
 戦勝祈願の地蔵尊は、平安京の東にあり、都の守護の意味もあった。西の愛宕山にも同様の地蔵尊が祀られ、平安京の東西に安置された。かつて、聖護院門主の大峯入りの前には、地蔵尊前で護摩供を行ったという。江戸時代には、痘瘡(天然痘)平癒の信仰も集めた。
 室町時代作という。地蔵菩薩を半跏像に浮き彫りし、甲冑姿に右手に剣、左手に軍旗を掲げ、騎乗する。これは、仏敵降伏の三昧に住する姿という。
◆勝軍山城 瓜生山山頂に築かれた山城の「勝軍山城」は、「東山御城」、「北白川城」、「瓜生山城」などとも呼ばれた。本丸跡には、現在も空堀、土塁、土橋の遺構がある。
 当時の築城は、山の地形を利用した山城で、後世には平城に移行する。城郭群跡は1587年、1588年頃の居城的な瓜生山(301m)を中心に6カ所残されている。山頂(Ⅰ群)に主郭、曲輪、土塁、堀切、堅堀がある。南尾根に畝状空堀群がある。山頂東方に若狭の武田氏が築造したとされる東山新城が3カ所あり新しい普請による。さらにその北東の一乗寺堀切に削平地がある。山頂南西600m、標高212mにも腰曲輪などの遺構がある。
 城は、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で、東軍の近江京極氏重臣・多賀高忠(1425-1486)が輸送路の確保のために砦を築いたのが始まりという。若狭守護・武田氏は山中越の通行を監視したという。室町時代、1520年、細川高国により築城され、六角定頼らとともに入城する。京都攻略に使われ、細川澄元の軍を撃破する。その後、焼失した。1546年、12代将軍・足利義晴により築城される。翌1547年、義晴と子で13代将軍・義藤(義輝)(1536-1565)、近衛稙家(1502-1566)らと城に4カ月籠城した。だが、晴元と近江勢により攻められ、義晴父子は火を放って近江に逃れた。
 1550年、義晴により再築されるが、義晴は入城することなく没した。義藤は六角軍と戦い近江に逃れ、自ら火を放ち落城する。1558年、義藤と三好長慶(1522-1564)との戦では城の争奪が繰り広げられ、6月の長慶に続いて6月-11月に義藤は再び籠城した。1561年7月-翌年3月、六角定頼の子・義賢(1521-1598)が布陣し、長慶攻めを行う。
 比叡山焼き討ちの前年、1570年9月-11月に、信長・義昭方の明智光秀(1528-1582)が比叡山の包囲の際に使っている。他方、山門の後援を得た越前・朝倉義景、近江・浅井長政は比叡山に入っている。
◆北白川城出丸 瓜生山に置かれていた本丸の東400mに白鳥山(331.3m)がある。この地は本丸より標高が高く、西側以外の眺望が効いた。このため、北白川城出丸(北城)が築かれていた。出丸には、本丸の物見の砦が建てられていた。
 

*参道の山道は狸谷不動院本堂より15分程度です。急な坂道があります。周囲に人家はありません。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都大事典』『京都の地名検証』 『歴史家の案内する京都』『昭和京都名所図会 3 洛北』 


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石室に現在祀られている地蔵尊

勝軍地蔵、甲冑姿に右手に剣、左手に軍旗を掲げ、騎乗していたという。山上にあった説明板の絵では片膝を立てた半跏坐、岩坐で描かれている。

瓜生山山頂、かつて本丸が築かれていた。広い敷地ではない。

山頂下の山道、周辺には空堀、土塁遺構があるという。

山頂付近からの西の眺望、京都市街地が垣間見える。現在は樹木が繁茂し、見晴らしはよくない。

【参照】北白川城出丸(北城)旧跡、ここには本丸の物見の砦が築かれていたという。

【参照】「勝軍地蔵参道」の石標、北白川幼稚園(左京区北白川山ノ元町)の東に隣接している。

【参照】遷されたというバプテスト病院近くの勝軍地蔵(左京区北白川山ノ元町)の御堂らしきものがあるが、いまは荒廃している。地域の人の話では、地蔵尊はほかに遷されて久しいという。
 元勝軍地蔵尊 京都市左京区一乗寺松原町 瓜生山山頂 
    勝軍地蔵尊  京都市左京区北白川山ノ元町 

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