御土居(大宮交通公園) (京都市北区)  
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御土居(大宮交通公園)  御土居(大宮交通公園) 
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駒札


京都市の説明板


御土居の平面図、京都市の説明板より


御土居の土塁


御土居頂部

平一稲荷社の祠跡


大宮交通公園、御土居は下の黒い実線内、 OpenStreetMap Japan




安土・桃山時代の御土居、京都市の説明板より


安土・桃山時代の聚楽第(左)、御土居(右端の赤実線)、京都市の説明板より


江戸時代前期の御土居、京都市の説明板より
 京都市唯一の交通公園である大宮交通公園内に、安土・桃山時代、豊臣秀吉が築造させた御土居(おどい)遺構がある。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉は御土居を築造させた。
 近代、平一稲荷社が祀られたとみられる。
 現代、1969年、5月3日、大宮交通公園は開園している。(「京都新聞」)
 2021年、4月、交通公園はリニューアルオープンした。
◆大宮交通公園内の御土居 大宮交通公園内の南側に、安土・桃山時代、1591年に豊臣秀吉が築造させた御土居の一部が残されている。
 この地は御土居の北端にあたり、土塁遺構は北東から南西方向にある。頂部にも上ることができる。現代、1969年の公園化に伴い土塁の修景が施されている。堀は地中に残されている可能性がある。
 国史跡(1930年・1965年)以外で、土塁遺構が良好に残されているのは、北野中学校(中京区)と公園内の2カ所しかない。
◆御土居 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫により荒地になった。
 安土・桃山時代、1591年に、豊臣秀吉(1536-1598)は京都の再興・改造を手がける。細川幽斉(1534-1610)、前田玄以(1539-1602)などに命じ、洛中の周囲をめぐらせる堤防・惣構施設の「御土居」の築造させた。諸国大名らにより同年旧1月に着工になり、旧閏1月に2カ月で完成したという。(近衛信尹『三藐院記[さんみゃくいんき]』)。また、2-4カ月/5カ月の突貫工事で完成させたともいう。
 御土居は、北は上賀茂・鷹ヶ峰、西は紙屋川(天神川)・東寺の西辺、南は東寺南の九条通、東は鴨川西岸の河原町通まで築かれた。当時存在していた聚楽第、京都御所も土塁内側に取り囲んでいる。規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmにもなった。
 御土居は、当初「土居堀」と呼ばれた。ほかに「京廻りノ堤」、「新堤」、「惣曲輪(そうぐるわ)」、「土居」などとも呼ばれ、江戸時代には「御土居」と称されるようになる。
 御土居の構造は外側に堀(濠)、内側に台形状の土塁を築いた。工法は「掻揚城(かきあげしろ)」が採られ、掘った堀の土を積み上げて土塁を築き、積石・石垣で地盤を固めた。墓石・地蔵なども「礎石」として使われている。なお、当時の構築物では一般的なことだった。掻揚だけでは、土塁を築く土量が不足したとの見方もある。
 土塁規模は一定しておらず、高さ3.6-5.4/6m、基底部幅10-20m、頂上部幅4-8m、犬走り1.5-3mあった。土塁頂上は、盛土の保護・強度を増すために竹林が植えられ覆われていた。このため、竹薮の伐採は厳禁された。土塁の外には、堀(幅3.6-18m/12.5-20m、深さ1.5-2.5m)が設けられていた。堀は河川・池・沼などの自然地形も利用して築造されている。堀には水が溜められ、江戸時代には、農業用水としても利用されている。 
 御土居には「京の七口」と呼ばれる出入口が開けられ、主要な街道に通じていた。出入口は特定されず、当初は10カ所あり、江戸時代前期には40カ所にも増えたという。
 「普請太閤」といわれた秀吉の御土居築造の意図は、複合的なものとされる。一般的には、鴨川・紙谷川(天神川)などの氾濫に対する水害対策・防災的な堤防の意図が強かった。さらに、外敵に備える防塁の意味も加わる。平安京以来、京都は九条大路の南以外には羅城は築かれていなかった。御土居により初めて、本格的な城塞により囲まれることになる。
 御土居築造により、都の開発は鴨川の間際まで進んだ。また、聚楽第・御所を取り込むように構築されたため、「洛中」・「洛外」の区分を生み洛中範囲の確定に繋がった。軍事的な城壁の役割、権勢誇示という政治的な意味合いもあった。それまでの権力支配(朝廷・公家・寺社)から町衆を分断させ、聚楽第を中心にした新都市の再編・支配が強行されたともいう。安土・桃山時代、1591年の御土居築造が、1592年の文禄の役の前年にあたり、秀吉の朝鮮・明攻略を前提とした首都防衛機能の一環だったともいう。なお、築造に際して、小田原城の城下を模したとする見方もある。
 御土居築造に先立ち、新たに「町割(天正町割)」も行われた。1590年に寺院に対し「寺割」が実施される。それまで散在していた寺院を強制移転させ、新たに寺町、寺之内、本願寺などの寺院町を形成させた。これにより、防御・防災、税徴収の効率化、寺院と民衆の結びつきの分断の意味もあったという。
 平安京以来の条坊制は、東西南北一町四方(正方形)の区画を基本としていた。これでは、中心部に無駄な空地が生じる。秀吉は一部を除き、これを半町一町の短冊型(長方形)の区割りに再編する。半町毎に、新たな南北の道路(小路)を設けた。この新しい町割により、町家数・人口増加をもたらし、検地の効率も高められた。
 御土居の保全は、京都所司代の命により、近郊の農民が駆り出されていた。江戸時代前期、1669年以降は、角倉了以の子・角倉与一が「土居薮之支配(奉行)」に任じられ、管理権を与えられている。この頃、御土居に繁茂した竹(土居薮)を民間に払い下げている。竹は資材として利用された。
 御土居築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進行する。鴨川には新たな堤防が築かれ、東側の開発が進み土塁は取り壊された。御土居のうち堤防の役割を果たしていたものを除き、大部分は次第に撤去され、屋敷用地・道路などに転用される。なお、江戸時代中期、元禄期(1688-1704)までは、堀はまだ水堀としては機能していた。その後、築造後100年を経て堀は埋没し、周辺住民の生活廃材の捨て場になった。このため、後の発掘調査により土器・陶磁器、瓦、金属製品、石加工品、木製品などが多数出土している。
 近代以降、1870年の京都府の「悉皆開拓」令により、府は土地の払い下げを通達している。以来、御土居の破壊が急速に進行する。「お土居薮地」は、田圃、畑、桑畑、茶畑などに開墾することが奨励された。1945年の第二次大戦後は、土塁遺構の大部分は消失し、現在はごく一部のみが保存されている。
◆国史跡 近代、1919年の史蹟名勝天然祈念物保存法が施行し、1930年に京都市内の御土居8カ所が国史跡指定地になった。
 その後、現代、1965年に北野天満宮境内の1カ所が追加され、現在、9カ所が指定地になっている。1.平野(北区平野鳥居前町)、2.紫野(北区紫野西土居町)、3.鷹ヶ峯(北区鷹ヶ峯旧土居町)、4.鷹ヶ峯(北区鷹ヶ峯旧土居町)、5.大宮(北区大宮土居町)、6.紫竹(北区紫竹上長目町・上堀川町)、7.蘆山寺(上京区来之辺町)、8.西ノ京(中京区西ノ京原町)、9.北野天満宮(上京区馬喰町)になる。
 土塁遺構は史跡指定地のほかに、大宮交通公園(北区紫竹北栗栖町3)、北野中学校(中京区西ノ京中保町1-4)を含む4カ所がある。
◆平一稲荷社 土塁の南側脇にはかつて、小社の平一稲荷社が祀られ、鳥居と祠があった。近代に祀られたとみられる。御土居そのものが信仰の対象になっていたという。
 土塁には稲荷社が祀られる例があるという。土塁に棲みついていたキツネ・タヌキなどに由来するという。
 現在、祠はなく、土台になっていた石組だけが残されている。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「大宮交通公園-京都市」、ウェブサイト「御土居跡-京都市」、『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』、『御土居堀ものがたり』、『洛中洛外』、『秀吉の京をゆく』、『京都の地名検証 2』、『京都の地名検証 3』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都・観光文化 時代MAP』、『豊臣秀吉事典』、『御土居跡』、『京都 秀吉の時代-つちの中から』、 『建築家秀吉』、延命地蔵大菩薩の駒札、『京都の歴史10 年表・事典』、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、ウェブサイト「コトバンク」、OpenStreetMap Japan


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map 御土居(大宮交通公園) 〒603-8433 京都市北区紫竹北栗栖町3
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