白川・祇園新橋 (京都市東山区)
Shirakawa・Gionshimbashi
白川・祇園新橋 白川・祇園新橋
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巽橋











白川南通、かつてここには「大友」「大和屋」などのお茶屋があった。


白川
 白川の流れる祇園新橋一帯は、お茶屋などが建ち並ぶ。家並みは保存され、石田畳みが敷かれている。白川には巽橋、新橋などが架かり、辰巳大明神が祀られている。 
 通りには枝垂れ柳、桜、楓が植えられ、街並は市の特別保全修景地区、国の伝統的建造物群保存地区に指定されている。
◆歴史年表 
江戸時代中期、1670年、鴨川の改修工事により堤が築かれ、川幅が狭められたことから新しい町が生まれた。弁財天町など祇園外六町などがあった。
 1713年、元吉町など祇園内六町が開かれ、花街の始まりになる。この頃、祇園町北側は「新地」「新橋」とも呼ばれた。
 宝永年間(1704-1711)、新橋通が開通した。
 幕末-明治期、祇園新橋は隆盛を極める。大和橋のたもとにあったお茶屋「木屋」には、頼山陽、田能村竹田、篠崎小竹、中島棕隠らが遊興した。
 近代、1945年、太平洋戦争中の建物強制疎開により、お茶屋などは撤去になる。
 現代、1955年、吉井勇歌碑が立てられる。
 1973年、祇園新橋は京都市の「特別保全修景地区」に指定された。
 1976年、白川沿いの白川南通、新橋道周辺は国の「伝統的建造物群保存地区」に指定されている。
◆白川 現在の白川は、かつては支流で「小川」と呼ばれていた。本流は、法林寺の北を流れていた。安土・桃山時代、豊臣秀吉の三条大橋の架橋、護岸工事により川の流れは衰える。1965年の下水道工事により消滅している。
◆大友 かつて、現在の白川南通はなく、ここには、茶屋、置屋などが建ち並んでいた。その中に、文人などに愛されたお茶屋「大友(だいとも)」もあった。お茶屋は白川にせり出す形で建てられていた。
 大友の名物女将・お多佳(磯田多佳、1879-1945)は、「文芸芸妓」といわれた。「祇園歌人」の吉井勇、夏目漱石、谷崎潤一郎、高浜虚子、長田幹彦、尾崎紅葉、高浜虚子などの文人、画家の藤田嗣治、横山大観、浅井忠などとの幅広い交流があり、大友は戦前の文化サロンになっていた。
 夏目漱石は京都を4回訪れ、東京と京都を対比的に描いた『虞美人草』のほか、『門』『彼岸過迄』『夢十夜』の中でも京都を描いている。お多佳とも懇意にしており、「春の川を隔てて男女かな」という句を詠んでいる。谷崎潤一郎には『磯田多佳女のこと』という一文がある。1910年の『新小説』に、お多佳は「日本代表婦人」のひとりとして選ばれている。
 太平洋戦争中の強制疎開、戦後の区画整理などで多くの茶屋が撤去された。1945年3月、お茶屋「大友」も壊される。その2カ月後、お多佳も急逝した。戦後、1955年、大友を偲んで吉井勇歌碑が立てられた。
◆吉井勇 近代・現代の歌人・脚本家・吉井勇(よしい いさむ、1886-1960)。東京生まれ。父は海軍軍人・貴族院議員の吉井幸蔵。幼少期を鎌倉の別荘で過ごした。1900年、東京府立第一中学校入学、落第、日本中学に転校した。漢学塾へ通う。1904年、攻玉社を卒業後、病により平塚の杏雲堂に入院、鎌倉の別荘へ転地療養した。『新詩社』の同人、1905年、新詩社を脱退する。1906年、与謝野寛とともに京都を訪れた。1908年、早稲田大学文学部高等予科に入学、政治経済科に転じ、中退した。「パンの会」を北原白秋らと結成、1909年森鴎外ら創刊の『スバル』編集の一人となる。戯曲『午後三時』を『スバル』発表。1910年、第一歌集『酒ほがひ』刊、1911年、戯曲集『午後三時』、1915年、歌集『祇園歌集』刊。1919年、里見弴らと『人間』創刊。1921年、柳原徳子と結婚、1933年、「不良華族事件」により徳子と離婚し、高知で隠棲した。1937年、国松孝子と再婚し、1938年、京都に移る。1948年、歌会始選者となる。京都で死去した。
 墓は東京・青山霊園にある。蔵書、遺品の一部は京都府立総合資料館に収蔵されている。
◆磯田多佳 近代の芸妓・磯田多佳(いそだ たか、1879-1945)。本名は「たか」。お茶屋「大友」(下京区祇園本吉町)に生まれた。父は舞鶴田辺藩・武士の喜間太、母・ともの二女、姉は祇園一力亭の女将・おさだ。6歳で井上八千代に入門、1885年、第十五区尋常小学校入学(現、弥栄中学校)、1889年、小学校を4年で卒業し「女紅場」に入学、10代で芸妓になる。1902年、落籍された中島が死去し、「大友」で芸妓に戻る。家業を継ぐ。1903年、画家・浅井忠と中村楼で出会う。1907年、浅井の勧めにより陶器を扱う「九雲堂」(四条通)を開店した。1908年、「中村楼」で上田敏と出会う1909年、「九雲堂」を兄に任せ、「大友」に戻る。1912年、谷崎潤一郎が「大友」を訪ねる。1915年、夏目漱石が「大友」を訪ねた。1945年、3月、建物強制疎開により「大友」が破却される。5月、逝去した。
 舞、三味線、絵、歌、俳句などを嗜んだ。上田重子、三輪貞信に和歌を学び、夏目漱石、谷崎潤一郎、吉井勇などの文学者と交流し、「文学芸妓」と呼ばれた。
◆街並・景観 祇園新橋地区は、白川、江戸時代末-明治期にかけての京風町家、石畳、並木などで構成されている。京都市の「特別保全修景地区」(1973)、「伝統的建造物群保存地区」(1976)に指定された。この地域に、三階建てのビル建設計画が持ち上がった際に、周辺の女将らの住民運動により街並みは守られた。
 現在、50数軒の京風町家が建つ。本2階建町家茶屋様式、本2階建町家茶屋様式、本2階建川端茶屋様式、本2階建町家数寄屋風様式、大正期(1912-1926)に生まれた本2階建町家へい造り様式などが見られる。
 通りの並木には、ヤナギ、ソメイヨシノ、シダレザクラ、ウメなどが植栽されている。
◆かにかくに祭 白川沿いに「放浪歌人」「祇園歌人」といわれた吉井勇の歌碑がある。1955年、吉井の古希記念として、鞍馬石の碑が立てられた。志賀直哉、谷崎潤一郎、新村出、湯川秀樹らが発起人になった。
 石には、「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水のながるる」(歌集『酒ほがひ』)と刻まれている。「かにかくに」とは、「かにもかくにも」を意味している。1910年5月に吉井が祇園を訪れた際の20数種の句の一つになっている。
 かつてこの地にお茶屋「大友」があり、祇園新橋を流れる白川の上に建てられていたという。吉井も常連客の一人だった。
 吉井の命日(11月8日)には、祇園甲部お茶屋組合により、「かにかくに祭」が行われている。お茶屋関係者、芸舞妓により菊花が献花され、野点、おそば席が設けられる。
 碑の右には、大友にあったという紫陽花がいまも花を付ける。「あぢさいの 華に心を 残しけん 人のゆくへも しら川の水」、谷崎潤一郎がお多佳を偲んで詠んだ歌がある。
 親友の谷崎は、吉井が当初「かにかくに 祇園はうれし 酔ひざめての 枕の下を 水のながるる」とし、その後、改めたと書いた。(『オール読物』、1952年2月号)。吉井本人は親友の谷崎の思い違いに対し、草稿にとどめその事実を公にすることはなかった。
◆文学 長田幹彦『祇園』(1923)に白川が書かれている。
 水上勉『古都暮色(旧題『鳩の浮巣』)』(1979)には、真如堂近くの白川が描写されている。
◆映画 映画「祇園の姉妹」(主演・山田五十鈴、監督・溝口健二、1936年、松竹キネマ)、「祇園囃子」(主演・木暮実千代、監督・溝口健二、1953年、大映)に白川、巽橋付近が映し出される。
 映画「ゴー!ゴー!若大将」(主演・加山雄三、監督・岩内克己、1967年、宝塚)では、祇園新橋、祇園巽橋も登場する。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『祇園と舞妓』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『週刊 京都を歩く 40 先斗町・祇園新橋』『シネマの京都をたどる』『琵琶湖・淀川 里の川をめぐる 白川』


  白川      辰巳神社       祇園甲部      先斗町       周辺弁財天社       仲源寺(目疾地蔵)     琵琶湖疏水      祇園東      上七軒      島原      宮川町      京都花街略史       角屋      八坂神社       御池大橋      漱石の碑        

枝垂れ柳の並木


かにかくに祭

八朔

白川

白川畔には、老舗料亭、お茶屋などの町家が軒を並べている。

「祇園歌人」といわれた吉井勇(1886-1960)歌碑 
「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水のながるる」。
かつてこの地にはお茶屋「大友」があった。吉井の命日の11月8日には、祇園甲部お茶屋組合によって「かにかく祭」が行われている。お茶屋関係者、芸妓、舞妓によって、菊花が献花される。碑の右には、大友にもあったという紫陽花が植えられている。



新橋通の街並、お茶屋、置屋街



花見小路通

新橋通

新橋通

白川にかかる大和橋江戸幕府により、石柱、石桁、石板形式で架けられた。現在の橋は1912年に架けられた石橋。

白川にかかる巽橋、江戸時代、1829年に木橋、その後、土橋を経て、1957年に現在の橋になった。
 長さ7.5m、幅2.6m。欄干は木製。石畳は1982年に整備された。

新橋
かつての架橋年は不明。江戸時代中期の絵図にすで描かれているという。
現在の木橋は1958に架けられた。欄干は木製。長き11.8m、幅9..2m。

辰巳大明神、かつて巽橋の袂にあったが、太平洋戦争時(1941-1945)の強制疎開により現在地に移転した。祭神はこのあたりに出て人を化かしていたという狸という。芸事上達の神で芸妓、舞妓さんがお参りすることもある。


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 白川、祇園新橋 京都市東山区 元吉町付近
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