先斗町 (京都市中京区) 
Pontocho
先斗町 先斗町
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鴨川千鳥の意匠が使われている


先斗町の舞妓さん。


節分会(八坂神社)


節分会(八坂神社)


見世出し


見世出し




先斗町歌舞練場、1927年に建てられた。1953年に客席、舞台、花道、階段などを改装する。設計は木村得三郎、間口20間、奥行15間。コンクリート造四階地下一階建。歌舞練場、検番、女紅場が入る。。

 鴨川の西、三条通南から四条通まで、南北に細長く続く先斗町通(ぽんとちょうとおり)がある。京都五花街のひとつ先斗町(ぽんとちょう)は、東西50m、南北500mほどの町であり、歓楽地として知られ、いまもお茶屋などが軒を並べている。 
◆歴史年表 かつては鴨川の州地だった。
 江戸時代、1614年、鴨川の西に高瀬川開削が行われる。
 1670年、鴨川新堤築造後、先斗町護岸が完成し、通りが開かれる。高瀬川、鴨川の間の州は埋め立てられ、堤には石垣が築かれ、町家が建てられた。
 1674年、若松町(橋本町、梅の木町とも)に5軒の家が建つ。(『京都府下遊廓由緒』)。先斗町の始まりになる。三条一筋南から四条、鴨川と高瀬川に囲まれたこの細長い狭斜地を、当初は「新河原町通」、俗に「先斗町」と呼んだ。高瀬川(1611-)を往来する舟の船頭、旅客相手の茶屋や旅籠として栄えた。
 1682年、先斗町の名「ぽんとの町の小宿」とあり、初例になる。(井原西鶴『好色一代男』)
 1702年、樵木町の一部に「ぽんと町」の名がある。(『万宝節用集町名鑑』)
 1712年、生洲株、茶屋株、旅籠屋株が許可され、茶立女が置かれ、花柳街として賑わうようになる。舞や踊りの出来る町方の娘が招かれ、専門化し舞妓になった。「新河原町通」(先斗町)と記されている。(『京都府下遊廓由緒』)
 1738年、先斗町の遊女・お俊が、釜座三条の呉服商・井筒屋伝兵衛と聖護院の森で心中する。事件は、近松門左衛門の浄瑠璃「近頃河原達引」で有名になる。
 1771年、「ぽんと町」の名がある。また、二条新地へも出店したという。(『京町鑑』)
 1790年、先斗町などの隠売女が傾城町へ送られる。茶屋株は一時差し止められる。先斗町の公許はなされなかった。
 文化・文政年間(1804-1829)、白木屋ふうの、玉八重かなえの名妓が出る。
 1813年、京中茶屋株の全面許可になる。先斗町の遊郭が公認される。芸妓が現れる。
 1814年、宮川筋旅籠株の芸子が格子付きで営業を始める。先斗町に芸者が初登場する。
 文政年間(1818-1829)、「先斗町」の名が記されている。(『扁額軌範』)
 天保年間(1830-1844)、名妓といわれた榎原八友、長谷川艶吉、義太夫芸妓・小林広告が出る。
 1842年、島原以外での遊女、茶立女らは6カ月の商売替え、奉公替えを命じられる。
 1851年、先斗町に「配膳」という売女が現れる。
 1859年、先斗町に10年限りの遊女屋茶屋渡世の許可が下りる。
 1867年、冥加金200両の上納により、先斗町などの茶屋渡世を無期限許可される。
 幕末期、二条新地の出稼地として、島原傾城町の支配を受ける。先斗町は佐幕派、会津の贔屓を得た。平野国臣と芸妓・小勇、後藤象二郎と丸梅の小なかが知られている。
 近代、1870年、先斗町は二条新町の出店から独立した花街になる。
 1871年、療病院創業に伴い、遊女芸者に対して、一昼夜花代の20分の1を助費として出金を命じられる。鴨川をどりが春秋に公演されたともいう。
 1872年、寄席「千代の家」(裏寺町、優須裟摩辻子)で鴨川をどり(先斗町)が初演される。舞は篠塚流によった。
 1873年、橋本、若松、梅木、松本の4町により、下京六区婦女職工引立会社が開業する。
 1874年、府により婦女職工引立会社は遊所女紅場と改称される。先斗町にも女紅場(にょこうば)が開かれる。
 1882年、「貸座敷取締規則」「娼妓営業取締規則」が布達される。貸座敷営業免許地として、先斗町など京都市内9カ所、市外6カ所の合計15カ所を定める。
 1884年、鴨川をどり(先斗町)が休演する。(1894年まで)
 1886年、府の命令により、先斗町内に五業組合事務所が置かれる。鴨川をどりが一時休演したともいう。
 1890年、祇園甲部、先斗町、宮川町の芸妓が、北垣国道府知事に対して市税徴収不服の訴訟を起こす。先斗町に伊勢講「丸寿組」が結成され、芸妓、お茶屋、旦那衆などが伊勢参りしていた。
 1893年、先斗町の芸者が減税を請願する。
 1895年、先斗町の翠紅館が完成する。鴨川をどり(先斗町)が再開する。島流しが行われる。
 1902年、鴨西歌舞練場が完成した。
 1910年、宮川町、先斗町、祇園乙部により芸妓救済所が設立される。この頃、東京歌舞伎座で鴨川をどりが初めて興行する。
 大正期(1912-1926)、高野山参りの講「鴨川組」が結成される。
 1914年、洋画家・詩人・村山槐多は、詩「京都人の夜景色」で四条大橋、先斗町などを描写した。
 1915年、東京歌舞伎座で鴨川をどりを興行する。
 1926年頃、歌舞練場で芸妓にダンスを教える。
 1927年、現在の先斗町歌舞練場が改築される。舞いは篠塚流から若柳流に変わる。
 1928年、鴨川をどりが春秋に上演された。
 1930年頃、お茶屋の内娘による少女レビュー団(ミニ宝塚)が結成され人気を得る。水明会が開催される。
 1933年、歌舞練場三階ホールにダンス場ができる。
 1935年、「昭和10年鴨川大洪水」で浸水被害があった。
 1940年、146軒のお茶屋があったという。
 1944年、京都市は先斗町歌舞練場に市設三条共同勤労所を開設する。鴨川をどり(先斗町)が休演する。(1945年まで)。第二次世界大戦中に、町の中央部が削られている。
 現代、1946年、鴨川をどりが再開される。
 1951年、鴨川をどりは春・秋の2回公演になる。(1998年まで)。
 1953年、先斗町歌舞練場が新装になる。
 1958年、婦女職工引立組合は鴨川学園に改称になった。
 1994年、平安遷都1200年に際して五花街伝統芸能特別公演が開催される。
 2007年、お茶屋32軒、芸妓41人、舞妓10人がおり、町家ではない建物も増えてきている。
◆町名 町名「先斗町(ぽんとちょう)」の由来については諸説ある。
 ◈人家が鴨川河原の西側先に集中したことから、「先斗(さきばかり、先計)」と呼ばれたともいう。先斗が、「ぽんと」になったのは、先端の御崎(岬)の意味からポルトガル語のポント(pont,先端)、英語のポイント(point,点)によるともいう。
 ◈先斗町に行くには、四方より必ず橋を渡る必要があることから、ポルトガル語のポント(ponte,橋)に由来するともいう。これについては、かつて存在した南蛮寺が関係し、ポルトガル語の橋(ポントス)に因むともいう。
 ◈流行した「うんすんかるた」によるかるた賭博での、「真っ先に金を賭ける」、「後と先に分けず先だけに賭ける」の意ともいう。 江戸時代に、「ポントに張る(賭ける)」の用法があり、鴨川の岸の「先ばかり」に軒が連なる立地に掛け、「先」と「ばかり(斗)」の字が当てられ「先斗」になったともいう。 
 ◈鴨川と高瀬川の二つの川に挟まれた地ということで、二つの皮に挟まれた鼓(つづみ)と洒落て、「ポンと丁」にしたともいう。
 ◈高瀬舟の船頭衆を意味した「せんど丁」に由来するともいう。
 ◈また、「斗」については捨て仮名で意味はないともいう。
◆講 伊勢神宮、高野山に、先斗町の花街に生きた人たちの供養塔がある。それぞれ丸寿組伊勢講、鴨川組高野講があり、石灯籠(二見ヶ浦)、京都鴨川組納骨堂(高野山)が建てられている。毎年交互に6月にお伊勢参り、7月に高野山参りが行われている。
◆建築 「先斗町歌舞練場」は、近代、1902年に建てられた。現存するのは2代目で、1927年に再建されている。1933年に改修され、舞台、観覧席が木造より鉄筋コンクリート造になる。戦後は、進駐軍のビア・ホールとしても利用された。1951年、観覧席を桟敷から椅子式に変えた。この時、増築も行われる。
 建築の和洋折衷の建物になる。ライト様式といわれる水平線を強調し、単一的なパターンを繰り返す装飾が特徴になる。また、スクラッチ・タイルという縦縞のタイルが使われている。一階北側に公演室、二階北側の公演室は吹き抜けになる。設計・木村得三郎(大林組)、設計顧問・武田五一、施工・大林組。鉄筋コンクリート製造四階建、地階。屋根は南側四階は寄棟、北側三階部分は切妻造、緑色の釉薬による陶瓦葺。間口40m、側面32m。
◆鴨川をどり 歌舞練場は、鴨川をどりの会場として使われ、通常は芸妓・舞妓の踊り、鳴物・唄などの練習場になっている。
 鴨川をどりは、近代、1872年に裏寺町四条上る大竜寺横で始まり、舞、芝居が披露された。1875年の博覧会に参加、1895年から平安遷都千二百年記念として歌舞練場で披露された。太平洋戦争中の1944年と翌年は休演になる。戦後(1951-1998)は、春秋の2回公演になった。1999年より秋の舞台は「水明会」として催されている。舞いは尾上流で、台詞を取り入れた歌舞伎を思わせる舞いになっている。
◆鴨川千鳥 先斗町の記章は鴨川千鳥になっている。ただ、紋章ではないという。
◆聖護院の森心中 江戸時代、1738年(1734年とも)、釜座三条の呉服商・井筒屋伝兵衛と、先斗町「近江屋」遊女・お俊は、聖護院の森で心中したという。事件は、浄瑠璃「近頃河原達引(ちかごろかわらのたてひき)」の題材となる。
 聖護院の積善院には「お俊伝兵衛恋情塚」が立てられている。1952年に豊竹山城少椽らの発起による。
◆勤皇芸妓 土佐の後藤象二郎は先斗町「丸梅」の小仲を馴染みとしていた。
◆村山槐多 近代の洋画家・詩人・村山槐多(むらやま かいた、1896-1919)。横浜生まれ。高知、4歳で京都へ一家で移る。府立第一中学校時代に従兄の山本鼎(かなえ)に感化され、文学と美術に目覚める。ポー、ボードレールに親しむ。1914年、中学卒業後に上京、小杉未醒(みせい、放庵)の家に寄寓し、日本美術院研究所に学ぶ。同年、二科展、1915年、日本美術院展に初入選した。 1917年、代表作『湖水と女』で美術院院友に推される。1919年、『松と榎』などで美術院賞を受ける。小説、詩も書き、放浪し、肺結核を病む。没後、1928年、詩集『槐多の歌へる』が刊行された。22歳。
 1914年、「京都人の夜景色」を書いた。「ま、綺麗やおへんかどうえ/このたそがれの明るさや暗さや/どうどつしやろ紫の空のいろ/空中に女の毛がからまる/ま、見とみやすなよろしゆおすえな/西空がうつすらと薄紅い玻璃みたいに/どうどつしやろえええなあ/ほんまに綺麗えな、きらきらしてまぶしい/灯がとぼる、アーク燈も電気も提灯も/ホイツスラーの薄ら明かりに/あては立つて居る四条大橋/じつと北を見つめながら/虹の様に五色に霞んでるえ北山が/河原の水の仰山さ、あの仰山の水わいな/青うて冷たいやろえなあれ先斗町の灯が/きらきらと映つとおすわ/三味線が一寸もきこえんのはどうしたのやろ/芸妓はんがちらちらと見えるのに/ま、もう夜どすか早いえな/お空が紫でお星さんがきらきらと/たんとの人出やな、美しい人ばかり/まるで燈と顔との戦場/あ、びつくりした電車が走る/あ、こはかつた/ええ風が吹く事、今夜は/綺麗やけど冷めたい晩やわ/あては四条大橋に立つて居る/花の様に輝く仁丹の色電気/うるしぬりの夜空に/なんで、ぽかんと立つて居るのやろ/あても知りまへんに。」
◆文学 洋画家・詩人・村山槐多は、詩「京都人の夜景色」で四条大橋、先斗町などを描く。
 織田作之助の小説『それでも私は行く』では、戦後の先斗町茶屋「桔梗屋」、木屋町界隈が舞台となっている。
◆先斗町の催し 始業式(1月7日)、八坂神社奉納舞踏(2月2-3日)、温習会の水明会(3月)、平安神宮奉納舞踏(4月16日)、鴨川をどり(5月1-24日)、丸寿組伊勢講(6月)、五花街合同公演(6月第2土・日曜)、鴨川組高野講(7月)、祇園祭花傘巡行、花笠巡行奉納舞「コンチキ音頭」(7月24日)、ゆかた会(8月上旬)、水明会(10月下旬)、時代祭参加(10月22日)花街総見(12月2日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『日本花街史』『京の花街』『京の花街ものがたり』『京の花街 ひと・わざ・まち』『祇園と舞妓』『京都市の地名』『京都の地名検証』『週刊 京都を歩く 40 先斗町・祇園新橋』『京都 先斗町』『日本地名大辞典 26 京都』『京都の近代化遺産』『京都大事典』『鴨川・まちと川のあゆみ』
 

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