鎔宮墓・寿萬宮墓 (京都市上京区)  
grave of Imperial Prince Norinomiya,Princess Sumanomiya
鎔宮墓・寿萬宮墓 鎔宮墓・寿萬宮墓
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【参照】堀河紀子の墓(真如堂)
 廬山寺境内の南東に、江戸時代後期の皇族・鎔宮墓(のりのみや の はか)、寿萬宮墓(すまのみや の はか)という宮墓地がある。
 周囲は高い塀と門に閉ざされている。
◆歴史年表 詳細は不明。
 江戸時代、1827年、1月10日、鎔宮が亡くなる。1月26 日、慮山寺で葬儀が行われた。
 1861年、5月1日、寿萬宮が亡くなる。
◆鎔宮 江戸時代後期の皇族・鎔宮(のりのみや、1825-1827)。第120代・仁孝天皇の第2皇子。母は公卿・正親町実光の娘・典侍・正親町雅子(新待賢門院)。戒名は真解脱院宮 。
 墓は廬山寺(上京区)にある。
寿萬宮 江戸時代後期の皇族・寿萬宮(すまのみや、1859-1861)。第121代・孝明天皇の第3皇女、母は公卿・堀河康親の娘・典侍・堀河紀子(もとこ)。叔母・親子(ちかこ)内親王(和宮)の将軍・徳川家茂(いえもち)への降嫁が難航した際に、一時、降嫁候補になった。幼少すぎるため成立しなかった。1861年、夭逝する。3歳。戒名は寶蓮華院。
 その死については偽装説もある。墓は廬山寺(上京区)にある。
堀河紀子 江戸時代後期の女官・堀河紀子 (ほりかわ もとこ、1837-1910)。衛門内侍(えもん の ないし)、右衛門掌侍。公卿・堀河康親の娘。岩倉具視の妹になる。1852年、第121代・孝明天皇の後宮に入り、1859年、第3皇女・寿万宮(すまのみや)、1861年、第4皇女・理宮(ただのみや)を産む。
 紀子は、和宮降嫁を兄・具視、孝明天皇側近・今城(いまき)重子らと勧めた公武合体派公卿「四奸二嬪(しかんにひん)」の一人として、朝廷内の尊攘派に攻撃された。その後、辞官隠居し、1863年、出家している。
 墓は真如堂(左京区)にある。
◆降嫁問題 江戸時代後期、1858年、日米修好通商条約の締結以来、幕藩体制が揺らぐ。幕府は、朝廷との結合、公武合体により体制の建て直しをはかる。同年、幕府は将軍・徳川家茂への天皇家よりの江戸降嫁を計画した。関白・九条尚志の家臣が立案し、老中・安藤信正らが引き継いだ。
 1859年、当初、降嫁候補に挙げられたのは、産まれたばかりの孝明天皇・第2皇女・富貴宮だった。だが、同年に富貴宮は1歳に満たずに夭逝する。1860年、次の降嫁候補者に孝明天皇の妹・和宮親子内親王が挙げられた。侍従・具視が天皇を説得している。天皇は当初、和宮がすでに有栖川宮と婚約しており、幼少などを理由に拒否している。
 このため、3番目の候補として孝明天皇の第3皇女・寿萬宮の名が挙がる。1861年、その寿萬宮も夭逝する。1862年、幕府の再三の和宮降嫁要請に対して、天皇は、攘夷鎖国を条件に和宮の降嫁を許勅する。同年、将軍家茂と和宮の婚儀が実現した。
◆墓 同域内の高い築地塀内に、2基の墓がある。
 奥(東)に南面して鎔宮墓の宝篋印塔、手前(西)に南面して寿萬宮墓の宝篋印塔が立つ。寿萬宮墓は覆い隠すように立てられており、西面して付けられた門側からは、法号を刻んだ石標しか望めない。


120 仁孝天皇 (在位:1817-1846)→121 孝明天皇 (在位:1846-1866)


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 ウェブサイト「陵墓 陵印 掲示板」、『歴代天皇の実像』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 鎔宮墓・寿萬宮墓 〒602-0852 京都市上京区北ノ辺町(廬山寺墓地内)
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