夏目漱石の句碑 (京都市中京区) 
NATSUME Soseki,Haiku Monument
夏目漱石の句碑 夏目漱石の句碑 
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「木屋町に宿をとりて 川向の御多佳さんに 春の川を隔てて男女哉 漱石」


比叡山に昇る冬の月
「橋の真中に立って鴨川の水を眺めた。 東山の上に出る静かな月を見た。そうして京都の月は東京の月よりも丸くて大きいように感じた。」(『門』)
 御池大橋西詰南に、小説家・夏目漱石の句碑が立つ。 
 石には、「木屋町に宿をとりて 川向の 御多佳さんに」「春の川を隔てて 男女哉 漱石」と刻まれている。御多佳とは、祇園白川にあったお茶屋「大友(だいとも)」の女将だった。
◆夏目漱石 近代の作家・夏目漱石(なつめ そうせき、1867-1916)。金之助。江戸生まれ。父は夏目小兵衛直克、母千枝の5男。1868年、塩原昌之助の養子となる。1876年、塩原夫婦が離婚し、金之助は塩原家に在籍し、養母と共に夏目家に引き取られる。1878年、一ツ橋中学(東京府立一中)入学。1881年、母没。府立一中を中退し、漢文を学ぶため二松学舎に転校。1884年、大学予備門予科(第一高等中学校)に入学。1886年、中村と本所の江東義塾の教師となる。1887年、江東義塾を辞する。1888年、夏目家に復籍。第一高等中学校本科英文科に入学。1889年、正岡子規を知る。1890年、東京帝国大学文科大学英文科に入学、文部省貸費生となる。 1892年、徴兵を避けるため分家届を出し、北海道浅岡方に移籍、東京専門学校の講師となる。1893年、帝国大学大学院に進学。東京高等師範学校の英語嘱託となる。1895年、愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語科教師、1896年、熊本第五高等学校講師として赴任。貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚、教授となる。1900年、文部省から英語研究のため2年の英国留学を命ぜられ渡英。1903年、第一高等学校講師、東京帝国大学文科大学英文科講師。1904年、明治大学講師。1905年、『吾輩は猫である』、1906年、『坊っちやん』『草枕』などを刊行する。1907年、朝日新聞社入社。1908年、『三四郎』刊。貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚する。1910年、『門』刊。1911年、文学博士号辞退。雑司ヶ谷墓地に葬られた。 
 漱石の作品の中で京都が登場するのは、京都と東京を対比的に描いた『虞美人草』『門』『彼岸過迄』『夢十夜』などがある。
◆お多佳 近代の女性・磯田多佳女(いそだ たかじょ、1879-1945)。御多佳。祇園白川のお茶屋「大友(だいとも)」の名物女将。「文芸芸妓」といわれ、絵、歌、俳句などを嗜んだ。
 茶屋は戦前の文化サロンになっていた。「祇園歌人」といわれた吉井勇、谷崎潤一郎、高浜虚子、長田幹彦、尾崎紅葉、高浜虚子などの文人、画家の藤田嗣治、横山大観、浅井忠などとの幅広い交流があった。
◆漱石の京都訪問 漱石は京都を4回訪れている。最初は1892年7月、東京帝国大学生の頃、同じく帝大生の友人・正岡子規(1867-1902)とともに3日間にわたり訪れた。「柊家(ひいらぎや)」(中京区)に宿泊している。この時のことを書いた随筆が『京に着ける夕』(1907)であり、漱石は「麩屋町の柊屋」と記している。二人は妓楼、清水寺、円山などを見ている。漱石は京都のぜんざいを気に入った。
 2度目は1907年3月-4月の2週間訪れた。漱石は、第一高等学校、帝大での教鞭を辞した直後だった。朝日新聞に入社し、『虞美人草』(1907)を連載する予定だった。この時、子規はすでにない。友人・狩野亨吉、菅虎雄の七条駅での出迎えを受けた。漱石は二人の借家(糺の森西中、外下加茂村)に泊まる。家は『門』(1910)に描写された。三人は八瀬側の松尾坂より比叡山西塔に登った。
 また、この家で、漱石は取材に京都を訪れていた高浜虚子に会う。二人は、山端の「平八茶屋」で昼食をした後、虚子の定宿「萬屋(よろずや)」で夕食、入浴を済ませた。都をどりを観て「一力」に遊んだ。この間の経緯は、虚子の『京都で会った漱石氏』(1918)に記されている。
 3度目は1909年秋、中国東北部・韓国への旅の帰路に立ち寄っている。宿は「萬屋」だった。嵐山、栂尾を散策している。
 最後は1915年3月-4月、『硝子戸の中』(1915)を書き終えた後だった。指導を受けていた画家・津田青楓の誘いによるものだった。漱石の夫人・鏡子が津田に依頼している。漱石は、木屋町御池にあった旅館「北大嘉(きたのたいか/だいか)」に宿泊した。津田の兄・西川一草が宿の手配をしている。漱石には、神経衰弱と胃潰瘍の持病があり、この「気鬱」の療養のためだったという。この時、弟子の勧めによりお多佳と初めて出会う。お多佳は二人の芸妓を連れて旅館に遊びに来た。青楓らと舞を楽しんだ夜、漱石は胃痛により2晩寝込む。お多佳は漱石を看病している。
 漱石はお多佳に、北野天満宮での梅の花見の約束を反故にされた。以後、二人の間に行き違いが生じたという。ただ、この一件は漱石側の誤解だったともいう。1915年3月、漱石は宿より川向こうのお多佳を思い、「春の川を隔てて男女哉」を発句した。翌、1916年12月、漱石は胃潰瘍の悪化により亡くなる。
 大友も今はない。第二次世界大戦中の強制疎開、戦後の区画整理などで多くの茶屋が撤去された。1945年3月に大友も壊される。お多佳は、店の取り壊しに激しく反対していたという。お多佳は、店の後を追うように、2カ月後に急逝した。
 碑は1966年、漱石生誕100年を記念して漱石会により立てられている。


*参考文献 『京都の明治文学』『文学散歩 作家が歩いた京の道』


  祇園白川              

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 御池大橋 西詰南 京都市中京区上大阪町付近 

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