土佐白川藩邸跡・土佐陸援隊屯所跡 (京都市左京区)  
Ruins of Tosa-Shirakawa Domain Residence
土佐白川藩邸跡・土佐陸援隊屯所跡  土佐白川藩邸跡・土佐陸援隊屯所跡
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京都大学農学部構内に安置されている地蔵尊



 京都大学農学部付近に、江戸時代後期に、土佐白川藩邸(とさ-しらかわ-はんてい)、中岡慎太郎らが結成した土佐陸援隊屯所(とさ-りくせんたい-とんしょ)が置かれた。
◆歴史年表 江戸時代、1866年、白川村の白川土佐藩邸は、土佐藩士・福岡孝弟(たかちか)、小笠原唯八の周旋により購入された。
 1867年、7月27日(新暦8月26日)、中岡慎太郎に屯所の借用承諾を与える。7月29日、中岡は土佐陸援隊を結成し、藩邸が屯所にあてられた。10月、坂本龍馬が訪れている。11月15日(新暦12月10日)、中岡は龍馬とともに、近江屋で暗殺された。(近江屋事件)。峯吉は、屯所に裸馬を走らせ、報を知らせたという。
◆福岡孝弟 江戸時代後期-近代の土佐藩士・官僚、政治家・福岡孝弟(ふくおか-たかちか/こうてい、1835-1919)。孝悌、藤次、南蘋。土佐(高知県)の生まれ。家は土佐藩家老・福岡家支族。24歳で郡奉行になる。吉田東洋に学ぶ。1857年、吉田の藩政復帰とともに、後藤象二郎らと「新おこぜ組」を結成した。1859年、大監察になる。1862年、東洋の遭難後に、1863年、藩主側役になる。1866年、中岡慎太郎、西郷隆盛と出会う。1867年、参政になる。4月、長崎で坂本龍馬に脱藩罪赦免を伝え、龍馬を海援隊隊長に任命した。6月、薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通、土佐藩の後藤象二郎・福岡孝弟・坂本竜馬・中岡慎太郎らは京都で会合を持ち、倒幕挙兵に替わり大政奉還を骨子とする薩土盟約を結んだ。(10月に破棄)。10月、山内豊信の命により、後藤らと将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧告した。王政復古直後、12月、参与に任じられ、五箇条の誓文、政体書の起草にあたった。由利公正(三岡八郎)の起草文を公議政体論を反映しものに修正した。1869年学校御用掛、1870年、土佐藩権大参事として板垣退助と藩政改革を推進した。1872年、文部大輔(たいふ)になり「学制」制定に関与した。その後、司法大輔、1874年、左院1等議官、左院、1875年、元老院議官になりその後辞した。1880年、元老院議官に復帰する。1881年-1885年、参議兼文部卿を歴任する。参事院議長も兼任した。1884年、子爵、1885年、宮中顧問官、1888年-1919年、枢密顧問官を歴任した。85歳。
 墓は染井霊園(東京都)にある。
◆中岡慎太郎 江戸時代後期の尊攘派志士・中岡慎太郎(なかおか-しんたろう、1836-1867)。名は道正(みちまさ)、光次、号は迂山、変名は大山彦太郎、横山勘蔵、石川清之助など。土佐(高知県)の生まれ。土佐藩郷士・庄屋・中岡小伝次の子、母は初。1855年、武市瑞山の道場に入門し、坂本龍馬を知る。土佐藩士・間崎滄浪(まざき-そうろう)に経史を学ぶ。1857年、大庄屋見習になる。1861年、武市の土佐勤王党に入る。1862年、五十人組結成に参加し伍長になる。江戸で藩主・山内豊信の警護に当たった。1863年、帰郷し、藩論が公武合体に傾き、尊攘派の弾圧により脱藩した。長州で三条実美ら5卿の護衛に当たる。1864年、上洛し、7月、長州軍として禁門の変(蛤御門の変)に参加する。敗れ、負傷した。長州藩に逃れ、忠勇隊隊長になる。以来、各所で薩長の和解に尽力する。1866年、1月21日(新暦3月7日)、坂本龍馬とともに「薩長同盟」締結に立ち合う。慎太郎は三条実美と岩倉具視、西郷隆盛と高杉晋作を連携させた。1867年、4月、脱藩の罪を許され、5月、京都で「薩土密約(薩土討幕の密約)」の締結に立ち会う。6月、京都で薩摩の西郷隆盛らとの間の「薩土盟約」に立ち会う。(10月破棄)。7月、土佐藩より遊軍の陸援隊隊長に任命される。11月15日(新暦12月10日)、龍馬とともに京都「近江屋」で襲われ負傷、その後、亡くなった。(近江屋事件)。著『時勢論』(1867)。30歳。
 墓は霊山墓地(東山区)にある。
◆土地藩邸 江戸時代、1866年に白川村の白川土佐藩邸は、土佐藩氏・福岡孝弟、小笠原唯八の周旋により購入された。土佐藩兵の上京の際の駐屯地としていた。
 1867年、7月27日(新暦8月26日)、参政・由比猪内、大監察・佐々木三四郎が中岡慎太郎に藩邸の借用承諾を与えた。7月29日、慎太郎は土佐陸戦隊を結成した。屯所は白川藩邸に新築されている。大坂の住吉陣営の古材が運ばれ再利用された。屋根瓦は、安芸の瓦屋の「安喜寅」などが利用された。慎太郎は、寓居のあった柳馬場より屯所に移っている。
 10月10日、坂本龍馬が訪れ、慎太郎は用意された銃器、高張提灯を示している。
 11月15日(新暦12月10日)、慎太郎は龍馬とともに、近江屋で暗殺される。峯吉は、近江屋から屯所に裸馬を走らせ報を知らせたという。藩邸の医者・川村栄進(盈進)が慎太郎、藤吉に手当てをした。11月17日(新暦12月12日)、慎太郎は、隊員に見守られながら息を引き取る。
◆陸援隊 江戸時代後期、1867年2月に、中岡慎太郎は、坂本龍馬とともに高知藩に脱藩の罪を許された。4月、藩は龍馬を海援隊長に、慎太郎を陸援隊長に任じた。両隊は「両援隊」と呼ばれた。
 陸援隊は、7月29日(新暦8月28日)に隊士11人で結成された。藩主・山内豊信(容堂)の護衛のための「五十人組」を前身にする。慎太郎は、1862年、五十人組結成に参加し、江戸で山内豊信の警護に当たっていた。
 陸援隊は高杉晋作の奇兵隊を参考にした。白川の高知藩邸内に置かれ、藩の遊軍としての軍隊に位置付けられた。藩の経済援助を受けている。新国家樹立のために、薩長による討幕運動も視野に入れ、挙兵の訓練を行った。
 隊員は、土佐を中心にし、各藩の浪士、十津川郷士も加えた。田中顕助(光顕)を副隊長格とし、香川敬三、中島信行、大江卓、毛利恭輔らも参加する。薩摩藩の兵学者・鈴木武三郎から洋式銃隊訓練を受けている。
 11月15日(新暦12月10日)に、慎太郎は龍馬とともに暗殺される。隊は顕助らが引き継いだ。12月8日、隊は、侍従・鷲尾隆聚を擁して、高野山に1000人の兵が集まる。隊は紀伊・大和などの佐幕勢力を抑えた。1868年1月の鳥羽・伏見の戦い加わった後に、京都に1300人の兵員で戻った。その後、隊は解散になり、親兵に編入された。
◆遺構 土佐藩邸の遺構としては、北部キャンパスから、藩邸南限を示す塀跡が見つかっている。
 土佐産の桟瓦が大量に出土している。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都大事典』、『京都 幕末維新かくれ史跡を歩く』、『坂本龍馬大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 土佐白川藩邸跡・土佐陸援隊屯所跡 〒606-8224 京都市左京区北白川追分町
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