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槇島城跡・槙島堤 (宇治市) Site of Makijima-jo Castle |
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槇島城跡 | 槇島城跡 |
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![]() 填島公園 ![]() 填島城記念碑 ![]() ![]() 実際に填島城があったとみられる地点。填島公園の南方向。 ![]() 槇島公園は、黒丸の地点になる。填島城の濠、城郭跡はその南の黒い実線内、点線内と推定されている。説明板より。 ![]() 槇島合戦の信長軍の侵攻経路。上の五ヶ庄付近に信長陣地が置かれた。地図面の斜めに流れている宇治川を挟み、左中央端に填島城があった。信長の軍勢の一方は南下し宇治川を渡河、城の北側より侵攻した。他方は、さらに南下、平等院付近より渡河し、北上して、城の南側の二方向より攻め込んだ。説明板より。 ![]() 「此の付近 填島城跡」の石標、薗場児童公園 ![]() ![]() 中央に巨椋池、右上に伏見城、宇治川は右手下から上に巨椋池を迂回して流れている。宇治川太閤堤跡の説明板より ![]() 水色の彩色部分が巨椋池、上端に伏見城、左上の赤い太線は豊後橋(観月橋)、池中の青い実線が填島堤、左の赤い実線が小倉堤、右下角の赤い実線部は宇治川太閤堤。宇治川太閤堤跡の説明板より ![]() 周辺の宇治川 |
宇治川西岸にある槇島公園一角に、槇島城(まきじま-じょう/まきのしま-じょう)記念碑が立てられている。この公園の南東にある薗場児童公園内にも同様の石標がある。 城は、かつて巨椋池の宇治川河口、本流と支流に挟まれた三角州(宇治市填島町薗場[えんば]付近)にあったとされている。現在の公園の南付近になる。ただ、正確な場所については特定されておらず遺構もない。城は軍事上の要衝地にあり、室町幕府滅亡の契機になった。 ◆歴史年表 鎌倉時代、1221年、槇島城は、長瀬左衛門(築城者は不明とも)により、周囲を水で囲まれた水城として築城されたとされる。同年、承久の乱では、後鳥羽上皇方は、左衛門の軍勢500余名を城守備に配した。以来、足利将軍家の奉公衆・土豪・填島氏の本拠になったともいう。 1478年、山城守護代・遊佐弾正長直の代理・弥六が入部する。(『東院年中行事記』「大乗院寺社雑記帳」) 室町時代、1499年、畠山義就と畠山政長の宇治・槇島の合戦では、細川政元(1466-1507)の攻撃を受けて落城した。(『後法興院記』) 1499年、国一揆後、守護・細川政元方の赤沢宗益により填島館が陥落する。 1500年、政元が入館した。(『後法興院記』) 1501年、政元は将軍・足利義澄を招き、城内で金春太夫の猿楽を催した。(「後法興院記」)。この頃、城の修復が行われたとみられる。(東寺百合文書「志賀定景書状」) 1502年、義澄が訪れている。(『後法興院記』) 1503年、義澄が訪れた。(『後法興院記』) 1573年、旧7月3日、室町15代将軍・足利義昭は、織田信長と袂を分かち、京都二条邸より真木島昭光の槇島城へ移る。義昭は、信長に対して反旗を翻した。旧18日、信長は、槇島城を大軍で攻め、敗れた義昭は開城した。(槇島合戦) その後、信長は、部下・細川六郎昭元に城を守らせた。(『信長公記』) 安土・桃山時代、1593年、豊臣秀吉は前田利家に命じて向島に槙島堤を築かせた。 1594年、豊臣秀吉は伏見城築城にあたり、宇治川の流路を付け替え、堤防を築いた。この時、城の石垣、土も「槇島堤」に再利用された。この頃、廃城になり茶園になったという。(『山城名跡誌』) 現代、2004年、記念碑が立てられる。 ◆足利 義昭 室町時代後期-安土・桃山時代の室町幕府第15代将軍・足利 義昭(あしかが-よしあき、1537-1597)。男性。初名は義秋、法名は覚慶、昌山、法号は霊陽院。父・足利義晴、母・前関白・近衛尚通の娘・慶寿院の次男。義輝の弟。1542年、母の兄・近衛稙家の猶子になり、興福寺一乗院に入室した。同院門跡・権少僧都に就任し、覚慶と号した。1562年、一乗院門跡になる。1565年、兄・13代将軍・義輝が松永久秀ら暗殺された。(永禄の変)。同院内に軟禁され、朝倉義景・細川藤孝(幽斎)らの援助で逃れ、近江甲賀の和田惟政を頼る。1566年、矢島に移り還俗し義秋と称した。若狭武田氏、越前・朝倉義景を頼る。1568年、旧4月、元服し義昭と改名した。旧7月、美濃・織田信長に迎えられ擁立された。旧9月、入洛し、旧10月、15代将軍に就任した。参議、左近衛権中将になり、従四位下に叙せられて室町幕府を再興する。信長は副将軍・管領就任を拒絶する。1569年、信長により二条城が築城される。その後、義昭は親裁権を主張し信長と対立した。1570年、信長が呈出した条書で、政治行動を規制され武田晴信(信玄)と盟約を結ぶ。1572年、信玄・上杉輝虎(謙信)らと結び、浅井長政・朝倉義景・本願寺による信長包囲を結んだ。1573年旧2月、信長を討つため長政・義景・信玄らと近江で挙兵した。旧4月、第106代・正親町天皇の調停で信長と一時和し、旧7月、再度宇治槇島城で挙兵した。信長に攻められ、子・義尋を質として降伏した。河内若江城に退去し室町幕府は滅んだ。以後、紀伊由良・興国寺、1576年、備後鞆(びんごとも、福山市)に逃れ、毛利氏を頼り再起を図る。毛利氏は、本願寺・信玄・謙信らと結び信長にあたり、石山本願寺も挙兵した。1580年、本願寺は降伏する。1582年、本能寺の変で信長の没後、羽柴(豊臣)秀吉に帰京を要請し、秀吉は義昭の養子になり、征夷大将軍を望むが拒否される。1588年、帰京した。出家し、昌山道休と号した。1592年、文禄の役で秀吉に従い名護屋に出陣した。1597年、大坂で死去する。61歳。 准三后。室町幕府最後の将軍になった。相国寺・霊陽院(上京区)に葬られる。等持院(北区)に木像が安置されている。59歳。 ◆前田 利家 室町時代前期-安土・桃山時代の武将・前田 利家(1538-1599、まえだ-としいえ)。男性。幼名は犬千代、孫四郎、又左衛門尉、筑前守、加賀大納言。尾張国(名古屋市)の生まれ。父・荒子城主・前田利昌、母は竹野氏の4男。3女・摩阿(加賀殿)は羽柴(豊臣)秀吉の側室、4女・豪は秀吉の養女。1551年、14歳で織田信長の近習になる。1559年、信長の勘気を受け蟄居した。1560年、桶狭間の戦いに従軍する。1569年、信長に許され、その命で兄・利久に代り前田家を継ぐ。1570年、金ヶ崎の戦い、姉川の合戦に加わる。1575年、長篠の戦いに出陣した。信長から越前(福井県)を与えられた柴田勝家の監視役として、越前府中城主になる。赤母衣衆になり、1581年、能登(石川県)七尾城主になった。1582年、本能寺の変で秀吉と柴田勝家の抗戦では秀吉につき後に対立した。1583年、賤ケ岳の戦で、勝家に加担し、後に秀吉に降伏した。勝家の自殺後、功により加賀北半を加増された。1584年、小牧の役で、徳川家康に応じた佐々成政を末守城で破る。その功により、1585年、嫡子・利勝が越中3郡を得て、後の加賀藩領の原形ができた。1586年、羽柴姓・秀吉の旧官名・筑前守を譲られた。 1587年、九州出兵、1590年、関東・奥羽平定に大軍を出し秀吉の全国統一に参加した。1590年、小田原征伐に参戦する。参議になり五大老の一人になる。1592年、文禄の役で名護屋に駐留し、漢城(ソウル)陥落を聞き渡海しようとする秀吉を家康と共に諫止した。1594年、豊臣秀次の謀反後、秀吉の次男・秀頼の守り役になり、1596年、従二位権大納言に進む。1597年、権大納言になる。1598年、秀吉没後、1599年、家康を追及する先頭に立ち和解した。大坂で没した。遺言に従い、金沢・野田山に葬られた。62歳。 加賀藩前田家の祖。「槍の又左衛門」と異名をとった。民政・理財の才あり茶の湯・和歌に長じた。 ◆填島城 城の置かれた場所、規模、築城主についてもわかっていない。 城郭は現在の宇治川経路の西になる。薗場(えんば)、その北西の大幡付近西南部にあったとみられている。西に巨椋池があり、南東には宇治川に架かる宇治橋が位置していた。豊臣秀吉の宇治川付け替え以前は、付近は宇治川主流の川中に位置していた。 城の周囲は水に囲まれた中州であり、浮城(水城)になっていた。中州は填島と呼ばれ、対岸より架橋されていたとみられている。 城は強固だったという。北へ開口し本丸があり、二の丸、三の丸があったという。小規模の城下町も形成されていた。北東の五ヶ庄方向に大手、南に搦手(からめて、裏門)があったという。近代まで旧城の外郭線として薗場堤が残されていた。 薗場の北西にいまも残る地名の門口(もんぐち)、北内(きたうち)も、築城当時の名残りとみられている。 ◆槇島合戦 室町時代後期、1573年、室町15代将軍・足利義昭は、京都二条邸より真木島昭光の槇島城へ移る。織田信長に対して3700の兵により挙兵した。 信長は、城を大軍で攻めた。信長方の豊臣秀吉、明智光秀、柴田勝家らは、陣所の置かれた宇治川川上の五ヵ庄(ごかの-しょう)より入り、稲葉一鉄らは南東の平等院より宇治川を渡河して攻撃した。 わずか1日の戦いで敗れた義昭は、2歳の嫡男・義尋を人質に出して開城した。義昭、昭光は河内、紀伊、備後へと逃れ、足利幕府滅亡に繋がる。 ◆槙島堤・小倉堤・ 豊臣秀吉は、指月城の築城とともに、巨椋池・宇治川など周辺の大規模な土木工事も行っている。 安土・桃山時代、1593年10月に秀吉は前田利家に命じ、向島に槙島堤を築造させた。この工事により、宇治川は巨椋池から切り離される。宇治川の流路は北西進し指月城下に導かれた。巨椋池へは、向島に架橋された豊後橋(観月橋)をくぐらせて繋いだ。 小倉堤も築き、堤上には大和街道(現・国道24号線)を通した。街道は伏見城下の京町通に至った。 1596年には、伏見の三栖-淀間の堤防(太閤堤)を築かせる。淀川を宇治川・桂川に直結させ、伏見港の機能を持たせた。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都府の地名』、『あなたの知らない京都府の歴史』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 下』、『京 no.55』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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