坂本龍馬 避難の材木小屋跡 (京都市伏見区)  
Site of Sakamoto Ryoma's refuge
坂本龍馬 避難の材木小屋跡  坂本龍馬 避難の材木小屋跡
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「坂本龍馬避難の材木小屋跡」の石標


石標


副碑


大手橋


大手橋


濠川の左岸南方付近
 濠川に架かる大手橋の西詰北側に、「坂本龍馬避難の材木小屋跡(さかもと-りょうま-ひなん-の-ざいもくごや-あと)」の石標・副碑がある。
 江戸時代後期、この付近にあった材木小屋に、旅館「寺田屋」で負傷した坂本龍馬が一時潜んだという。
◆歴史年表 江戸時代、1866年、1月23日(新暦3月9日)深夜、坂本龍馬は旅館「寺田屋」で幕史に襲われ、負傷し材木小屋に一時潜んだ。
 現代、2009年、12月、伏見観光協会・伏見納税協会青年部会により石標・副碑が設置された。
◆坂本龍馬 江戸時代後期の尊攘派志士・坂本龍馬(さかもと-りょうま、1835-1867)。本名は直陰、直柔(なおなり)、別名は才谷(さいだに)梅太郎、通称は龍馬。土佐(高知県)の生まれ。土佐藩郷士・坂本長兵衛の次男。城下築屋敷(つきやしき)の日根野(ひねの)弁治道場で小栗流剣術を修行した。1853年、3月、江戸・北辰一刀流千葉定吉道場に剣術修行に出る。1854年、土佐で画家・河田小龍から西洋事情を学ぶ。1856年、8月、再び千葉道場に遊学し免許を得た。この頃、江戸で武市瑞山、久坂玄瑞らを知り、尊攘運動に入る。1858年、9月、帰国した。1861年、8月、武市らが結成した「土佐勤王党」に加盟し、出国する。1862年、1月、長州萩に久坂を訪ね、3月、脱藩した。大坂、京都を経て江戸に出る。軍艦奉行・勝海舟の弟子になり、航海術などを学ぶ。1863年、2月、勝の尽力により脱藩罪を赦免される。12月、土佐藩の召喚令に従わず、再び脱藩の身になった。1864年、勝の主唱した「神戸海軍操練所」設立に尽力し、塾頭になる。4月、肥前国に横井小楠を訪ねる。10月、勝の失脚後に操練所は解散になる。龍馬は薩摩藩の保護を受けた。1865年、5月、大宰府で三条実美ら5卿に薩長同盟を説く。閏5月、薩摩藩の援助の下で、長崎で株式会社の先駆・政治結社「亀山社中」を設立した。洋式銃砲の取り引きを行なう。1866年、土佐藩は長崎に貿易のための「土佐商会」を設立した。1月21日(新暦3月7日)、京都で龍馬は中岡慎太郎と協力し、対立していた長州藩・薩摩藩間の「薩長同盟」に尽力した。倒幕への布石になる。1月24日(新暦3月10日)、龍馬は伏見の旅館「寺田屋」で幕史に襲われる。寺田屋養女・お龍、大山彦八、三吉慎蔵らの機転で難を免れた。(寺田屋事件)。6月、第二次長州征討(四境戦争)で、「丑乙丸」を操り参戦した。1867年、1月、長崎の「土佐商会」に出張の藩参政・後藤象二郎と会談した。土佐藩は藩主・山内容堂の公武合体路線の行き詰まりから方向転換を求めていた。 4月、藩は龍馬の脱藩の罪を許した。亀山社中を「海援隊」に改め、海援隊長になる。紀州藩との「いろは丸事件」を解決する。5月、京都で「薩土密約(薩土討幕の密約)」の締結に立ち会う。6月、長崎からの藩船中で、後藤と大政奉還・公議政治などを原案にする新国家構想「船中八策」を策定した。京都で薩摩の西郷隆盛らとの間の「薩土盟約」に立ち会う。(10月破棄)。10月、土佐藩主・山内は「船中八策」案を元に、将軍・徳川慶喜に大政奉還を建白し、10月14日(新暦11月9日)、朝廷も許可し実現した。その後、龍馬は土佐、長崎、福井などに移る。11月15日(新暦12月10日)夜、京都「近江屋」で中岡とともに暗殺された。幕府見廻組刺客の手によるともいう。(近江屋事件)。32歳。
 1869年、正四位追贈。松平春嶽、横井小楠、三岡八郎(由利公正)、大久保一翁(忠寛)、西郷隆盛らと親交した。墓は霊山墓地(東山区)にある。
◆大山彦八 江戸時代後期の薩摩藩士・官僚・大山彦八(おおやま-ひこはち、1835-1876)。諱は成美、通称は彦八。薩摩(鹿児島)の生まれ。薩摩藩士・大山彦八綱昌の長男、母は競子。弟は大山巌、従兄は西郷隆盛。1860年、桜田門外の変に連座し、幕府の嫌疑を受け、伏見の薩摩藩伏見屋敷詰の身で六角獄舎に投獄された。1861年、釈放され、伏見屋敷詰に復する。1865年、西郷、小松帯刀に従い、薩摩船「胡蝶丸」で大坂を出帆し薩摩に戻る。坂本龍馬ら土佐出身の旧神戸海軍操練所塾生も同乗していた。西郷と再度上京し、伏見屋敷の留守居になる。1866年、「寺田屋事件」で遭難した龍馬を救援した。1868年-1869年、戊辰戦争では後方支援した。1870年、京都府権大参事、その後、埼玉県大参事になる。1873年、征韓論に敗れた西郷に従い下野した。1874年、鹿児島に帰り、1876年、病没する。42歳。
 墓は郡元墓地(鹿児島市)にある。
◆三吉慎蔵 江戸時代後期-近代の長府藩士・官僚・三吉慎蔵(みよし-しんぞう、1831-1901)。幼名は友三郎、諱は時治。長府藩今枝流剣術師範・小坂土佐九郎の次男。1837年、田辺惣左衛門の養子になり、藩校敬業館に入学した。1839年、諸武芸師範に入門する。1849年、長州藩校明倫館に入学した。1855年、長州藩師範・小幡源右衛門より宝蔵院流槍術の免許皆伝を受け、腕は藩内随一とされた。1857年、長府藩士・三吉十蔵の養子になる。1858年、藩主・毛利元周の近習扈従役(きんじゅう-こじょうやく)として従い江戸に上る。江川太郎左衛門に学ぶ。1863年、下関の外国船砲撃事件で、大砲鋳造掛締方・精兵隊諸事肝煎に任じられる。1864年、一代馬廻格になる。1865年、永代馬廻格になった。1866年、元日、長府藩士・印藤肇の紹介で坂本龍馬を知る。1月、幕命により京都の情勢収集のため、龍馬と下関を出発した。伏見の旅館「寺田屋」に入る。1月24日(新暦3月10日)夜半、伏見奉行配下の幕史に踏み込まれ、負傷した龍馬を材木小屋に隠し、薩摩藩伏見屋敷に救援要請した。(寺田屋事件)。3月、薩摩の軍艦「胡蝶丸」に、龍馬と妻・お龍とともに乗船し大坂を出港した。下関で下船し長府藩に報告した。6月、第二次長州征討(四境戦争)で、長府藩の報国隊軍監に就任し、奇兵隊と共に幕府軍を破る。1867年、龍馬は長崎から土佐に向かう途中で下関に寄港し、廻船問屋・伊藤助大夫宅に妻のお龍を預けた。11月、龍馬が暗殺され、12月、慎蔵は龍馬に託された通り、お龍・君枝姉妹を長府の自宅に引き取り3カ月間面倒を見た。慎蔵はこれらの功により、加増、長州藩目附役に任じられた。1868年、3月、お龍を高知の坂本家に送り届ける。維新後、豊浦藩(長府藩)権大参事、1871年、宮内省御用掛として北白川宮家の家扶になる。のち家令を務めた。1890年、辞任し、晩年は故郷の長府で暮らした。寺田屋事件を記した著『三吉慎蔵日記』がある。71歳。
 従六位。墓は功山寺墓地(下関市)にある。
◆寺田屋遭難 江戸時代後期、1866年1月18日(新暦3月4日)に、坂本龍馬、長府藩士・三吉慎蔵ら4人は、大坂の薩摩屋敷から三十石船で伏見に入る。旅館「寺田屋」に泊まった。この頃、伏見一帯は、奉行所、新撰組により厳戒威勢が敷かれていた。
 1月21日(新暦3月7日)に、小松帯刀邸(上京区)で薩長同盟が締結された。1月22日、龍馬は、薩摩藩京屋敷(中京区)で長州藩・桂小五郎、薩摩藩・西郷隆盛と会い、薩長同盟の約束を取り付けている。
 1月23日(新暦3月9日)夜、龍馬は、寺田屋に戻り、2階で三吉に桂、西郷らとの会談について話していた。24日午前2時頃、寺田屋は伏見奉行所の捕吏に包囲される。お龍は階下で入浴中であり、危機を察し、裸のまま裏階段を上り龍馬らに襲撃を告げた。
 捕吏はすでに階段を駆け上がってきた。龍馬は高杉晋作よりもらった上海土産の六連発拳銃で反撃し、三吉は槍で抵抗した。龍馬は左手を負傷する。捕方数人にも死傷者が出た。捕吏が銃撃音に怯んだ隙に、無傷の三吉は龍馬に肩を借し、2人は裏口階段より物置を抜け、隣家の雨戸を蹴破り裏通りに出た。三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付き、方向を変えた。濠川、水門を伝い、寺田屋の北西にあたる西浜の材木小屋/納屋(濠川の左岸南方付近、大手筋川端)に潜んだ。三吉は龍馬を小屋に残し、小屋北東にあった薩摩藩伏見屋敷(南北99m、東西64m、推定1507坪)に駆け込み、薩摩藩に龍馬の救援を要請した。
 伏見屋敷の東側は濠川に面していた。伏見屋敷にはすでにお龍が逃げ込んでおり、龍馬襲撃の件を知らせていた。伏見屋敷の留守居役・大山彦八は、船に薩摩藩の旗印を掲げ、龍馬を救出し明け方に屋敷へ避難させた。その後、京都薩摩藩邸の西郷に事件を告げた。京都からは薩摩藩士・吉井幸輔が、医師、兵一小隊を伴い来た。龍馬の傷は深く、静脈も傷つき翌日まで止血しなかったという。その後、龍馬は、伏見屋敷内北東の「守(もり)」という小屋に、7日間ほどに匿われていたとみられる。
 伏見奉行所は伏見屋敷を取り囲み、再三に渡り龍馬を差し出すように迫った。薩摩藩側は拒否し、両者の対立はその後の大政奉還、鳥羽・伏見の戦いにつながる。1月29日(新暦3月15日)まで、龍馬とお龍は伏見屋敷に滞在している。その後、龍馬は薩摩藩が用意した駕籠により二本松藩邸(7000坪)(上京区)に移った。さらに薩摩藩大坂屋敷に移された。
 2月5日(新暦3月21日)、薩長同盟約定が正式に発足する。龍馬とお龍は、薩摩藩邸で行われた祝言後に、西郷の薦めにより、傷の治療も兼ねて薩摩・霧島温泉に旅立つことになった。2月29日、薩摩藩の蒸気船「三邦丸」は大坂を出港している。船には倒幕準備のために帰国する西郷、小松、龍馬、お龍、三吉、中岡慎太郎も乗船した。3月6日、船は下関に寄港し、三吉、中岡は下船し、長府藩にこの間の情勢報告している。
 龍馬とお龍は薩摩への旅を続け、日本初の新婚旅行(新暦3月-4月)になったという。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 参考文献・資料  副碑碑文、「寺田屋関係資料9種と若干のコメント 京都市歴史資料館、2008年」、『新版 京・伏見 歴史の旅』、『京都府の歴史散歩 中』、『伏見学ことはじめ』、『昭和京都名所図会 6 洛南』、『京都歩きの愉しみ』、『京都大事典』、『あなたの知らない京都の歴史』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』 、『坂本龍馬大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 坂本龍馬避難の材木小屋跡 〒612-8202京都市伏見区過書町497-2 大手橋西詰北側  
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