妙教寺・淀古城 (京都市伏見区)
Myokyo-ji Temple,The ruins of Yodo-kojo Castle
妙教寺・淀古城 妙教寺・淀古城 
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山門






本堂


本堂、「砲弾貫通の壁」



本堂、「砲弾貫通の柱」、「明治元年正月四日幕兵は官軍を小橋の畔に拒ぐ。銃丸雨の如くことごとくこの寺に集まる。障壁什器一としてあたらざるなし。猫犬驚き走り身のおく所なし。中に巨砲ありて勢迅雷の如く、天地に響動す。其の丸は鐘の如し。誤ってこの柱を洞ぬき、玄関の屋隅をおかしやぶって止む。ひろいてこの寺に蔵す。人来り伝え観るに驚き以って胆を破る。爾後此の柱は新造を加えず、全く其の跡を存ち、以って後世伝説の証とする。嗚呼危うかりし哉」(「妙教寺日祥記」)


庫裏


妙見堂


鐘楼


「史跡淀古城跡 戊辰の役砲弾貫通跡」の石標、「此所は戦国時代の始細川管領家が築城し薬師堂 淀古城址 与一岩成左通淀君の居城となった淀古城の址である 史跡 慶応四年正月四日戊辰役の際東軍砲 戊辰の役砲弾貫通跡 弾の飛来で本堂を貫通したその弾痕がある」



 桂川と旧京阪国道の間、鳥羽街道沿いの納所(のうそ)に妙教寺(みょうきょうじ)は建つ。かつて付近西には巨椋池が広がり、境内には淀城(淀古城)本丸が築かれていた。幕末、鳥羽・伏見の戦いの際には、付近で戦闘が行われ本堂が被弾している。
 法華宗真門流。本尊は釈迦如来、多宝如来。
◆歴史年表 江戸時代、1626年、法華又左衛門貞清(生没年不詳)が、初代淀城主・松平定綱(1592-1652)により、淀古城の地を拝領した。南西の新淀城の守護として建立した。開山は 宝泉院日孝(生没年不詳)による。
 1868年、鳥羽・伏見の戦いで一帯は激戦地となる。敗走する幕府軍を新政府軍が追い、本堂は砲弾を被弾している。
◆淀城(淀古城) 納所にあったという室町時代に築城された平城の淀古城は、藤岡城、淀城とも呼ばれていた。江戸時代、1623年、新たに築城された淀城と区別するために淀古城とも呼ばれている。現在、城の遺構は残されておらず、その詳細は不明。妙教寺境内には本丸があったという。天守も存在したとみられている。1594年の廃城にともない、伏見城築城の際の建材として再利用されたという。周辺の地名には、「城ノ内」、境内北に「北城堀」、南に「南城堀」など堀に関する地名が残されている。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)の際に、納所(のうそ)に、東軍の畠山政長(1442-1493)は西軍の畠山義就に備え、勝龍寺城から本拠を移し、淀城(淀古城)が築城されたとみられている。
 1478年、『東院年中行事』中に城の記述が初見され、畠山氏家臣・神保与三左衛門が淀へ入部している。畠山氏の郡代役所として築かれたともいう。山城国下の5郡の守護所が置かれた。
 1504年、城に管領・細川政元に抗したその重臣・薬師寺元一、四宮長能らが立て籠もる。元一の弟・薬師寺長忠、香西元長らに攻められ落城した。その後、細川氏の被官が城を治めた。(第一次淀古城の戦い)。
 1559年、細川氏綱は三好長慶により城に移される。
 1564年、氏綱は同城で没し、長慶甥・三好義継が後任の城主となった。
 1566年、三好三人衆と久秀の対立により勝龍寺城と共に三人衆勢が城を攻略し、三好長逸方・金子が城主となる。
 1568年、織田信長が上洛の際に焼き討ちした。
 1573年、三好三人衆の一人・岩成友通が入城し、15代将軍・足利義昭と呼応し織田信長に抗した。信長方の木下秀吉(豊臣秀吉)、三淵藤英、細川藤孝らにより城は攻略される。(第二次淀古城の戦い)。
 安土・桃山時代、1582年、本能寺の変後、明智光秀が城を改修したという。秀吉と光秀の山崎の戦いでも使われた。その後城は、秀吉家人・小野木重次の預かりとなり城主となる。
 1589年、1月(旧暦)、秀吉により、側室・ちゃちゃの鶴松出産に際し、弟・秀長に城を修築させ淀城と呼ばれた。5月27日、ちゃちゃは城内で鶴松を生み、「淀の方」「淀之上様」などと呼ばれる。9月13日、鶴松は大坂城に移る。
 1590年、鶴松は大坂城より淀城に戻る。
 1591年、8月5日、鶴松が淀城内で数え年3歳で亡くなる。玩具の船より池に落ちたともいう。
 1592年、木村重茲が18万石で城主となった。
 1594年(1595年とも)、秀吉により廃城となる。1592年に築城された伏見城に資材は流用されたという。
 江戸時代、1623年、伏見城廃城にともない、幕府は松平定綱に命じ、新たに淀古城南西に淀城(伏見区淀本町)を築城させた。
 近代、1868年、1月4日、鳥羽・伏見の戦いで東軍は寺付近に布陣する。周辺で激しい戦闘になる。
◆薬師寺元一 室町時代後期の武将・薬師寺元一(やくしじ もとかず、1477-1504)。薬師寺元長の子ともいう。1500年、細川政元の命により、河内の畠山義英を助け畠山尚順を破る。1501年、家督を継ぎ摂津守護代となる。政元に仕え重臣となる。1504年、政元により守護代から解任されようとし、11代将軍・足利義澄の介入により止む。同年、政元を廃し澄元を擁立、摂津で挙兵するが、弟・長忠らに敗れた。居城淀城は落城、自害に追い込まれた。
◆細川氏綱 室町時代の武将・細川氏綱(ほそかわ うじつな、1514-1564)。細川尹賢の子、父の盟友・細川高国の養子。1543年、細川晴元に敗れ殺された養父と父の仇を返すため、和泉で挙兵する。1549年、江口の戦い以後、晴元を近江へと追放した。1552年、上洛し、管領に任じられたが、三好長慶の傀儡でしかなく、淀城に監視付きで居城となった。
◆淀殿 安土・桃山時代-江戸時代の女性・淀殿(よどどの、1569?-1615)。ちゃちゃ(茶々)。近江国に生まれる。父は浅井長政、母はお市の方の長女。1573年、織田信長に攻められ浅井氏は滅亡し、ちゃちゃら母娘は信長のもとに送り返された。1582年、信長の死後、母は柴田勝家に再嫁し、ちゃちゃも越前北ノ庄城に移る。翌1583年、秀吉に攻められ勝家、母は自害する。ちゃちゃら3人の娘は秀吉に保護される。1588年頃、ちゃちゃは秀吉の側室になる。1589年、淀城に入り、淀の方と呼ばれた。同年鶴松を産むが夭折。1590年秀吉の小田原攻めに同行、1592年、文禄の役に肥前名護屋に赴く。1593年、大坂城で次男秀頼を産む。1594年、菩提寺養源院を建立した。1598年、秀吉死後、秀頼と共に大坂城に入り、権勢は正室・北政所をしのぐ。1615年、大坂の陣で豊臣方が敗れ、秀頼と共に自害する。
◆木村重茲 安土・桃山時代の武将・大名の木村 重茲(きむら しげこれ、?-1595)。木村定重の子として生まれる。1583年、賤ヶ岳の戦い、1584年、小牧・長久手の功により、1585年、秀吉より越前府中に石を与えられた。その後も戦功をあげ、豊臣秀次付の家老となる。1592年、文禄の役にも加わる。1592年、淀18万石に加増移封された。だが、1595年、秀次事件で秀次を弁護し、秀吉により自害を命じられた。血族も皆、切腹・梟首、処刑された。
◆木村久夫 近代の学徒兵・木村久夫(1921-1946)。大阪に生まれた。旧制高知高校を経て京都帝大入学後、応召、陸軍上等兵となる。インド洋カーニコバル島で、スパイ容疑のインド人夫婦の処刑事件で通訳をつとめた。イギリス軍の軍事裁判により戦犯として、シンガポール・チャンギー刑務所で絞首刑となる。『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』に手記が採録されている。28歳。
鳥羽・伏見の戦いの戦跡 1886年の鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)の戦跡としては、本堂内に砲弾の跡が3か所残され、砲弾も保管されている。本堂に「東軍戦死者の位牌」が安置されている。
 境内には、幕臣・榎本武揚(1836-1908)揮毫の「戊辰之役東軍戦死者之碑」が立つ。碑文には、「戦死者埋骨地三所 一在下鳥羽村彼岸時墓地一納所村愛宕茶屋堤防一八番楳木」と記されている。1907年建立。
 1867年10月の大政奉還後、徳川義慶は、以後も徳川家による政権掌握を目指していた。これに対して、12月9日に西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視らによる王政復古のクーデターが起こり、慶喜の辞官納地(将軍職辞任、領地返上)という巻き返しが起こる。慶喜はこれに抗して二条城から大坂城に移る。12月28日、江戸薩摩藩邸に対する旧幕府軍の焼き討ち後、1868年1月2日から3日、旧幕府軍による京都封鎖のための出兵が始まる。鳥羽街道には別動隊の旧幕軍歩兵隊が北上進行した。3日夕方、下鳥羽、小枝橋付近で、街道封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府大目付・滝川具挙の間で軍事衝突が起こり、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が勃発する。4日、旧幕軍は一時盛り返し、新政府軍が反撃、旧幕軍は富ノ森へ後退した。寺の周辺では、西に桑名藩砲兵隊が布陣、寺の北に薩摩藩、長州藩が布陣した。旧幕軍は新政府軍を小橋の畔に拒(ふせ)ぎ、銃丸は雨のように妙教寺に注いだという。本堂内陣に砲弾(不発弾とも、非破裂型とも)を被弾した。弾は、本堂南の壁高所より堂内に飛び込む。内陣前を下降しながら横切り、2本あるうちの北側の柱を貫通、その後、やや西(左)に弾道を反らした。北側壁付近、玄関の屋隅を破って着弾したという。また、北の墓石にも被害があったという。幸いに人的な被害は出なかった。5日、伏見方面の旧幕軍は淀千両松に布陣したが敗退、鳥羽方面の軍も富ノ森より後退する。旧幕軍は、老中・稲葉正邦の淀城を頼ったが、入城を拒まれ男山・橋本方面へ撤退した。
◆新撰組 新撰組は京中より伏見奉行所に移り、伏見鎮撫のためとした1868年の鳥羽・伏見の戦いに加わる。淀千両松、八番楳木付近での戦闘で、六番隊組長・井上源三郎(1829-1868)ら多数の隊士が戦死している。その後、付近に幕軍慰霊碑が立てられた。太平洋戦争後、道路工事の際に碑が壊される。その後、「誠」の旗を持つ亡霊が現れ、碑を戻せと訴えたという。妙教寺住職により供養が行われ、元の場所に碑も再建されたという。
 戦に先立つ、1867年12月18日(旧暦)、新撰組局長・近藤勇(1834-1868)は、騎乗していた伏見街道墨染付近で、油小路事件の御陵衛士残党により報復狙撃され重傷を負っている。このため、鳥羽・伏見の戦いには加わらず、大坂城で療養していた。
◆句碑 境内に学徒兵・木村久夫の句碑が立つ。
◆年間行事 新年祈願会(1月)、新春初午祭(2月)、春季彼岸会(3月)、盂蘭盆施餓鬼会(8月)、秋季彼岸会(9月)、御会式(11月)。


*観光寺院ではありません。祭事などの関係があり、拝観の際には要事前連絡。

*参考文献 『よみがえる日本の城 19 二条城 篠山城』『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 中』『新選組事典』『新選組と幕末の京都』『秀吉の京をゆく』『週刊 古社名刹巡拝の旅 26 吉田山と白川』 


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木村久夫辞世の句「音もなく 我より去りし ものなれど 書きて偲びぬ 明日といふ字を」
「遺書 …日本はあらゆる面に為いて、杜会的、歴吏的、攻治的、思想的、人道的の試練と発達とが足らなかった。万事に我が他より勝れたりと考えさせた我々の指導者、ただそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に責任があった。 かつてのごとき我に都合の悪しきもの、意に添わぬものは凡て悪なりとして、ただ武力をもって排斥せんとした態度の行き着くべき結果は明白になった。今こそ凡ての武力腕力を捨てて、あらゆるものを正しく認識し、吟味し、価値判断する事が必要なのである。これが真の発展を我が国に来す所以の道である。あらゆるものをその根底より再吟味する所に日本国の再発展の余地がある。 辞世 眼を閉じて 母を偲べば 幼な日の 懐し面影 消ゆる時なし/音もなく 我より去りし ものなれど 書きて偲びぬ 明日という字を/おののきも 悲しみもなし 絞首台 母の笑顔を いだきてゆかむ
(『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』、1949年)

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 妙教寺 〒612-8279 京都市伏見区納所北城堀49  075-631-2584  
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