清凉寺 (京都市右京区)
Seiryo-ji Temple
清凉寺 清凉寺
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仁王門(山門)(府指定文化財)


仁王門








初層左右に室町時代作の吽の金剛力士像を安置する。


阿の金剛力士像


西門






本堂・釈迦堂(府指定文化財)


本堂の「栴檀瑞像」の扁額黄檗宗開祖・隠元(1592-1673)筆




一切経蔵、江戸時代中期、傳大士、笑仏を祀る。


一切経蔵


一切経蔵、善慧大士座像、普浄、普賢像、四隅に四天王像


輪蔵


一切経蔵内にある経堂




阿弥陀堂


阿弥陀堂、かつては阿弥陀三尊坐像が安置されていた。


多宝塔(府指定文化財)





聖徳太子(厩戸王)殿




聖徳太子(厩戸王)殿


庫裏(大方丈)


鐘楼


狂言堂



本堂から方丈へ向う回廊



弁天堂(摩尼殿)、池泉回遊式庭園



弁天堂(摩尼殿)



弁天堂



本堂裏の納骨堂


本道裏の方生池の中小島にある忠霊塔、供養塔、1万数千の写経石、沖縄ひめゆりの塔などの戦跡地の石が納められているという。


大方丈、江戸時代、享保年間(1716-1735)の再建、襖絵の一部に狩野探幽筆。1637年の類焼以前のものは、徳川家康、母・於大の方寄進によるともいう。徳川家康4女・一照院(松院、松姫)の位牌所として使われていたともいう。



大方丈前庭園、小堀遠州作庭という。書院は、宇喜田秀家の妻樹正院が関ヶ原の戦い(1600)後、隠居した。



大方丈前庭園


八宗論池、弘法大師は南都八宗の学僧を論破したことに因むという


愛宕権現社



愛宕権現社



「法然房源空二十四歳 求道青年像」、法然は、当寺を訪ねている。


嵯峨天皇(右)と壇林皇后塔との伝承がある墓。


源昇の墓とされる宝筐印塔
 清凉寺(せいりょうじ/しょうりょうじ)は、「嵯峨釈迦堂」「嵯峨の釈迦堂」ともいわれる。山号は五台山(ごたいさん)という。多くの貴重な仏像が安置されている。
 浄土宗知恩院派、本尊は釈迦如来像。
 釈迦如来(二七日)は京都十三仏霊場めぐりの第2番札所。京の通称寺霊場36番、「嵯峨釈迦堂寺」。
 所願成就の信仰がある。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、第52代・嵯峨天皇より贈られた仙洞地(嵯峨院)の一部に、その子・左大臣・源融(みなもと の とおる、822-895)は、山荘・棲霞観(せいかかん、栖霞館)を営んだ。
 880年、清和上皇(第56代)は、源融の山荘を御幸する。
 895年、896年とも、源融の没後一周忌に、遺族は棲霞観に御堂(阿弥陀堂)を建て棲霞寺と称した。空海を開祖、恒寂法親王(第53代・淳和天皇皇子)を開基とするともいう。厩を食堂、鷹屋を鐘楼、泉殿を閼伽井としたという。
 945年、天慶年間(938-947)とも、第60代・醍醐天皇第4皇子・式部卿重明親王(906-954、源重明)が、亡室のために新堂を建立したという。等身金色釈迦像を安置し、以後、釈迦堂の名で称されたともいう。また、重明親王妃が藤原氏のために新堂を建て等身釈迦像を安置したともいう。
 972年、奈良東大寺の僧・奝然(ちょうねん)は、東大寺の義蔵とともに、比叡山に抗して愛宕山に大寺建立の誓いを立てた。(「現当二世結縁状」)
 986年、棲霞寺内の釈迦堂に、奝然が請来した栴檀(せんだん)釈迦如来を安置し、以後、多くの信仰を集めたともいう。
 987年、奝然は、愛宕山を中国の五台山(ごだいさん、中国山西省東北部五台県の霊山)に見立て、その山麓に「大清凉寺」建立を試みた。
 988年、清凉寺戒壇設立に対して比叡山は反対し、停止する。
 999年、藤原道長は嵯峨野遊覧の際に棲霞寺にも参詣する。
 1002年、棲霞寺は観空寺と葛野郡檪原郷を巡り争う。
 1016年、奝然は、愛宕山の清凉寺(大清凉寺)建立の夢半ばで亡くなる。その弟子・盛算は、師の遺志を継ぎ、愛宕山麓の棲霞寺内の釈迦堂に、奝然が宋より持ち帰った釈迦如来立像(栴壇釈迦像)を安置し、華厳宗の五台山清凉寺とした。勅願寺になる。
 1098年、三井寺の隆明が清凉寺別当に就く。隆明は釈迦像の模刻を三室戸寺に安置した。
 1124年、大原僧・良忍は融通念仏を始める。
 1156年、法然は比叡山黒谷の別所より下山し、清凉寺釈迦堂での7日7夜の参籠を行う。
 1190年、焼失する。武蔵国・慈光寺僧上求法が勧進、再建する。
 1113年、棲霞寺釈迦像を供養する。
 平安時代後期、当初の華厳宗より、天台、真言、念仏宗の兼学になった。また、清凉寺と呼ばれるようになる。専修念仏の道場になり、嵯峨に隠棲していた念仏僧が寺に集った。生身如来よりの霊験を得ようと参詣、参籠者で賑わった。
 鎌倉時代、1206年、摂政・近衛家実が釈迦像を摸刻する。
 1218年、1217年とも、釈迦堂、棲霞寺ともに焼失している。(「仁和寺日記」)。その後、明恵が再建したともいう。
 1218年、多宝塔の本尊・釈迦如来像が修造される。快慶は脇士四天王像を造仏する。
 1219年、院宣(院の宣旨)が下り専修念仏が禁じられる。権現師・良暁は請文を上申する。釈迦堂が上棟になる。この頃、寺周辺に多くの修行僧が集まっていた。
 1222年、清凉寺供養が行われる。釈尊御身拭の大会が初めて行われる。
 1227年、嘉禄の法難で、法然の墓の破却を避けるため、高弟の信空、覚阿弥陀仏らは、6月22日夜に遺骸を一時、清凉寺に移した。
 1234年、幕府は専修念仏を禁じた。
 1249年、叡尊は釈迦像を模刻し、西大寺に安置した。
 1261年、北条時頼が参詣し、金100両、田畑山林など7所を寄進する。
 1273年、僧徒が門戸を閉ざし乱を計る。
 1279年、円覚は、融通念仏を勤行した。
 1288年頃、清凉寺大念仏を根本とする。住持の円覚は、境内に塔頭・地蔵院を創建する。
 1332年、釈迦像が仏光を放ったという。
 室町時代、1441年、6代将軍・足利義教が参詣する。
 1443年、大念仏狂言が初めて行われた。室町時代には融通念仏の大道場になる。
 1468年、応仁・文明の乱(1467-1477)により、山門、多宝塔、五大堂、鎮守社などを焼失する。良賢法印、広見禅師は釈迦像を遷す。一時清凉寺に戻し、北野神祠の傍らに遷す。一色氏の庇護を受けた。
 1470年、釈迦像は五条の浄教寺に釈迦像を安置、供養する。
 1477年、浄教寺より釈迦像が清凉寺に戻る。光背が修補された。
 1481年、清凉寺大念仏を再興する。
 1489年、仁王門が再建される。仁王像が造立された。
 1497年、堂宇が修造される。
 16-17世紀(1501-1700)以後、浄土宗系の僧「本願」が寺院経済の実権を得て、五大堂など真言宗系の子院と対立する。
 1504年、釈迦牟尼仏御身拭会を修した。
 1529年、堂宇が再建されている。
 1530年、円誉は住し、十二時の念仏を始める。舎利塔が建てられる。浄土宗(鎮西流)に改宗した。
 1538年、堂宇が再建された。円誉堯淳は十万部会を行う。
 1553年、北野、清凉寺で法華万部会を修する。
 安土・桃山時代、1584年、豊臣秀吉は嵯峨の地、97石を安堵する。
 1596年、京畿大地震により伽藍が損壊した。
 1597年、伽藍修造の別時念仏を修する。浮田家秀夫人・樹正院により仁王門が建立される。
 1598年、豊臣秀吉が再興し、前田玄以が禁制を下した。
 1599年、本堂再建のため別時念仏を修する。
 1600年、廊下、西門などが建てられた。
 1602年、塔頭・看松庵が創建された。豊臣秀頼は釈迦堂を建てる。諸堂再興により供養が行われる。
 江戸時代、1610年、徳川家康息女・松姫が亡くなり、位牌所になる。家康は客殿を建立した。
 1612年、家康より寺領の寄進があった。
 1614年、織田信長33回忌、48日別時念仏が行われる。
 1637年、嵯峨大火により釈迦堂(本堂)をはじめ多くの伽藍が焼失する。
 1659年、黄檗宗の隠元は、栴檀瑞像の大額を揮毫した。
 1664年、阿弥陀堂、棲霞寺仮堂が建立される。
 1665年、徳川家綱は朱印状を下す。
 1700年、釈迦如来立像の出開帳が江戸で行われる。以後、1860年までに9回行われた。
 1701年、桂昌院の発願により、諸大名、住友吉左衛門らにより現在の釈迦堂(本堂)が再建される。
 1702年、現在の多宝塔が創建される。
 1704年、釈迦堂の釈迦如来像の遷仏供養が行われた。
 1814年、伊能忠敬が愛宕山に参詣し、裏坂、清滝、祇王寺、清凉寺なども測量している。(『伊能忠敬測量日記』)
 近代、1868年、真言宗系子院が大覚寺に合併され、浄土宗単立の寺院になる。
 現代、1953年、釈迦如来立像胎内より「臓器」などが発見された。
 1964年より、後継難により嵯峨大念仏狂言が中断された。
 1975年、嵯峨大念仏狂言が復活している。
 1980年、大坂城三ノ丸跡地から、秀頼とみられる遺骨が発掘され清凉寺に埋葬された。
 1986年、嵯峨大念仏狂言が国指定重要無形民俗文化財に指定される。
◆橘嘉智子 平安時代の女性・橘嘉智子(たちばな の かちこ、786-850)。檀林皇后。父は橘清友、母は贈正一位田氏。美貌の人だったという。809年、入内。815年、第52代・嵯峨天皇皇后。第54代・仁明天皇(正良親王)、正子内親王(第53代・淳和天皇皇后)などを産む。橘氏としては最初で最後の皇后になり、嵯峨上皇没後も皇太后、太皇太后として勢威をふるう。836年頃、仏教を信仰し、禅院檀林寺を創建し、檀林皇后とも呼ばれた。842年、仁明天皇の皇太子・恒貞親王が廃された政変の承和の変にも関わったという。844-847年頃、兄・橘氏公とともに、橘氏の教育のために学館院を設立した。梅宮大社は井手より遷し橘家の氏神として祀ったという。嵯峨院で亡くなり、深谷山陵(嵯峨陵)に葬られた。清凉寺に供養塔の宝篋印塔が立つ。
◆奝然 平安時代中期の僧・奝然(ちょうねん、938-1016)。法済大師。秦氏で京都に生まれた。奈良・東大寺、近江国・石山寺の元杲に学ぶ。959年、東大寺で受戒する。983年、宋に渡り、天台山、五台山清凉寺などを訪れた。寺を愛宕山に遷すことを決意する。太宗に謁見し大師号を贈られた。三国伝来という栴檀釈迦瑞像摸像、新印大蔵経などを携え、986年、帰国した。987年、京都に戻り法橋に任じられ、989年から3年間、東大寺別当に就く。清凉寺建立には反対があり、果たせずに亡くなる。
◆盛算 平安時代の僧・盛算(せいさん、932-1015)。仁和寺の寛空・寛朝に伝法灌頂を受ける。山城清住寺、高雄・神護寺別当、東寺阿闍梨、律師となり、中宮彰子の護持僧を務めた。
◆源融
 平安時代初期の公卿・源融(みなもと の とおる、822-895)。第52代・嵯峨天皇の第8皇子。母は大原全子(またこ)。河原左大臣と呼ばれた。元服後、義兄の第54代・ 仁明天皇の皇子となる。源の姓となり、856年、参議、872年、左大臣となる。880年、公卿・藤原基経が摂政となり隠遁生活に入る。河原院、宇治、嵯峨・棲霞観(せいかかん、清凉寺)の別業(別荘)で過した。風流三昧の生涯を送り、皇位に就くことはかなわなかった。『源氏物語』の光源氏、河原院は六条院のモデルとされる。 
 河原院には、陸奥塩竈、千賀の浦の景色が再現されていた。河原に庵が結ばれ、池には毎日30石の塩が運び入れられ、魚貝も放たれていた。海士が塩屋の煙を上らせていたという。
 枳殻亭(渉成園)内に供養塔がある。
◆隆明 平安時代中期の僧・隆明(りゅうみょう、1019/1020-1104)。権中納言藤原隆家の子。天台宗の僧、羅惹院僧正と号した。明尊に師事。白河、堀河天皇護持僧、白河上皇に授戒した。園城寺に羅惹院を創建、三室戸寺を再興、崇福寺、梵釈寺別当歴任、1098年、園城寺長吏、清凉寺別当に就く。法成寺執行職に絡み、1100年、園城寺の衆徒に住房を焼かれ、長吏を退く。1102年、大僧正。
◆法然 平安時代-鎌倉時代の浄土宗の開祖・法然(ほうねん、1133-1212)。美作国の押領使の漆間時国の子として生まれた。9歳の時父が殺され、叡山に登った。源光、西塔黒谷の叡空に師事する。比叡山での25年にわたる修行の中、25歳の時に当寺の三国伝来の釈迦如来を詣でた。1175年、43歳で念仏解釈の相違により、師・叡空と別れ比叡山を降りた。『選択本願念仏集』(1198)を著したことにより、既存の仏教の反感を招き、承元の法難(1206)により土佐に流罪となる。1211年、許されて京に帰ったが、翌年大谷の禅堂で亡くなっている。遺骸は当初、禅房東の崖上に葬られ、墓堂(現在の知恩院法然廟)が建てられた。1227年、嘉禄の法難では、法然の墓を破却し、鴨川に流すと知った高弟の信空、覚阿弥陀仏らは、6月22日夜に遺骸を清凉寺に移した。さらに、28日、太秦広隆寺の来迎房円空のもとへ移された。翌1228年1月25日、西山粟生の幸阿弥陀仏へ移され、荼毘に付されたという。
◆円覚 鎌倉時代中期の律宗の僧・円覚(1223-1311)。大和国に生まれた。3歳で東大寺門前に捨てられる。僧に拾われ、出家得度する。1240年唐招提寺、その後法隆寺に学ぶ。厩戸王(聖徳太子)による融通念仏執行の夢告に従い、1258年、上洛する。1258年、壬生寺で初めて融通念仏を厳修した。壬生寺を再興、法金剛院の中興の祖となる。勧進のため融通大念仏を行った。嵯峨・釈迦堂、法金剛院など洛中48か所の道場で融通念仏を広めた。帰依者が十万人となる毎に大斎会を設けたため、十万上人と呼ばれた。亀山天皇は「円覚十万上人」の号を授けた。
◆生身如来 本堂安置の「日本三如来」の一つ、本尊の木造彩色「釈迦如来立像」(国宝)(160㎝)は、北宋代時代(960-1127)作で、「栴檀瑞像」「嵯峨の釈迦」「三国伝来の釈迦」「生身(しょうじん)如来」「生身の釈迦)」「優填王思慕像」とも呼ばれる。
 平安時代、985年、奝然が入宋した際に、インドの優填王(うでんのう、ウダナヤ王)が牛頭栴檀(ごずせんだん)に彫らせたという37歳の釈迦を現地で模刻させた。仏師は台州の張延皎、張延襲の兄弟の手により、1カ月で完成させる。顔立ちは、釈迦生前の姿を模した「釈迦瑞像」を元にしたという。像はインドから中国にもたらされ、986年に奝然が日本帰国の際に持ち帰った。987年、像は上品蓮台寺(船岡山西麓)に一時安置されている。その後、当寺に遷された。なお、もとになった栴檀瑞像は、1900年の義和団事件により焼失したという。
 像は、極上の赤栴檀の香木により造られているとされた。ただ、実際には代用として中国産の桜(魏氏桜桃、ぎしおうとう)が使われている。右手は施無畏印、左手は与願印、髪は練り物であり長髪を三つ組み(髪束)に結い上げて巻く、網目渦巻状になっている。顔立ちは卵形、陽刻線による通肩衲衣の衣文線は同心円状に彫られ、体に密着している。これらは、中国5世紀前半頃の古風を伝えるものといい、ガンダーラ、グプタ期のマトゥーラの仏像の遺風があるという。額の白毫は銀板を用い銀の一仏が納められ、眼は黒水晶(練物とも)の嵌入、その奥に鏡、口奥に仏牙、水晶玉の耳孔が嵌め込まれ、水月観音の彫られた鏡が納められていた。宋代の特徴として手の爪は長い。裾の裾は二段になっている。身光輪郭の波形の光背(桜材、平安時代作)、反花を除く台座(1218年、快慶の修理銘)は、後補で、日本で造られた。
 胎内には、中国の尼僧(妙善寺の尼清暁、在家の娘ら計7人)により作られたという彩色の絹製(錦、平絹)の五臓六腑が臓器の位置に納められていた。このような内臓のある仏像は極めて珍しいものという。世界最古の絹製模型とされる。1953年に発見されたこれらの「臓器」は、当時の中国における解剖の事実を示す資料的な意味を持つ。臓器は①胃(白色)、②心(赤玉蔵玉)、③肝(赤色蔵香)、④胆(白色)、⑤肺(白斑色)、⑥肝・膀胱?(錦蔵香)、⑦腎(紫色蔵香)、⑧(口+亡+矢)・喉?(白色)、⑨腸(白斑色)、⑩背皮(白色)、⑪(月+者)・脾(黄色)になる。
 そのほか、胎内には「奝然入宋求法巡礼行並瑞像造立記」(983-985)、「入瑞像五臓具記捨物注文」「義蔵奝然結縁手印状」「奝然繋念人交名帳」「奝然生誕書付」、経典「最勝王経」「法華経」、文書、記念品、銅銭、鏡像、版画としては「霊山変相図」「弥勒菩薩図」「騎獅文殊図」など30余りが納められており、すべて国宝に指定された。仏の顔に仏牙を入れた際に血が流れ出たため、生身の仏であることを示したとも伝えられている。背刳蓋板に作者の台州張延皎、延襲の兄弟銘が入る。木造、桜桃材、寄木造、黒漆素地、截金、瞳嵌入。
 栴檀瑞像(せんだんずいぞう)は、釈迦存命中の逸話に基づく。像は、釈迦37歳の姿ともいう。釈迦を生んで7日後に亡くなったという生母・摩耶夫人(まやぶにん)に法を説くために、釈迦はとう利天に赴いたという。カウシャンビー国の優填王(うでんのう)と弟子は、釈迦との別れを哀しみ、毘首羯磨(びしゅかつま)に命じ、栴檀の香木により釈迦の尊像を造らせた。90日後に戻った釈迦は、瓜二つの像を見て、自ら亡き後もこの像が身代わりになり、衆生を済度するとして喜んだという。像は、インドからヒマラヤ越えで中国にもたらされたという。像は栴檀瑞像、優填王思慕像とも呼ばれ人々の篤い信仰を集めた。
 こうして、清凉寺にもたらされた釈迦像は、貴賤上下の区別なく信仰され、多くの参詣者が集った。24歳の法然は、1156年、当本尊の前に7日間籠ったという。(「法然上人行状絵図」)。鎌倉時代以来、各所で模刻像が造られ、清凉寺式釈迦像と呼ばれた。東大寺にもあり、その数は100体/64体ともいう。京都では西明寺、平等寺、常楽院、三室戸寺、近郊では延暦寺、西大寺などにある。江戸時代、1700年以来、像の出開帳が江戸、大坂、京都などで行われ、各所で伽藍修造の寄進を募った。その際に像は、御乗輦内の櫃に納めて運ばれたという。江戸時代、1702年には将軍・徳川綱吉の請願により、江戸で出開帳が行われる。出開帳は、近代、1899年まで続けられた。仏像の体にいまも残る無数の傷跡は、出開帳の際に投じられた賽銭によるものという。
 開帳は毎月8日、お身拭い式(4月19日)ではすす払いと法要が営まれる。
◆仏像・木像 霊宝館に、平安時代、896年作のかつての棲霞寺本尊だった「阿弥陀三尊像」(国宝)が安置されている。阿弥陀堂に置かれていた。中尊の美仏、「阿弥陀如来坐像」(178㎝)は、嵯峨光仏と呼ばれている。定印(上品上生印)を結ぶ阿弥陀仏の最古例という。右足上の結跏趺坐。源融(822-895)が生前に造立発願した。その没後、896年に子の湛(たたう)と昇がその遺志を継ぎ、中尊、左右脇侍の「観音・勢至両菩薩像」(165.7㎝/168.2㎝)、一切経とともに完成し棲霞観内に安置したという。(「菅家文章」)。阿弥陀像は、「源融のうつし顔」といわれ、『源氏物語』中の光源氏の面影を伝えるともいわれている。肩は張り彫りは深く衣紋は厚い。中尊の舟形光背には多くの毛仏が付けられている。脇侍の右の観音菩薩、左の勢至菩薩はほかに例のない密教の影響を受けた独自の印、金剛界大日如来の智剣印を結ぶ。宝冠、瓔珞の装飾が豪華になっている。三尊とも木造、漆箔、ヒノキ材、一木造、漆箔、部分的に乾漆。
 霊宝館の、平安時代(10世紀末)の「四天王立像」(重文)は、「持国天」(138㎝)、「増長天」(139㎝)、「広目天」(141㎝)、「多聞天」(141㎝)になる。いずれも邪鬼を踏まえる。木造、ヒノキ材、一木造、彩色。
 霊宝館の、平安時代(11世紀前半)作の「十大弟子立像」(重文)は10体(80-81㎝)あり、厨子内、本尊の左右に納められている。「富楼刹那」(82.1㎝)、「舎利弗(81.2㎝)など、いずれも個性的な独特の表情をしている。かつて、本堂の本尊・「釈迦如来像」を囲むように安置されていた。木造、彩色。
 霊宝館に、平安時代(10世紀)の「普賢菩薩騎象像(伝 普賢菩薩騎象像、帝釈天騎象像)」(重文)(110㎝)は本尊脇侍として像造されたという。実際には当初の普賢菩薩像が失われたため、江戸時代に、以前よりあった帝釈天像を普賢菩薩に仕立てたものという。木造、彩色。
 霊宝館に安置の平安時代(11世紀、10世紀とも)の「文殊菩薩騎獅像」(重文)(110㎝)は獅子に乗る。945年、重明親王が造立した釈迦如来像の脇侍だったという。その後、釈迦如来は失われ、奝然の請来した釈迦如来像の脇侍になる。木造、彩色。
 霊宝館安置、平安時代後期(10世紀)の「兜跋(とばつ)毘沙門天立像」(重文)(184㎝)は、かつて羅城門楼上に安置され、その後、東寺に遷されたものを模した。宝冠には鳥形、胴に金鎖甲、腕と足に海老状籠手、脛当てを付ける。木造、彩色。
 平安時代(12世紀後半)の半跏像の「毘沙門天坐像」 (重文)。木造、彩色。
 霊宝館に、平安時代作の「毘沙門天立像」(重文)(184.8㎝)、木造、彩色。
 本堂内陣安置の鎌倉時代、1221年の「地蔵菩薩立像」(重文)(68.2㎝)は、仏師能尊の造立、比叡山法幢院僧・沙門成円の発願による。像内に五境の良薬(連珠、銅銭、笛、香袋、金銅杯、扇子)が納められていた。木造、彩色。
 本堂内陣東脇壇中央に、江戸時代作の「奝然上人坐像」(84.5㎝)が安置されている。椅子の曲ろくに坐している。木造、寄木造、彩色。
 
一切経蔵に、善慧大士座像、普浄、普賢像、四隅に四天王像を安置する。
◆建築 「本堂(釈迦堂)」(府指定文化財)は、桁行7間、梁間7間。単層入母屋造、本瓦葺、正面、背面に3間の向拝。禅宗様、和洋の折衷になっている。本堂は、江戸時代、1637年に焼失し、その後、1701年、徳川5代将軍・綱吉、母・桂昌院、大坂の豪商・泉屋(後の住友)吉左衛門らの発起により再建された。最終的には1720年に屋根瓦が吹き替えられ完成している。本堂内の宮殿は、桂昌院の寄付により1701年に再建された。鎌倉時代の旧厨子扉絵に十二天像、宮殿裏に古かん(石+間)筆の「清凉寺縁起」一部の壁画がある。毎月8日と、4月、5月、10月、11月に特別公開されている。
 「阿弥陀堂」は、桁行5間、梁行6間、入母屋造、本瓦葺。平安時代、この地には、棲霞寺の阿弥陀堂があったという。その後、釈迦如来像が安置され清凉寺の阿弥陀堂となる。現在の建物は、江戸時代末期の1863年の再建という。
 
「多宝塔」(府指定文化財)は、下層は3間、本瓦葺、上層は本瓦型銅瓦葺、江戸風に尾垂木を竜頭としている。江戸時代、1700年、江戸護国寺での釈迦如来像の出開帳の際の寄進により、江戸で造られたという。部材は廻船により運ばれ、清凉寺の境内に、江戸時代、1703年に建立された。
 「仁王門(山門)」(府指定文化財)は、江戸時代、1783年(1776年とも)に建立された。三間一戸、二階二重門、総ケヤキ造、入母屋造、本瓦葺。禅宗様、和洋の折衷様式になっている。楼上に十六羅漢像を安置、初層左右に室町時代作の阿吽の金剛力士像が安置されている。
 「一切経蔵」は、江戸時代中期の建立という。輪蔵には、一切の法、経典が唐紙製の明板(みょうばん)本5408巻に収められているという。法輪一回転で一切経をすべて読んだことになり、その功徳が得られるという。
 「釈迦堂(経塔)」に千鳥の彫刻が施されている。
 
「弁天堂(摩尼殿)」は、江戸時代後期の建立ともいう。軒唐破風、屋根は宝形造。
 
「聖徳太子(厩戸王)殿」は、八角殿堂であり、奈良法隆寺の夢殿を模している。
 「鐘楼」は、江戸時代の建立による。
◆愛宕権現社 「愛宕権現社」は、慶俊が鷹ガ峰から愛宕山に愛宕権現を移転する際に、この地に一時遷宮していたという。祠殿は江戸時代、1716年に建立された。
 かつては、愛宕権現の本地・勝軍地蔵、竜樹、富婁那(ふるな)、毘沙門天が祀られていた。1868年の神仏分離令以前は、愛宕の野々宮の神事は、当社前で行われていたという。
◆庭園 方丈前庭は枯山水式になる。小堀遠州作とされる。苔地を方形の飛石、切石、奥に石が配され植栽がある。紅葉が美しい。
◆文化財 国宝、重要文化財など数多い。「本尊釈迦如来体内封籠品」(国宝)のうち、台州開元寺のかん端筆、985年の紙本墨書「奝然入宋求法巡礼並に瑞像造立記」(国宝)、奝然筆の平安時代、985年の紙本墨書「入瑞像五臓具記拾物注文」(国宝)、北宋時代(985)の紙本墨書「版本金剛般若波羅蜜経」(国宝)、奝然筆、平安時代、804年の紙本墨書「細字金光明最勝王経」(国宝)、紙本墨書「捨銭結縁交名記」(国宝)、平安時代の「奝然繋念人交名帳」(国宝)、北宋時代、985年の「絹製五臓」(国宝)、同じく「線刻水月観音鏡像」(国宝)、同じく「銅鏡・無文銅鏡」「菩提念珠」「中国銅銭」など。
 室町時代、紙本著色「融通念仏縁起」2巻(重文)。
 室町時代、1515年の狩野元信伝筆の紙本著色「清凉寺縁起(釈迦堂縁起)」6巻(重文)(34.9×1589㎝)は、本尊・釈迦如来の霊験譚、縁起を描いた巻物、色鮮やかで漢画の影響が見られる。
 北宋時代(10世紀、12世紀前半とも)の絹本著色「宋画十六羅漢図」16幅(国宝)(82.1×36.4㎝)は、当初のものは1218年焼失し、その後の再請来品ともいう。古い時代の様式を残したほかに類例のない作という。
 ほかに、「奝然上人入唐時為母修善願文」は慶滋保胤(933-1002)筆とされ、入宗する奝然が母との別離の苦悩を綴る。
 法然が門弟・熊谷蓮生直実に与えたという鎌倉時代の絹本著色「迎接曼荼羅」2幅対(重文)は、阿弥陀聖衆の来迎と帰り来迎の双方が描かれた珍しい往還来迎図になっている。鎌倉時代の紙本墨書「迎接曼荼羅由来」(重文)、鎌倉時代の紙本墨書「源空・証空自筆消息」(重文)、鎌倉時代の紙本墨書「熊谷直実自筆誓願状」(重文)。
 「梵鐘」(京都府指定文化財)は、南北朝時代、1484年鋳造、総高212.2m。本願は融通聖・宝鎮、大勧進は沙門信孝。寄進者の足利義政、日野富子、その子征夷大将軍義尚、堺商人などの銘700-800人がある。嵯峨八景、嵯峨十景の一つに選ばれ、「清凉晩鐘」「五台晨鐘」といわれた。鋳物師は河内国堺宿院で総大工・藤原長家ら4人による。
◆念仏狂言 狂言堂では、4月10日前後に嵯峨大念仏狂言(国指定重要無形民俗文化財)が、境内西の清凉寺狂言堂で演じられる。京都三大念仏狂言(ほかに、千本閻魔堂・閻魔堂狂言、壬生寺・壬生狂言)のひとつに数えられる。
  鎌倉時代末、1279年、京都で円覚(1223-1311)が遊戯即念仏の妙理を広めるために始めたという。「大念仏法会」は、洛中の多くの見物客で賑わったという。嵯峨大念仏狂言は、この融通念仏の遺風という。
 現在の演目は24番あり、「夜討曽我」「羅生門」などの「カタモン」、能風の12番、「愛宕詣」「餓鬼角力」など「ヤワラカモン」という狂言風の12番がある。演技、曲種などは壬生狂言に近く、「釈迦如来」という独自の演目もある。所蔵狂言面最古には室町時代、「天文十八年(1549)」在銘がある。1964年から後継者養成難により中断された。1975年に復活している。
 世阿弥の謡曲「百萬」には、嵯峨大念仏が登場する。もとは能作者・観阿弥の「嵯峨物狂」を改題した。また、円覚が境内で大念仏会を行っていた際に、衆人のなかに貧盲となった母を見出し、再会を果たしたという伝承が題材になっているという。大和国吉野の者が、奈良・西大寺付近で拾ったという小童を連れて、寺を参詣する。群衆の中に踊り狂う女がいる。小童は、彼女を母だという。女に尋ねると、名は百萬という。夫に死別し、一人子とも生別したため心乱れたという。女に小童を引き合わせると、女の病は治まる。仏の功徳を感謝し、母子は帰っていく。
 狂言の面を模して作られた土産物に「嵯峨面」がある。昭和初期に途絶していたが、初代・藤原孚石により復活した。和紙を貼り合わせた下地に、小胡粉と砥粉、絵の具を塗り、乾かす作業を繰り返し、最後に泥絵具で彩色する。火伏せ面、烏天狗、七福神などの面もある。
◆お身拭式 鎌倉時代、後高倉上皇妃の北白河院(1173-1238)が亡くなり、畜生道で牛に生まれ変わったという。上皇の第3皇女・中宮安嘉門院(1209-1283)は哀しみ、清凉寺の釈迦仏に祈る。その業を解くため、像を拭った白布で経帷子を作り、死ぬ牛に着せた。すると紫雲たなびき、牛は極楽往生したという。現在も行われているお身拭式(4月19日)では、西芳寺の水に白布を浸し、引声念仏の中で僧侶により釈迦像が拭われる。この布で経帷衣を作ると極楽往生するといわれている。
◆源氏物語 紫式部の『源氏物語』の第17帖「絵合(えあわせ)」巻では、斎宮の女御(六条御息所の女)と弘徽殿(こきでん)女御(権中納言の女)の間で絵合せが行われた。藤壺の御前、冷泉帝御前で2度行われる。藤壺が加勢し、斎宮の女御が勝つ。源氏は出家を思い、嵯峨野に御堂を建てた。
 第18帖「松風」巻には、光源氏が無常観を感じ、藤壺との恋の贖罪から出家を考えて建てたという御堂が登場する。「大覚寺の南」とあり、棲霞観(清凉寺)付近とされている。嵯峨天皇皇子・源融(822-895)は光源氏のモデルといわれ、天皇から下賜された現在地に棲霞観を建てた。融没後、建立された棲霞寺が現在の阿弥陀堂に当たる。阿弥陀堂本尊の阿弥陀仏は、融が亡くなる直前に模して造像された。光源氏の写しとされる。清凉寺境内には、源融の墓、夕霧の墓がある。
◆京都十三仏霊場めぐり 釈迦如来(二七日)は京都十三仏霊場めぐりの第2番札所になっている。室町時代、8代将軍・足利義政が歴代将軍の供養を十三仏に祈願したことから始まったという。また、貴族にはそれ以前よりの信仰があったともいう。十三仏とは中陰法要、年忌法要の際の十三体の仏・菩薩をいう。中陰法要は、葬儀後、初七日の不動明王、二十七日の釈迦如来、三十七日の文殊菩薩、四十七日の普賢菩薩、五十七日の地蔵菩薩、六十七日の弥勒菩薩、七十七日の薬師如来とあり、これらを終えた満中陰により新たな生を受け、続いて百日の観音菩薩、一周忌の勢至菩薩、三回忌の阿弥陀如来、七回忌の阿閦(あしゅく)如来、十三回忌の大日如来、三十三回忌の虚空蔵菩薩と追善法要が続く。
◆墓 境内に奝然上人、源融、第52代・嵯峨天皇、檀林皇后、境外北側墓地に、遊女夕霧太夫と十萬上人などの墓がある。
 嵯峨天皇の宝筐印塔は平安時代末作という。
 壇林皇后の五重層塔の基礎は鎌倉時代作。格狭間に三茎蓮華を陽刻する。初層塔身、その屋根と二重目の屋根が本来のものという。初層軸部は四隅を大面取、四方仏の梵字がある。平安時代中期作という。花崗岩製、3m。近代以前には、御陵とされていたという。
 
源昇の墓とされる宝筐印塔が立つ。源昇(みなもと の のぼる、848-918)は、平安時代前期の公卿で、源融の子、嵯峨天皇の皇孫。
 
源融の墓といわれている宝篋印塔が立つ。また、平安時代前期の皇族・恒貞親王(つねさだしんのう、恒寂、825-884)の墓との説もある。宝篋印塔は後世の鎌倉時代後期作になる。基礎に、単弁反花座、塔身に金剛界四仏の梵字、笠石は下段3段、上段6段、隅飾突起は三弧別石式、内部蓮華上月輪に梵字ア、相輪は後補。花崗岩製、相輪を除いて1.63m。親王は、第53代・淳和天皇の第2皇子であり、淳和天皇の後継とされたが、842年の承和の変により、842年に皇太子を廃された。その後、出家し、恒寂と称した。真如法親王から灌頂を受け、嵯峨大覚寺の初祖となる。884年、第57代・陽成天皇退位後の即位を拒絶したという。  開山の奝然上人墓がある。ただ、後世の鎌倉時代作の石幢になる。1985年に現在地の東北の飛び地にあったものを現在地に移転したという。単制の石幢、八角形、中台、基礎はなく、幢身と笠石下の龕部は一石による。塔身(幢身)上部には仏像が彫られていたという。笠石は後補。花崗岩製、1.55m。
 夕霧は、大坂新町扇屋四郎兵衛の抱えの太夫で、日本三太夫(ほかに江戸・高尾、京都・吉野)の一人といわれた。嵯峨の近くに生まれたともいう。1678年、27歳で没したともいう。近松門左衛門は、人形浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」(1712)で、名妓夕霧と藤屋伊佐衛門との悲恋、児をめぐる悲劇を描いた。
 豊臣秀頼首塚は、1980年、大阪城三の丸跡地から発掘された。秀頼(15は93-1615)の首は、1983年にゆかりの当寺に移され埋葬された。首には介錯の跡があったという。大坂城天守の炎上により、秀頼は母・淀殿とともに、山里曲輪で23歳で自害した。
 「大坂の陣諸霊供養碑」がある。別所に、渡辺一族の墓もある。渡辺糺(わたなべ ただす、? -1615)は、豊臣家臣で、槍の名手であり、秀頼の槍の指南役として仕えた。大坂冬の陣、夏の陣に参戦し、最後は大坂城千畳敷で一族とともに自害したという。
 
弥勒多宝石仏(弥勒宝塔石仏)は、鎌倉時代前期作、空也(903-972)作ともいい、空也上人塔とも呼ばれたという。空也もまた、塔を詣でたという。
◆石仏 一重多宝塔がある。石仏と宝塔が表裏に彫られている。弥勒菩薩は上に宝珠付天蓋、左右に蕨手。宝塔は塔身中央に扉が開き、多宝、釈迦二仏が彫られている。、舟形光背、蓮座に坐す。花崗岩製、2.1m。
 弥勒多宝石仏(弥勒宝塔石仏)は、鎌倉時代前期作、空也(903-972)作ともいい、空也上人塔とも呼ばれたという。空也もまた、塔を詣でたという。
◆映画 時代劇映画「若さま侍捕物帖 魔の死美人屋敷」(監督・深田金之助、1956年、東映)の撮影が行われた。
◆お松明式 涅槃会(旧暦2月15日、現在は3月15日)のお松明式は、高さ7mあまりの漏斗型の大松明3基を早稲、中稲、晩稲に見立てて境内に立てる。これに火を放ち、その火勢により毎年の農作物の豊凶を占う。
 これは、釈迦入滅の日に、荼毘に付した釈尊の様に譬えたものという。
◆修行体験 写経会(毎月第4日曜日、10:00、写経道場)。法話、お勤めもある。納めた写経は本尊の前に一カ月お供えし、次回の会で回向・祈願される。
◆年間行事 涅槃会・お松明式(3月15日)、花まつり(4月8日)、嵯峨大念仏狂言(4月第1日曜日、第2土曜日・日曜日)、お身拭式(西芳寺の水に白布を浸し、引声念仏の中、僧侶により釈迦像を拭う。この布で経帷衣を作ると極楽往生するという)(4月19日)、豊臣秀頼公忌(5月8日)、盆施餓鬼会(8月8日)、夕霧供養祭(太夫道中)(11月第2日曜日)、三千礼拝仏名会(12月6日-8日)。
 釈迦聖日(毎月8日)
 
霊宝館は毎月8日、15日。春(4、5月)、秋(10、11月)に特別公開されている。


*室内の撮影は禁止。
*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『古寺巡礼 39 清凉寺』『旧版 古寺巡礼 京都 21 清凉寺』『京の古都から 9 法金剛院』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』『京都の寺社505を歩く 下』『京都・美のこころ』『京都仏像を訪ねる旅』『社寺』『仏像』『京都の仏像』『絶対に訪ねたい!京都の仏像』『増補版 京の医史跡探訪』『続・京都史跡事典』 『愛宕山と愛宕詣り』『洛西探訪』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京の福神めぐり』『国宝への旅 2』『京都 阿弥陀の寺と庭』『源氏物語を歩く旅』『紫式部と平安の都』『週刊 日本の仏像 第29号 清凉寺 国宝釈迦如来』『週刊 京都を歩く 8  嵯峨野』
 


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源融の墓といわれている宝篋印塔。また、平安時代前期の皇族・恒貞親王(つねさだしんのう、恒寂、825-884)の墓ともされる。


開山の奝然上人墓といわれている。

豊臣秀頼首塚

「大坂の陣諸霊供養碑」

弥勒多宝石仏(弥勒宝塔石仏)

嵯峨大念仏伝承碑「あみだ母みた母みた」

【参照】平安時代の棲霞寺の復元模型、京都アスニー
薬 師 堂

薬師堂、境内西北にある。かつては竜幡山薬師寺といい、平安時代、818年、嵯峨天皇の勅により空海が建立したという。薬師如来像を安置し、疫病の平癒を祈願したという。当初は真言宗、後に浄土称と改宗した。普段は非公開。

薬師堂、日月門

「生の六道 小野篁(おののたかむら)公遺蹟」、「小野篁冥土通いの井戸」は、六道珍皇寺境内にあり、井戸のそばに高野槙が生えている。小野篁はその枝を伝って井戸内へ入り、冥界の閻魔庁に通ったという。六道珍皇寺の井戸は入口であり、「死の六道」と呼ばれた。出口は、嵯峨野大覚寺門前六道町にあったという福生寺にあり、「生の六道」と呼ばれていた。福生寺はいまはなく、寺に祀られていた小野篁像と地蔵菩薩像は、薬師寺に遷された。福生寺跡からは、7基の井戸が発掘されたという。
 清凉寺 〒616-8447 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46  075-861-0343  9:00-16:00(4-5月、10-11月9:00-17:00)
 
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