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| 平氏六波羅邸跡・六波羅政庁跡 (京都市東山区) Site of of Heishi-Rokuhara-tei Residence |
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| 平氏六波羅邸跡・六波羅政庁跡 | 平氏六波羅邸跡・六波羅政庁跡 |
![]() 六波羅蜜寺 ![]() 「此附近平氏六波羅探題址」の石標(六波羅蜜寺) ![]() 「六波羅」の地名表示 ![]() 「三盛町」の地名表示 ![]() 「門脇町」の地名表示 ![]() 「池殿町」の地名表示 ![]() 「多門町」の地名表示 |
平安時代に武将・平正盛は、六波羅殿(亭)(ろくはら-どの)に邸宅を構えた。その後、忠盛、清盛に引き継がれる。 六波羅(東山区松原町付近、鴨川東岸の五条-七条間)は、平氏政権の本拠地として、邸宅群の平氏六波羅邸も形成される。六波羅政権、六波羅時代の呼称も生まれる。 その後、鎌倉幕府は六波羅の地に幕府の出張機関である六波羅探題(ろくはら-たんだい)を置く。 ◆歴史年表 平安時代後期、武将・平正盛(?-1121)は、六道珍皇寺より借地し、六波羅殿(亭)の方1町(珍皇寺付近)に住んだ。(長門本『平家物語』) 1110年頃、正盛は、死後の極楽往生を祈願し、愛宕寺内に三昧堂を建立した。後に、常光堂(常光院)と呼ばれる。 正盛の子・武将・忠盛(1096-1153)は六波羅殿付近に邸宅を建てる。 正盛の孫・武将・清盛(1118-1181)の時、最盛期を迎えた。20余町に拡張され、一族郎党の家数170余宇とも、館は数千、細かく数えて5200余戸が集っていたともいう。 (長門本『平家物語』) 1183年、平氏一門は、第81代・安徳天皇・神器を奉じ都落ちした。六波羅邸には一門自らの手により火が放たれる。忠盛、清盛、重盛の墓も掘り出され、遺骸は法領寺の仏前に並べられ火が放たれたという。(長門本『平家物語』) 鎌倉時代、1185年以来、鎌倉幕府は京都守護を置き、洛中警備、鎌倉との連絡に当たらせた。 1190年、武将・源頼朝は、上洛の際に清盛の居館「池殿」を修復して宿所にする。 1192年、北条政権は、平氏六波羅邸跡(東山区松原町付近)に六波羅政庁を置いた。 1221年、承久の変では、後鳥羽上皇(第82代)が討幕の兵を挙げた。京都守護・大江親広は上皇方に加わり、京都守護・伊賀光季は上皇方に討たれた。武将・北条時房、泰時は、幕府大軍を率いて京都を攻め勝利した。両者は六波羅の北、南の居館にそれぞれ駐留し、戦後処理にあたる。上皇方に付いた貴族・武士の所領を没収し、上皇は隠岐に流した。六波羅探題の始まりになる。 1319年-1322年頃、「京都には六波羅殿を云ふ」とあり、六波羅探題の文献初見になる。(『沙汰未練書』) 1333年、旧5月、第96代・後醍醐天皇の討幕軍により、天皇方の公卿・千種忠顕、武将・赤松則村、武将・足利高(尊) 氏らが六波羅政庁を攻撃した。探題・北条仲時は持明院統の後伏見上皇(第93代)、花園上皇(第95代)、北朝第1代・光厳天皇を奉じて逃走し、近江で敗死した。六波羅探題は滅亡する。(元弘の乱) ◆平 正盛 平安時代後期の武将・平 正盛(たいら-の-まさもり、? -1121?) 。男性。父・平正衡。平清盛の祖父。桓武平氏の一系統・伊勢平氏に属した。1097年、伊賀所領を白河上皇(第72代)皇女・郁芳門院菩提所六条院に寄進し、上皇に接近し院近臣になる。北面の武士になった。1108年、出雲国・源義親(よしちか)の反乱追討、伊予・海賊追捕、1119年、肥前国・平真澄の乱を鎮圧する。以後、若狭、因幡、但馬、丹後、備前、讃岐などの国司に任じられ、従四位下に至る。1110年、六波羅に、白河法皇の勝寺曼荼羅堂、御願寺九体阿弥陀堂を建立した。 白河院政を支える武士団を形成し、伊勢平氏発展の基礎を築いた。 ◆平 忠盛 平安時代後期の武将・平 忠盛(たいら-の-ただもり、1096-1153)。男性。父・平正盛。清盛の父。1113年、盗賊を追捕して従五位下、左衛門尉になった。永久の強訴にも父と活躍した。1123年、源為義と延暦寺衆徒の強訴を排した。1129年、山陽・南海両道の海賊を追捕した。白河上皇(第72代)の没後、鳥羽上皇(第74代)の近臣になる。1132年、鳥羽法皇のために得長寿院を造進し、内昇殿(うちのしようでん)を許される。刑部卿に進み、1133年、鳥羽院領の肥前神崎荘の預所の立場を利用し、日宋貿易に関与した。1135年、西海の海賊追討使に任命されて鎮圧した。 父についで白河上皇、鳥羽法皇の寵を得て、検非違使、越前、伊勢、河内、備前、美作(みまさか)、播磨、但馬(伯耆守)を歴任した。院庁にも進出し院領荘園を支配した。家集『平忠盛集』がある。58歳。 ◆平 清盛 平安時代後期の武将・平 清盛(たいら-の-きよもり、1118-1181)。男性。通称は平相国(へいしようこく)、平禅門(へいぜんもん)、六波羅殿、六波羅入道、法名は静(浄)海。父・平忠盛。白河法皇(第72代)の落胤ともいう。母・祇園女御、また白河院の寵姫だったその妹ともいう。懐妊したまま忠盛に下賜され、生まれたのが清盛だったという。1129年、12歳で従五位下、左兵衛佐、1146年、安芸守になった。1153年、父・忠盛の死没後、平家一門を率い武門棟梁の一人として鳥羽院(第74代)に仕える。1156年、保元の乱では、源義朝とともに近国・西国武士を率い、第77代・後白河天皇につき崇徳上皇(第75代)方を破った。少納言入道信西と結び昇進する。1159年、平治の乱では義朝を破り、武家政権樹立への端緒を開く。1160年、参議正三位になり、武士として初めて公卿に列した。1161年、妻・時子の妹・滋子(建春門院)を後白河院に入れ、滋子は憲仁親王(第80代・高倉天皇)を産む。1164年、娘・盛子を関白・藤原基実の室とした。1166年、基実が病死し、遺領を盛子に継がせ、摂関家領を押領する。1167年、従一位太政大臣になり平氏政権を樹立した。1168年、病になり出家し静(浄)海と称した。摂津福原(神戸市)に移る。その後も平家一門の総帥として朝廷内にも影響力を保持する。同年、滋子所生の第80代・高倉天皇が即位し、協力した後白河法皇と対立する。1170年、盛子の妹・寛子(完子)を基実の子・基通の室とした。1172年、娘・徳子(建礼門院)を高倉天皇の女御として入内させた。一門こぞって公卿・殿上人になり全盛になる。1177年、反平氏勢力の院近臣による平家討滅の陰謀が露顕する。(鹿ヶ谷事件)。これを機に清盛と後白河院とは対立する。1178年、徳子は言仁親王(第81代・安徳天皇)を産む。1179年、旧6月、盛子の没後、遺領を後白河院が没収し、旧7月、重盛の没後には、知行国越前を後白河院が奪う。旧11月、清盛は大軍を率い福原から上洛し、後白河院を鳥羽殿に幽閉し、院に近い公家の官を解き親平家派に替えた。法皇による院政を停め、権力を完全掌握し平氏政権が成立する。1180年、外孫(徳子所生)の第81代・安徳天皇を即位させ独裁政権を樹立した。旧5月、以仁王(もちひとおう) の挙兵があり、旧6月、清盛は急遽、後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇を伴い福原に移る。(福原遷都)。旧8月、以仁王の令旨を得た伊豆の源頼朝、旧9月、木曽の源義仲の挙兵と相次ぐ。半年で清盛は京都に還る。1181年、反抗した東大寺・興福寺を焼討した。源氏軍との戦いは平氏軍不振のうちに熱病で没した。64歳。 皇室の外戚、貴族と姻戚関係を結び、一門の公卿16人、全国の半ばをこえる知行国30余国、500余に及ぶ荘園、大輪田泊(現・神戸港)を修築し福原中心の対宋貿易の利益などを得て六波羅政権を築く。後に施政の専横により各地に反平氏勢力の蜂起を招く。(治承・寿永の内乱)。約400日の初の武家政権を成立させた。厳島 (いつくしま)神社を尊崇し、平氏繁栄を祈願し、1167年に納めた『平家納経』 (33巻) が知られる。 ◆六波羅殿 平安時代後期、武将・平正盛(?-1121)は、六波羅殿(亭)の方1町に住んだ。1110年頃、正盛は、死後の極楽往生を祈願し、愛宕寺内に三昧堂を建立した。後に、常光堂と呼ばれる。孫・武将・平忠盛(1096-1153)は付近に邸宅を建てる。 武将・平清盛(1118-1181)の時、20余町を占め、一族郎党の館は数千とも、5200余戸が集っていたともいう。 1183年、平氏一門は安徳天皇と神器を奉じ都落ちした。六波羅邸には平氏自らの手により火が放たれた。忠盛、清盛、重盛の墓は掘り出され、遺骸は法領寺の仏前に並べられ火が放たれたという。 ◈清盛の「泉殿」(三盛町、旧泉殿町)には、常光院があり、塔が建ち京の百塔巡礼の一とされた。鎮守社・伊津伎島(いつきしま、厳島)神が祀られ、安芸宮島から勧請された。 なお、三盛町の三盛とは、清盛、頼盛、教盛の三兄弟の名に因むともいう。 ◈清盛の嫡男・平重盛(1138-1179)の居館は「小松殿」(八条の北、堀川の西)と呼ばれた。 ◈清盛の異母弟・武将・公卿・頼盛(1131-1186)の館「池殿」(東山区池殿町)は、清盛の継母・池禅尼(いけ の ぜんに、?-?)の邸宅だった。その子・頼盛が引き継いでいる。(『山槐記』) 後、第80代・高倉天皇(1161-1181)の御座所になり、この池殿で中宮・建礼門院平徳子(1155-1214)(清盛の娘)は第81代・安徳天皇(1178-1185)を産んだ。 ◈清盛の異母弟・武将・教盛(1128-1185)の館「門脇殿」(東山区門脇町)があった。教盛の号は門脇であり地名由来になった。(『京町鑑』『坊目誌』)。 なお、六波羅邸の惣門(東山区多門町)は、東に向かって開かれ、その門脇に門脇殿があったという。 ◆六波羅探題 鎌倉時代前期、1221年の承久の乱後、鎌倉幕府は北条時房、泰時を京都に常駐させた。幕府は六波羅の地に出張機関の六波羅探題(ろくはらたんだい)を置いた。長官も六波羅探題と呼ばれた。当初は「六波羅」「六波羅守護」と呼ばれ、南北朝時代以後に「六波羅探題」と呼ばれる。 六波羅探題は、幕府の執権、連署(れんしょ)に次ぐ権限があった。北条氏の一族から有力者が2人、1人が交代で任命された。上席の六波羅北方(北殿) 、六波羅南方(南殿) があり、両者は「両探題」と呼ばれた。引付頭人(ひきつけ とうにん)、検断頭人(けんだん とうにん)、侍所(さむらいどころ)、問注所(もんちゅうじょ)を指揮した。 探題の任務は、警察機関として朝廷の監視・折衝、洛中警固・反幕分子の抑制、近国の治安維持・西国御家人の統制などだった。有事の際には、在京・近隣国御家人を指揮する権限があった。 訴訟機関でもあり、後に次第に裁判権が強化された。評定衆(ひょうじょうしゅう)、同引付衆(ひきつけしゅう)も設けられた。政治・軍事を管掌し、東海道は尾張(後に三河) より西、北陸道は越前より西を管轄した。永仁年間(1293-1299)に、尾張・加賀以西の鎮西探題(鎮西奉行) が新設され、九州は除外された。 1333年、六波羅探題は鎌倉幕府の滅亡の際に足利尊氏の攻撃を受けた。北条仲時は近江に逃れて自害し、六波羅探題は滅亡している。(元弘の乱) ◆史跡・地名 六波羅蜜寺境内(轆轤町)に「六波羅探題府址」の石標が立てられていた。 周辺に三盛町(旧泉殿町)、門脇町、池殿町、多門町などのかつての平氏六波羅殿ゆかりの町名が残る。 妙順寺(山崎町)に「安徳天皇産湯ノ井」「釣殿井」と伝えられる井泉がある。 *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都大事典』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都市の地名』 、ウェブサイト「都市史09 六波羅 - 京都市」、ウェブサイト「コトバンク」 |
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