水尾 (京都市右京区)
Mizuo
水尾 水尾 
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谷あいの柚子の里、水尾地区


愛宕山、愛宕神社参道沿いの民家


愛宕山


地区の傾斜地に柚子の畑が広がり柚子の匂い漂う。愛宕山の伏流水、寒冷気候、実生により、香り立つ柚子が育つという。5月に開花し、7月に実がなる。9月に青柚子の収穫が始まり、黄柚子は12月中旬までに収穫される。




柚子風呂の看板


愛宕山の道標


愛宕山へ向う山道、後方が愛宕山


フジバカマ



アサギマダラ



アサギマダラ



山中にある明智越の道案内


南西方向、亀岡に通じている明智越の山道


古道である米買道(落合から水尾)に沿う、水尾谷を流れる水尾川
 水尾(みずお/みずのお)は、古くより幽邃地として知られた。「水雄」とも書かれた。
 愛宕山(924m)山頂、愛宕神社の南西裾野にある水尾地区は、かつて山城と丹波を結ぶ交通の要衝地だった。愛宕山の登山口に当たり、山頂までは3.5㎞ある。
◆歴史年表 奈良時代、772年、12月、第49代・光仁天皇が南都より行幸している。
 平安時代、第50代・桓武天皇(在位:781-806)も行幸している。
 第56代・清和天皇(850-881)も出家し、一時棲んだ。
 武将・源少尉仲頼(?-1156)も出家後、この地に隠遁したという。(『宇津保物語』)
 中世(鎌倉時代-室町時代)以降、葛野郡水尾村と呼ばれた。
 鎌倉時代後期、第95代・花園天皇(在位1308- 1318)が柚子を植えたともいう。
 
 江戸時代、1679年、大火により、以後、衰微した。
 近代、1889年、葛野郡嵯峨野村の大字になる。
 昭和期(1926-1989)初期、柚子を植えるようになり、柚子の生産地として知られるようになる。
 1931年、地区は、京都市右京区に編入された。嵯峨水尾と称される。
清和天皇 平安時代前期の第56代・清和天皇(せいわ-てんのう、850-880)。名は惟仁(これひと)、水尾帝(水尾天皇)、水尾御門。京都の生まれ。第55代・文徳天皇の第4皇子、母は藤原良房の娘・明子(あきらけいこ、染殿皇后)。良房の染殿邸に生まれた。850年、兄の3親王(惟喬、惟条、惟彦)を差し置き、生後8カ月で立皇太子になる。858年、9歳で即位し、後見した外祖父・良房が人臣(臣下)最初の摂政になる。(正式には866年以降)。866年、応天門の変が起こり、大伴家が没落する。良房が権勢を誇る。876年、天皇は27歳で基経の妹・女御・藤原高子との間の3カ月の貞明(さだあきら)親王(第57代・陽成天皇)に譲位した。以後、藤原北家良房一門の権勢は確立された。879年、出家し、素真と称した。清和院(旧染殿邸)に移る。良房の養子・基経の粟田山荘(後の円覚寺)で落飾する。畿内巡幸の旅へ出る。棲霞観(清凉寺)に住み、天台宗の名刹・水尾山寺に入寺したという。勅命により「貞観格式」が編まれた。880年、京都・粟田山荘に移り没した。31歳。
 金戒光明寺裏山に火葬塚があり、経塚とされている。1926年、治定された。嵯峨水尾山(水尾山陵)に葬られた。僧の身になった天皇は生前に、薄葬、陵墓を造営しないようにと遺詔している。 
 後世、武門の棟梁となる清和源氏の始祖とされた。
◆源頼仲 平安時代後期の河内源氏武将・源頼仲(みなもと-の-よりなか、?-1156)。源為義(1096-1156)の子。1156年、皇位継承の争いと藤原氏内部の勢力争が絡んだ保元の乱では、父・為義に従い、崇徳上皇・藤原頼長方として参戦、敗北する。敵方の平清盛・後白河天皇方の兄義朝(1123-1160)に降参する。義朝によって助命嘆願されるが、兄・義朝により父とともに船岡山で斬られた。
◆明智越え 戦国時代-安土・桃山時代の武将・明智光秀(1528-1582)の治城・亀山城から愛宕山への道を「明智越」と呼んだ。
 1582年、光秀は、本能寺の変の数日前に、愛宕山の西坊威徳院(社務所付近)で連歌を興行した。9人で100韻「愛宕百韻」を詠み、神前に捧げている。光秀の発句は「ときは今 あめが下しる 五月哉」になる。
 6月2日早朝、光秀は、亀山より1万3000の軍勢を率い、中国攻めとして出陣した。織田信長の命によるもので、中国の毛利を攻めていた豊臣秀吉への援軍だった。光秀は軍が山陰道の老ノ坂に差し掛かると、「敵は本能寺にあり」と命じたとされる。軍はそのまま西国街道に折れず、洛中に向かい、本能寺の織田信長を急襲し自刃させた。 
 亀岡よりの大勢の軍の侵攻には、本道の老ノ山(坂)のみならず、保津より尾根を伝った明智越、唐櫃越(からとごえ)も使ったといわれている。
◆水尾の里 水尾の現在の人口は100数十人で過疎化が進んでいる。里では柚子、樒、梅などが生産されている。
 里には古老制(宮座)、頭式祭、候中式事、精進頭、六斎念仏などの旧い慣習、習俗、祭りなどがいまも残されている。古老制は左家(さけ)と右家(うけ)があり、それぞれ6人、合わせて12人がいる。両家は左右に坐し、長老を刀禰(とね)と呼ぶ。刀禰の由来は奈良時代にあるともいう。刀禰の下に、式事、ショウジドウという役がある。江戸時代、男児が誕生すると庄屋に届け、台帳にその名が記された。
 水尾からは、皇室の黄檗(きはだ)染め、御袍(ごほう)に用いる榛(はしばみ、はん)が納められていた。
 また、樒が植えられ、里は「しきみが原」とも呼ばれた。平安時代中期の歌人・曾禰好忠(?-?)は、「愛宕山しきみが原に雪つもり花つむ人の跡だにもなし」と歌っている。
 愛宕神社境内には神花、樒を売る「清めの樒女」がいた。樒は、火災除けのご利益があるとされ、竃などのそばに供花した。樒女は、頭に樒を載せて愛宕神社へ毎日登っていた。樒は神前に供えられ、参拝者に売られた。樒女は榛の木染め(榛と桃の白皮)による赤袴を身に着け、天皇に仕えた女官の緋(ひ)の袴の遺風ともいう。江戸時代以降は、三巾の前垂れに変わった。
 かつて、水尾では枇杷、蜜柑、林檎、梨なども生産していた。柚子は、鎌倉時代に中国より移入された。水尾柚子は、鎌倉時代後期の第95代・花園天皇(1297-1348)が水尾に植えたのに始まるともいう。昭和(1926-1989)初期に柚子を植えるようになり、柚子の生産地として知られるようになる。柚子の出荷は11月下旬-12月上旬になる。地域では、柚子を「柚(ゆう)」という。柚子の生産農家も減少している。また、梅の生産地として知られている。
◆米買い道 水尾から途中の荒神峠(395m)を越えて落合までは、「米買い道」(3.7㎞)と呼ばれていた。この地に、稲作に適した土地がなかったことから、村人は丹波、亀岡に米を買い出しに出かけていた事からこの名がついた。 


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『洛西歴史探訪』、『天皇陵』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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