伏見城・伏見桃山城桃山 (京都市伏見区) 
Fushimi-jo Castle
伏見城 伏見城 
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櫓門




大天守(左)、模擬天守については現在、耐震基準を満たしていないことから内部非公開となっている。




天守の西側に倒されている「第16師団司令部」の巨大な石碑、「昭和七年(1932)四月二十五日」、「陸軍第一六師団司令部」「歩兵第九連隊」などと記されている。軍の司令部は深草にあった。


【参照】栄春寺境内にある伏見城総構え(土塁)遺構の石垣


大岩山より見た伏見城
 伏見桃山城運動公園内には、現在、「伏見桃山城」が建てられている。伏見城は歴史的には4期にわたり、3つの平山城の伏見城が築城されている。
◆歴史年表 室町時代、1534年、足利義晴は伏見山に城郭を築く。
 安土・桃山時代、1592年、8月20日、豊臣秀吉は、聚楽第を豊臣秀次に譲り、隠居城(邸宅)として現在の伏見桃山城の南西1㎞ほどの指月の岡(伏見区桃山町泰長老)に造営を始める。「太閤隠居所」「太閤隠居城」、また便宜的に「指月屋敷」「指月城」「指月山伏見城」とも呼ばれている。(第一期伏見城、豊臣期指月屋敷)
 1593年、8月、秀頼が誕生し、本城とするために本格的な改築が予定される。
 1594年、1月3日、改築が始まり、普請奉行・佐久間政家が任命される。延25万人が動員される。淀古城から天守、櫓が移築された。完成し、8月1日、秀吉が入城した。便宜的に「指月城」「指月山伏見城」と呼ばれる。(第二期伏見城、豊臣期指月城)。伏見城城下町の造営に伴い、予定地の村落、社寺などを移転させる。秋、支城として宇治川を隔て、向島城が築かれたとみられている。秀吉は、巨椋池の池周、池中に大規模な築堤をしている。
 1595年、破却された聚楽第から建物が移築される。春、向島に指月城の支城・向島城が築城されたともいう。向島城は洪水により被災した。
 1596年、閏7月13日、慶長伏見地震により天守は全壊する。犠牲者は600人にのぼり、男女御番衆の多くが亡くなる。城下での被害者は2000人あり、向島城も崩壊する。このため、文禄の役(1592-1593)終結のための明の冊封使との会見は、予定されていた伏見城ではなく、大坂城で行われた。地震は、秀次自害一年に当たり、巷では「関白秀次の祟り」と恐れられた。
 1596年、7月14日、震災の1日後、旧地の北東1㎞ほど離れた木幡山(伏見桃山町、現在の明治天皇陵内)で早くも作事が行われる。10月、木幡山に本丸が完成する。(第三期伏見城、豊臣期木幡山城)
 1597年、5月、木幡山に城の天守が完成し、秀吉、秀頼が移る。その後、殿舎、茶亭が完成した。城は、便宜的に「木幡山城」「木幡山伏見城」と呼ばれる。本丸の西北に五重の天守、二ノ丸、松ノ丸、名護屋丸、出丸など十二の曲輪(くるわ)がある平山城だった。向島城も再建され、6月27日、瓜見の宴を催す。
 1597年、秀吉は大和・比蘇寺の三重塔を伏見城に移築した。
 1598年、8月18日、秀吉は最晩年を淀殿とともに木幡山城に暮らし没した。秀頼は大坂城に移る。城は五奉行交替で護持される。一時、家康が城に入る。
 1599年、家康は石田三成を佐和山城へ追放し、閏3月13日、秀吉の遺命に背き、家康は留守居役として向島城より木幡山城本丸に入る。その後、家康は大坂城に移る。
 1600年、7月19日、家康の会津征伐に対し、小早川秀秋、島津義弘連合軍は、家康に命じられた家臣・鳥居元忠が城代となっていた木幡城を4万の兵で攻めた。鳥居方は1800の兵しかなく、鳥居は討死した。8月1日、城は炎上、落城した。この木幡山城の戦いは、関ヶ原の戦いの前哨戦になる。家康による城の再建が始まる。(第四期伏見城、徳川期木幡山城)
 1601年、関ヶ原の戦い後、家康は大坂城・西ノ丸を豊臣氏に明け渡し、3月、木幡山城に入城する。家康は、小堀政次と藤堂高虎に城の再建を命じる。
 家康は、城内の楼門、三重塔を園城寺に寄進し移築する。
 1602年、藤堂高虎が普請奉行となり、城は再建され、家康が帰城した。
 江戸時代、1603年、2月、家康は、城で征夷大将軍の宣下を受ける。以後3代・家光までこれに倣う。以後、1606年頃まで、家康は二条城と行き来する。
 1605年、幕府は「伏見城中制法」を下す。3月、家康は城で朝鮮使節の松雲大師(惟政)と会見し、秀吉の朝鮮出兵以来断絶されていた朝鮮との和議が成立する。
 御殿建設に伴い、家康は木幡山城本丸から西の丸、さらに二条城に移る。本丸完成とともに帰城する。4月、御殿で徳川秀忠の将軍宣下が執り行われた。
 1606年、駿府城の改築にともない、木幡山城での作事も停止される。
 1607年、閏4月29日、家康の異父弟・松平定勝は伏見城代となる。遠江掛川藩より5万石で入封した。
 1615年、1月、秀忠は大坂冬の陣で伏見城に凱旋した。5月、大坂夏の陣で、秀忠は伏見を発した。秀忠は伏見城に凱旋した。
 1617年、譜代大名・内藤信正が伏見総代に就く。2代将軍・徳川秀忠の御在所として修築される。朝鮮使節団(回答兼刷還使)が入城する。
 1619年、木幡山伏見城の廃城が決まる。天守は二条城へ、石垣は大坂城へ移されたともいう。
 1620年、城割りが始まる。
 1623年、7月16日、城で家光の将軍宣下が実施された。7月27日以降、木幡城は廃城になる。五層の天守は二条城、福山城、淀城などに移された。建物、石垣などは京都の社寺や大名屋敷に移築されたともいう。城跡は徹底的に城破り、破壊されたとみられている。
 1624年、10月、二条城が整備され、伏見城の撤去がほぼ完了する。その後、跡地は、古城山と呼ばれた。
 元禄時代(1688-1703)までに、跡地に桃の木が植えられ、一帯は「桃山」と呼ばれるようになる。以後、城は「桃山城」「伏見桃山城」と呼ばれた。桃林は、醍醐の桜とならび花見の名所になる。
 1706年、本草学者・儒学者・貝原益軒は、伏見山には桃花が多く、吉野の桜に対比できると記した。(『京城勝覧』)
 1787年、数千の桜木が植えられていた。(『拾遺都名所図会』)
 近代、1898年、豊臣秀吉三百年祭は盛大に催されている。桃山城跡、太閤坦、豊国神社、妙法院、高台寺、耳塚、智積院などゆかりの社寺などで法要、献茶式、大茶会などが催された。
 1912年、本丸跡などの主郭部分に、第122代・明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)が築造された。
 現代、1964年、木幡山城本丸跡の西の花畑跡に、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、模擬大天守、小天守、櫓門などが造られた。
 1991年、発掘調査により総構えの濠跡、北濠跡が確認された。
 2003年、遊園地は閉園した。京都市に贈与され、伏見桃山城運動公園として整備される。
 2009年、日本考古学会など16学会は、宮内庁の特別許可を得て桃山陵墓地の伏見城跡を立入調査する。
 2016年、関西文化財調査会の発掘調査により、初期伏見城の南北石垣(長さ14.5m、高さ2.8m)が出土した。大きさが不ぞろいの自然石を割り面をそろえ、隙間は小石で埋めていた。自然石から成形した割り石への移行期とみられている。
◆伏見城 伏見城の詳細については判明していない。現在の遺構の多くは、秀吉期ではなく、その後の徳川期のものとされている。また、木幡山城については、桃山陵墓地内にあるため調査すら行われていない。近年の調査では、城の中心部は当初より現在の明治天皇陵付近にあったとみられている。
 伏見城の歴史は大別して4期に分かれている。
 豊臣期による第一期「指月屋敷」(1592-1594)は城郭風邸宅だった。
 引き続く第二期「指月城」(1594-1596)は、本城とするために拡張されている。1597年時点で東西3.3㎞、南北2.2㎞の規模があり、三重の濠で囲まれていた。
 その後、標高100mの木幡山(現在の伏見陵墓地)に場所を移した第三期「木幡山城」(1596-1600)は、平山城で、輪郭式、囲郭式が併用される織豊系城郭となる。周囲は堀(最大幅100m)、空堀、高石垣で囲まれていた。中央の本丸北に天守が聳え、本丸の西に淀殿の住した二ノ丸、その南西に三ノ丸、本丸北東に松ノ丸、本丸の東に名護屋丸、その南東に文化施設としての山里丸・御茶山、茶亭学問所も設けられていた。山里丸南の御茶屋山には、宇治川とつながる舟入が設けられていた。
 徳川期の第四期「木幡山城」(1600-1623)は、家康により再建された。
 寛永期(1624-1645)に描かれた「洛中洛外図」のひとつに数少ない伏見城の絵が残されている。五層の天守、檜皮葺殿舎、櫓、高い石垣、堀、掘に架かる板橋などが見える。
◆向島城 秀吉により、1594年か1595年に伏見城の支城となる向島城が築かれた。連郭式であり、北に正方形の本丸を配し、その南に長方形の二ノ丸、三ノ丸があった。北に位置した伏見城(第二期)とは宇治川を隔てており、向島城の出城との間には大橋が架けられていたという。1595年の洪水に被災し、地震により崩壊した。1597年には再建された。
◆近代以降 かつての本丸跡の西のお花畑山荘跡には、1964年に近鉄グループの伏見観光開発により、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設されている。RC造(鉄筋コンクリート造)の5重6階の模擬大天守と3重4階の小天守、櫓門などが建てられた。天守は、『洛中洛外図屏風』池田本にみられる、徳川期木幡山伏見城の天守が元になっているという。
 天守の中には、桃山文化史館があり、聚楽第の復元模型、黄金の茶室が展示されていた。
 2003年に閉園となり、天守は取り壊しを免れた。その後、京都市が無償で譲り受け、現在は伏見桃山城運動公園(伏見城北端、長束大蔵郭遺構)となっている。模擬天守内は、耐震構造に問題があり、現在は非公開になっている。
 なお、伏見山北端、京都市北堀公園(東西600m×南北120m、伏見城内郭北側堀遺構)がある。
◆豊臣秀吉 安土桃山時代の武将・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、1536/1537-1598)。尾張国の織田信秀足軽・木下弥右衛門の子に生まれた。小猿と呼ばれ日吉丸と称した。7歳で父を亡くす。1551年、出奔し、今川氏の家臣・松下之綱、織田信長に足軽として仕えた。1561年、織田家の弓衆・浅野長勝養女ねねを娶る。信長に従い、各所で転戦し戦功をあげる。1582年、本能寺の変では、山崎で明智光秀を仇討する。1583年、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破る。1584年、織田信雄・徳川家康との小牧・長久手の戦いでは敗れた。大坂城を拠点とし、紀州根来・雑賀、四国、九州を制した。1587年バテレン追放令、北野大茶湯、1590年、小田原の北条氏を破り天下統一した。関白、太政大臣に進み豊臣の姓を賜った。1591年、関白職を秀次に譲る。朝鮮を攻めた文禄・慶長の役(1592-1598)は敗れた。1598年、盛大な醍醐の花見の後、伏見城で亡くなった。
 1587年、聚楽第、1595年、方広寺大仏、1597年、伏見城を建てた。関所廃止、楽市・楽座制、重要都市・鉱山直轄、貨幣鋳造、太閤検地・刀狩、京都の都市改造・御土居築造、倭寇取締、朱印貿易などを進めた。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。
◆狩野山楽 安土・桃山時代から江戸時代初期の画家・狩野山楽(かのう さんらく、1559-1635)。近江に生まれた。父・木村永光は浅井長政の家臣で、当初は長政に仕え、後に豊臣秀吉の近侍となる。秀吉の推挙で狩野永徳の門人となり、養子となり狩野氏を許された。1588年、秀吉の命により、病に倒れた師を継ぎ、東福寺法堂「蟠竜図天井画」(1881年焼失)の修復を完成させる。
 1594年、伏見城、1597年の再建の伏見城、1604年、大坂城の千畳敷大広間の障壁画にも参加した。1615年、豊臣家滅亡で大坂城を脱出し、男山八幡宮の社僧で山楽の弟子・松花堂昭乗のもとに身を隠した。恩赦により京都に帰る。2代将軍徳川秀忠、3代将軍家光に重用され、再建された四天王寺、大坂城本丸の障壁画などにも加わる。
 その子孫は京都に住み京狩野と呼ばれている。泉涌寺に葬られた。
◆木幡山城の戦い 1600年6月16日、家康は伏見城の留守居役に鳥居元忠を任じた。家康の会津征伐に対し、西軍の小早川秀秋、島津義弘連合軍は、7月19日、元忠が城代となっていた伏見城を4万の兵で攻めた。秀秋、義弘は当初、元忠に加勢を申し出、それぞれ断られている。また、城を守っていた毛利秀元、吉川広家の軍は徳川と通じ、城を離れていた。
 元忠側は1800の兵しかなかった。元忠は、籠城を決め10日間持ちこたえ、本丸と西ノ丸は残っていたが、和議の申し入れも断り、元忠は本丸で討死する。8月1日、城は炎上、落城した。木幡山城の戦いは、関ヶ原の戦い(1600)の前哨戦となる。
 元忠ら割腹の際の血染めの廊下板は、市内各所の寺院に血天井としていまも遺されている。
◆遺構 伏見城の遺構としては、濠、石垣、金箔瓦などがあり、一部は御香宮神社社務所に保管されている。また、橘女子学園敷地に馬出し、濠、桃山町大蔵に外濠石垣、桃山東小学校に石垣が移築されている。土木工事遺構としては、宇治川に出入りした舟入跡、明治天皇陵北の濠跡、総構え濠跡の濠川(伏見城城下町西側の水濠遺構)、宇治川流派、栄春寺の土塁遺構、海宝寺の惣構土塁遺構(伏見城城下町北側)がある。
 建物遺構として確定しているのは福山城伏見櫓があり、1622年に移築された。梁に「松の丸東やぐら」と記されていた。また、筋金御門も伏見城より移築された。御香宮神社表門は伏見城大手門、豊国神社唐門は伏見城唐門ともいわれている。
◆桃山 江戸時代、元禄時代(1688-1703)までに、城跡地の丘陵地には桃の木が植えられた。本草学者・儒学者・貝原益軒は、伏見山には桃花が多く、吉野の桜に対比できるとした。(『京城勝覧』、1706)。その後、数千の桃木が植えられている。(『拾遺都名所図会』、1787)
 一帯は「桃山」と呼ばれるようになる。地名についても益軒が唱導したとされる。以後、もはや存在しない城は、「桃山城」「伏見桃山城」とも呼ばれた。桃林は、醍醐の桜とならび花見の名所になる。1674年の『堯恕法親王日記』でも「桃花見物」について記しており初出になる。
◆木幡山 歌枕の木幡山(こはたやま)は、宇治の木幡、伏見桃山御陵付近の山もいう。中世以降には、桃山(伏見山)を指した。「こはた山こはたが為にね覚めよとゆふつけ鳥の暁のこゑ」(『隣女集』、七九五)。
◆桜 周辺は桜の名所になっている。 


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』『京の城』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』「特別展 京の城」『朝鮮通信使と京都』『伏見学ことはじめ』『二条城展』『大学的京都ガイド こだわりの歩き方』『意外と知らない京都』『あなたの知らない京都府の歴史』『京都の地名検証』『京都の地名検証 3』


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 伏見桃山城 〒612-0853 京都市伏見区桃山御陵,京都市伏見区桃山町大蔵周辺 
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