|
|
海寶寺(海宝寺) (京都市伏見区) Kaiho-ji Temple |
|
海寶寺 | 海寶寺 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() ![]() 開ばん(木+邦)、魚ほう(開版)、魚、魚鼓ともいう。儀式の時を知らせるために打たれる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【参照】周辺には伊達町の地名が残されている。 |
伊達街道に面し、桃山町正宗(まさむね)に海寶寺(かいほう-じ、海宝寺)がある。山門には「普茶大本山開祖道場」の木札が掲げられている。山号は福聚山(ふくじゅ-ざん)という。 寺のある桃山町正宗の町名は、安土・桃山時代、仙台藩17代当主・伊達政宗(諱 [いみな] 、正宗)の伏見屋敷があったことに因む。 黄檗宗、本尊は聖観音菩薩。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、1592年、伏見城を築城した豊臣秀吉より、伊達政宗はこの伏見上屋敷の地を与えられた。政宗は秀吉に服属し、妻子、仙台藩家臣など常に約千名が屋敷に居住していたという。一帯は、伊達町とも呼ばれた。 1595年より、政宗も数年間居住した。 1601年、政宗は上洛した際にも約1年間過ごした。 その後、天台宗の開法寺が建立されたという。 江戸時代、享保年間(1716-1736)、黄檗宗萬福寺12代・杲堂元昶(こうどう-げんちょう)が創建したともいう。 1728年、黄檗宗萬福寺13代・竺庵浄印(じくあん-じょういん)が開山した「開寶寺」をこの地に移し、「海寶寺」と改めて隠居寺としたともいう。 1739年、正啓(下村彦右衛門)は修築した。幕命により竺庵浄印を寺に迎えた。「海寶寺」と改め黄檗の隠居所としたともいう。 1764年、 正啓(下村彦右衛門)十七回忌に祠堂を建てる 1786年、当寺は藤森の南最上町にあったともいう。(『拾遺都名所図会』) 1790年、伊藤若冲は障壁画「群鶏図」を制作した。 現代、2008年、木斛(もっこく)の後継樹の苗木が植えられる。 ◆伊達 政宗 室町時代後期-江戸時代前期の武将・伊達 政宗(だて-まさむね、1567-1636)。男性。幼名は梵天丸(ぼんてんまる)、藤次郎、法名は貞山。出羽国(山形県・秋田県)米沢の生まれ。米沢城主・伊達家16代当主・輝宗の長男、母は山形城主・最上義守の娘・義姫(保春院)。幼くして疱瘡(ほうそう、天然痘)により右目を失明し、後に「独眼竜政宗」とも呼ばれた。1577年、元服し、藤次郎政宗と称した。1579年、三春城主・田村清顕(きよあき)の娘・愛姫(めごひめ)と結婚する。1584年、家督を相続し、17代当主になる。1585年、従五位下美作守になった。父輝宗の没後、1588年-1587年、佐竹義重、蘆名義広、相馬義胤らと対戦し、南東北を統一する。1589年、磐梯山麓・摺上原(すりあげがはら、磨上原)戦で、蘆名(あしな)義広を破り、黒川城に拠って会津を領有した。須賀川二階堂氏を滅ぼし、石川、白川両氏を服属させ、大領土(福島県、米沢、宮城県)を築く。1590年、豊臣秀吉が小田原後北条氏を攻め、対抗した。小田原陣中で秀吉に服属し、会津ほかを没収され黒川(会津若松)から米沢に移る。1591年、米沢・伊達など旧領6郡に代わり、大崎・葛西両氏の旧領を与えられる。玉造郡岩出山(宮城県)に移る。侍従兼越前守、羽柴姓になった。1593年、朝鮮侵攻の文禄の役で晋州城を落した。1597年、四位下右近衛権少将になる。1600年、関ヶ原の戦いで東軍に属し、上杉景勝を攻めた。徳川家康より刈田(かった)郡を与えられた。1601年、仙台城を修築して移る。1607年、塩竈神社、大崎八幡宮、国分寺薬師堂を造営した。1608年、陸奥守、松平姓になる。1609年、松島瑞巌寺を造営した。1613年-1620年、家臣・支倉常長(はせくら-つねなが)をメキシコ、スペイン、ローマに派遣した。通商を企図し、幕府の切支丹禁制強化のため果たせなかった。1614年、大坂冬の陣に徳川方につく。1615年、大坂夏の陣に加わる。正四位下参議、1626年、北上川の石巻流出などの土木工事を完成させる。従三位権中納言に任じられた。江戸桜田邸で死去した。70歳。 仙台藩藩祖。豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、秀忠、家光に仕えた。キリシタンに関心をもち、仙台城下に宣教師・ソテーロ、ビスカイノを招く。詩歌、書、能、茶道などを嗜む。文禄の役の出陣上洛の際に、伊達軍の戦装束は絢爛豪華としていた。都人は驚嘆し、以後、派手な装束の者を「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになったという。 墓は廟所の瑞鳳殿(仙台市)にある。 海寶寺(左京区)には、政宗の位牌が祀られている。 ◆竺庵 浄印 江戸時代前期-中期の黄檗宗の僧・竺庵 浄印(じくあん-じょういん、1696-1756)。男性。俗姓は陳、号は梅隠。清の湖州(浙江省)の生まれ。1723年、長崎の興福寺・杲堂元昶(こうどう-げんちょう)の招きで来日し、同寺の住職になる。1727年/1734年、萬福寺13世になる。1739年、幕命により伏見の海寶寺に退隠し、梅隠と号し水墨画を描いた。61歳。 萬福寺に伝えられた普茶料理は、竺庵浄印が、享保年間(1716-1736)に復活した。 ◆杲堂 元昶 江戸時代前期-中期の黄檗宗の僧・杲堂 元昶(こうどう-げんちょう、1663-1733)。詳細不明。男性。万福寺12世。享保年間(1716-1736)、海寶寺を創建したという。70歳。 ◆下村 彦右衛門 江戸時代前期-中期の商人・初代・下村 彦右衛門(しもむら-ひこえもん、1688-1748)。男性。幼名は竹兵衛、名は兼雄、号・法名は正啓(しょうけい)。京都伏見の生まれ。三郎兵衛兼誠の第5子3男、母は須磨。1706年、屋号「大文字屋(大丸屋)」を継ぎ、古着行商を始めた。宮川町の質屋・貸衣装店を手伝った。1717年、 伏見京町北八丁目に小店舗呉服店を開き、大丸の創業になる。1726年、大阪心斎橋筋に八文字屋と共同出資の大阪店「松屋」を開き、現金正札売を始めた。1727年、大阪店に「定目書」を定める 。1728年、 名古屋店で呉服卸商を開き、初めて「大丸屋」を称する。特権的呉服商と対抗するため正札付現金売りを断行した。 伏見店は廃止する。1729年、名古屋店を小売店、 京都柳馬場姉小路に仕入店を設ける 。下村家は京本家と伏見本家に分れた 。1730年、名古屋店店舗を拡張した。1731年、大阪店は下村家の単独経営になる。1734年、京都今出川大宮に上之店(西陣店・北店)を設ける。1735年、黄檗宗・竺庵浄印(じくあん-じょういん)に師事した。1736年、東洞院船屋町に総本店新築する。柳馬場仕入店を廃止する 。店是「先義後利」を全店に布告した。1737年、大塩平八郎の乱で、大丸は「義商」として焼討を免れたという。1738年、長崎本商人に加入した。「本店定目」を定める。1739年、糸割符仲間株を取得する。伏見・海寶寺を修築した。1741年、 京都烏丸上長者町の小紅屋(正竹・烏丸家) を買収した。 「三家一致定法」を定める。 京都上之店を今出川浄福寺に新築移転した。1743年、江戸大伝馬町三丁目に念願の江戸店を開業し、宣伝に大風呂敷を使う。洛東小松谷別荘に隠居した。 長子・正甫に譲る。1744年、 元方制度を設ける。 伏見邸に祠堂を建て祖先三代を祀った。 1745年、発願による瀧尾神社の造営が完成する。江戸店敷地を拡張した。1748年、 没後、遺言により新唐書刊行に着手した。61歳。 大丸百貨店の始祖。経営理念「先義後利(義を先にして、利を後にする者は栄える)」を提唱した。現金掛値なしの「現銀正札販売」商法を取り入れる。福助人形のモデルともいう。幕末期、新撰組隊士の服装が大丸を通して調達されたという。 黄檗宗の僧・竺庵浄印に師事した。海寶寺(伏見区)には彦右衛門の木像がある。 ◆伊藤 若冲 江戸時代中期-後期の画家・伊藤 若冲(いとう-じゃくちゅう、1716-1800)。男性。名は汝釣、字は景和、別号に斗米庵・米斗翁など。京都・高倉錦小路の青物問屋「桝屋(ますや)」の長男に生まれた。1738年、父が42歳で没後、4代当主・桝屋(伊藤)源左衛門を襲名した。1751年頃、宝蔵寺に父母の墓をたてる。1752年頃、相国寺の僧・大典顕常より、若冲の居士号を与えられる。大典は若冲を支援した。萬福寺の中国僧・伯珣照浩とも交流した。1755年、40歳で家督を次弟・宗巌に譲り、隠居し作画に入る。1758年頃、「動植綵絵」連作着手。1759年、鹿苑寺大書院障壁画を制作する。1764年、金比羅宮奥書院上段の間に描く。1765年、「動植綵絵」「釈迦三尊像」を相国寺に寄進(1770年完了)。宝蔵寺に亡弟・宗寂の墓を立てた。1773年、萬福寺で道号「革叟」を授かる。1766年、相国寺に寿蔵を建てた。1767年、拓版画「乗輿舟」制作。1768年、『平安人物誌』に3番目に名が載る。1774年、若冲らが奔走し、錦市場の再開が許される。1776年頃、石峰寺五百羅漢の石像を制作を開始する。1788年、天明の大火で家を焼かれた。1790年、大坂・西福寺に襖絵「群鶏図」を描く。1791年(1790年とも)頃より、石峰寺の門前に草庵「斗米(とべい/とまい)庵」を結び、深窓真寂禅尼(心寂、末弟・宗寂の妻)と住んだ。斗米翁とも号した。名の由来は、米一斗(14kg)の謝礼で、墨画を描いたためという。一時、相国寺・林光院に住した黄檗宗・売茶翁(月海元昭)が、茶を売り一日の糧を得ていた逸話に倣ったものという。1798年、石峰寺の観音堂に天井画「花卉図」を描く。1800年、石峰寺に土葬され、相国寺で法要が行われた。85歳。 商いに興味を抱かず、妻帯肉食を拒み、狩野派、中国宋元画、清国・南蘋派に学ぶ。障壁画、画巻、水墨画、木版、拓版画に及び、花鳥、特に鷄の写生に専念する。その画風により「奇想の画家」といわれた。石峰寺(伏見区)境内に墓がある。相国寺(上京区)には生前墓の寿蔵がある。 ◆仏像など ◈仏殿に本尊の「聖観音像」を安置する。 ◈「彦右衛門」の木像がある。 ◆建築 仏殿、方丈が建つ。 ◆文化財 ◈方丈襖絵「群鶏図(ぐんけいず)」は、江戸時代の伊藤若冲(1716-1800)の晩年作とされる。当初、竺庵に画を描くことを申し出て断れたため、次代の僧を待って描いたという。水墨画であり、以後、若冲は筆を握らなかった。部屋は「若冲筆投げの間」と呼ばれた。 現在は京都博物館所蔵。 ◈「手水鉢」が方丈前にある。伏見城の白書院にあり、豊臣秀吉の遺愛という。 ◆石塔 竺庵浄印、杲堂元昶の石塔が立つ。 ◆木斛 本堂脇に、政宗遺愛と伝えられる樹齢400年の木斛(もっこく、4.5m)がある。アカミの木ともいわれ、ツバキ科モッコク属。常緑中高木で、6-7月に芳香のする淡黄色の小さな5弁花を下向きに咲かせる。10月に球形の赤い実が熟する。 現代、2008年、木斛(もっこく)の挿木により後継樹の苗木が植えられる。一部は仙台市にも贈られた。 ◆伊達町 伏見屋敷一帯は、伊達町(だてまち)と呼ばれていた。伏見屋敷はこの地に置かれた上屋敷のほかに、現在の深草東伊達町と、深草西伊達町の下屋敷の3か所あったという。 ◆伏見城遺構 境内は周辺より3mほど高くなっている。これは、伏見城城下町の北側惣構土塁遺構といわれている。また、現在地は伊達家居館跡といわれ、伊達家は伏見城濠の樋門を守備していたため、寺地背後に「樋の址」が残る。 ◆大丸 江戸時代中期、1735年に大丸始祖・下村彦右衛門(正啓)は萬福寺13代・竺庵浄印に師事した。1739年には、海寶寺を修築している。黄檗宗とつながる中国などの海外貿易にも進出したという。 大丸商標は、創業時から使用された。「大」は、「一」と「人」を合わせた。「丸」は「宇宙・天下」を示すという。「天下第一の商人であれ」との彦右衛門の志と決意が込められているという。竺庵が説いたともいう。 以後、海寶寺と大丸の関係が続いた。 ◆滞在型文化体験プログラム 現代、2016年より、観光客向けの滞在型文化体験「いろはにほん(Experience the Soul of Japan 、非公開寺院滞在型文化体験・文化財保護プログラム)」を行う。日本財団、NPO法人京都文化協会、ハイアットリージェンシー京都が連携企画した。寺院に1泊2日で宿泊し、坐禅、読経、茶礼体験、住職との対話などを行う。当初は外国人を対象とし、将来的には日本人にも対応する。 ◆普茶料理 寺では、普茶(ふちゃ)料理が頂ける。中国風の精進料理であり、法要後に出された料理を意味した。座卓に出された大皿の料理を皆で囲んで食する。精進天麩羅などの揚げ物が多く、「もどき料理」といわれる魚肉に見立てた野菜料理に特徴がある。太平洋戦争中と戦後に一時途絶えたが、先代住職・荒木幸山が復活した。 4人から予約受け付ける。木曜日は定休。 ◆墓 開山杲堂、竺庵禅師の墓がある。 *普段は非公開 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『新版 京・伏見 歴史の旅』、『京都府の歴史散歩 中』、『昭和京都名所図会 6 洛南』、『伏見学ことはじめ』、『京都の地名検証 3』、『京都大事典』、『若冲の花』、『大学的京都ガイド こだわりの歩き方』、『京都隠れた史跡100選』、『こころ美しく京のお寺で修行体験』 、ウェブサイト「『大丸二百五拾年史』・ 渋沢社史データベース-大丸」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|