島原 (京都市下京区) 
Shimabara
島原 島原 
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北東にある大門


大門




大門、柳 
「嶋原のでぐちのやなぎをみて」、「なつかしやなぎのまゆの春風に なびくほかげやさとの夕ぐれ」、太田垣蓮月(1791-1875)



揚屋の角屋、揚屋は料亭、宴会場。島原と大坂新町にあった。置屋から太夫、芸妓を呼んで宴遊した。


角屋


角屋北角にある「長州藩志士久坂玄の密議の角屋」の碑、角屋での新選組と勤皇の志士間での乱闘はなかった。ただ、新撰(選)組初代筆頭局長・芹沢鴨(1827?-1863)は、角屋での宴会の後に暗殺された。9月16日(18日とも)、新選組は島原の角屋で宴会を開いていた。その後、芹沢らは、芸妓と八木家で再び宴を開き、深夜に寝こみを襲われた。刺客の中には土方歳三(1835-1869)、沖田総司(1842/1844-1868)らが加わっていたともいう。


角屋の北東にある置屋の輪違屋(わちがいや)、江戸時代、1688年創業といわれている。現在の建物は江戸時代、1857年に建てられ、1871年に改築されている。非公開。


輪違屋(わちがいや)


北政所茶会と太夫道中、高台寺、太夫、禿2人、引船1人による。



薄雲太夫




如月太夫


三枚歯の高下駄「三つ足」を履き、内八文字で歩く。


「吉野太夫花供養」、常照寺


角屋の北西にある島原住吉神社



角屋の北西にある島原西門跡の碑、島原には当初、東の門のみがあった。1732年に西側中央にも西門が造られた。初めは簡単なつくりだったが、1842年に現在地に移転し、高麗門型となった。しかし、近年、1977年に輪過により全壊、1980年に復元されたものの再び輪禍で倒壊した。その後は再建されていない。 



角屋の北東にある歌舞練場跡記念碑 島原歌舞練場は1873年に上之町に島原女紅場として開かれた。青柳踊、温習会が上演された。明治期(1881)には衰微、再興された太夫道中の巡行拠点となった。その後歌舞練場が移転(1927)し、1996まで存続した。



角屋北にある東鴻臚館(こうろかん)跡の碑
 近世の三代遊郭地としては、江戸の吉原、大坂の新町、そして京都の島原(しまばら)といわれた。 
 現在の島原の範囲は、東の大門から西は千本通りまでの東西194.9m、北は中央市場青果棟の南側道路から南は正面通り南一筋目の道路までの南北242.1m、面積は約47200㎡ある。
 かつての島原の遺構としては、揚屋の角屋、置屋の輪違屋、東の大門のみが残されている。
◆歴史年表 平安時代、鴻臚館(こうろかん)(現在の島原の西端)では渤海などの外国使節に対して技女がもてなしていた。
 室町時代、1392年、1397年頃、応永年間(1394-1428)とも、傾城町(東洞院七条下ル)が免許され、公娼地が生まれたともいう。「九条の里」と呼ばれる。傾城局が置かれ、娼婦をまとめた。(「粟田渡辺文書」)
 大永年間(1521-1527)、足利義晴の許可を得て、洛中(万里小路二条の南北2、3町とも、場所は不明とも)に移す。(『京都坊目誌』)
 1528年、竹内新次郎重信に洛中傾城局の公事を申し付けたという。(「京都府下遊郭由緒」中の「補任状」)
 安土・桃山時代、1589年、足利将軍家の旧臣(被官)・原三郎左衛門、秀吉家臣・林又一郎が、豊臣秀吉の許可を受け廓が創設される。中国妓院の制に倣ったともいう。当初は万里小路(までのこうじ)二条、押小路北の3町にあり、上の町、中の町、下の町が存在した。「押小路の廓」、正式には「新屋敷」と呼ばれた。これは、浪士に限り廓の営業が許されていたことに因む。入口の道の両側に柳が植えられ、「柳町」とも呼ばれた。以後、廓と柳は慣わしになる。(『京都坊目誌』)
 1593年、前田玄以の命により、遊女は三級に分けられる。
 1602年、京都所司代・板倉勝重の命により、二条城築城の際して六条に移される。旧地が人家過密になったこと、御所に近いこと、二条城に向き合っていることも移転理由とされた。移転先は北は五条、南は魚棚、西は新町、東は室町で、かつてあった3町(雪下駄町<楊梅>・鍵屋町・的場、また上ノ町・中ノ町・下ノ町とも)を三筋としたことから「三筋(みすじ)町」「新屋敷」と呼ばれた。以来、京都の高級社交場となる。
 江戸時代、1617年、三筋町の傾城屋惣中より、外の町の傾城屋を差し止められたと所司代に訴えた。(『京都府下遊郭由緒』)
 1618年、西洞院町(後の太夫町)を加える。遊女歌舞伎の興行者、遊女らが住み、「道喜かぶき」「又一かぶき」などの興行が行われ町は栄えた。この頃、名妓といわれた八千代が現れる。
 1640年、移転命令が出される。
 1641年、京都所司代・板倉宗重の命により、風紀上の問題(奢侈淫蕩)があるとされ現在地の朱雀野(しゅしゃかの)村に移される。当初は、京都の西端にあり「西新屋敷傾城町(西新屋敷)」と呼ばれた。急な移転があたかも島原の乱のような騒動であるとして、「島原」とも呼ばれた。
 17世紀(1601-1700)中期、「島原」の名があり、島原の八千代太夫、六条柳町の吉野太夫の名も記されている。(『桃源集』)
 延宝年間(1673-1681)、揚屋町に24軒の揚屋があった。
 1681年、島原について記されている。入り口は大門、番所一か所のみで、二条柳町に柳が植えられていた。(『朱雀遠目鏡』)
 元禄年間(1688-1703)、島原は最盛期を迎え、傾城屋、揚屋、茶屋が建ち並んでいた。
 1690年、島原の人口は1715人を数えた。
 1702年、島原の最盛期とされ、揚屋24軒、茶屋20軒、太夫13人、天神57人、鹿恋(かこい)54人、はし女郎184人にのぼった。(『傾城色三味線』)
 1703年、二軒の揚屋を合わせて踊り場を造り、太夫の総おどり(7月15日-8月15日)が催される。
 1715年、人口1583人、そのうち遊女549人にのぼった。
 1732年、西にもう一つの門が開く。
 宝暦期から寛政期(1751-1800)、島原俳壇が形成される。
 1751年、島原に芸妓が現れたと記されている。(『一目千軒』『翁草』)
 1757年、揚屋町に19軒の揚屋があった。(『一目千軒』)
 1761年、島原は傾城町惣年寄の特権を失う。
 1781年、揚屋町に12軒の揚屋があった。
 1789年、揚屋は10軒となる。
 1790年、遊郭の再編が行われている。島原傾城町に他の新興の遊女街が口銭(上納金)を納める形となった。1300人の私娼が島原に移された「島流し」が行われる。このため、島原は再び隆盛した。
 1802年、この頃、島原は衰退している。(『羈旅漫録』)
 1842年、京都所司代・牧野忠雄による「改革」により、島原以外の遊里は一時廃されることとなった。この年以降、土塀や堀(かき揚げ堀)もなくなったという。 
 1851年、祇園以下の花街にも再び十年期限とした営業が認められた。以後、島原は衰退する。
 1854年、島原で失火による大火があり東半分が焼失した。
 1859年頃、復興する。
 1867年、幕府への年額3千両の献納により、他の遊里も公許となっている。
 近代以降、島原町の周囲の堀が次第に埋め立てられる。
 1870年、京都府は島原による遊郭支配を廃止宣言する。
 1872年、芸娼妓解放令が出され、廓は廃業する。女紅場が開設される。遊女芸者は職工を学びながらの遊女稼ぎが許される。
 1873年、歌舞練場が開設され、「青柳踊」「温習会」などが上演さる。
 1884年-1885年、不景気により角屋以外の揚屋はすべて廃業か祇園などへ移る。島原の戸数58戸に減じ、貸座敷(揚屋、茶屋、女郎屋)10軒、太夫4人、天神3人、平娼妓9人、芸妓5人となった。
 1890年頃、復興する。
 1897年、新政府により島原は娼妓屋を中心とする遊郭となる。お茶屋業に編入されることで、島原はそれまでの特権的な地位を失った。
 現代、1958年、売春防止法が施行される。
 1976年頃、島原はほかの花街の連合会から離れた。
 1989年、芸妓が居なくなる。太夫のみになる。
◆吉野太夫 江戸時代の島原太夫・二代目・吉野太夫(よしの たゆう、1606-1643)。松田徳子。京都・方広寺付近の生まれ。父は西国の武士・松田武左衛門。1613年7歳で父没後、六条三筋町扇屋林家に禿(かむろ)として預けられ、「林弥」と名乗る。1620年、14歳で太夫となった。当初は「浮舟」、廓の桜を見て「ここにさへさぞな吉野は花盛り」と詠み「吉野」を襲名した。島原、六条三筋町の「六条の七人衆」の筆頭、「寛永三名妓」の一人で、「天下随一の太夫」と謳われた。美貌と品格、和歌、俳諧、書、茶湯、琴、琵琶、笙、香道、華道など諸芸に秀でた。名声は江戸、遠くは中国にまで及ぶ。紺灰業の豪商・灰屋(佐野)紹益は、後水尾上皇弟・関白近衛信尋と吉野を争う。1631年、紹益に26歳で身請けされ、その妻となる。東山・音羽川畔に暮らした。当初は結婚に反対した佐野家も、吉野の質素な暮らしぶりにやがて受け入れる。常照寺の日乾に帰依し、1628年、山門を寄進する。遺言により常照寺に葬られた。38歳。
 逸話が残る。ある時、小刀鍛冶屋の弟子という男が、座敷に上がろうとするが、身分不相応ということで門前払いされていた。島原に3年間通いつめた。ある時、太夫は自ら座敷に招き入れる。男は歓喜の涙を流し、その翌日身投げして果てたという。
◆八千代太夫 江戸時代の島原太夫・八千代太夫(やちよ たゆう、1635-?)。尊子。播州姫路の生まれ。1645年、11歳で伏見柳町(中書島)福田家に預けられた。1648年、14歳で「囲(鹿恋)」となり名は「千戸」と称した。 のちに島原の奥村家に移り、1649年、 15歳で太夫となる。当初の名は「小太夫」という。奥村三四郎がかかえた。能書家であり、三味線、琴、胡弓、尺八、小歌、茶の湯、和歌、俳諧、連歌に秀でた。その名は海外にも知られていたという。1658年、24歳で退廓した。
◆島原 島原は正式には「西新屋敷」と呼ばれた。江戸時代、1640年の突然の引越しの際に、日本史上最大規模の一揆「島原の乱」(1637-1638)のような騒動だったといわれた。以後、「島原」と呼ばれるようになったともいう。また、島原の周囲は堀と土塀(2.7m)で囲まれていた。さらに大門(だいもん)もあり、番所が設けられていたことから、あたかも島原城のように強固であるとして、また、島原城と同じく一方口であったことから以後「島原」と呼ばれるようになったともいう。後に「嶋原」の「嶋」の字より「山鳥」、「島原(とうげん)」という呼び名もあった。当初は東の大門のみが開いていた。
 この移転騒動の原因について、京都所司代・板倉宗重が吉野太夫の豪奢な乗り物を摂家の女中乗り物と見誤り、道を避けた。このことに板倉が立腹し、廓を洛中より移転させたともいう。(滝沢馬琴、『羈旅(きりょ)漫録』、1802年)
 島原の規模は東西99間(180m)、南北123間(224m)、12177坪(40 254㎡)あり、周囲には450間(818m)の長さで1間半幅(2.7m)の堀があった。さらに内に土塀が建てられていた。当初は東、現在地の北寄りに門があった。傍らには番所が置かれた。明和期(1764-1771)に大門は現在地に移る。この門近くに、客が島原に寄るかどうかで思案する「思案橋」、衣を整えた「衣紋橋」、芸妓との別れを惜しんだ「さらば垣」があったという。1732年、島原の西にも門が設けられている。東の大門の両脇には、「出口の柳」が植えられていた。西の門にも柳が植えられた。
 柳町は上之町、中之町、下之町があり、さらに太夫町(西洞院五条下ル)、中堂寺町(大宮丹波口上ル)に広がっていた。中央には東西の通り(道筋、どうすじ)があり、南北にも三筋の通りが作られた。一筋目に交差する北側の筋に中之町、その南側の筋に上之町、二筋目に交差する北側の筋に中堂寺町、その南側の筋に太夫町、三筋目に交差する北側の筋に下之町、その南側の筋に揚屋町の六町が置かれた。町には、傾城屋(けいせいや、置屋)、揚屋(あげや)、茶屋などのほかに、小間物問屋、素人屋(日用雑貨)などが建ち並んでいた。周辺には、現在でもこれらの地名が残されている。
◆太夫 妓楼には格があり上より局、茶屋、揚屋、女郎屋となっていた。また、太夫などを置く置屋(女郎屋)があった。
 妓品(ぎほん)にも格がある。太夫(たゆう、こったいさん)は、最も優れた傾城(けいせい、妓女、遊女)のことをいう。その下に、天神(てんじん、かつての揚代が25匁であり、北野天神の縁日25日にかけた)、鹿恋(かこい)、端女郎(はしじょろう)、引舟(ひきぶね)と分かれていた。太夫、天神、端、鹿恋ともいう。太夫、天神は揚屋に揚がった。
 太夫の名の起こりは、六条三筋町の佐渡島庄五郎が、猿楽を教えていた遊女の中で最も優れた容姿と芸をもつ者を一人だけ選び、「能太夫」と呼んだことに始まるともいう。また、余芸の狂言に憂き身をやつした女郎が太夫と呼ばれたことによるともいう。
 また、安土・桃山時代、慶長年間(1596-1614)、四条河原で六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催して以来、優れた遊女を太夫と呼んだことに因むともいう。
 公家文化から生まれた太夫は、天皇に謁見が許される正五位の官位を授かった。ただ、太夫側はあまりにも恐れ多いとして、高級品の足袋を辞退したことから、太夫は通年を素足で通す慣わしになったという。
 太夫は、おすべらかしの髪に櫛、八本の笄(こうがい)、花簪(はなかんざし)を挿す。その重さは5㎏にもなるという。歯にはお歯黒、紅は下唇にだけにさす。十二単をもとにした御所風の内掛、帯を前に結ぶ前帯に、禁色の赤襟を返すのは、御所に入る者に許された証の意味になる。これらの着物の総重量は20㎏にもなる。さらに、三枚歯の高下駄「三つ足」(17cmの高さ)を履き、内八文字という独特の内股の歩き方で歩く。
 太夫は美貌はもとより、茶、花、歌、舞、詩歌、俳諧などの諸芸に優れており、高い教養と品格を要した。名太夫としては、江戸時代、寛永年間(1624-1644)に、六条柳町の「六条の七人衆」筆頭、二代目の吉野太夫徳子が知られている。容姿端麗、知恵深く、「寛永三名妓(ほかに島原の夕霧太夫、高尾太夫)」といわれた。関白・近藤信尋と灰屋紹益が身請けを争った。夫となった灰屋は、染物に使う灰を商い、和歌、茶なども嗜み、『にぎはひ草』を著している。井原西鶴『好色一代男』でも吉野太夫に触れている。
 慶安期(1648-1651)から明暦期(1649-1658)の八千代太夫もまた美貌と諸道に長け、書にも秀でていた。
 太夫の儀式がある。指名された太夫が置屋から揚屋に向かう際には、町中を練る「太夫道中」が行われた。太夫は差掛け傘に入り、禿(かむろ)、引舟(ひきぶね)、やりて、夜具と枕を運ぶ下男らの付き人を従え、独特の歩き方(三枚歯の高下駄「三つ足」を履き、内八文字で歩く)で進んだ。天神は、禿、下男を引き連れた。
 置屋から揚屋に呼ぶ際の式は「かしの式」と呼ばれた。置屋が揚屋に太夫を貸すことから「かし(貸し)の」といわれた。盛装した太夫は盃台の前に坐り、盃を廻すと仲居が太夫の名を呼び披露した。
◆輪違屋 揚屋・置屋の「輪違屋(わちがいや)」は、江戸時代、1688年(元禄年間<1688-1704>とも)の創業といわれている。明治期(1872)までは置屋「養花楼」として営業し、太夫、芸妓、舞妓も置いていた。それ以後、揚屋も始めた。現在も太夫4人を抱える。
 建物は江戸時代末、1857年に建てられ、1871年に改築されている。以前は三階建てだった。台風被害(1961)により、二階建てに改修された。1984年に京都市指定有形文化財に指定された。
◆大門 北東に「大門」が建つ。一間幅、本瓦葺き、切妻の高麗門となっている。大門は、1729年には冠木門だったとみられている。その後、堀重門、腕木門と建替えられ、1854年の島原の大火で焼失した。その後、冠木門により再建された。さらに1867年に現在の高麗門に替えられた。京都市登録有形文化財(1986)登録されている。
 門前には「出口の柳(見返り柳)」「さらば垣」「用水手桶」、木燈籠、「竹の袖垣(さらば垣)」がある。かつて、島原に入る堀には「思案(しあん)橋」「衣紋(えもん)橋」という橋が架けられていたという。島原に行くか戻るかを思案し、衣紋を繕い直していざ出かけるという意味だった。
 江戸時代、1641年に開かれた島原には当初、東北角に大門が設けられ、1766年に現在地に移された。ここには島原の東西中央にあった道筋(どうすじ)という通りがあり、大門は通りの東の端に位置していた。
◆好色一代女 江戸時代の井原西鶴『好色一代女』(1686)には、ある京女の生涯が綴られている。宇治の由緒ある家に生まれた美しい女は、御所に宮仕えに出る。やがて、青侍と恋仲になるが男は殺され、女は御所を追われる。舞妓、側室、島原の遊女、西陣の糸繰り、茶屋女、腰元、歌比丘尼などと職を転々とし、大坂、伊勢、江戸にまで移る。老いても一時は夜の町に立つが、大雲寺に詣で五百羅漢に出逢う。昔の男たちの顔を思い浮かべ、慙愧の念に耐えられず広沢の池に入水しようとする。だが、人に助けられ、やがて嵯峨に庵を結ぶ。
◆新撰組・志士 島原を新撰組が利用したのは屯所に近かったこともある。御贔屓の太夫として近藤勇の深雪太夫、土方歳三の東雲太夫、伊東甲子太郎の花香太夫(輪違屋)、平間重助の糸里(輪違屋)、見廻組の佐々木只三郎の浪路太夫、山南敬助の明里(輪違屋、実在したかは不明)、志士の桂小五郎、久坂玄瑞も利用した。新撰組初代筆頭局長・芹沢鴨(1827?-1863)は、角屋での新撰組宴会の後に八木邸に戻り暗殺された。芹沢は角屋の酒の席で乱暴狼藉を働いていたという。
◆鴻臚館 角屋北に、東鴻臚館(こうろかん)跡の碑が立てられている。平安時代の南北の通り、朱雀大路を挟み、七条以北には東西二つの鴻臚館が建てられていた。碑はそのうちの東鴻臚館(左京)の跡になる。西鴻臚館(右京)は、現在の京都市卸売第一市場(下京区朱雀堂ノ口町)付近になる。敷地は、東西共にほぼ同じ規模であり、南北84丈(250m)、東西40丈(121m)あった。両鴻臚館は、平安京遷都とともに早々に起工されたという。
 鴻臚館は、朝鮮半島の友好国・渤海(ぼっかい)国よりの使節を受け入れている。当初は6年毎に受け入れた。759年に始まり、824年以降は、経費が嵩んだため12年毎に変更される。最後は919年まで続き、通算22回に及んだ。
 使節団は100人ほどが船で入国した。使節団には領客使が対応した。使節団(大使、副使、判官、録事、訳語ら20人)は騎馬により入京し、鴻臚館に宿泊した。使節団は、大極殿で天皇に拝謁し、渤海国王の国書を奉呈、土産品を献上した。豊楽殿では宴が催され、鴻臚館では使節団と日本側の貴族との交流が行われていた。
 東鴻臚館は、弘仁年間(810-824)、東寺、西寺の建立により移転になる。872年には渤海国大使が来館し、右馬頭・在原業平が慰労したという。920年頃(839年とも)に廃止されたという。926年には渤海国そのものが消滅している。以来、使節の来朝は途絶する。
 その後も、西鴻臚館は存続した。10世紀(901-1000)中頃に荒廃する。その後、小規模の施設が再建される。1178年、次郎焼亡により焼失したという。
◆年間行事 節分会・おばけ(祇園・京都駅・平安神宮・吉田神社など)(2月3日)、太夫道中(太夫が届けられた「揚屋差紙」により、置屋から揚屋へ行くことに始まるが行われている。もとは正月二日に行われていた太夫の顔見世が起源という。当日、禿(かむろ)、引舟(ひきぶね)、傘持(かさもち)に囲まれ、おすべらかしの髪に八本の簪を挿し、内掛の衣裳を纏った太夫が練り歩く。)(4月21日)、吉野太夫花供養(常照寺)(4月第3日曜日)、北政所茶会・太夫道中(高台寺)(10月6日)、島原太夫餅つき会(ホテル日航プリンセス京都)(12月中下旬)。
◆環境問題 角屋の西には、JR山陰本線がとある。旧国鉄時代の五条から七条までの高架複線化(1976)にともない、角屋、周辺地域でも通過する電車の騒音と振動問題が起きている。


*現在、島原にお茶屋は4軒ある。芸妓はおらず、太夫がいる。
*参考資料 『角屋案内記』『角屋』『京都花街史』『京の花街ものがたり』『京の花街 ひと・わざ・まち』『京のくるわ』『平安京散策』『京都歴史案内』『京都新選組案内』『女たちの京都』『あなたの知らない京都府の歴史』『京都の地名検証』


  角屋       島原住吉神社・弁財天社      八木邸      祇園甲部      祇園東      白川・新橋通界隈      先斗町      上七軒      宮川町       夕霧太夫遺跡      足抜地蔵・灰屋辻子(図子)      京都花街略史      いのちの森          
 島原 京都市下京区西新屋敷揚屋町32  075-351-0024 
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