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詩仙堂 (京都市左京区) Shisen-do Temple |
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詩仙堂 | 詩仙堂 |
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![]() 山門(小有洞) ![]() 山門、石川丈山筆「小有洞」の扁額が掛かる。 ![]() ![]() ![]() 石畳 ![]() ![]() ![]() 老梅関 ![]() 老梅関、扁額「梅関」 ![]() ![]() キリシマツツジ ![]() 本玄関 ![]() ![]() 土間の竈 ![]() 本堂の北側 ![]() 書院 ![]() 老梅関から書院前 ![]() 書院北の白砂の庭 ![]() ![]() ![]() 茶室「躍淵軒」、孟宗竹林 ![]() ![]() ![]() ![]() 土蔵 ![]() 本堂(仏間)・広間 ![]() ![]() 本堂、2階部分の嘯月(しょうげつ)楼 ![]() 至楽巣 ![]() 本堂・広間 ![]() 詩仙の間、読書室 ![]() 本堂の仏間 ![]() 本堂・広間から観る皐月、白砂の庭 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 庭園、書院前 ![]() 庭園、蹲踞 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 竹の樋 ![]() ![]() ![]() 庭園は3段の構成になっている。石段で繋がれている。 ![]() ![]() 茶室「残月軒」 ![]() 十方明峰閣(坐禅堂) ![]() 坐禅堂の九重石塔 ![]() 洗蒙瀑(せんもうばく)、作庭時からある。物事の道理に疎いということを表す「蒙昧を洗う」という意。 ![]() 鹿(しし)おどし(添水、僧都) ![]() ![]() 百花塢の池泉 ![]() ![]() ツバキ ![]() ツバキ ![]() ![]() アジサイ ![]() ヤマブキ ![]() シャクヤク ![]() フジ ![]() ボタン ![]() シャガ ![]() 境内を流れる谷川の流れ ![]() カキ、モミジ ![]() ![]() 供養塔 |
白川通より坂を上がる途中に詩仙堂 (しせん-どう)がある。江戸時代の文人・石川丈山(いしかわ-じょうざん)が、没するまでの31年間をこの地で隠棲した。建物と庭園は国の史跡に指定されている。 正式には詩仙堂丈山寺(しせんどう-じょうざんじ)という。山号は六六山(ろくろくざん)という。 曹洞宗大本山永平寺の直末寺、本尊は馬郎婦(めろうふ)観音を安置する。 京都洛北・森と水の会。 庭園は、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン1つ星観光地」(改訂第4版)に選ばれている。アメリカ合衆国の日本庭園専門誌"Sukiya Living Magazine, The Journal of Japanese Gardening"の「しおさいプロジェクト」「日本庭園ランキング(数寄屋生活空間)」に、2003年に第9位に選ばれている。 ◆歴史年表 江戸時代、1640年、石川丈山が一乗村に草庵の造営を始める。 1641年、凹凸窠(おうとつか)が落成する。凹凸窠とは、起伏のある土地に建てられた住居を意味した。かつて、上之屋敷、下之屋敷があり、1000坪(3305.8㎡)の敷地を有していた。 1643年、儒学者・林羅山が訪れ『詩仙堂記』を記した。 1672年、丈山没後、一時荒廃する。その後、丈山の養子・石川十太夫の子・数馬より、門人の儒学者・平岩仙桂が受け継ぐ。 1681年、儒医・黒川道佑が訪れ、荒廃していると記した。(『東北歴賢記』『東西歴賢記』) 1691年、旧6月、松尾芭蕉が去来らと訪れている。 1748年、黄檗僧・潜山禅尼は閑院宮家の庇護により、建物、庭園を改修した。 1821年、丈山150年御遠忌に建物の修復が行われる。書院は増築され、庭園も改修される。 近代、1928年、建物と庭園は国の史跡に指定された。 現代、1950年代、庭園が拡張される。茶室「残月軒」が建てられる。 1963年、詩仙の間が復元される。 1966年、曹洞宗に改め、詩仙堂と改称された。寺号は詩仙の間に由来する。 1967年、堂宇、庭園が大改修された。 ◆石川 丈山 安土・桃山時代-江戸時代前期の文人・石川 丈山(いしかわ-じょうざん、1583-1672)。男性。名は凹(おう)、字は孫助、通称は嘉右衛門重之、別号は六々山人、四明山人、凹凸窩(おうとつか)、詩仙堂、丈山は字・号など。三河(愛知県)の生まれ。父・武士・信定。源氏の流れを汲み、祖父以来三河・徳川家譜代の臣の家になる。武芸に優れ、16歳で徳川家康の近習になる。1600年、関ヶ原の戦いに出陣し、家康の信望を得た。1615年、旗本として参戦した大坂夏の陣で、軍律違反の先陣争い(一番槍り)をして抜け駆ける。家康の怒りを買い追放される。剃髪し妙心寺に潜居した。1616年、母の病を看るために江戸へ出た。1617年、京都に戻り、友人の儒学者・林羅山の勧めにより、儒学者・藤原惺窩(せいか)門下になり朱子学を修めた。41歳より、病身の母養生のために安芸・浅野家に仕え10数年に及ぶ。母没後に辞する。相国寺近くに庵「睡竹(すいちく)堂」を結び隠棲した。1641年/1635年/1636年)、一乗寺村の庵に移った。後水尾上皇の召にも応じなかった。庵には、羅山、陶工・絵師の尾形乾山、第112代・霊元天皇なども訪れた。1645年、舞楽寺村に祠を築き「頑仙祠」と名付ける。70歳で京都所司代・板倉重宗に、故郷での隠退を願い出るが許されなかった。以後、門戸を閉じたという。 堀杏庵、角倉素庵、元政上人らとも親交する。妻帯しなかった。兵法、剣術、鉾、鉄砲、馬術に優れた。漢詩文にも秀で「日東の李杜」、荻生徂徠は「東方の詩聖」と称えた。江戸時代の「漢詩人の祖」といわれる。凹凸窠には、狩野探幽・尚信筆による、中国の詩家36人の肖像を掲げる詩仙の間が設けられ、丈山の詩も掲げられた。「詩仙堂」の名の由来になる。「渡らじな 瀬見の小川の 浅くとも 老の波そう 影もはづかし」は、後水尾上皇(第108代)の誘いを断る歌だったとも、霊元天皇が丈山の書を見たいとの申し出たことへの返歌ともいう。隷書、茶道にも長け、煎茶も嗜み「文人茶の開祖」といわれる。「三亭(酒店、飯店、茶店)の始祖」ともいう。作庭家としても活躍し、枳殻邸、一休寺、蓮華寺などの庭園の修復などに関わった。詩文集に『新編覆醤集(ふしょうしゅう)』『詩仙詩』など。90歳。 墓は詩仙堂(左京区)近くの山中にある。 ◆平岩 仙山 江戸時代前期の儒者・平岩 仙山(ひらいわ-せんざん、 ?-? )。男性。名は桂、字は仙桂、別号は一柳軒など。京都の生まれ。石川丈山(1583-1672)に学び、金沢藩主・前田綱紀に仕えた。詩文にすぐれた。丈山没後、詩仙堂を継ぐ。著『甲辰紀行』。 ◆丈山没後 江戸時代前期、1672年、丈山没後、詩仙堂は一時荒廃する。その後、丈山の養子・石川十太夫の子・数馬より、門人の儒学者・平岩仙桂が受け継ぐ。丈山没後も丈山を偲び、陶工・絵師の尾形乾山、儒医・黒川道佑らも訪れたという。 後、真言宗の僧、黄檗宗の尼僧が引き継いだ。さらに、10代・善輪泰良(ぜんりん-やすよし)により黄檗宗を離れ、廃寺になる。その後、京都博物館に所属したという。 ◆仏像 本堂に本尊の「馬郎婦(めろうふ)観音」が安置されている。中国の説話に登場する三十三観音のひとつになる。 観音は、仏教を広めるために、美女に姿を変えて現世に登場した。多くの求婚者があり、その中の法華経を誦する馬氏の郎に嫁ぐ。だが、婚礼の夜に美女は急死した。哀しむ馬氏の郎に、美女の由緒を老僧が説く。美女を埋めた墓を開けると、黄金の骨と化していたという。 ◆建築 ◈小門「小有洞(しょうゆうどう)」がある。丈山筆「小有洞」の木額が掛かる。 ◈小門「老梅関(ろうばいかん)」は、石段を上ったところにある。かつて老梅の木が数本あったことから名付けられたという。木額「梅関」が掛かる。 ◈「本玄関」は、「蜂要(ほうよう)」ともいう。石川丈山は長身(6尺1寸、1.84m)だったという。玄関はやや低めに造られており、丈山は出入りの際には腰をかがめた。そのさまを蜂が巣に出入することに譬えたという。 ◈丈山は建てた庵を「凹凸窠」と呼んだ。起伏のある土地に建てた庵の意味という。現在、建物全体を詩仙堂と呼ぶ。本来の詩仙堂とは、現在の詩仙の間になる。南西より、6畳の座敷、6畳の座敷、嘯月楼、詩仙の間(6畳)、読書の間(6畳)、6畳がある。嘯月楼の西に仏間がある。このうち創建時のものは、詩仙の間、嘯月楼、北の4畳の一部のみになる。玄関、読書の間は改変されている。ほかの建物は、江戸時代後期、寛政年間(1789-1800)に一部改修が行われている。後に増築されたものもある。 「詩仙堂」は、木下長嘯子(1569-1649)の建てた「歌仙堂」に倣う。「詩仙の間(詩仙堂)」(4畳半)が創建当初のままに保存されている。木下は堂内に三十六歌仙(李白、杜甫ら漢、晋、宋、唐)の肖像を掲げた。詩仙の間には、狩野探幽筆とされる肖像が掛けられている。丈山自筆の詩も掲げられている。東に床の間、床棚、北に窓(1間)、襖(半間)、南に4枚の障子、その外に縁側がある。縁側鴨居上に掲げられている木額「詩仙堂」は、丈山自刻による。天井には、中国南方産というアンペラが張られている。カヤツリグサ科の多年草で湿地に生える。 一段掘り下げた瓦敷きの「仏間」がある。 二階座敷(14畳)がある。 三階建の「嘯月楼(しょうげつろう)(5畳)は、詩仙の間の階上になる。中二階に丸窓、内開板戸の窓がある。三階楼上からは北、西、東に窓が開けられている。庭園のみならず、かつては洛中、大坂城の眺望も可能だった。丈山はここで月を愛で朗吟していたという。俗説として、修学院離宮の後水尾上皇の動向を監視していたともいう。忍び返しが付けられているともいう。詩仙堂は草葺の大屋根、瓦敷の軒、嘯月楼、6畳、8畳は瓦葺になる。 ◈ほかに、「至楽巣(猟芸巣)」、「躍淵軒」がある。 ◈近年、客殿の「十方明峰閣(坐禅堂)」が建てられた。 ◆茶室 茶室「残月軒」は、近現代、昭和期(1926-1989)に建てられた。 扁額「残月軒」は、現代、1958年11月に、言語学者・国語学者・新村出(しんむら-いずる、1876-1967)が揮毫した。同年、住職・石川琢堂の頃、佐佐木信綱主宰の竹柏会「心の花」京都支部例会、歌会が開かれ、新村も参加している。歌に「丈山を夢みてよし一斎の古詩と叙文の何百時ぞも」などがある。 ◆庭園 丈山作庭による唐様庭園は、書院、詩仙の間、猟芸巣(至楽巣)の南面に東西に広がり、330坪(1090㎡)ほどの広さがある。当初の庭面は、2段になっていたという。現在は3段の構成になっている。 ◈書院前の庭は、手前の白砂、右手端に樹齢400年以上という山茶花の大木が植えられている。丸く刈られた皐月の大刈り込みがあり、山々とも島々を表しているともいう。その奥は崖地になり、低地になる。谷に楓が植えられているため、幹の部分は隠されている。その背後の森と庭が一体になり構成される。 ◈滝石組の「洗蒙瀑(せんもうばく)は、創建時から組まれていたという。滝を発した小川の流れは西へ流れを作り、「流葉洦」といわれる。 ◈下段には、「百花塢(ひゃっかのう)」という拡張された池泉がある。これらは、戦後、石川琢堂本師住職により整備された。塢(う)とは土手を意味する。池泉に流葉はくの流れが注ぐ。池の周りには、花菖蒲など草木の庭が広がる。さらに、下には竹林、楓の林が続く。 ◈丈山が晩年に据えたという石塔がある。丈山好みの織部灯籠、丈山考案という「鹿(しし)おどし(添水、僧都)」が音を立てる。清浄を好んだ丈山は、邸内に一葉の塵も落ちていないほどに、隅々まで掃き清めるのを日課にしていたという。それはいまも守られている。 ◈境内の西に坐禅堂前庭がある。 ◆茶室 下段の庭園の百花塢(ひゃっかのう)には、茶室「残月軒」がある。 ◆凹凸窠十境 丈山が見立てた詩仙堂の凹凸窠十境としては、1.「小有洞(しょうゆうどう、山門)」。2.「老梅関(かつて老梅が数本生えていた小門)」、3.「詩仙堂(詩仙の間)」。4.「猟芸巣(りょうげいそう、至楽巣[しらくそう])」。5.「嘯月楼(しょうげつろう、丈山が昇り観月、朗吟した楼)」。6.「膏こう泉(こうこうせん、薬も効かない処、深い井戸の譬え)」。7.「躍淵軒(やくえんけん、侍童の間、侍童が将来に躍動する鯉のようになるの意)」。8.「洗蒙瀑(せんもうばく、蒙昧を洗う滝)」。9.「流葉洦(りょうようはく、「はく」は水が浅いこと)」。10.「百花塢(ひゃっかのう、塢は堤の意)」。 さらに詩仙堂周囲の「凹凸窠十二景」として、丈山により詠まれた詩と画(作者不詳)がある。1.「満蹊桜花(谷の小道の桜)」、2.「前村犁雨(農夫の鋤く田の雨)」、3.「巌しょう瀑泉(洗蒙瀑の滝音)」、4.「砌池印月(庭の池に映る月)」、5.「渓辺紅葉(谷川畔の紅葉)」、6.四山高雪(四方の山の冠雪)」、7.「台きょう閑雲(比叡山にかかる雲)」、8.「鴨河長流(鴨川の流れ)」、9.「落陽晩煙(京中に昇る夕餉支度の煙)」、10.「難波城楼(遥かに見える大坂城)」、11.「園外松声(境外の松風の音)」、12.隣曲叢祠(隣村林中の祠)」になる。 ◆鹿おどし 「鹿(しし)おどし」は、田畑を荒らす鹿、猪を追い払うための農器の仕掛けだった。竹筒の中央を軸で受け、筧の注いだ水の重さで反転する。竹が一定間隔で、下の石を敲き甲高い音がする。竹は孟宗竹の中で、竹薮で立ち枯れしたものを選ぶ。「ゴマ竹」といわれ、表面に黒紫色の斑点があるものが最良とされる。 「僧都(そうず)」、「添加水」ともいわれる。僧都とは、奈良時代-平安時代前期の法相宗の僧・玄賓(げんぴん、734-818)に因む。平安時代前期、805年、第50代・桓武天皇の病気平癒を祈願し、806年に大僧都に任じられたが辞退している。809年に平城上皇(第51代)の病気平癒を祈願する。816年、備中国哲多郡に対し玄賓在世中は、庸米に代えて鉄を貢進させ、民の負担を軽減させたという。その後、都を出奔し、北陸で川の渡し守をしたとも、伊賀で役人に仕えたともいう。鴨長明は『発心集』で玄賓を比類なく貴いと称賛した。 丹波、備中で玄賓は、秋になると農夫の井手達で鳥や獣を追い払ったといわれ、鹿おどしを僧都と呼ぶことになったという。この鹿おどしを最初に庭に取り入れたのは丈山だったという。丈山は詩文「僧都詩并序」を残し、富岡鉄斎筆による詩文が広間に掲げられている。 ◆文化財 ◈石川丈山筆の額が表門に「小有洞」、中門に「梅関」、居間に「詩遷堂」、路次に「凹凸窠」と架かる。 ◈「詩仙の間」(現代、1963年復元)の長押には、狩野探幽・尚信の描いた中国の漢晋唐宋の詩人、36人の肖像画と詩が掲げられている。江戸時代前期、1641年、詩人の選定には、丈山と友人の儒学者・林羅山(1583-1657)が関わった。杜甫、李白、孟浩然、王維、欧陽修、陶潜などの詩人が選ばれた。王安石については羅山と意見が異なり、最終的には丈山により不採用になった。詩人の経歴、作風なども考慮し、2人一組として18組を並べている。画賛(詩文)も丈山の隷書による。 ◈「凹凸窠十二景」には、画家による絵と丈山による詩が寄せられている。丈山詩集『覆醤集』は、京都所司代・板倉重宗の求めにより纏められた。蔵書として『四書集註』『後漢書』『詩学大成』『氏族大全』『古文真宝』などがある。 ◈丈山の遺品のうち「詩仙堂六物」として、1.「竹如意(法具の竹の如意、名は大竜)」、2.「そう毛払(棕櫚の毛の指揮棒)」、3.「天造几(脇息)」、4.「木崑崙(崑崙山に見立てた香炉入れ)」、5.「沙鉄瓶(一輪挿し、海に落ちた鉄瓶に嵩が付く)」、6.「眉公琴(七絃琴、明の学者・眉公より霊元天皇を経て丈山にもたらされた)」。ほかに「硯(残月、四雪)」などがある。 ◆文学 ◈江戸時代前期、1691年旧6月1日、松尾芭蕉(1644-1694)が詩仙堂を訪れている。去来が案内し、丈草、曽良らが同行した。芭蕉は「風かほる羽織は襟もつくろわず」と詠んでいる。丈山没後19年目であり、前書きは「丈山之像謁」になっている。 一行は大原から比叡山に上る。芭蕉は引き返している。 ◈林真理子(1954-)の『京都まで』には詩仙堂が登場する。主人公の佐野久仁子は、草間高志とともに京都の各所を訪ねる。久仁子は詩仙堂で、京都に住むことを切り出すが、二人に齟齬が生まれていた。 ◆花暦 数多くの花木、山野草などが花開く。梅(紅白)、椿(侘助、獅子頭、有楽、丈山)、桜(山桜)、貝母、皐月、躑躅(霧島、ミツバツツジ)、紫陽花、石楠花、紫蘭、サンシュシュ、モモバキキョウ、酔芙蓉、花菖蒲、杜若、藤、水蓮、額紫陽花、紫苑、鉄線、菊(丈山菊、秋明菊、リュウノウ菊)、山茶花、薄、ナナカマド、石蕗、千両、万両なども愛でることができる。 皐月(5月下旬-6月上旬)、楓50本の紅葉(11月下旬)、縁の前の樹齢400年以上という山茶花(11月下旬)も白い花を咲かせる。 南庭にアカマツ(朝鮮松)がある。 ◆大田井堰 丈山は当初、松ヶ崎付近に山荘を建てようとした。だが、里人は大物が住むのを嫌がり、建築予定地を墓地にして対抗したという。このため、現在地に詩仙堂は建てられたという。 村では、高野川の新しい井堰造りを丈山に依頼した。だが、丈山はこの山荘の件により当初は断った。その後、村人の頼みを聞き入れ堰を築かせたという。大田という人物が工事監督になり、現存する堰はいまも「大田井堰」といわれている。 ◆映画 映画「花と怒涛」(監督・松林宗恵、1954年、新東宝)、映画「風船」(監督・川島雄三、1956年、日活)の撮影が行われた。 ◆墓 境内東の舞洛山中に石川丈山が自ら立てた墓(国史跡)がある。墓誌は友人・医師で儒者の野間三竹(1608-1676)による。 ◆修行体験 座禅会(毎月第1・3日曜日、6:00-8:00)。 ◆年間行事 釈尊誕生花祭り(4月第1日曜日)、丈山忌(5月23日)、遺宝展(丈山の詩集、遺愛品などが一般公開される)(5月25日-27日)、十方礼法要(仲秋の頃)。 *室内の撮影禁止。 *年間行事は中止、日時変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京の古都から 3 詩仙堂』、『京都古社寺辞典』、『禅僧とめぐる京の名庭』、『京都・山城寺院神社大事典』、『日本の名僧』、『京都府の歴史散歩 中』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『京の茶室 東山編』、『京都 四季の庭園』、『文学散歩 作家が歩いた京の道』、『京都・湖南の芭蕉』、『日本映画と京都』、『京都大事典』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都歩きの愉しみ』、『京都 古都の庭をめぐる』 、『京都 神社と寺院の森』、『週刊 日本庭園をゆく 19 京都洛北の名庭 3 曼殊院 円通寺 詩仙堂』、『広辞苑はなぜ生まれたか-新村出の生きた軌跡』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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