鞍馬寺 (京都市左京区) 
Kurama-dera Temple
鞍馬寺 鞍馬寺
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鞍馬石



仁王門前石段


仁王門(山門)






仁王門


仁王門扁額




仁王門


仁王門、寺紋は天狗の羽団扇ではなく、菊の花を側面から見た意匠となっている。


仁王門


仁王門、1913年造立の阿吽の虎


修行道場


仁王門内




町石、本殿まで続く石標、九十九折の参道8町7曲りに1町(110m)ごとに立てられている。


参道、清少納言は『枕草子』の中で「近うて遠きもの」として「くらまのつづらおりといふ道」をあげた。九折坂(つづらおりざか)は、参道の急な坂道のことで、九十九折の石段、坂道が1kmほど続いている。


童形六体地蔵尊、保育園の入口にある。


普明殿、鞍馬ケーブルの出発点になっている。


普明殿



普明殿、毘沙門天像


鞍馬山の尊天の図解、宇宙の大活動体という。千手観音は月・愛を表し、毘沙門天は太陽・光を表し、魔王尊は地球・力を表すという。


鞍馬山ケーブル


放生池


方生池付近、江戸時代の石組が残るという。



吉鞍(よしくら)稲荷、吉鞍稲荷大明神、茶枳尼天尊を祀る。寺鎮守、農神水神、福神稲荷になる。五穀豊穣、商売繁盛、産業守護の信仰がある。


吉鞍稲荷


右より、安行大神 吉鞍叱枳尼天 金龍弁財天 赤長龍神・黒長龍神


白姫龍神、白長龍神


魔王の滝


魔王の滝


魔王の滝


魔王の滝、滝上に魔王尊を祀る。


鬼一法眼社


鬼一法眼社

由岐神社


由岐(ゆき)神社拝殿、割拝殿(重文)


由岐神社


由岐神社、ご神木の大杉社(願掛け杉)、高さ53m、樹齢800年の巨木が3本立つ。


由岐(ゆき)神社


由岐(ゆき)神社

鞍馬寺九十九折


川上神社、牛若丸の守り本尊の地蔵尊が祀られている。


東光坊跡・源義経供養塔


絵馬より


鞍馬山の谷筋を流れる源流


「箏曲稚児之桜」の碑、五條の橋での牛若丸と弁慶故事を称える 


「いのち」、澤村洋二作



玉杉大黒天


玉杉双福苑、鞍馬山七福神、玉杉大黒天



玉杉双福苑、玉杉恵比須尊



町石
 鞍馬寺(くらまでら)は、若狭街道沿い鞍馬山(570m)の南中腹に建つ。境内は16万坪(52万8000㎡)を有している。京都の北方を守護する毘沙門天の神域で、平安京の北の守り、水源の守護地として平安時代後期以来広く信仰を集めてきた。
 鞍馬蓋寺ともいう。正式には松尾山(しょうびざん)金剛寿命院という。 
 鞍馬弘教(くらまこうきょう)の総本山。奥ノ院魔王殿に、「尊大」(そんてん、護法魔王尊)という独自の本尊を安置する。
 神仏霊場会第103番、京都第23番。京都洛北・森と水の会。新西国三十三箇所第19番札所。
 開運招福、魔除、勝運(受験、選挙、試合、闘病など)、商売繁盛、スポーツ上達などの信仰がある。
◆歴史年表 
創建の詳細、変遷は不明。
 奈良時代、770年、正月4日初寅の夜、鑑真の高弟・鑑禎(がんてい/かんちょう)が、山背に霊山があるとの夢を見た。その地で毘沙門天像を得、草庵を結んだのが始まりとされる。当初は律宗だった。(『鞍馬蓋寺縁起』)
 平安時代、796年、弘仁年間(810-814)とも、第50代・桓武天皇の勅命により、藤原伊勢人(ふじわら の いせんど)が堂宇を建立した。定額寺(分寺・国分尼寺次ぐ寺院)になったという。観音菩薩を安置した。当初は東寺末寺だった。(『扶桑略記』)
 寛平年間(889-897)、東寺の僧・峯延(ぶえん)が入寺し別当になり、東寺真言宗になる。峯延は鞍馬山で大蛇を倒したとされ、竹伐り会の始まりになる。
 940年、由岐神社が勧請される。
 959年、延暦寺西塔末になり、天台宗に改宗したという。(無動寺本「鞍馬縁起」氏人別当次第)
 1009年、焼失した。
 1012年、歌人・赤染衛門が参詣した。
 1018年、摂政・藤原頼通が参詣した。
 1091年、白河法皇(第72代)が御教供養のため参詣した。(『中右記』)
 1095年、僧兵は賀茂の神人らと乱闘になる。
 1099年、関白・藤原師通が参詣する。(『後二条師通記』)
 天永年間(1110-1113)、天台座主・忠尋により、比叡山延暦寺の末寺になり天台密教になったともいう。
 1120年、清原重怡は、鞍馬山での10日間の写経を行い、如法写経会の始まりになる。(銅経筒銘)
 1124年、良忍が勧進した融通念仏名帳に鞍馬毘沙門天の入帳があるという。
 1125年、融通念仏の良忍は、通夜念仏を行い、参籠し、「融通念仏神名帳」を授かる。この際に、本尊の毘沙門天が融通念仏守護を告げ、諸仏、神祇、閻魔王、冥途の衆にいたるまで念仏衆に加えた名帳を差し出したという。この頃、毘沙門天像、善賦師童子像が造立される。
 1126年、1091年-1127年とも、焼失する。
 1127年、再建される。吉祥天像、兜跋毘沙門天立像が造立される。この頃、経塚が造られる。重怡は以来13年にわたり念仏12万遍を唱える。
 保延年間(1135-1141)、1135年とも、真言宗より天台宗になる。
 1178年、延暦寺宗徒、鞍馬寺僧が大谷を襲ったという。
 1183年、木曽義仲の軍が東坂本に迫り、後白河法皇(第77代)は、右馬頭資時とともに法住寺殿を抜け、鞍馬寺を経て比叡山に移った。その後、朝敵だった義仲に平家追討の院宣を与えた。
 平安時代後期、貴族は弥勒・浄土信仰から埋経を行うようになる。多くの僧兵を擁した。
 鎌倉時代、1195年、源頼朝は剣を奉納する。
 1226年、仏師・肥後定慶は聖観世音像を造る。
 1229年、青蓮院門跡座主は当寺検校職になる。
 1239年、1238年とも、焼失している。
 1248年、再建される。
 南北朝時代(1333-1392)、賀茂社の神人との抗争、延暦寺の僧との対立などがある。名和長年、新田義貞によって出兵が促された。
 1336年、足利直義は鞍馬寺に制札を発し、軍勢の駐留を禁じた。
 室町時代、1407年、足利義満は当寺で花見をしている。(『教言卿記』)
 1439年、足利義教が看花に訪れた。(『蔭涼軒日録』)
 1443年、足利義教が看花に訪れた。(『蔭涼軒日録』)
 1447年、焼失する。
 1458年、焼失している。
 1464年、鴨川糺の森で、鞍馬寺再興のための勧進猿楽が催される。再建された。
 1469年、足利義政は当寺、山の木をみだりに伐らないようにという教書を出す。
 1492年、亀泉集証(きせん しゅうしょう)、赤松政則が看花に訪れた。(『蔭涼軒日録』)
 1513年、細川高国は「鞍馬寺縁起絵巻」を寄進する。
 1554年、洪水により大門が流出した。
 1572年、武田信玄より戦勝の礼状が届く。
 安土・桃山時代、1580年、織田信長の代官より安堵状が届く。
 1585年、豊臣秀吉より徴祖課役免除の朱印状が届く。
 1588年、秀吉は母の病気平癒祈願を行い、2000石を奉納する。
 江戸時代、1609年、徳川秀忠より徴祖課役の一切を免除する黒印状を受ける。以後、歴代将軍に継承される。
 1610年、豊臣秀頼は由岐神社を再興する。
 1615年、京都所司代より山林竹木乱伐を禁ずる書状が届く。以後、継承される。
 1658年、佐渡守・牧野親成が花の制札を出し、花の枝をみだりに折ることを禁ずる。以後、継承される。
 1670年、現在の梵鐘が完成する。
 1689年、参道に町石が立てられた。
 1701年、本堂が造営される。
 1716年、鞍馬寺融通念仏会、如法写経会を再興する。
 1812年、焼失する。
 1814年、焼失している。義経着用という緋威の鎧も焼失する。以後、荒廃する。
 1850年、洪水により参道が崩れる。
 1855年、日光輪王寺門跡の配下になる。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、10院9房はすべてが廃され、鎮守社は独立した。以後、荒廃する。青蓮院門跡の配下に戻る。
 1870年、寺領は上知される。
 1872年、現在の本殿が再建された。延暦寺末寺になる。
 1878年、経塚遺物が発掘される。
 1891年、仁王門、観喜院が焼失している。
 1919年、信楽真純の入寺により復興が行われる。
 1923年、経塚遺物が発掘される。
 1924年、寝殿が完成する。
 1931年、本堂増築の際に経塚遺物が発掘される。
 現代、1945年、魔王殿、本殿、護摩堂、本坊などが相次いで焼失した。
 1947年、鞍馬弘教を開宗する。
 1949年、天台宗から独立し、鞍馬弘教の総本山になる。
 1950年、初代管長に信楽真純(香雲)が就く。
 1957年、ケーブルが開通する。
 1959年、多宝塔が再建された。
 1969年、転法輪堂、宝珠林が建てられる。
 1971年、本殿金堂が再建になる。
 1976年、与謝野晶子の書斎「冬柏亭」が移築された。
◆鑑禎 奈良時代-平安時代の渡来僧・思託鑑禎(したく がんちょう、722-809)。詳細は不明。師・鑑真 (688-763)とともに753年来日したという。師とともに東大寺で戒律を講じる。大安寺で天台学、律蔵、禅を教授したという。759年、唐招提寺創建後、師とともに移る。
 拳杖術を伝えたともいわれ、僧兵の鞍馬流、その後各流武術に引き継がれたともいう。
◆藤原伊勢人 奈良時代末期-平安時代初期の廷臣・藤原伊勢人(ふじわら の いせんど、759-827)。伊勢戸。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の子。796年、鞍馬寺の起源となる堂宇の建立、桓武天皇により造東寺長官に任命され、東寺を建立したという。安芸守、斎宮頭、右中弁を歴任。
◆峯延 平安時代の僧・峯(逢)延(生没年不詳)。詳細不明。東寺の僧で、知徳に優れた10人の僧・十禅師のひとりだったという。寛平年間(889-897)、鞍馬寺に入り、伊勢人の孫・峰直の帰依を受けた。以後、真言宗に改宗させた。
 「竹切り会式」(6月20日)の行事は、峯延が修行中に現れた大蛇を法力で退治した故事に因むという。
◆壱演 平安時代前期の真言宗僧・壱演(いちえん、803-867)。右大臣大中臣朝臣清麿の孫治麿(智治麿)の子。かつて嵯峨天皇の内舎人(うどねり)。835年薬師寺の戒明により出家した。貞観年間(859-877)、相応寺を建立したという。
◆赤染衛門 平安時代中期の女流歌人・赤染衛門(あかぞめえもん、956/960? -1041~)。大隅守・赤染時用の娘、母親の前夫・平兼盛の子ともいう。976年、貞元年中(976-978)文章博士・大江匡衡と結婚する。夫婦仲よく匡衡衛門と呼ばれる。一男一女があり、良妻賢母の鑑といわれた。源雅信邸に出仕し、藤原道長の正妻・源倫子、娘・藤原彰子に仕えた。紫式部、和泉式部、清少納言、伊勢大輔らとも親交があった。匡衡の尾張赴任とともに下向した。子・挙周の和泉守への任官に尽力する。1012年、夫没後、鞍馬寺、法輪寺などを参詣した。後に仏門に入る。1035年、関白左大臣頼通歌合出詠。1041年、弘徽殿女御生子歌合出詠。『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に入集。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人。『栄華物語』の作者ともいう。
 鞍馬寺に参詣した際の歌「消えはてぬ雪かとぞ見る谷川の岩間をわける水の白波」。
◆忠尋 平安時代の天台宗僧・忠尋(ちゅうじん、1065-1138)。佐渡に生まれた。源頼平の子、土佐守忠季を父とする。大谷座主とも称された。比叡山の長豪・覚尋・良祐に学ぶ。曼殊院、比叡山北谷東陽院、1115年、東山大谷に十楽院を開く。1118年、権律師、1130年、天台座主、1137年、大僧正となる。東陽院流の始祖。
◆重怡 平安時代末期の僧・重怡(じゅうい、生没年不詳)。比叡山に登り、顕教、密教を修めた。鞍馬寺に移り、転法輪堂の阿弥陀如来坐像の前で、日夜12万遍、13年にわたり念仏を唱え続け、「鞍馬寺の大徳」といわれた。
◆源義経 鎌倉時代初期の武士・源義経(みなもと の よしつね、1159-1189)。幼名牛若丸、遮那王とも名乗った。父は義朝、母は常盤御前。1159年、父が平治の乱で敗死する。1160年、母は牛若ら3人の幼子とともに平氏の手より大和に逃げる。だが、母子は捕えられ、3人の子が寺に入ることを条件に命を許される。牛若は4歳で母と別れ、公卿の藤原長成の援助により鞍馬寺・東光坊阿闍梨蓮忍に預けられた。後、禅林坊の覚日のもとへ移る。金商人・吉次にとともに奥州に移る。1180年、兄・頼朝の挙兵し呼応、1183年、兄の代官として畿内近国に派遣される。1185年、壇の浦で平氏を滅ぼした。だが、三種の神器の宝剣を回収できず兄と対立、畿内近国の支配権を奪われる。後白河法皇による頼朝追討宣旨を得て挙兵するが失敗し、愛妾・静御前と共に吉野に、さらに奥州藤原秀衡を頼り逃れた。だが、その没後、藤原泰衡により衣川の館で討たれ自刃した。
 境内に義経の伝承に基づく史跡も多い。7歳の牛若は、鞍馬寺東光坊の僧・覚日のもとに預けられ10年を過ごしたという。「息つぎの水」「源義経公背比石」「兵法石」などがある。『義経記』、謡曲『鞍馬天狗』などの題材になる。
◆信楽真純 近代-現代の僧・信楽真純(しがらき しんじゅん、生没年不詳)。香雲(こううん)。1919年、25歳で鞍馬寺に晋山、神智学の影響を受け、1947年、鞍馬弘教を開宗した。1949年、天台宗から独立した。1950年、鞍馬寺初代管長に就く。与謝野門下の歌人だった。
与謝野晶子 近代の歌人、作家・思想家・与謝野(與謝野)晶子(よさの あきこ、1878-1942)。鳳志よう。堺の生まれ。父は老舗和菓子屋「駿河屋」の宗七、母は津祢の三女。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習う。堺市立堺女学校卒、浪華青年文学会に参加、1900年、浜寺公園の旅館での歌会で歌人・与謝野鉄幹を知る。鉄幹、山川登美子とともに永観堂を訪れた。鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。1901年、東京に移り処女歌集『みだれ髪』を刊行。離婚した鉄幹と結婚し、子供を12人出産した。1904年、日露戦争に出生した弟を思う『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。1911年、女性解放を唱えた文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」の詩を寄稿した。1912年、鉄幹の後を追いパリに行く。1921年、建築家・西村伊作、画家・石井柏亭、夫らと文化学院(お茶の水駿河台)を創設し、『源氏物語』を講義した。歌は5万首、『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動、女性解放思想家としても活躍した。墓は多磨霊園にある。
 晶子は鞍馬寺とかかわり深い。鞍馬寺初代管長・信楽香雲は晶子の短歌の弟子だったことから、晶子と鉄幹夫妻はこの地を度々訪れた。晶子の書斎「冬柏(とうはく)亭」が境内に移築された。鉄幹の告別式導師は香雲が務めた。鞍馬寺霊宝殿二階には与謝野晶子記念室がある。近くに歌碑も立つ。
◆創建伝承 鞍馬寺創建についての伝承がある。
 鑑真没後、奈良時代、770年、鑑真は「山城国北高山に霊地あり」との夢告を受ける。夢中の高僧より、「明朝、東方に瑞祥(吉兆)現出する」といわれる。夜明けに、宝の鞍をつけた巨大な白馬が顕れ、馬に導かれ山に登る。夜、鬼が現れるが、毘沙門天の加護により免れ、この地に草庵を結び毘沙門天像を祀ったという。(『鞍馬蓋寺縁起』)
 平安時代、796年、平安京造寺長官・藤原伊勢人は、千手観世音菩薩を信仰しており、ある時、老翁の姿をした貴布禰宜ノ明神の信託がある。蓬莱山に似た聖地に観音菩薩を祀れと告げられる。白馬に鞍を付けて山に放つと馬に導かれ、毘沙門天を祀る草堂に辿り着く。毘沙門天が安置されていたので一度諦めて帰る。再び夢告に童子が顕れ、根本は同じという千手観音像と毘沙門天(多聞天)について諭す。伊勢人はこの地に三面四面の堂宇を建て、毘沙門天と共に安置し、鞍馬寺と称したという。(『今昔物語集』『扶桑略記』)。
◆尊天 「尊大」(そんてん、魔王尊天、護法魔王尊、宇宙の大霊、サナートクマラ)という独自の本尊がある。これは、毘沙門天、千手観音、護法魔王尊の合体したものとされる。
 尊天とは、この世に生命を授かるものすべてを産み出す宇宙エネルギーのことを意味している。この三身の霊気により、生命を輝かせることができるという。護法摩王尊は、大地の霊王といわれ、天狗の総帥とされる。今から650万年前、人類救済のために金星から降臨したという。摩王尊は、北方守護の浄域の地、鞍馬に降り、王城の地平安京を見護ったという。
◆仏像 霊宝殿に安置の平安時代前期(11世紀、後期とも)作、「毘沙門天立像」(国宝)(175.7㎝)は武神になる。三尊(毘沙門天、吉祥天立、善膩師童子)としては最古例になる。右手に戟(げき)、左手は宝塔を持たず、代わりに額に当て望遠し、眉をしかめ睨む、左足は外に向け前に出すという特異な姿をしている。足で邪鬼を踏まない。「鞍馬型」といわれ、北方より王城を鎮護する意味を持った。ただ、両手は後補、改変されたという。本来は左手に戟、右手は腰に当てていた。かつての姿は、後に三尊を写したとされる当寺の1258年銘の銅燈籠(重文)鋳出像に残されている。背刳内に、銅造聖観音像、『仏名経』『毘沙門天真言』各1巻を納入していた。木造、橡材、一木造、素地。
 毘沙門天左脇侍の「吉祥天立像」(国宝)(100.3㎝)は、平安時代後期、1126年に焼失し、1127年再作された。毘沙門天の配偶神ともいう。ふくよかな体、穏やかな表情をしている。胎内に奥書経巻が納められていた。木造、一木造、ヒノキ材。
 毘沙門天右脇侍・「善膩師(ぜんにし)童子立像」(国宝)(95.4㎝)は、毘沙門の子ともいう。美豆良(みずら)の髪型に、左手に経典を納めた宝篋を載せる。宝木造、一木造、橡材、素地。
 平安時代後期作の「毘沙門天立像」(重文)(167.3㎝)は、平安京遷都の際に、羅城門楼上に安置されていた兜跋(とばつ)毘沙門天像(現在は東寺に安置)を模したものという。兜を被り、外套を着、右手に宝棒、左手に宝塔を載せている。かつて、不動堂に安置されていた。牛若丸も帰依したといわれている。鎮守夜叉毘沙門天ともいわれる。木造、寄木造、彩色。脇に尼藍婆、毘藍婆の二鬼を従える。
 鎌倉時代前期、1226年作、名仏師の肥後別当・定慶作の美仏「聖観音菩薩立像」(重文)(176.7㎝)がある。左手に蕾の蓮・未敷蓮華(みふのれんげ)を持つ。右肩が天衣から露出している。頭の高く結い上げた髻(けい)、装飾など宋風、女性的な容姿から「山の乙女」とも呼ばれている。木造、ヒノキ材、寄木造、粉溜、玉眼、截金、彩色。
 普明殿内陣に「鞍馬山尊天」、「毘沙門天尊像」が安置されている。
 本殿金堂の内内陣中央に「尊天」という三身一体の仏が安置されている。中央の「毘沙門天」、右に「千手観世音菩薩」、左に「護法魔王尊立像」は、60年に一度、丙寅の年にのみ開帳される。それぞれ、太陽の精霊・光の象徴、月の精霊・愛の象徴、大地の霊王・力の象徴を表すという。また、各前立像が安置されている。
 仁王門に安置されている「仁王像」は湛慶の作という。1911年に丹波より遷された。
◆建築 仁王門、普明殿、中門(勅使門)、多宝塔、弥勒堂、寝殿、転法輪室、閼伽井護法善神社、本殿金堂、光明心殿、本坊、鐘楼、霊宝殿、僧正が谷不動堂、義経堂、奥の院魔王殿などが建つ。
 ◈ 「仁王門(山門)」は、平安時代、寿永年間(1182-1184年)に建立された。1891年に焼失し、近代、1911年の再建時に現在地の下より移築された。向かって左の扉一枚は、平安時代、寿永年間(1182-1185)のものという。3間1戸、和様楼門。標高250m。
 ◈「中門(勅使門)」は、四脚門、こけら葺に銅板。本柱を挟んで袖柱が前後に付き合計6本の柱で支える。
 
◈「多宝塔」は、1959年に再建された。もとは本殿東にあった。ケーブル終点駅のすぐ近くに建つ。
 ◈「寝殿」は、1924年に建立された。8月1日-3日に奉修される如法写経会の道場になっている。
 ◈「転法輪室」は、1969年建立、寄棟の宝形造、銅板葺、方4間。内陣に丈六の阿弥陀如来像を安置。金剛寿命院は本坊となっている。
 ◈「本殿金堂」は、1945年に焼失し、1971年に再建された。標高は410mの地点に建っている。本殿金堂、外陣、内陣、三本尊(尊天)を祀る内内陣に分かれている。毘沙門天、右に千手観音菩薩像、左に護法魔王尊像を祀る。また、三尊それぞれの御前立が立つ。本尊の御開帳は60年毎の丙寅の年に限る。「尊天」の扁額が掛かる。一重入母屋造。
 ◈「僧正が谷不動堂」は、1940年に建立された。3間4面。宝形造、正面に向背付、本瓦葺、四周に縁。伝教大師最澄が天台宗開宗の悲願のために彫ったという不動明王が安置されている。
 ◈「奥の院魔王殿」は、1950年に建立された。宝形造、1間四方、杮葺に銅板を張る。
◆僧兵 武装した鞍馬寺僧兵(鞍馬法師)は、平安時代末期から室町時代まで多数存在したという。普段は、樵、寺の雑用をし、鑑禎が伝えたという武術を使ったともいう。村(座)は七つの組で組織されていたという。
 なお、「竹切り会式」(6月20日)は、峯延が修行中に現れた大蛇を切り捨てた故事にちなむ。僧兵が青竹を大蛇に見たてて、五段に切り分ける。第二次世界大戦前には思託鑑禎忌で行われていたという。
◆鞍馬 街道は、雍(よう)州路とも呼ばれ、交通の要路だった。 
 また、鞍馬山は平安時代にはサクラの名所として知られ、浄土信仰が盛んな頃には「洛北浄土」といわれた。
 「くらま」の語源については、「魔王尊(さなとくまら)」、「サナートクマラ」の「クマラ」の転訛ともいう。鞍馬の山の形に因るとする説。また、「鞍馬」には山の谷間という意味があり、谷あいにあることから日が短く、「闇部(くらぶ)」と呼ばれたことに起因するという説もある。
◆奥の院魔王殿 奥の院魔王殿は、「650万年前に金星から地球に降り立った」という護法魔王尊(サナート・クラマ)を祀っている。また、魔王尊は、鞍馬寺の護法神であり、永遠に16歳の若さを保ち続け、地球進化を司り、人類がやがで水星に移住する時まで守護し誘導する存在であるという。
 石灰岩の上に建ち、かつてはこの磐座で祭祀が行われていたとみられている。
 この付近は、謡曲で、牛若丸が天狗僧正坊から兵法を伝授された場所という。
◆鬼一法眼社 鬼一法眼社が祀られている。陰陽師・鬼一法眼(きいちほうげん)は、周の太公望が著した鞍馬寺秘蔵の『六韜(りくとう)三略』という兵法書を独習し、兵法の大家となったという。法眼は、一条戻橋に住む陰陽師集団の頭目だったという。義経(牛若丸)は鬼一法眼に兵法書を伝授され、平家打倒の兵法を練った。だが、秘伝の「虎の巻」の閲覧は断られる。そこで、法眼の末娘・幸寿を手なづけ、六韜を写し取ったという話が『義経記』、浄瑠璃、歌舞伎などにある。また、義経は「虎の巻」だけを残して消却したという。また、法眼は、鞍馬山の僧兵8人に刀法を伝授し、「京八流」の祖とされる。その末裔が吉岡一門であり、宮本武蔵と対決する。
 かつて、勧進聖の高僧の配下に、御師(おし)と呼ばれる集団がおり、彼らは鞍馬寺の勧進のために全国に散り、毘沙門天像や「鬼一法眼兵法虎巻」を頒布して歩いたという。御師は江戸時代には願人(がんにん)と呼ばれるようになる。
◆川上神社川上神社には、牛若丸の守り本尊の地蔵尊が祀られている。牛若丸は修行の折に日々参拝したという。
 平安時代、1159年、平治の乱で、義経の父・源義朝は平清盛に敗れ、逃げ延びた尾張国で殺害される。平清盛に捕えられた母・常盤御前と子らは、美貌の常盤御前が清盛の言いなりになることで生き延びる。義経の異母兄・頼朝は伊豆に流され、7歳の牛若丸は鞍馬寺東光坊の僧・覚日のもとに預けられた。
 義経は16歳の時、奥州平泉へと下り、藤原秀衡の庇護を受ける。義経は、頼朝の平家打倒の兵に加わり、数々の戦功を立てた。平家追討後、頼朝は、許可無く官位を受けたなどの理由で、義経を「朝敵」として追った。頼朝は京の義経邸を襲う。
 義経は、叔父の源行家らとともに頼朝打倒の旗を挙げた。後白河法皇は頼朝追討の院宣を下したが、一転して義経追討へと翻した。義経は藤原氏を頼って逃れる。だが、当主転藤原泰衡は、父・秀衡の遺言を破り、義経を慕っていた弟・藤原頼衡を殺害した。兵騎により衣川館を囲まれた義経は、31歳で自害している。
◆閼伽井護法善神社 閼伽井護法善神社が祀られている。千年前、修行していた峯延(ぶえん)上人を二匹の蛇が襲い、雄蛇は討たれた。雌蛇は魔王尊に捧げるお香水を永遠に絶やさないということを誓い、ここに祀られたという。
 この上人の大蛇退治伝説に因み、毎年6月20日に行われている「竹伐り会式」(たけきりえし、蓮華会)」が始まった。当日は、大蛇に見立てた青竹を、僧兵姿の鞍馬法師らが山刀で斬り、その早さを競い、その年の稲作の豊凶を占う。
◆由岐神社 由岐(ゆき)神社は、もとは産土神であり、また、鞍馬寺の鎮守社だった。「ゆき」の語源は、矢を納める武具靱(ゆき)を意味している。靱に矢を入れる際には鏃(やじり、ぞく)を上にする。かつては、靱負(ゆげい/ゆきえ)という武人がいたという。また、元来は疫神であり、天皇の病を平癒、世の安泰を祈願した。
 平安時代、940年に勅命により、御所に祀られていた由岐大明神を、都の北の鎮めとするために遷したのが始まりとされる。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)で医薬の祖神。八所明神を合祀する。
 例祭は鞍馬の火祭(10月22日)、手に松明をかかげ、道筋にかがり火をたいて遷宮の行列を迎えたのに因むという。
◆ムカデ信仰 毘沙門天は財宝、戦勝の神で、四天王の一人、鬼門に当たる北方守護を司り、眷属・神使のムカデは、鉱業神との関わりがあるとされる。鉱物採掘の坑道の形がムカデを連想させるからともいう。鞍馬山では銅、希少金属などを産出していた。
 また、百足のたとえにより客足がつく吉兆とされ、鞍馬参詣による商いの民間信仰も起きた。
◆伝承 古くより天狗の住処として知られる。天狗は毘沙門天の化身とされ、都の北方を守護した。愛宕山は長岡京の、鞍馬寺は平安京の北に位置している。愛宕山の天狗は太郎坊、比良山は次郎坊などで、鞍馬の天狗は僧正坊と呼ばれた。鞍馬山の僧正が谷で、遮那王(牛若丸)に兵法伝授したのは、太郎坊、高雄内供奉だった。(『太平記』)。僧正坊の起源は、僧正が谷に住んだという弘法大師の孫弟子・壱演僧正ともいう。太郎坊は天狗の筆頭にあった。中世末、鞍馬の僧正坊がこれに取って代わる。後に、鞍馬の天狗は魔王大僧正と呼ばれ、毘沙門天の夜の化身、その垂迹とされた。
 また、鞍馬山の東谷の僧は、西谷の花見の招きを受け、牛若丸らを連れて出かけた。見知らぬ山伏が来たので僧は気を悪くして帰る。山伏は、牛若丸の素性を知り憐れみ、諸処の花の名所を案内する。自らは大天狗であり、平家討滅の望みが達せられるように兵法の秘伝を授けるという。翌日より激しい修行が続く。山伏は兵法を授け、再会を約束して立ち去ったという。(「謡曲鞍馬天狗」)
 鞍馬寺の修行僧が山中で焚火をしていると、突然女が現れ向かいに座った。僧はすぐに鬼であることを見抜き、火にあぶった鉄の杖で鬼を突いた。鬼は怒り、僧を追いかけて食おうとした。だが、毘沙門天に念じると倒木が鬼を潰し、その難を逃れた。(『今昔物語』)
 峯雲が山に入り日暮れになる。毘沙門堂の傍で焚火をしていると、やはり鬼が現れ、襲ってきた。毘沙門天の呪文を唱えると倒木し、鬼を潰した。また、勤行中に大蛇が出た。呪文を唱えると、蛇は斬られ、難を逃れる。これは、「竹切り会式」の起源となる。(『拾遺往生伝』)
 本三位中将貞平と僧正が谷の鬼国の美しい女・こんつ女の悲恋話がある。女を見初めた中将は、死繁状の杖で三寸に縮められ鬼国に入る。だが、大王に中将か女のどちらかを食うと迫られ、女が身代りになり果てる。13年後、中将はおばが産んで捨てた女の子を家に連れ帰る。姫はやがて美しい女に成長した。ある時姫は、自分がこんつ女の生まれ代わりであり、中将の供養により成仏し、再び甦ったという。二人は晴れて夫婦の契りを結んだという。後に姫は現人神・貴船明神となり、中将は客人神として顕れたという。(「貴船明神の前生」)
 鬼一法眼の伝承が残る。鞍馬小学校の校庭の斜面ムクの大木の元に、「鬼一法眼の古跡」という碑が立つ。付近は鬼一法眼の屋敷跡ともいう。鞍馬寺境内には、鬼一法眼堂が祀られている。陰陽師・鬼一法眼は、一条今出川に住んだ。周の太公望が著した鞍馬寺秘蔵の『六韜(りくとう)三略』という兵法書を独習し、兵法の大家となったという。鬼一には6000人もの弟子がいた。義経は、入洛した際に鎌倉少進を案内として鬼一に会おうとした。鬼一はようやく義経に面会し、兵法書を伝授され、平家打倒の兵法を練る。だが、秘伝の「虎の巻」の閲覧は断る。義経は、鬼一の熊野参りの間に法眼の末娘・幸寿を手なづけ、六韜(奥殿書42巻)を写し取ったという。鬼一は帰り経緯を知って怒り、二女の夫・堪海に義経の暗殺を命じる。義経はこれを負かし奥州に去った。娘は義経に焦がれて亡くなる。残された鬼一は、娘の野辺送りの後に虎の巻を焼いたという。(『義経記』、浄瑠璃、歌舞伎)。また、実際には勧進聖の高僧の配下に、御師(おし)と呼ばれる集団がおり、彼らは鞍馬寺の勧進のために全国に散り、毘沙門天像、「鬼一法眼兵法虎巻」を頒布して歩いたという。御師は江戸時代には願人(がんにん)と呼ばれるようになる。
 融通念仏宗開祖の良忍(1073-1132)は、念仏布教のため勧進帳を抱えていると、壮年の僧が現れる。僧は記入したいと言い残して去る。良忍が勧進帳を見ると鞍馬寺本尊・毘沙門天の名が記されていた。その後も毘沙門天は、融通念仏を広めるように伝えたという。
◆文学 平安時代中期の紫式部『源氏物語』第5帖「若紫」巻では、光源氏と紫上の出会った北山「なにがし寺」、つづら折りの下の「なにがし僧都」庵は、鞍馬寺が設定されているともいう。ただ、異説もある。光源氏は「おこりの病」の加持祈祷のために「北山」の聖を訪れた。由岐神社参道脇の小川にある「涙の滝」は、光源氏が「吹き迷ふ 深山おろしに 夢さめて 涙もよほす 滝の音かな」と詠んだ。
 平安時代中期の清少納言の『枕草子』に「近くて遠きもの」として「鞍馬のつづらをりといふ道」をあげている。平安時代中期の『宇津保物語』には、鞍馬で30年の山籠もりをした山伏が登場する。平安時代の『大和物語』105段では、浄蔵法師が平の中興(なかき)の娘と契り、恥じ入り鞍馬に籠る。南北朝時代-室町時代初期の『義経記』にも記されている。
 謡曲「鞍馬天狗」では、大天狗が沙那王に平家滅亡を予言し、義経を守護する。狂言に「鞍馬参り」「鈍根草」「毘沙門」
 「おぼつかな鞍馬の山の道知らで霞の中にまどふ今日かな」、安法法師「拾遺集」雑春。「これやこの音に聞きつるうずざくら鞍馬の山に咲けるなるべし」、藤原定頼「定頼」。
 
鞍馬寺とかかわりの深かった歌人・与謝野晶子(1878-1942)の書斎・「冬柏(とうはく)亭」が境内に移築されている。1930年に建てられ、かつては東京市外荻窪村(東京都杉並区荻窪2-119)にあった。日本建築の「采花荘」、洋館の「逍青書屋」の間に書斎があった。晶子50歳の賀の祝いの1929年に弟子たちが贈り、翌年に完成した。1943年、門下生・岩野喜久代により大磯に移された。1976年に鞍馬寺に再移築される。鞍馬寺初代管長・信楽香雲は晶子の短歌の弟子だったことから、晶子と鉄幹夫妻はこの地を度々訪れている。鉄幹の告別式導師は、香雲が務めた。「冬柏」の名は、1900年創刊の機関誌『明星』が1927年に終刊になり、1930年に復刊された『冬柏』に因む。
 霊宝殿二階には与謝野晶子記念室がある。また近くに歌碑が立つ。1932年、鉄幹は鞍馬寺を訪れ、「遮那王が背くらべ石を山に見てわがこころなほ明日を待つかな」寛(鉄幹)と歌った。「何となく君に待たたるここちしていでし花野の夕月夜かな」晶子。また、「曙やくらまのお寺さくら咲き比叡にあるなり曼荼羅の雲」晶子。
◆文化財 「鞍馬寺経塚遺物」(国宝)約200点がある。近代、1878年、1923年、1931年に本殿裏山から大量の経塚遺物が発見された。平安時代の石宝塔、銅宝塔(57.6㎝)、鉄宝塔、金銅経筒、銅経筒(24.9㎝)、金銅三尊像(22.7-24.4㎝)、金銅毘沙門天像懸仏、芦草双鳥文鏡、銅水瓶、奈良時代の金銅板押出菩薩像残闕、宋時代の青磁・白磁合子などいずれも国宝に指定されている。経筒には平安時代の「保安元年(1120年)」などと刻まれ、銘記されている中では最も古い。「治承三年(1179年)」の銘がある金銅経筒残闕もある。塚上に置かれていた宝塔は宝物館に展示されている。こうした埋経は鎌倉時代まで続けられた。現在は、本殿裏に石造四方仏、宝塔1基が立てられている。京都国立博物館寄託、鞍馬寺所蔵。
 「鞍馬寺文書」のうち南北朝時代、「名和長年書状」(重文)、「新田義貞書状」(重文)、室町時代の「足利義政御教書」(重文)など。
 「鞍馬寺蓋寺縁起」は、室町時代、1513年、細川高国が寄進した。詞は尊応、絵は狩野元信による。
 平安時代の「黒漆剣」(重文)は坂上田村麻呂佩(はい、装身具)という。鎌倉時代の「銅燈籠」(重文)など。
 『鬼一法眼兵法虎の巻』、弁慶所持の鉄扇。
◆庭園 本坊前にある瑞風庭は、護法魔王尊が650万年前、人類救済の使命により金星より焔の君たちを従え、聖地・鞍馬山に降臨した様を表したものという。
 北庭に白砂盛があり、魔王尊の乗る天車を表すという。
 南庭は、組井筒と大刈込により鞍馬山を表し、石組みは魔王尊を表すという。また、奥の院の磐座を表すものという。
◆東光坊跡・源義経供養塔 東光坊跡・源義経供養塔は、1940年に建立された。牛若丸が居た東光坊の跡地という。覚日阿闍梨の元で仏法修行に励んだ。
 『平治物語』『太平記』、謡曲などでは牛若丸は11歳の時、自らの境遇を知り、僧正が谷まで山中の九十九折道を通い、平氏への仇討ちのために天狗相手に武芸修行を行ったとなる。
◆翔雲臺(台) 本殿金堂の後方より出土した経塚の蓋石は、翔雲臺(しょううんだい)に祀られている。石は、本殿背後の山中より出土した経塚の蓋石だった。経塚からは、金銅の毘沙門天小像が多数見つかっている。
 この地は、本尊・魔王尊が降臨した地という。
◆町石 町石は、本殿まで続く石標であり、九十九折の参道8町7曲りに1町(110m)ごとに立てられている。◆鞍馬山ケーブル 鞍馬山ケーブルは、1957年に開業した。寺の経営による。山門-多宝塔間、距離200m、標高差120mを2分で運行する。
◆自然・地質 鞍馬山の極相林は、200年から300年をかけて生まれた陰樹だけの森になる。森の生成史として、裸地は、まず草地になり、マツ、ナラなどの陽樹が育ち、その下に、シイ、カシなどの陰樹が入り込む。やがて陰樹は成長し、陽樹を追いやり、陰樹だけの安定した森が形成される。この極相林は、照葉樹のウラジロガシ、ツクバネガシ、サカキ、カゴノキ、ツバキ、アラカシ、カゴノキ、針葉樹のツガ、モミなどで構成されている。このまま人の手が加わらなければ、やがて原生林に移行する。
 
木の根道には、背比べ石から不動堂までは地下に閃緑岩の岩脈があり、玉ねぎ状風化により石が球形になり、「天狗の卵」といわれている。さらに、砂岩が天狗の卵の原石、閃緑岩になったマグマの貫入により焼かれ、砂岩ホルンフェルズとなる。このため、土壌層が薄くなり木の根が地表を這う。 
 緑色岩は、鞍馬山の山体の大部分を占めている。ハイアロクラスタイトといわれ、緑を「貴船よもぎ」、赤紫色を「紫貴船石」という。水石では「加茂七石」のひとつに数えられている。
 赤鳴は、珪質頁岩であり、研磨用仕上砥石として使われた。梅ヶ畑に産するものは鳴滝石といわれた。
 奥の院魔王殿は石灰岩の岩の上に建ち、かつて、この磐座で祭祀が行われていたとみられている。魔王殿を支えている石灰岩は、古代ペルム紀中期(2億数千万年前)の原生動物、サンゴ、ウミウリ、ボウスイチュウ、巻貝、腕足類などの化石を含む。2億8000万年前に古赤道付近の海山上で礁になり、その後、海底プレートの移動により、ジュラ紀(2億1000万年から1億4000万年前)に大陸縁辺にまで運ばれ、後に隆起し、鞍馬山中に露岩したという。石灰岩は、炭酸カルシウムを50%以上含有する。兵法石といわれるのは、刀でつけたような痕があることから呼ばれる。牛若丸の剣道修行によるとの伝承を生む。これらの亀裂は、雨水により浸食された溝跡であり「カレン」という。
◆桜 鞍馬山は平安時代からサクラの名所として知られ、浄土信仰が盛んな頃には「洛北浄土」といわれた。「貴船雲珠(うず)」という桜が咲く。この雲珠桜は、特定の品種を指すのではなく、鞍馬・貴船一帯で常緑樹の中に混じって花開いたさまざまな品種の、多様な色の桜の総称となる。その様が、あたかも平安時代の唐鞍の馬具、しりがいの飾金具にある雲珠模様に似ているところから名づけられたという。開花は4月下旬。
 「これやこの音にききつる雲珠桜鞍馬の山に咲けるなるべし」藤原定頼。
 境内には山桜、枝垂れ桜なども植えられている。
◆野生生物 鞍馬山一帯では、植物1000種、キノコ1000種、野鳥87種、陸貝50種が確認されている。珍しいものも多く、キノコでは、クラマノジャガイモタケ、アカイカタケがある。
 シダのクラマゴケ、普明殿にタラヨウ、奥の院道にはツバキ、サカキ。尾根筋にモミ、ツガ、スギなどの原生林がある。霊宝殿への登り口にアサダ、魔王殿登り口にメグスリノキ、普明殿にタラヨウ、唐招提寺より贈られたというボダイジュがある。木の芽道にカヤがある。
 昆虫はチョウのスギタニルリシジミ、ムカシトンボ、ガのクラマトガリカ。
 モリアオガエル。ニシキマイマイなど陸産貝も多い。哺乳類としてはリス、キツネ、ムササビ、シカ、クマも生息している。
 2001年、14頭のヒナコウモリ(哺乳類、絶滅寸前種)本種が冬眠しているのが発見された。ミゾゴイ(鳥類、絶滅寸前種鳥類)が見られる。2015年現在。
 鞍馬寺境内にある鞍馬自然博物苑には、鞍馬山で見られるこれらの鉱物、動植物の標本が展示されている。
◆畚下し 中世-近世(鎌倉時代-江戸時代)、鞍馬山では、正月には初寅詣、第二寅詣が行われていた。室町時代に、民間信仰として盛んになる。
 地元では、この参詣者相手に名産の火打石(燧石、炉材珪石)を、「畚下し(ふごおろし)」という方法により売ったという。街道筋の西山岸、鞍馬川の崖上(現在の京福電鉄貴船口駅付近)の小屋より、畚(ふご、蕢)といわれる編んだ籠を縄で対岸の小屋に下した。これに参拝客が銭を入れ、一度縄をつり上げる。畚に石を入れて再び下し、客に販売していた。売っていたのは、髻髪(もとどり)を切った地下人であり、「鞍馬坊主」とも称されていたという。(『日次紀事』)。俳句の季語にもなった。宝井其角「花さかば告げよ尾上の畚おろし」がある。
 場所は、現在の貴船口駅付近より、やや鞍馬方面に向かった崖上付近で、かつて「蕢下」という地名もあった。ここに山小屋があり、いまは跡地に畚下し不動尊という祠が祀られているという。
◆年間行事 しめのうち詣で(1月1日-15日)、節分追儺式(2月節分)、春の酬徳会(春の彼岸入り)、花供養(4月中旬-15日)、開闢法要・中日法要(花会式、結願法要が行われる。)、五月満月祭(ウエサク祭、5月の満月の夜に行われる。スリランカ、ジャワにも同名の祭りがある。少なくとも、室町時代、1450年以来催されている。)、竹伐り会式(平安時代、峯延が、襲いかかった大蛇を打ち負かし、切り刻んで龍ヶ嶽に棄てたという故事に因む。僧兵姿の大惣法師が近江、丹波に分かれ、大蛇に見立てた青竹を切り刻む。早く切り終えた方が豊作になるとされる。)(6月20日)、如法写経会(8月1日-3日)、義経祭(9月15日)、秋の酬徳会(秋の彼岸入り)、秋の大祭(10月14日)、由岐神社の鞍馬の火祭(10月22日)、平和の祈り(11月3日)、除夜の鐘(23時半に法要、23時45分より撞く。)(12月31日)。
 市場・花街関係者の参拝(毎月1日)。初寅に参詣し、かつて大福帳に商売繁盛の判を押していた。現在は「お富の印のお札」を授けられ、貼る。


*一般的な順路に随って案内しています。一部の建物内の撮影は禁止。*年間行事の中止・日時変更、拝観中止・時間変更の場合があります。
*仁王門から貴船までの距離は約2.5kmあります。鞍馬から貴船の峠越えの所要時間は、個人差もありますが全行程で1時間半ぐらいです。石段、急峻な坂道も多く、足場はかなり悪いところがあります。鞍馬寺・霊宝館から貴船側の鞍馬寺・西門の間は深い森の峠道になります。仁王門→由岐神社(距離267m・仁王門を0mとして高低差50m)→本殿金堂(791m・高低差160m)→背くらべ石(404m・高低差235m)→魔王殿(460m・高低差185m)→貴船神社(573m・高低差35m)
 多宝塔は高低差120m。 
*参考文献 『古寺巡礼 京都 14 鞍馬寺』『旧版 古寺巡礼京都 25 鞍馬寺』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『探訪 京都・上賀茂と二つの鞍馬街道 その今昔』『昭和京都名所図会 3 洛北』『仏像』『京都の仏像』『京都仏像を訪ねる旅』『京都の仏像 入門』『絶対に訪ねたい!京都の仏像』『稲荷信仰と宗教民俗』『国宝への旅 2』『日本の名僧』『京都府の歴史散歩 中』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都隠れた史跡の100選』『おんなの史跡を歩く』『京を彩った女たち』『女たちの京都』『源氏物語を歩く旅』『京都の寺社505を歩く 上』『京都の地名検証』『京都の地名検証 3』『京都のご利益手帖』『ガイドブック鞍馬山』『京都ご利益徹底ガイド』『総合ガイド1 鞍馬山/貴船渓谷』『京都 神社と寺院の森』『京のしあわせめぐり55』『週刊 京都を歩く 13 鞍馬』『週刊 古寺を巡る 17 鞍馬寺』


   由岐神社       貴船神社      専称寺      鞍馬       延暦寺・東塔       延暦寺・黒谷青龍寺(左京区)        厳島神社          

九十九折の参道

参道に句碑もいくつか立てられている。「火祭や鞍馬も奥の鉾の宿」山本青瓢、鞍馬出身。


石清水が湧く

中門(勅使門)

中門(勅使門)、本柱を挟んで袖柱が前後に付き合計6本の柱で支える。

九十九折の坂の途中にある江戸時代の「貞明皇后(1884-1951)御休憩所跡」の石標。第123代・大正天皇皇后(1884-1951)は、1924年の行幸の際にこの地点で休んだという。

九十九折の石段参道



鞍馬山七福神、福寿星神、福禄寿寿老人


弥勒堂、釈尊滅後、56億7千万年後に顕れ、人類救済するという弥勒菩薩を祀る。ケーブル終点から続く新参道沿いにある。

多宝塔、ケーブル終点駅のすぐ近くに建つ。

多宝塔礼堂、ケーブルの終点駅

開運の毘沙門堂、多宝塔建立の際に草むらより顕れた石仏(毘沙門天)という。

6mの石垣は、石英閃緑岩(鞍馬石)により組まれている。 



巽の弁財天、本殿巽南東にあり、福徳、智慧、財宝、技芸の神。



「貴船雲珠(うず)」という山桜、杉木立の中に白い桜が点在している。

転法輪堂、1969年建立。丈六の阿弥陀如来座像が安置されている。江戸時代作。
「めぐりつつ鞍馬の山のつづら折り転法輪をわが身もてする」与謝野鉄幹。

石造転法輪、南無阿弥陀仏と唱え一回転させれば、念仏6万遍の功徳があるという。平安時代の重怡が6万の弥陀宝号を納めたことに因む。重怡は、阿弥陀仏の前で日夜12万遍、13年間唱え続けた。阿弥陀仏の指に結ばれた五色の糸を持ち、僧の念仏唱和の中で往生し、「鞍馬寺の大徳」といわれた。

手水舎

手水舎

寝殿



比叡山の山並と京都市街地を望むことが出来る。

翔雲臺(台)、本殿金堂の後方より出土した経塚の蓋石。

一番上の稜線中央付近に、玉体杉が見える。

眼下に見える鞍馬の門前町

本殿金堂

本殿金堂「尊天」の扁額

本殿金堂、蟇股

本殿金堂

本殿金堂内陣

本殿金堂

本殿金堂前


本殿金堂、阿吽の虎、阿の虎、彫刻家・黒岩淡哉(1872-1963)の1951年作。毘沙門天の使いといい、鞍馬山に毘沙門天が顕れたのは、寅の月、寅の日、寅の刻といわれている。


本殿金堂前、金剛床(こんごうしょう)といい、「宇宙の力を内奥におさめた人間が、宇宙そのものと一体化する」ことを表すという。鞍馬山の教えを具現化しており、近年はパワースポットのひとつとされている。


閼伽井護法善神社


閼伽井護法善神社、閼伽井、雌蛇を祀る。水は涸れる事がないという。

閼伽井護法善神社の天井

閼伽井護法善神社、阿吽の虎、魔除け、毘沙門天の使いといい、鞍馬山に毘沙門天が顕れたのは、寅の月、寅の日、寅の刻といわれている。


光明心殿、魔王尊の尊像を安置。


光明心殿

金剛寿命院(本坊)

瑞風庭、磐座

宝珠林
奥の院参道





奥の院遥拝所


これより奥の院

鐘楼

鐘楼、共鳴のためか床に壺が埋められている。

八所明神、宮中賢所の祭神である八柱の神を迎えて祀ったという。鞍馬の火祭(10月22日)では、由岐明神と八所明神の二つの神輿が渡御する。 

鞍馬寺経塚(奈良時代-鎌倉時代)、この付近から出土した遺物はすべて国宝に指定された。

鞍馬寺経塚、石造四方仏

鞍馬寺経塚、石造宝塔

緑色岩

露岩した緑色岩(ハイアロクラスタイト)

砂岩、中生代ジュラ紀二億年前の白い砂岩、この先の坂には泥岩、珪質頁岩などもある。

革堂地蔵尊、屏風坂にある。かつては一枚岩の屏風を立てたような急坂があったという。

革堂地蔵尊

赤鳴、珪質頁岩、研磨用仕上砥石として使い、梅ヶ畑に産するものは鳴滝石といわれた。

「僧正谷京道」の石標


上「遮那王が背くらべ石を山に見てわがこころなほ明日を待つかな」寛(鉄幹)、下「何となく君に待たたるここちしていでし花野の夕月夜かな」晶子。


1933年、鉄幹60歳、晶子55歳。説明版より








与謝野晶子の書斎・冬柏(とうはく)亭、1930年に建てられ、かつては東京荻窪にあった。1976年にこの地に移築される。鞍馬寺初代管長・信楽香雲は晶子の短歌の弟子だった。晶子と鉄幹夫妻はこの地を度々訪れている。
 霊宝殿二階には与謝野晶子記念室がある。

晶子が病床で使用していたという食器。

「ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟(こくりこ)われも雛罌粟(こくりこ)」晶子。
鞍馬寺蔵百首屏風より、「こくりこ」はひなげしのこと。

霊宝殿、一階は自然科学展示室、二階は寺宝、山外は諸仏を保管・展示している。


奥の院

奥の院

牛若丸息つぎの水、牛若丸(義経)は毎夜、僧正が谷に通い武術の稽古をしていた。その合間にこの水で喉を潤したという。

峠への嶮しい石段の参道

背比石の祠

鞍馬山の頂上付近にある義経公背比石、牛若丸が16歳の時に、鞍馬寺を出て奥州平泉に向かう際、この石と背比べをしたという。1.2mの石英閃光緑岩。「遮那王が背くらべ石を山に見てわがこころなほ明日を待つかな」寛(鉄幹)

木の根道、砂岩に石英閃光緑岩の岩脉が貫入、マグマ熱により砂岩ホルンフェンズになり、硬化したために木の根が露出している。

木の根道

鞍馬山の極相林

大杉権現社、かつて千年杉(天狗杉)が立っていたという。三本の幹による巨木は、台風で途中から折れたという

大杉権現社

大杉権現社、狛犬

大杉権現社

僧正が(ヶ)谷眷属社
僧正が谷には、かつて空海弟子・壱演が住し、以来、僧正が谷と呼ばれるようになったともいう。
「鞍馬の奥に僧正が谷といふ所あり。…人住み荒し、偏へに天狗の住家と成りて、夕日西に傾けば、物怪をめきさけぶ。さればおのづから参り寄る人をも取りなやます間、参籠する人なかりけり」(『義経記』)


僧正が谷の湧水

僧正が谷不動堂、伝教大師最澄が天台宗開宗の悲願のために彫ったという不動明王が安置されている。

僧正が谷不動堂、向背

義経堂、遮那王尊(源義経)を祀る。奥州衣川で亡くなった義経の魂は鞍馬寺に戻り遮那王尊となり、護法魔王尊に供えしているという。

義経堂、義経は遮那王と名乗り、この僧正が谷に通い、剣術の鍛錬を積み平家打倒を誓ったという。

義経堂脇の杉のご神木

木の根道

奥の院魔王殿の手水舎

奥の院魔王殿の手水舎


奥の院魔王殿拝殿(上)、魔王殿(下)「650万年前に金星から地球に降り立った」という護法魔王尊(サナート・クラマ)を祀っている。

魔王殿は岩の上に建てられている。磐座(いわくら)、磐境(いわさか)とも称される。


魔王殿の石灯籠
江戸時代までは、太郎坊社という社がこの付近にあったという。

兵法石、刀でつけたような痕がある。牛若丸の剣道修行によるとの伝承を生む。

石灰岩

尊天を祀る。この坂を下ると貴船も近い。

西門、鞍馬寺と貴船を結ぶ。



「竹伐(き)り会(え)式」(5月20日)、平安時代の中興の祖・峯延(ぶえん)上人の大蛇退治の故事にちなむ。直径約10cm、長さ約5mの青竹を、4人ずつの近江座と丹波座に分かれた僧兵姿(黒素絹、玉襷、五条袈裟の弁慶被り、草鞋履き)の男たちが、山刀で5段に斬りその速さを競う。勝った方の土地がその年は豊作となるという。祭りの担い手は世襲制の「七仲間」中の大惣法師仲間が行う。竹は4本、雄大蛇には根がなく、雌大蛇は根付の青竹になっている。根の付いた細竹は儀式の後に植え戻されるという。斬られた際の破竹片は、魔除けの御守りになるといわれ、人々は持ち帰る。

【参照】「鬼一法眼之古跡」、叡山電車「貴船口駅」の東南、鞍馬小学校近く、ムクの根元にある。

【参照】鞍馬駅前の巨大な天狗
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