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夏目漱石の句碑 (京都市中京区) Natsume Soseki,Haiku Monument |
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夏目漱石の句碑 | 夏目漱石の句碑 |
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![]() 「木屋町に宿をとりて 川向の御多佳さんに 春の川を隔てて男女哉 漱石」 ![]() 比叡山に昇る冬の月 「橋の真中に立って鴨川の水を眺めた。 東山の上に出る静かな月を見た。そうして京都の月は東京の月よりも丸くて大きいように感じた。」(『門』) |
御池大橋西詰南に、小説家・夏目漱石の句碑が立つ。 碑には、「木屋町に宿をとりて 川向の 御多佳さんに」「春の川を隔てて 男女哉 漱石」と刻まれている。御多佳とは、祇園白川にあったお茶屋「大友(だいとも)」の女将だった。 ◆歴史年表 近代、1892年、7月、漱石は東京帝国大学生の頃、友人・正岡子規と3日間京都を訪れた。 1907年、3月-4月、2度目は2週間訪れている。 1909年、秋、3度目には嵐山、栂尾に遊ぶ。 1915年、3月-4月、最後に訪れ、お多佳と出会う。 現代、1966年、漱石生誕100年を記念し漱石会により碑が立てられた。 ◆夏目漱石 近代の作家・夏目漱石(なつめ-そうせき、1867-1916)。金之助。江戸(東京)の生まれ。父・夏目小兵衛直克、母・千枝の5男3女の末子。1868年、塩原昌之助の養子になる。1872年、諏訪町へ転居した。1874年、 第一大学区第五中学区八番小学・下等小学第八級に入学した。1875年、 成績優秀により、第八級-第五級も同時卒業する。1876年、塩原夫婦の離婚により同家に在籍し、養母と共に夏目家に引き取られる。第一大学区第三中学区第四番小学(市谷学校)に転校し卒業する。その後、同校下等小学第二級、第一級を卒業した。1878年、『正成論』を廻覧雑誌に発表した。第一大学区第四中学区第二番公立小学(錦華学校)・小学尋常科第二級後期に入学する。同校同級を卒業した。1879年、東京府立第一中学校(現・東京都立日々谷高校)に入学する。1881年、二松学舎に転校した。漢書・小説を読み、文学に興味を持つ。同第三中学区第四番小学(市谷学校)に転校し卒業した。1883年、大学予備門受験のため、成立学舎に入学し、英語を学ぶ。1884年、新福寺の2階に下宿し同級・橋本左五郎と自炊生活する。大学予備門予科(第一高等中学校)に入学した。1886年、中村是公と本所の江東義塾の教師になる。1887年、江東義塾を辞する。1888年、夏目家に復籍した。 第一高等中学校本科英文科に進学する。1889年、正岡子規を知り、初めて俳句を記した。1890年、東京帝国大学文科大学英文科に入学し、文部省貸費生になる。1891年、 J.M.ディクソン教授に頼まれ、『方丈記』を英訳する。1892年、徴兵を避け分家届を出し、北海道浅岡方に移籍した。東京専門学校(後・早稲田大学)の講師になる。松山で初めて高浜虚子に会う。1893年、帝国大学大学院に進学した。東京高等師範学校英語教授に就任する。1895年、愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語科教師、1896年、 第五高等学校講師になる。貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚する。教授になった。1898年、寺田寅彦らに俳句を教える。1900年、文部省から英語研究のため2年の英国留学を命じられ渡英した。1902年、帰国直前に子規の訃報を知る。1903年、第一高等学校講師、東京帝国大学文科大学英文科講師になり、「文学論」を講じる。1904年、明治大学講師になった。「山会」で朗読して好評を得る。1905年、高浜虚子の勧めで、初の創作『吾輩は猫である』上篇を「ホトトギス」に発表し刊行した。1906年、『坊っちゃん』、『草枕』などを刊行する。漱石宅に教え子・若手手文学者が集う。(後・「木曜会」)。1907年、短編集『鶉籠』を発行した。朝日新聞社に入社し、以後紙上に連載する。『虞美人草』を連載した。『我輩は猫である』下篇を刊行する。1908年、『虞美人草』を刊行した。『坑夫』、『文鳥』、『夢十夜』、『三四郎』を連載した。『草枕』を刊行する。1909年、『永日小品』、『それから』を連載した。満韓旅行に出発する。『三四郎』を刊行する。1910年、『門』を刊行した。転地療養のため伊豆修善寺へ赴く。一時危篤に陥った。(「修善寺大患」)。1911年、『門』を刊行した。文学博士号を辞退する。1912年、『彼岸過迄』を刊行した。1913年、神経衰弱・胃潰瘍を患う。1914年、『行人』、『心』を刊行した。学習院で「私の個人主義」を講演した。1915年、『硝子戸の中』を刊行した。芥川龍之介、久米正雄が門下生になる。1916年、湯河原の中村是公のもとに転地した。『明暗」を連載中に亡くなる。50歳。 晩年に、「則天去私」を唱えた。森鴎外と並ぶ近代の文学者代表になった。近代的個人主義の立場から人間心理を追求した。門下に阿部次郎、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、寺田寅彦、芥川龍之介、久米正雄、内田百閒(ひゃっけん)、野上弥生子らがいる。 雑司ヶ谷墓地(東京都)に葬られた。 漱石の作品の中で京都が登場するのは、京都と東京を対比的に描いた『虞美人草』『門』『彼岸過迄』『夢十夜』などがある。 ◆お多佳 近代の女性・磯田多佳女(いそだ-たかじょ、1879-1945)。御多佳。祇園白川のお茶屋「大友(だいとも)」の名物女将。「文芸芸妓」といわれ、絵、歌、俳句などを嗜んだ。 茶屋は戦前の文化サロンになっていた。「祇園歌人」といわれた吉井勇、谷崎潤一郎、高浜虚子、長田幹彦、尾崎紅葉、高浜虚子などの文人、画家の藤田嗣治、横山大観、浅井忠などとの幅広い交流があった。66歳。 ◆漱石の京都訪問 漱石は京都を4回訪れている。最初は1892年7月、東京帝国大学生の頃、同じく帝大生の友人・正岡子規(1867-1902)とともに3日間にわたり訪れた。「柊家(ひいらぎや)」(中京区)に宿泊している。この時のことを書いた随筆が『京に着ける夕』(1907)になる。漱石は「麩屋町の柊屋」と記している。2人は妓楼、清水寺、円山などを見ている。漱石は京都のぜんざいを気に入った。 2度目は1907年3月-4月に2週間訪れた。漱石は、第一高等学校、帝大での教鞭を辞した直後だった。朝日新聞に入社し、『虞美人草』(1907)を連載する予定だった。この時、子規はすでにない。友人・狩野亨吉、菅虎雄の七条駅での出迎えを受けた。漱石は2人の借家(糺の森西中、外下加茂村)に泊まる。家は『門』(1910)に描写された。3人は八瀬側の松尾坂より比叡山西塔に登った。 また、この家で、漱石は取材に京都を訪れていた高浜虚子に会う。2人は、山端の「平八茶屋」で昼食をした後、虚子の定宿「萬屋(よろずや)」で夕食、入浴を済ませた。都をどりを観て「一力」に遊んだ。この間の経緯は、虚子の『京都で会った漱石氏』(1918)に記されている。 3度目は1909年秋、中国東北部・韓国への旅の帰路に立ち寄っている。宿は「萬屋」だった。嵐山、栂尾を散策している。 最後は1915年3月-4月、『硝子戸の中』(1915)を書き終えた後だった。指導を受けていた画家・津田青楓の誘いによるものだった。漱石の夫人・鏡子が津田に依頼している。漱石は、木屋町御池にあった旅館「北大嘉(きたのたいか/だいか)」に宿泊した。津田の兄・西川一草が宿の手配をしている。漱石には、神経衰弱と胃潰瘍の持病があり、この「気鬱」の療養のためだったという。この時、弟子の勧めによりお多佳と初めて会う。お多佳は2人の芸妓を連れて旅館に遊びに来た。青楓らと舞を楽しんだ夜、漱石は胃痛により2晩寝込む。お多佳は漱石を看病している。 漱石はお多佳に、北野天満宮での梅の花見の約束を反故にされた。以後、2人の間に行き違いが生じたという。ただ、この一件は漱石側の誤解だったともいう。1915年3月、漱石は宿より川向こうのお多佳を思い、「春の川を隔てて男女哉」を発句した。翌、1916年12月、漱石は胃潰瘍の悪化により亡くなる。 大友も今はない。第二次世界大戦中の強制疎開、戦後の区画整理などで多くの茶屋が撤去された。1945年3月に大友も壊される。お多佳は、店の取り壊しに激しく反対していたという。お多佳は、店の後を追うように、2カ月後に急逝した。 碑は1966年、漱石生誕100年を記念して漱石会により立てられている。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都の明治文学』、『文学散歩 作家が歩いた京の道』 、『言葉は京でつづられた。』、『親と子の 下鴨風土記』、ウェブサイト「ネットミュージアム兵庫文学館」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() |
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