越畑 (京都市右京区嵯峨)
Koshihata
越畑  越畑
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越畑の民家




愛宕山の石碑


愛宕山の石燈籠
 右京区北西、愛宕山の北北西の山間部に、嵯峨越畑(さが-こしはた)がある。古歌では「山城の 原の鎧田 きてみれば 冑の森に 弓掛けの松」とすでに詠まれている。古くは腰畑(こしはた)と呼ばれた。愛宕山への裏街道としても栄えた。
◆歴史年表 奈良時代、781年、この地は、愛宕山白雲寺の寺領になる。
 814年、9世紀(801-900)とも、4人の定住が始まる。(「村由来記」)
 860年、坂上田村麻呂の妻・薩埵御前は、清水寺を創建した協力者の雲平、竜徳とともに当地を訪ねたという。(「村由来記」)  
 862年、田村弘道らが、妻子10人を連れて移住したという。(「村由来記」)
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、丹波国桑田郡より山城国葛野郡に移る。
 江戸時代、1729年、村高239石8斗2升あった。愛宕神社社領であり、その三坊の教行院、大善院、威徳院が61石5斗、高野家が55石3斗2升を知行していた。(「山城国高八郡村名帳」)
 1871年、廣見台より30町余の水路が開かれ、細野村より用水が引かれ灌漑される。
 近代、1889年、嵯峨村の大字になる。
 1931年、京都市に編入され嵯峨越畑になる。  
 現代、2009年、地区の棚田は「にほんの里100選」に選ばれた。 
◆棚田 地区には棚田が広がる。2009年に「にほんの里100選」に選ばれた。田圃は800枚ほどあり、武士の鎧を思わせる段々畑が広がり「鎧田(よろいだ)」とも呼ばれている。
◆断層 越畑断層は、嵐山付近から北北西へ走り、愛宕山南、南西側の山中、水尾を経て越畑に至る。急峻な山地・鞍部列・山地斜面・河谷の左屈曲など数本がある。
 越畑付近では、高段位面に撓曲(とうきょく、地層のたわみ)をともなう低断層崖かあり、活断層も露頭している。断層は、江戸時代後期、1830年の京都大地震(文政の大地震) の震央になったともいう。断層は越畑付近から北西に走り、神吉盆地を経て、桂川に直線状に至る。神吉-越畑断層は、一般的に北西-南東に走り、尾根・河谷の左屈曲、左横ずれの活断層とみられている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都市の地名』、『京都大事典』、『京都の歴史災害』


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