淀城跡・淀城跡公園・淀 (京都市伏見区) 
The ruins of Yodo-jo Castle
淀城跡・淀城跡公園 淀城跡・淀城跡公園 
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本丸石垣と内堀、割石を使っている。


「淀城址」の石碑


天守台


天守台、近年に発掘された。天守にはこの部分の穴蔵(地下室)より入った。基底の礎石は39個による。上から見ると四方形のロノ字の空間に入口(手前)が付いている。


本丸からの内堀の景観


本丸下の石垣、自然石を積み上げている。


北西隅の三重櫓跡、丹波櫓の檜台石垣 


左上(北)に淀川、右上に宇治川、左上に桂川、左下に木津川が合流し、城郭は自然の外堀に囲まれていた。中央やや上の三角地帯中央に本丸、その上に二ノ丸、右に三ノ丸、本丸左に西ノ丸、本丸右に東曲輪、南西に内高嶋、周囲に侍屋敷(黄土色部分)、町屋(茶色部分)が広がっていた。
 城下町は、「淀六ヶ町」があり、城内3町、城外3町に分けられていた。橋は上(北)に小橋(淀小橋)、南に大橋(淀大橋)が架けられていた。京都から大坂へ向かうにはまず宇治川に架かる淀小橋により一度、城下に入り、木津川の淀大橋を渡って抜けた。



イチョウの大木


石標「淀城之故址」


石標「淀小橋旧跡 従西南大坂至」


「唐人雁木旧跡」、本来の唐人雁木(とうじんがんぎ)旧跡は、伏見区納所(のうそ)にある。雁木は船着場の桟橋に作られた階段のことで、淀川を遡ってきた朝鮮通信使がこの地より上陸し、後は陸路で京都へと向かった。往路の道筋は、朝鮮より九州、瀬戸内海、大坂、淀、東寺、大宮通、七条通、油小路通、本国寺、松原通、室町通、三条通、三条大橋、蹴上、逢坂、関を経て江戸に向かった。


稲葉神社脇にある石、丸二の紋の刻印がある。
 淀(よど)は、与杼、与渡、澱などとも書かれた。宇治川、桂川、木津川の三川合流地点であり、かつて東には巨椋池も広がっていた。標高11mの低湿地帯のため、水が淀み淀と名付けられたという。交通・軍事上の要衝地であり、室町時代には納所に淀古城が築城された。江戸時代、現在地に現存する新淀城が築城される。京都防衛の意味があった。
 新淀城の旧跡地は、現在、淀城跡公園(1.7ha)になっており、本丸、天守台、二の丸、石垣、内堀などの遺構がある。 
◆歴史年表 江戸時代、1623年、8月(旧暦)、伏見城廃城(1619)にともない、2代将軍・徳川秀忠は、松平定綱に淀藩へ所領3万5千石で入部を命じた。定綱が初代城主となる。河村右衛門の屋敷跡に、幕府の援助により淀城が築城された。資材は、廃城になった伏見城のものも流用したとう。以後、山城警固の拠点となる。
 1624年、二条城天守も移築された。徳川家光は大坂城に移る途中、淀城で永井尚政が供奉する。
 1625年、徳川秀忠により再度竣工された。城郭がほぼ完成する。なお、3万5000石で淀藩立藩(藩主・松平定勝)になる。
 1626年、6月、前2代将軍・徳川秀忠、8月、3代将軍・徳川家光が相次いで城の縄張り調べに入城する。また、上洛の際の宿所として使われたという。
 1633年、下総古河藩より10万石で入封した永井尚政が城主になる。南部が増築された。
 1669年、城主・戸田光煕が入る。
 城主・石川憲之が入る。
 1711年、9代城主・松平乗邑が6万石で入部する。
 1717年、1723年とも、稲葉正知の入封により10万石で10代城主となる。以後、幕末まで12代に渡り稲葉氏の居城になる。山城国唯一の大名家居城として機能する。
 1756年、落雷により天守、ほか大半の建物を焼失する。幕府により1万両の貸し付けがある。天守、本丸は再建されることはなかった。
 近代、1868年、1月、鳥羽・伏見の戦い(戊申戦争)で、21代城主、幕府老中の稲葉正邦は江戸にあった。留守居役は城門を閉ざし、体制の立て直しを図った旧幕軍を入城させなかった。旧幕府軍は男山方面に敗走する。この時の兵火により、城内の一部と城下町を焼亡した。
 1871年、廃藩置県後、城の建物はすべて撤去され、石垣、内堀のみが残された。城地は旧藩主稲葉家所有となる。7月、淀県庁が置かれる。
 1885年、本丸に藩祖・稲葉正成を祀る稲葉神社が建立される。
 近代、1910年、京阪電気鉄道の天満橋と五条間の軌道敷設が完了した。工事に伴い、本丸北西部の遺構が破壊される。
 1933年、京阪国道の開通により二の丸、西の丸の一部が道路用地となる。
 現代、1954年、城地は稲葉家より淀町に寄付される。その後、外堀も埋められる。
 1968年、淀城跡公園が開園した。
 1987年、石垣の解体修理、伏見城研究会による天守台の発掘調査が行われ、礎石、石蔵(穴蔵)が発見された。
◆淀城 江戸時代、1615年、大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、伏見城は破却され、拠点は大坂城に移された。その後、山城の警護の拠点として新たに築城されたのが淀城だった。
 城は17.53mの標高にある。当時の城の周囲は桂川、宇治川(淀川)、木津川の合流点にあり、これらの三川が天然の外堀になった。さらに、三重の堀・内堀、土居、曲輪(くるわ)、内高嶋などにより重層的に防御されていた。内堀の規模は長さ309間(506.1m)、幅13間(23.6m)、深さ1尺3寸(39.3㎝)だった。
 東に馬出曲輪(うまだしぐるわ)としての東曲輪(ひがしぐるわ)が迫出していた。曲輪とは、削平・盛土された平面空間をいう。内堀内に本丸、その北に隣接して二の丸、本丸の南東に隣接して天守があった。堀を挟み回字型に本丸の西に西の丸、さらに南西、南に内高嶋が広がり、それぞれの間には堀が築かれていた。現在の淀駅に大手門があり、内桝形虎口になっていた。
 木津川には淀大橋(長さ100間、181.8m)が架けられ、京坂街道に通じた。反対側の宇治川(淀川)にも小橋が架けられていた。淀川には直径9間(16.4m)の巨大な水車が2か所(西南、北という)に設けられ、水車最上部から城内の園地に取水していた。(「淀橋本観桜図」)
 本丸に三重櫓4基、二重櫓5基、平櫓6基ほか、全体で38基の櫓が建ち、城門は本丸3か所を含め全体で20か所にあった。
 天守台は本丸南東隅に突出してあり、西、北に一段低く曲輪があり、櫓が築かれ天守曲輪を形成していた。天守は、当初伏見城より移築の予定だったという。だが、伏見城天守は二条城に移築変更になる。そのため、二条城天守が淀城に移された。ただ、淀城の天守台が二条城天守に較べて広かった。このため、淀城に移築された二条城の五重天守、三重櫓の四隅に、二重櫓を石垣部分に張出した懸造にして増築した。建て増しの二重櫓は姫路城より移築されたともいわれ、姫路櫓と呼ばれたという。これら増築の4基の二重櫓の間は、長屋造の多聞櫓で繋がれる特異な連立式望楼型五重天守に変わった。外壁は屋根瓦以外は白漆喰総塗籠造になり、防火防水の効果があった。城はその姿から「浮城(うきじろ)」と呼ばれる。城内には、侍屋敷、町屋、寺院、石庭の里山丸もあった。
 本丸殿舎は伏見城から一部移築されたという。徳川家光上洛の際に殿舎に宿泊したため、以後城主は使用を控え、二の丸に新しい御殿を築造したという。
松平定綱 江戸時代の大名・松平定綱(まつだいら さだつな、1592-1652)。松平定勝の三男。正室は浅野長政娘。1602年、家康に拝謁、2代将軍・徳川秀忠に仕えるよう命じられる。その後、下総国山川藩、越中守に就く。大坂の陣にも加わる。常陸国、下妻藩、遠江国掛川藩、山城国淀藩、美濃国大垣藩藩主、伊勢国桑名藩初代藩主などを歴任した。
◆稲葉正知 江戸時代の大名・稲葉正知(いなば まさとも、1685-1729)。佐倉藩初代藩主・稲葉正往の次男として京都に生まれる。正室は小笠原忠雄の娘。1707年、佐倉藩主となる。1723年、山城淀藩初代藩主に移封となる。正成系稲葉家宗家5代。
◆稲葉正邦 江戸時代の老中・稲葉正邦(いなば  まさくに、1834-1898)。陸奥国二本松藩藩主・丹羽長富の子に生まれる。1863年、京都所司代、8月18日の政変では御所を警備し寄与した。1864年、老中となり、第1次長州征討、第2次征長軍に関与した。同年国内事務総裁に任じられた。1868年、鳥羽・伏見の戦では淀城城主として中立の立場を取り、旧幕府軍の入城を拒む。謹慎後、新政府側の警衛の任に就く。江戸城開城では恭順派となる。
◆宮田全沢 江戸時代の医師・宮田全沢(みやた ぜんたく、生没年不詳)。蘭学・前野良沢(1723-1803)の大叔父に当る。良沢の師。淀藩藩医。『医学知津』 を著す。
◆淀 淀(伏見区淀)は、桂川、宇治川、木津川の合流地点のため、水運、水郷の街として栄えた。古くは「與杼(よど)」と呼ばれた。「与等」「与度」「澱」とも書かれた。804年、「與等津(よどのつ)」と記されている。(『日本後記』)。淀とは「淀(よど)み」を意味し、水量豊かな流れを意味する。また、「寄処(よりと)」「寄門」として、三川が寄り合う地の意味ともいう。
 淀ノ津という港が開かれ、京都、大和、西国の荷の集積、拡散地になっていた。江戸時代、三十石船が荷揚げしていた。
◆淀藩 稲葉家の淀藩は、山城国唯一、最大の藩であり、藩領は近江、摂津、河内、越後、下総などにもあった。淀藩京都屋敷は消防の役割も担っていた。
◆朝鮮通信使・雁木 城内跡に「唐人雁木跡」の石標が立っている。雁木(がんぎ)とは、桟橋のことで、現在の淀城の北方200mの納所に設けられていた。長さは3.6間(64.8m)、幅は7間(12.6m)あった。唐人とは江戸時代に来日していた朝鮮国からの使節団・朝鮮通信使一行のことを指していた。江戸時代、1607年-1764年に11回訪れ、その際に雁木が利用されている。
 朝鮮通信使は、徳川幕府の招請により、朝鮮国王の国書を江戸幕府将軍に届けることを使命としていた。総勢は500人、そのうちの100人は船団関係者が占めていた。往路は大坂から淀川を遡り淀に入った。船は幕府による川御座船(かわござぶね)と呼ばれる豪華船が使われ、納所の雁木に着き、上陸した。総勢は400人にのぼり、ここからは使臣、随員は轎(ぎょう)、輿(こし)、護衛の対馬藩士も乗り物を利用した。さらに、駄馬が用意され荷物・荷駄が陸揚げされた。後は陸路により京都を経て、琵琶湖畔の朝鮮人街道を通り、東海道を上り江戸へ向かった。復路もまた雁木が利用されていた。
◆鳥羽・伏見の戦い 1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで、2日、旧幕府軍は大坂城を発ち、伏見街道と鳥羽街道の2隊に分かれて京都へ進軍した。3日に戦闘が始まる。だが、新政府軍が錦御旗を掲げて以後、旧幕府軍は賊軍とされ士気の低下をまねく。
 淀城の部隊は淀川堤千両松に砲門を置き薩長軍に備えた。その後、尾張慶勝の勧告により退却した。旧幕府軍も淀城内に退却し立て直しをはかろうとした。この時、城主・稲葉正邦は江戸にあった。留守を預かっていた藩士は門を閉ざした。大手門を守っていたのは、正邦の弟・田辺治之助だった。5日、門内に入り込んだ旧幕府軍兵があり、守兵はすぐに排除する。治之助はその報を聞くと、守門の責を取って自刃したという。
 その夜、旧幕府軍は仕方なく八幡市橋本に退却し野営した。翌6日、山崎で新政府軍との戦闘が始まる。高浜砲台の津藩が裏切り、旧幕府軍に砲弾を向けた。このため旧幕府軍は大坂城に敗走せざるをえなかった。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『よみがえる日本の城 19 二条城 篠山城』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『朝鮮通信使と京都』「特別展 京の城」『新選組大事典』『秀吉の京をゆく』『増補版 京都の医史跡探訪』『史跡探訪 京の七口』『京への道』『京都の地名検証 2』『あなたの知らない京都府の歴史』『週刊 古社名刹巡拝の旅 26 吉田山と白川』

 
 
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「田邊治之助君記念碑」
 1868年1月の鳥羽伏見の戦いで、旧幕府軍が淀城内に退却しようとした際に、城主・稲葉正邦は江戸にあった。留守を預かっていた藩士はかたく門を閉ざした。大手門を守っていたのは、正邦の弟・田辺治之助だった。5日、門内に入り込んだ旧幕軍の兵があり、守兵はこれを直ちに排除した。治之助はその報を聞くと守門の責を取って自刃したという。
 「田邊治之助君記念碑/子爵稲葉正凱書
 慶応四戊辰年正月三日鳥羽伏見ノ役当時我カ淀藩主稲葉正邦公ハ幕府ノ老中職トシテ江戸ニ在リ因テ藩士ハ堅ク城門ヲ鎖シテ留守ス 其大手門ハ者頭役田邊治之助君ノ守ル所ナリ 五日後退セル藩兵門内ニ闖入シ来ルモノアリ 守兵直ニ之ヲ拒ミ出シタルモ時偶々城中ニ在リタル君ハ此ノ報ヲ聞クヤ守門ノ責任ヲ痛感シテ自刃ス 其壮烈ナル実ニ士人ノ典型ト謂フベシ 今ヤ士道頽廃責任観念ノ缺如セルノ際今年恰モ七十周年ニ相当スルヲ以テ我等同人君ノ高風ヲ欽慕シ相謀リ碑ヲ建テ其事実ノ梗概ヲ記シ後世ニ伝フト云爾 昭和十二年九月」。稲葉正凱
(1906-1963)は、子爵・稲葉正縄の子。

クスノキの巨木
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