酢屋・坂本龍馬寓居趾・海援隊屯所跡・近江屋事件 (京都市中京区)
Suya, Site of Sakamoto,Ryoma Residence
酢屋・近江屋事件 酢屋・近江屋事件 
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河原町三条龍馬通の「酢屋」(すや)、二階左側の部屋が龍馬が寝泊りした部屋という。


「酢屋」の屋号の額


「酢屋」店頭にある「坂本龍馬寓居之址」の碑


「酢屋」で催される龍馬展、遭難の日(11月15日)から1週間、龍馬の遺品などが公開される。


【参照】土佐稲荷大明神、かつて土佐藩邸内に祀られていた。


【参照】「維新史跡池田屋騒動之址」の碑、三条通三条大橋西北側


【参照】「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」の石標


【参照】「中岡慎太郎寓居之地」の石標、土佐の陸援隊隊長、中岡慎太郎(1838 -1867)は、龍馬の同志でありここを拠点の一つにしていた。四条河原町上ル東側


【参照】高瀬川に架かる蛸薬師橋の東のたもとに立つ「土佐藩邸跡」の石標


【参照】坂本龍馬の妻・お龍の実家「楢崎家跡」の石標。柳馬場三条下ル東側


【参照】「此の付近 坂本龍馬妻 お龍 独身時代寓居跡」の石標
 三条、四条界隈には、幕末期、土佐藩脱藩浪士・坂本龍馬(1836-1867)の足跡がある。町屋造の材木商「酢屋(すや)」には、「坂本龍馬寓居趾・海援隊屯所跡」の碑が立つ。 
◆歴史年表 江戸時代、1721年、「酢屋」は初代・酢屋嘉兵衛により創業された。
 1867年、10月9日、坂本龍馬、中島作太郎が「酢屋」に泊まる。
 10月13日、龍馬は「酢屋」から「近江屋」に移る。
 11月14日、龍馬は「近江屋」土蔵から母屋に移る。
 11月15日(新暦12月10日)、龍馬、中岡慎太郎が「十津川郷士」に暗殺された。
 1868年12月7日、「天満屋事件」を前に海援隊・陸援隊士らは「酢屋」に集まった。
◆坂本龍馬 江戸時代後期の尊攘派志士・坂本龍馬(さかもと-りょうま、1835-1867)。本名は直陰、直柔(なおなり)、別名は才谷(さいだに)梅太郎、通称は龍馬。土佐(高知県)の生まれ。土佐藩郷士・坂本長兵衛の次男。城下築屋敷(つきやしき)の日根野(ひねの)弁治道場で小栗流剣術を修行した。1853年、3月、江戸・北辰一刀流千葉定吉道場に剣術修行に出る。1854年、土佐で画家・河田小龍から西洋事情を学ぶ。1856年、8月、再び千葉道場に遊学し免許を得た。この頃、江戸で武市瑞山、久坂玄瑞らを知り、尊攘運動に入る。1858年、9月、帰国した。1861年、8月、武市らが結成した「土佐勤王党」に加盟し、出国する。1862年、1月、長州萩に久坂を訪ね、3月、脱藩した。大坂、京都を経て江戸に出る。軍艦奉行・勝海舟の弟子になり、航海術などを学ぶ。1863年、2月、勝の尽力により脱藩罪を赦免される。12月、土佐藩の召喚令に従わず、再び脱藩の身になった。1864年、勝の主唱した「神戸海軍操練所」設立に尽力し、塾頭になる。4月、肥前国に横井小楠を訪ねる。10月、勝の失脚後に操練所は解散になる。龍馬は薩摩藩の保護を受けた。1865年、5月、大宰府で三条実美ら5卿に薩長同盟を説く。閏5月、薩摩藩の援助の下で、長崎で株式会社の先駆・政治結社「亀山社中」を設立した。洋式銃砲の取り引きを行なう。1866年、土佐藩は長崎に貿易のための「土佐商会」を設立した。1月21日(新暦3月7日)、京都で龍馬は中岡慎太郎と協力し、対立していた長州藩・薩摩藩間の「薩長同盟」に尽力した。倒幕への布石になる。1月24日(新暦3月10日)、龍馬は伏見の旅館「寺田屋」で幕史に襲われる。寺田屋養女・お龍、大山彦八、三吉慎蔵らの機転で難を免れた。(寺田屋事件)。6月、第二次長州征討(四境戦争)で、「丑乙丸」を操り参戦した。1867年、1月、長崎の「土佐商会」に出張の藩参政・後藤象二郎と会談した。土佐藩は藩主・山内容堂の公武合体路線の行き詰まりから方向転換を求めていた。 4月、藩は龍馬の脱藩の罪を許した。亀山社中を「海援隊」に改め、海援隊長になる。紀州藩との「いろは丸事件」を解決する。5月、京都で「薩土密約(薩土討幕の密約)」の締結に立ち会う。6月、長崎からの藩船中で、後藤と大政奉還・公議政治などを原案にする新国家構想「船中八策」を策定した。京都で薩摩の西郷隆盛らとの間の「薩土盟約」に立ち会う。(10月破棄)。10月、土佐藩主・山内は「船中八策」案を元に、将軍・徳川慶喜に大政奉還を建白し、10月14日(新暦11月9日)、朝廷も許可し実現した。その後、龍馬は土佐、長崎、福井などに移る。11月15日(新暦12月10日)夜、京都「近江屋」で中岡とともに暗殺された。幕府見廻組刺客の手によるともいう。(近江屋事件)。32歳。
 1869年、正四位追贈。松平春嶽、横井小楠、三岡八郎(由利公正)、大久保一翁(忠寛)、西郷隆盛らと親交した。墓は霊山墓地(東山区)にある。
◆中岡慎太郎 江戸時代後期の尊攘派志士・中岡慎太郎(なかおか-しんたろう、1836-1867)。名は道正(みちまさ)、光次、号は迂山、変名は大山彦太郎、横山勘蔵、石川清之助など。土佐(高知県)の生まれ。土佐藩郷士・庄屋・中岡小伝次の子、母は初。1855年、武市瑞山の道場に入門し、坂本龍馬を知る。間崎滄浪に経史を学ぶ。1857年、大庄屋見習になる。1861年、武市の土佐勤王党に入る。1862年、五十人組結成に参加し伍長になる。江戸で藩主・山内豊信の警護に当たった。1863年、帰郷し、藩論が公武合体に傾き、尊攘派の弾圧により脱藩した。長州で三条実美ら5卿の護衛に当たる。1864年、上洛し、7月、長州軍として禁門の変に参加する。敗れ、負傷した。長州藩に逃れ、忠勇隊隊長になる。以来、各所で薩長の和解に尽力する。1866年、1月21日(新暦3月7日)、坂本龍馬とともに薩長同盟締結に立ち合う。慎太郎は三条実美と岩倉具視、西郷隆盛と高杉晋作を連携させた。1867年、4月、脱藩の罪を許され、6月、京都で薩摩の西郷隆盛らとの間の薩土盟約に立ち会う。(10月破棄)。7月、土佐藩より遊軍の陸援隊隊長に任命される。11月15日(新暦12月10日)、龍馬とともに京都「近江屋」で襲われ負傷、その後、亡くなった。(近江屋事件)。著『時勢論』(1867)。30歳。
 墓は霊山墓地(東山区)にある。
◆酢屋 三条大橋の西南、三条通一筋南の龍馬通にある材木商の「酢屋」は、江戸時代、1721年に初代・酢屋嘉兵衛により創業された。幕末期、6代・酢屋嘉兵衛の時、開削された高瀬川の木材独占輸送権を角倉家より得て、材木商の元締めになる。店の前(現在の京劇付近)には舟入が設けられ、高瀬舟が出入りしていた。
 当時、高瀬川界隈には長州藩、土佐藩など各藩の藩邸が建ち並んでいた。6代・嘉兵衛は龍馬の活動を援助し、龍馬は酢屋の二階表西側にも寝泊りした。龍馬は偽名の「才谷(さいたに)さん」と呼ばれ、部屋の品格子より向かいの高瀬川舟入方角に拳銃の試し撃ちをしていたという。
 酢屋2階は、海援隊屯所にもなっており、隊士の陸奥宗光、長岡謙吉など多くの志士が投宿していた。海援隊(1865-1868)は、龍馬らが結成した貿易結社であり、武器、軍艦などの兵器の斡旋をする日本初の株式会社といわれている。
 龍馬が暗殺された近江屋事件直前の1867年6月24日にも、龍馬は酢屋に泊っている。1868年、龍馬暗殺後に、海援隊士、陸援隊士らが旅籠「天満屋」(油小路)を襲撃し、佐幕派の紀州藩士・三浦休太郎、新撰組と戦った「天満屋事件」でも酢屋に隊士らが集まった。
 酢屋は現在、一階が店舗、二階が「龍馬ギャラリー」になっており、龍馬遺品、海援隊文書、酢屋文書などが展示されている。
◆海援隊 江戸時代末、1865年、神戸海軍操練所が廃止され、坂本龍馬を中心として、20余人の修業生は、薩摩より薩摩藩・小松帯刀に伴われて長崎に移る。薩摩藩の名義を借り、豪商・小曾根家の援助のもと、貿易結社「亀山社中」を成立した。倒幕を目的とし、薩長両藩のために西洋の物産、武器、船舶などを輸入仲介した。さらに、航海術修業も目的にした。1866年には薩長同盟の斡旋を手掛けている。
 1867年、後藤象二郎、福岡藤次らの介在で、龍馬は脱藩の罪を許され海援隊長に任じられた。「海援社中」は高知藩付属になり、海援隊士は藩の海軍力になるとされた。組織は、文、武、器械、測量、運用、医に分科し、政治学、航海術、語学修得、出版なども行った。同年、龍馬の暗殺後、1868年に長岡謙吉が隊長になる。その後、藩命により解散された。 隊士は、各藩の脱藩者で構成され、土佐・中島作太郎、長岡謙吉ら以外に、紀州和歌山藩・陸奥宗光などもいた。
 酢屋二階に海援隊本部が置かれていた。
◆近江屋事件 坂本龍馬は、旅籠「池田屋」に投宿していた。桂小五郎、伊東甲子太郎らは、龍馬の命を狙う者があるとして、警護を強化するように忠告した。その後、龍馬は「酢屋」と、河原町の醤油商「近江屋」の井口新助邸を行き来していた。土佐藩邸に移ることも勧められていた。 
 1867年11月15日(新暦12月10日)夜半、龍馬と北白川の陸援隊屯所から訪れていた中岡慎太郎は、「近江屋」2階で歓談する。2人は軍鶏鍋を食べることにして、峰吉を木屋町「鳥弥三(鳥新)」に使いに走らせた。その間、階段を上ってきた者があった。「十津川郷士」を名乗る刺客に2人は襲撃される。龍馬は護身用の拳銃を撃つこともなく絶命した。この時、龍馬は日本刀「陸奥守吉行(むつのかみ-よしゆき)」を携えていた。その日は、奇しくも龍馬33歳の誕生日だった。負傷した中岡は2日後に亡くなる。下僕・藤吉も殺された。
 犯人については、京都見廻組の佐々木只三郎ら6人ともいわれている。
 近江屋には、海援隊、陸援隊、土佐藩士、薩摩藩士らが集った。11月17日の夜、3人の葬儀が行われ、遺骸は東山の霊明神社墓地に葬られた。
◆天満屋事件 1868年、12月7日(新暦1月1日)に起きた「天満屋事件」は、龍馬暗殺後に陸奥陽之助ら海援隊士、陸援隊士らが、旅籠「天満屋」(油小路)にいた紀州藩士で佐幕派論者の三浦休太郎、警護の新撰組と戦い、双方に死傷者が出た事件をいう。紀州藩は、龍馬暗殺の黒幕と疑われた。
◆年間行事 遺品公開(11月15日から1週間)。


*酢屋二階は撮影禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『幕末京都 新選組と龍馬たち』、『新選組大事典』、『新撰組辞典』、『新選組大事典』、『新選組と幕末の京都』、『京都・観光文化 時代MAP』、『京都歩きの愉しみ』、『あなたの知らない京都府の歴史』 、『坂本龍馬大事典』、ウェブサイト「コトバンク」  

 
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酢屋 〒604-8031 京都市中京区大黒町47,河原町三条下ル一筋目(龍馬通)  075-211-7700
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