楢崎家跡(お龍実家) (京都市中京区)  
The ruins of Narazaki family house
楢崎家跡(お龍実家 ) 楢崎家跡(お龍実家 )
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 柳馬場通三条下ル東側に「坂本龍馬妻 お龍の実家 楢崎家跡(さかもとりょうま-つま-おりょう-の-じっか-ならざきけ-あと)」の石標が立つ。
 付近に、楢崎家があったという。
◆歴史年表 江戸時代後期、この地に医師・楢崎将作(1813-1862)の家があったという。龍も一時、住んだという。
 現代、2008年、NPO法人京都龍馬会により石標が立てられた。
◆楢崎将作 江戸時代後期の医師・楢崎将作(ならざき-しょうさく、1813-1862)。氏は藤原、諱は貺(たまう)、字は大蔵、号は東崦、繁杏。奈良崎大造豊明の子。母は重野貞。長女は坂本龍馬の妻・龍。父を継ぎ京都柳馬場三条南で内科・外科医を営む。青蓮院宮尊融法親王の侍医になる。1858年、安政の大獄に連座して捕えられた。1589年、釈放される。京都の自宅で没した、六角獄舎で獄死したともいう。49歳。
 梁川星巌、紅蘭、梅田雲浜、頼三樹三郎、池内大学ら尊王派と交流した。
 西林寺(中京区→左京区)に葬られたという。
◆楢崎龍 江戸時代後期-近代の女性・楢崎龍(ならさき-りょう、1841-1906)。お龍(おりょう)。京都の生まれ。父は青蓮院宮の侍医・楢崎将作の長女、母は貞(夏)。1862年、勤王家の父が安政の大獄で捕らえられ、赦免後病死し、家族は離散する。お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働く。1864年頃、龍馬と出会い、親戚筋の知足院の仲介により金蔵寺で内祝言を挙げた。伏見・寺田屋のお登勢に預けられ、「お春」と名乗る。1866年、龍馬は寺田屋に投宿し、お龍の機転により伏見奉行配下の捕吏より脱出した。(寺田屋事件)。龍馬の刀傷治療のためにともに薩摩へ下る。お龍は途中の長崎で下船し、小曾根英四郎家に預けられた。1867年、下関の伊藤助太夫家に妹・起美と過ごす。龍馬暗殺(近江屋事件)後、1868年、土佐高知・坂本家に移り、妹・起美の嫁ぎ先の安芸郡・千屋家(菅野覚兵衛の実家)へ移る。1869年、寺田屋のお登勢を頼る。1875年、東京の呉服商人・西村松兵衛と再婚し、「ツル」に改名して横須賀に暮らした。妹・光枝がお龍を頼る。松兵衛と光枝が内縁関係になりお龍は別居した。晩年は退役軍人・工藤外太郎に保護された。月琴を奏でた。 64歳。
 墓は横須賀の信楽寺にあり、京都霊山護国神社(東山区)に分骨された。
お龍・龍馬 お龍は青蓮院宮に仕え内・外科医の楢崎将作の長女として富小路六角付近に生まれる。その後しばらくして現在地(柳馬場通三条下ル)に移り住んだという。
 1862年に父没後、家族は離散し、母・貞と妹・君江は河原屋五兵衛(五郎兵衛)の隠居所に住み、土佐藩浪士のための賄をした。ここに龍馬も住んでおりお龍と龍馬は知りあう。龍馬はお龍にについて姉・乙女への手紙に、「まことにおもしろき女」と書き送った。
 

原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『京都大事典』、『新選組と幕末の京都』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、ウェブサイト「コトバンク」


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 楢崎家跡(お龍実家) 〒604-8112 京都市中京区槌屋町84-1,柳馬場通三条下ル東側
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