首塚大明神・老ノ坂峠・大枝山 (京都市西京区)
Kubizuka-daimyojin Shrine
首塚大明神 首塚大明神
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本殿


本殿背後にある首塚と伝えられる土盛


社殿は、小さな丸い丘の上に建てられている。境内は円墳だったともいう。



鳥居脇にある手水



旧社殿の瓦?



ご神木の杉の巨木



鎮守の森



【参照】旧山陰道の老ノ坂峠にある愛宕燈籠



【参照】両脇が竹林の旧老ノ坂峠、標高240m。古代以来、重要な交通の要所の峠だったという。
 大枝山(大江山)そのものが老坂をさしていたともいう。なお、酒呑童子説話の大江山とは別と見られている。大江山は枕詞にもある。「大江山いく野の道の遠ければまだふみもみずあまの橋立」(小式部内侍「金葉集」)



【参照】首塚大明神手前にある「従是東山城国(これより東 山城国)」の石標、石標は江戸時代のものという。



【参照】「丹波山城国境標示石柱」、江戸時代、京都国立博物館蔵


【参照】晩秋の頃、朝霧に包まれた老ノ坂峠
 京都市から亀岡市へ向かう国道9号線、老ノ坂(おいのさか)トンネル直前に、旧山陰道への迂回路がある。
 古代以来、老ノ坂(老坂)は、旧山城国と旧丹波国の境にあり、老坂峠がその分岐点になっていた。峠の南には、大江山(おおえやま、大枝山、480m)がある。旧道老の坂峠を左へ入ると、杉の巨木立つ鎮守の森に、小社・首塚大明神(くびづか だいみょうじん)が祀られている。
 祭神は、鬼王・酒呑童子(しゅてんどうじ)。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 平安時代、10世紀(901-1000)以来、この地、大枝(老ノ坂)では四境祭(しきょうのまつり)が行われていたという。ほかに、逢坂、山崎、和爾(わに)があった。
 1156年、保元の乱で敗れた、平家弘、平康弘、平盛弘、平時弘、平光弘、平頼弘、平安弘らを、源義康は大江山辺で斬罪、処刑したという。(『兵範記』)
 南北朝時代、1336年、足利尊氏は、鎌倉より京都を攻め、後醍醐天皇方に反撃される。老ノ坂峠、唐櫃越から西国に逃れる。
 安土・桃山時代、1582年、明智光秀は、本能寺の主君・織田信長急襲の際に、亀山城を発した1万3000の軍兵に対し、老ノ坂峠で天下取りを表明した。明智軍は老ノ坂北の間道(唐櫃越、からとごえ)を進軍している。 
 江戸時代、首塚が第50代・桓武天皇母・高野新笠の陵とされていた。
 現代、1984年より、宗教法人首塚大明神になっている。
 1986年、現在の社殿、鳥居などが建立された。祭事は、亀岡市篠町王子の住民により執り行われている。
◆明智光秀 室町時代の武将・明智光秀(あけち-みつひで、1528?-1582)。名は十兵衛、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)。美濃に生まれた。明智光綱の子。美濃の土岐氏支流ともいう。娘は細川ガラシャ。初め斎藤氏に仕えた。越前・朝倉義景に仕え、1566年、織田信長に仕えた。1567年、滝川一益に従い北国征伐に加わる。1568年、信長入京に当たり、政務に当り足利義昭のために公家側に働きかけた。1569年、公家寺社領仕置などに携わる。信長と義昭の対立を仲介する。1570年、信長の摂津、近江の出陣に従う。1571年、近江・坂本城主になる。1572年、浅井氏の小谷城包囲に参加する。1573年、越前朝倉氏攻略に加わる。1574年、大和多聞山城を守備し、美濃、河内に転戦した。1575年、功により惟任日向守と称した。信長の命で丹波の攻略に着手し、福知山城を築城した。年貢を軽減するなど民に慕われた。1577年頃、亀山城を築造する。1579年、強く抵抗した八上城の波多野秀治らを下して丹波平定した。福知山と命名、城を改修する。1581年、因幡鳥取城攻めに羽柴(豊臣)秀吉を援け、丹後の検地を断行する。1582年、甲州・武田勝頼攻撃に従う。信長より徳川家康の慰労を命じられ、さらに、秀吉の備中高松城包囲に救援を命じられる。光秀は反発し、亀山城(亀岡市)に入り、愛宕山に詣り謀反を決意した。備中出陣の名目により、6月1日、兵1万3000を率い、亀山城を発した。老ノ坂で天下取りを表明した。2日、本能寺を急襲し、信長を自刃に追い、二条御所の信忠を自滅させた。(本能寺の変 ) 。13日、取って返した秀吉との山崎の戦いに敗れる。一旦、勝竜寺城に入る。坂本城に落ち延びる途中、小栗栖(おぐるす)で土民の襲撃により傷を負い、自刃して果てたという。「三日天下」といわれた。故実、典礼に通じた。法名は秀岳宗光。56歳。
 1582年、本能寺の主君・織田信長急襲の際に、亀山城を発した1万3000の軍兵は、老ノ坂で天下取りを表明した。明智軍は老ノ坂北の間道(唐櫃越、からとごえ)を進軍している。 
◆伝承 大江山酒呑童子の伝承は、平安時代の『今昔物語』(12世紀前半)に源頼光と四天王の武勇譚があり、鎌倉時代、1322年の『元亨釈書』には、付近に山賊が出没し、旅人を脅かしたと記されている。盗賊について、幕府執権・北条泰時も、山賊の鎮圧のために地頭に命じている。(『関東御教書』)。これらの話が融合し、盗賊を鬼に喩えて伝承が生まれたともいう。
 伝承によると、平安時代初期、第66代・一条天皇の頃(在位:986-1011)、丹波国大江山(大江町・加悦町)に城を構えていた鬼王・酒呑童子は、京の都へ出て金銀財宝を奪い、婦女子をさらうという悪行の限りを尽くしていた。鬼の所業に人々は怖れをなした。天皇は、武将・源頼光(948-1021)に酒呑童子とその一族を征伐するようにとの勅命を下す。頼光は「四天王」といわれた家臣の渡辺綱、坂田金時、卜部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)、藤原保昌らを率いて大江山へと乗り込む。
 頼光らは羽黒の行者を装い、童子の歓待を受ける。毒酒により童子らが酔いつぶれたのを見計らい、住吉・八幡・熊野の三社の神々の力を借りて、頼光らは童子の首を斬り落とし、配下の鬼たちも残らず退治した。さらわれていた姫君たちを連れて都に凱旋した。
 酒呑童子の首級を都へ持ち帰る途中、この老ノ坂で休憩したという。道端の子安地蔵尊が、「鬼の首のような不浄なものは、天使様のおられる都へ持ち行くことはならん」という。相模国・足柄山で熊と相撲をとった力持ち自慢の坂田金時は、それでも首を持ち込もうとする。だが、首が持ち上がらない。首に根が生えたためともいう。首の腐敗のためともいう。止むを得ずこの場所に鬼の首を埋め、首塚として祀ったという。
 また、酒呑童子の首は、京中へ送られ、天皇の宣化により宇治平等院の宝蔵(経蔵)に納められたともいう。
◆四角四境祭 平安時代、10世紀以降、平安京を清浄にするために、陰陽寮の官人により、祭祀の「四角四境(堺)祭(しかく-しきょう-の-まつり、畿内堺十処疫神祭)」が執り行われていた。これは、四方より都に侵入しようとする鬼気(疫神、疱瘡[天然痘] )を国境で阻止、退散させるための重要な国家による祭祀だった。
 四境とは、東海道の「逢坂(大津市大谷町)」、山陽道の「山崎(関戸、大阪府島本町)」、東山道の「和邇(わに、竜華 [りゅうげ] 、大津市途中峠)」、そしてこの付近の山陰道の「大枝山(亀岡市)」にあった。なお、宮城では四角祭が行われていた。(『延喜式』)
 首塚について、この祭祀との関わりがあるともいう。塚を堺塚(境界上に置かれた道祖神、疫神の祭場)とした。外部から平安京内に持ち込まれる疫病を封じるために、この地で祭祀が行われた。大枝山(大江山)の酒呑童子鬼神伝承も、これら疫病脅威の象徴になった。鬼とは、感染力ある疫病の擬人化、具象化による。鬼(疫病)を源頼光、渡辺綱らが退治するという筋書きに重なる。(『酒呑童子の誕生』)
◆霊験 酒呑童子は源頼光に首を斬られる時、今までの罪を悔い改めたという。以後、首から上に病をもつ人々を助けたいと言い残した。そのため、首より上の病気に霊験あらたかとされ、いまも全国から参拝者がある。
◆老ノ坂・大江山 老ノ坂(老坂)は、旧山城国と旧丹波国の境にある。老ノ坂の語源は、「大枝の坂(おおえのさか)」の転訛であり、「大枝(おおえ/おい)」に「老」の字を当てたという。(『山州名跡志』『山城名勝志』)。また、大枝は「大井(おおい/おい)」とも書かれ、後に「老」に転訛した。(『日本後紀』)
 『小倉百人一首』にある「大江(おほえ)山 いく野の道の 遠(とほ)ければまだふみもみず 天の橋立」(小式部内侍(60番)、『金葉集』雑上・550」)について、歌枕の「大江山」とは、丹後・丹波国境にある大江山(大江町・福知山市)とも、この付近、山城・丹後国境の大枝山(老ノ坂)ともいう。作者(小式部内侍)は、京都より大江山を越え、生野(福知山、行く)を経て天橋立に向かおうとしている。母(和泉式部)は丹後・国府におり、まだその文(踏み)も見ていないとかけている。前者は丹後説、後者は丹波説といわれる。大枝を意味する歌としては、「丹波道(たにはぢ)の大枝の山の葛(かづら)絶えむの心我が思はなくに」(「万葉集」3071、作者不詳)がある。
 かつて峠は山陰道への入り口に当たり、宿場として栄えていた。峠の手前には、律令制下での大江関があったともいう。異説もある。
 平安時代、1184年、源義経は、京都を出発し一の谷合戦に急襲するために峠を通った。室町時代には、天龍寺所管の関所が設けられていたという。また、いつの頃か、高地に老坂峠城が築造された。安土・桃山時代、1582年、亀山城主・明智光秀の軍勢本隊が峠を越えたという。
 近世、峠ノ里が形成され、丹波の特産品を扱う市が立ち賑わっていたという。
◆古墳 首塚大明神の境内は、円墳(直径30m、高さ7m)の上に建てられているともいう。周辺には、古墳時代後期の大枝山古墳群(御陵大枝山)が発掘されている。
◆沓掛 付近の沓掛(くつかけ)の地名は、駅停を意味し、沓を掛けておく店、また、峠にあり、旅の安全の祈願所、山神に旅の加護を祈り手向する処などの意味もあった。
◆丹波口 「京の七口」の一つである「丹波口」は、中世(鎌倉時代-室町時代)には、七条大路の西端にあった。関所の西七条口は、大宮大路との四辻西に置かれ、この付近を丹波口と呼んだという。安土・桃山時代、朱雀大路(千本通)と七条大路の交差点に築造された御土居を丹波口と称した。七条口とも呼ばれた。ここより山陰道を通じ、老ノ坂、丹波亀山とつながっていた。
 「京の七口」について「七口」とは定まらず「十口」ともいう。実際にはそれら以外の複数の間道もあったという。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉の御土居築造の際には、七口は、「粟田口(東)、東寺口(坤)、丹波口(西)、清蔵口(北)、鞍馬口(艮)、大原口(北)、荒神口(東)」とされた。
 江戸時代には、「山陽道(摂津道)東寺口、東海道(伊賀伊勢道)五条橋口、西海道(九州道)四条大宮口、南海道(紀州道)竹田口、東山道(近江道)三条橋口、北陸道(若狭道)大原口、山陰道(丹波道)清蔵口」の呼称があった。また「鳥羽口、伏見口、丹波口、粟田口、八瀬口、若狭口、長坂口」、「東寺口、竹田口、五条橋口、大原口、三条橋口、千本口、七条口」ともされた。
◆自然 1997年の京都府「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「 老ノ坂峠(山陰道)」として選定された。峠付近にツバキ、コナラなどが繁る。
◆年間行事 例大祭(4月15日)。


*年間行事などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『日本の古代遺跡 28 京都Ⅱ』、『京都・山城寺院神社大事典』、『洛中洛外』、『洛西歴史探訪』、『史跡探訪 京の七口』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都・大枝の歴史と文化』、『平安の都』、『京都の地名検証』、『京都の地名検証 2』、『京への道』、『丹波・単語の伝説遍歴』、『京都歩きの愉しみ』、『京のしあわせめぐり55』、 『京都国立博物館 建築/庭園ガイド』、ウェブサイト「コトバンク」


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首塚大明神 〒610-1106 京都市西京区大枝沓掛町旧老ノ坂峠 
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