十津川屋敷跡地 (京都市上京区)  
The ruins of residence of Totsukawa
十津川屋敷跡地 十津川屋敷跡地
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「十津川屋敷跡地」の石標

 京都御苑の東、下切通新烏丸東入ル北側に、「十津川屋敷跡地(とつかわ-やしき-あとち)」の石標が立てられている。
 この地には、幕末の頃に禁裏守護に当たった大和石(奈良県)の十津川郷士の詰所が置かれていた。
◆歴史年表 江戸時代後期、1863年、大和国吉野郡十津川村(現奈良県十津川村)の郷士は禁裏守護を命じられ上洛した。禁裏御所の東、近接した詰所(下切通新烏丸)を建設した。(「文久改正内裏御絵図」)
 近代、1871年、禁裏守護の任を解かれる。
 現代、2009年、11月、奈良県十津川村教育委員会により石標が立てられた。
詰所 江戸時代後期、1863年に、大和国吉野郡十津川村(現・奈良県十津川村)の郷士は、禁裏御所(京都御所)の守護を命じられ上洛した。
 郷士の詰所「十津川屋敷」は、禁裏御所の東(下切通新烏丸)にあった。(「文久改正内裏御絵図」)。この地を拠点に、郷士は禁裏御所の建春門、加茂社などの警衛にあたった。
 近代、1871年に十津川郷士は禁裏守護の任を解かれた。郷士は警備、戊辰戦争での功により士族に取り立てられる。
◆十津川郷士 十津川郷士(とつかわ-ごうし)は、大和(奈良県) 吉野郡十津川地方の山村に居住した郷士をいう。平安時代、1142年には、「遠津川」という名が記され、「十津川」を指した。(『高野山文書』)。十津川とは、都・津(港)から遠い地という意味だった。郷民は古くより狩猟を生業とし、武術、弓矢に優れていた。
 伝承として、古墳時代、初代・神武天皇(BC711?-BC585?)の東征では、郷民は頭八咫烏(やたがらす)として大和まで先導したという。
 飛鳥時代、672年の壬申の乱では、第40代・天武天皇(BC711?-BC585?)を支援し出陣したという。その功により諸税勅免地になったという。
 南北朝時代、1336年に、96代・後醍醐天皇(1288-1339)は、建武新政の失敗後に大和国吉野に逃れる。南朝政権を樹立し南朝初代になった。郷民は南朝方に属して活躍した。天皇皇子・護良(もりなが)親王(1308-1335)も一時、十津川郷に身を寄せていたという。以来、十津川は勤皇の郷、南朝の遺臣になった。
 安土・桃山時代、1587年の太閤検地は、郡山城主・豊臣秀長(1541-1591)によって行われた。秀長は豊臣秀吉の異父弟になる。郷中1000石が年貢赦免地の特権を得ている。以後この地は、「十津川組」「十津川中」などと呼称された。1595年に、郷民は紀州山地村一揆を鎮圧している。
 江戸時代にも赦免地の特権は引き継がれた。郷民には郷士の資格が与えられた。五条代官所に属し、公租を免じられた。年貢赦免の代務として、御料林の「筏下し役」を担った。1614年の大坂冬の陣では徳川方に付く。郷士は、戦に呼応した北山(郷)一揆を鎮圧した。それらの功により、郷士45人が「鑓役(やりやく)」の任を担う。一種の軍役であり、幕府有事の際には、郷から鉄砲・弓役、千人余を出し、、幕府は扶持方(78石7斗5升)を与えた。
 1853年6月に、米ペリー艦の浦賀来航以来、郷士は国事への奉仕を申し出て許された。幕末には、郷士の有志が尊王攘夷を唱え、尊攘派志士に加担した。郷士200人余が交替で京都御所の守衛に出仕した。1863年4月には、郷の朝廷直轄地へ編入を願い出て許され、十津川は国事参政支配地になる。
 1863年の天誅組(てんちゅうぐみ)の変 (十津川の変、大和五条の変) は、吉村寅(虎)太郎(1837-1863)、総裁・藤本鉄石(1816-1863)らが第121代・孝明天皇(1831-1866)の大和行幸先駆のために挙兵した。尊攘派公卿・中山忠光(1845-1864)を首領にした。当初は、土佐、筑後久留米、鳥取などの脱藩士が大和五条の代官所を襲撃する。その後、八月十八日の政変以後は、十津川郷士が1000余人が動員された。高取城攻撃の失敗後は、十津川郷士の離反が相次ぎ、挙兵は大和吉野郡鷲家口で諸藩により鎮圧された。
 1864年には、孝明天皇の内勅により、十津川郷塾「文武館(現・県立十津川高校の前身)」を開校した。1867年には、旅宿「近江屋」で坂本竜馬暗殺事件が起きた。刺客は「十津川郷士」を名乗っている。1868年、郷士・中井庄五郎(1847-1868)は、坂本竜馬(1836-1867)、中岡慎太郎(1838-1867)暗殺の報復を実行した。海援隊士とともに和歌山藩士・三浦安(1829-1910)を襲撃し、庄五郎は新撰組隊士に斬殺された。(天満屋事件)
 近代、1868年の神仏分離令以後は、郷士は神道に改めた。郷士は、明治政府最初の直属軍隊である「御親兵」になった。1869-1870年の戊辰戦争では、十津川郷士は、多田郷士、山科郷士などとともに参戦している。
 1869年に十津川は奈良府の管理になった。1871年、郷士たちは幕末での京都御所の警備、戊辰戦争での功により士族に取り立てられる。ただ、1873年には地租法が改正され、十津川も有租地に変わった。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「十津川の『歴史』・ 村について-十津川村」、ウェブサイト「幕末を駈けた十津川郷士-歴史民俗資料館/十津川観光協会」、ウェブサイト「郷士くん-十津川村」、ウェブサイト「新十津川町調査 -マイ広報紙」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 十津川屋敷跡地 〒602-0861 京都市上京区新烏丸頭町,下切通新烏丸東入ル北側
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